復活!70年代ファッション with 久留里 ウォーキングストーリー2

 こんにちは。

 やせてズボンのウエストがゆるゆるになったので、20代のときに買ったエドウィンのブルージーンズを穿いてみたんですよ。

 おお、入る、入る。

 ちょっときついけれど、ウエスト76センチをクリア。

 これが穿けたのは十年ぶりでしょうか。

 …となると、あれも穿けるかも。

 押入れをひっくり返し、取り出しましたるは10代のときに買った、ベルボトムのジーンズ。

 ククク…、これはきつい。

 まるで、今話題のスピード社の水着、レーザーレーサーを着るみたい。(← もちろん着たことないけど)

 悪戦苦闘の末、ようやく穿けたのです。ベルボトムを穿いたら、当時流行していた五分袖のトレーナーを着てみたくなりました。

 またしても押入れをひっくり返して、ようやく70年代の地層から、目指す遺物の発掘に成功しましたぁぁぁぁぁぁ~♪

 ベルボトムのジーンズに、五分袖のトレーナー。 …レトロっす。

 自分の姿を鏡に映して当時を懐かしんだのですが、なんかまだ足りないような。

 そうそう、あれを忘れてはなりませぬ。

 今でも箪笥に入っているはず…。

 取り出したのは、チューリップハット。

 高校時代、風吹ジュンにあこがれて買ったのですね~。

 ここまで完璧に70年代を再現できたら、外を歩いてみたくなるのが人情。

 靴ではなく、フォークシンガーみたいに雪駄を履いて歩くというこだわりもありました。

 外へ出て、完璧な「ナウい格好」で歩くオイラ。

 炎天下でしたが、なんか背筋が寒いと思ってまわりを見渡すと、道行く人々の冷たい視線を感じるのでした。

 結果的には、地球温暖化が人間の脳に与える影響について、問題を提議したことになるのかも。 


 さて、とうとう3回目に突入した久留里への旅。

 今日で最終回にしなければ、どこまでも続きそう。

 …ということで、またしてもお城の話題から。

 以前から、久留里城を写真で見るとき、天守閣の横に芝生の土檀があって何だろうと思っていたのですよ。

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 今回の旅行で、やっとその理由がわかりました。

 天守台の跡なのですな。

 復元された天守閣は、その横に改めて作ったわけですか。

 久留里城固有の城の形式かと思いましたが、疑問は氷解しました。

 やっぱり現地に来ないとわかりませんね。

 天守閣に入ると、やっぱし鉄コン筋クリート。

 最近は、木造で忠実に史料考証された天守閣が再建されていますが、昭和に復元されたお城は、外見だけ似せて、町のシンボルとする試みが多かったみたい。

 城ファンとしては、当時を忠実に再現してほしいですが、こうしてオイラがここに来たというのも、外側だけでも天守閣が見られるから。

 鉄コン筋クリートでも、なければここには来なかったでしょうね。

 一階には、日本全国の城の天守閣の写真が展示されていました。

 天守閣に登り、望楼からまわりの景色を眺めます。

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 ふふふ、久留里3万石の城主になった気分。

 下を眺めると、オイラと同じ城ヲタクが一眼レフのカメラでバシバシ写真を撮っているのが確認できます。

 久留里城は、「雨城」という別名もあるそうなんですよ。

 これは築城する際、3日に1度、21回も雨が降ったという伝説からつけられたらしい。

 姫路城を「白鷺城」、松本城を「烏城」、会津若松城を「鶴ヶ城」と呼ぶように、鳥の名前をつけた城が多いですが、「雨」とは珍しい。

 今に残るくらいだから、よっぽど城を作るときは困ったのでしょうね。

 そのとき雨がたくさん降ったから、今も町の至る所で水が噴き出しているのだろうかと思ったりしました。

 今日みたいにギンギラギンに晴れていると「雨城」というイメージはわきませんね。

 ちなみに天守閣と本丸を見たあと、元来た山道を戻ったのですが、家に帰ってネットで検索してみたのです。

 すると、本丸を別ルートで降りたところにド迫力の巨大堀切があると言うじゃないですか。

 しまった、見逃したぁぁぁぁ~ と地団太を踏んで悔しがっても後の祭り。

 そんな見所があるんだったら、解説板に書いといてよ!!

 もっとも、城の興味がない人が見たら、行く手を阻む迷惑な崖があるだけですが…。

 あとで悔しがるとは思わないオイラは、さきほど薬師曲輪の見晴台から眺めた三の丸のあとへ行ってみることにしました。

 当時は三の丸御殿があったそうですが、今は広い田んぼが広がるのみ。

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 何も残ってないなと、何気にケータイを取り出して写真を撮ろうとしたら、手が滑って舗装道路に落としてしまいました。

 ケータイは何度か落としたことがありますけど、今回はぶつかった場所が悪かったのか、蝶番の部分にひびが入ってしまったのです。

 2年前の機種なので買い換えればいいんですけど、324万画素のカメラ付きなので惜しいっす。

 …と、今もセロテープをケータイに貼って使っている自分が情けない。

 調子こいて歩き回っていましたが、これも13日の金曜日のたたり?

 めざましテレビの星座占いで、大切なものを壊すかもしれないから気をつけて、とお天気おねーたんの愛ちゃんが言っていたのを思い出しました。


 気を取り直して、後半の旅を続けます。

 久留里城の駐車場まで戻り、森林体験交流センターの横を通って道なりに進むと、県道大多喜君津線。

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 ほとんど車の通らない県道も珍しい。

 日陰がなく、久留里の名水とミネラルウォーターを満載した体から水分がどんどん蒸発してゆくのがわかりました。

 炎天下の田園をしばし歩き、久留里に来て始めて見たスーパーマーケットの横を右に入ってしばらく歩くと、お寺の山門が見えてきました。

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 このお寺は円覚寺。

 鎌倉にも円覚寺というお寺があって、国宝に指定されているお堂もあったと記憶しています。

 こちらの円覚寺は、江戸時代初期の久留里の城主であった土屋家の菩提寺だそうな。

 土屋家の先祖は、武田信玄に仕えた武将で、信玄愛用の数珠が所蔵されているらしい。

 このお寺の見所は、裏の墓所にある五輪塔。

 五輪塔とは、現代でいえば墓石でしょうか。

 県内最大の五輪塔という表示があったので行ってみることにしました。

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 おお、高さは約4メートルもあるのですね。

 そういえば、吉良上野介の五輪塔が都内にありましたが、こちらのほうがずっと大きい。

 2万石でも大名と高家筆頭との差はこんなところにあるのですかね。

 そういえば、二つ前の記事に書いた久留里藩最後の藩主黒田直養のお墓は元大名のお墓としては小さかったような。

 江戸時代初期と幕末から明治にかけてのお墓の変遷が面白かったです。

 隣の円如寺は、「花の寺」とも言われ、一年中花が咲いているシーンを見られるそうな。

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 オイラが行った日も、境内に花が咲いていました。

 花の知識に疎いので、何の花かわからないのですが…。

 ここから再び田園地帯を歩いて久留里駅前に出れば今回のウォーキングコースは終わりなのですが、まだ帰りのバスの時間には余裕がある。

 そこで地元でもらったガイドマップを再チェック。

 見所を完全に制覇しようという野望を企てたのでした。

 まず、朝、行き忘れた正源寺へ。

 ここには加勢観音像があり、戦国時代の久留里城主だった里見義堯が、夢のお告げに従って観音像を背負って小田原北条氏との合戦に臨んだらしい。

 それで合戦に勝ったのですか。

 オイラの住んでいるところは、江戸時代はともかく戦国時代の逸話なぞ聞いたことがありませぬ。

 地方都市には、昔の出来事がタイムカプセルみたいによく残っているのですね。

 それにしても、町内には井戸がホントにたくさんあります。

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 どうしてこんなに井戸がたくさんあるのかと考え、たくさん掘ったからという答えを導き出しました。

 それもそのはず、久留里は有名な「上総掘り」発祥の地だそうですね。

 それは、江戸時代後期に考案された井戸掘りの技法。

 櫓を組み、竹ひごの先に鉄管を取り付け、地下400メートルも掘り進むのだとか。

 前の記事で書いた久留里城址資料館の裏に、上総掘りの巨大な模型が展示されていました。

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 この技法を使って、今も発展途上国で井戸掘りが行われているというから驚きます。

 現代人でも、素人だったら地中400メートルも掘り下げる方法なんて思いつかないでしょう。

 どの時代にも、頭のいい人はいるのですな。

 …と思いつつ、またも町中の井戸から水をしこたま飲むのでした。

 そして最後に向かったのが、日本史の教科書でおなじみの新井白石の居宅跡。

 小学校の近くの公園に、新井白石居住の地の立派な碑が建っていました。

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 徳川六代将軍家宣と七代将軍家継の政治顧問として、さまざまな改革を行った人物であるというくらいの知識ですが、そんな有名人がここに住んでいたというのは驚きでした。

 江戸初期の藩主だった土屋家の藩士の子として生まれ、青年期の3年間をこの土地で過ごしたのだとか。

 その後、お家騒動で追放になったものの、勉強して儒学者・木下順庵の門下生となり、出世の糸口を掴んだのですね。

 追放にならなければ、教科書に載るような大人物にはなれなかったのかもしれないし、人の一生は、塞翁が馬だとつくづく思いました。

 そして帰りは、行きと同じく高速バスで。

 東京湾アクアラインから見た東京湾が、夕日にキラキラと光り輝いてとてもきれいでした。

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久留里 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 最近歩きすぎて、標準体重より2キロも下回ってしまいました。ズボンのウエストがゆるゆるっす。

 いつもどれくらい歩いているのだろうと、万歩計を買って計ってみたんですよ。

 多い日は、一日になんと、35,000~38,000歩も歩いている。

 このままの状態が続くと、果たして今年の夏を乗り越えられるのだろうか。

 お忙しい中恐縮ですが、街中で行き倒れになっているオイラを見かけたら、救命処置をお願いします。

 …ということで、全然懲りずに今日もお散歩ネタ。

 前回の記事では、目的地に到着するまでで終わってしまったのでした。

 でも、一本分の記事にできるくらい魅力的なバス路線。

 浜松町から久留里まで1800円の運賃で、レインボーブリッジや東京湾アクアラインなどのスペクタクルシーンが車窓に展開するのですからね。

 2時間弱、ハリウッドの大作映画を見るようなもの。

 しかもバスから降りた時点で、新たな旅が始まる。

 バスの旅を、これからもっと積極的に展開しようと思ったのでした。

 オイラがまず向かったのはJR久留里線の久留里駅。

 地方都市を効率よく回るには情報収集が欠かせませぬ。大抵、駅の近くの観光案内所などに「町めぐりマップ」があるからですね~。

 それにしても、久留里駅は絵に描いたようなローカル色が感じられて、郷愁をそそられました。 

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 駅前に無粋なロータリーやショッピングセンターがないのは、一都三県では貴重かも。

 代わりに古い公民館がありましたよ。

 そこで無料ガイドマップ2種類と駅で「駅からマップ」合計3種類をゲッツ。

 まずは情報武装をせねば、と公民館のソファーに腰掛け、持ってきたガイドブックとそれらに目を通しました。

 久留里は城下町なのはもちろん、水の里としても知られているみたい。

 町の中にたくさんの井戸があって、誰でも名水が飲めるそうですね。

 それを聞いたら、飲まないわけにはまいりませぬ。

 …と向かったのは、「久留里の名水」の一番人気といわれる高沢の井戸。

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 実はオイラ、今日は暑くなると天気予報で見たから、たっぷりミネラルウォーターを東京から持ってきたのです。

 エビアンとクリスタルガイザーと南アルプス天然水。

 久留里城は山城なので、途中水が絶たれると城攻めに支障をきたすのではないか、と…。

 東京で、水ではなく、情報を仕入れてくればよかったと悔やんでも後の祭り。

 さっそく路上で、それらのミネラルウォーターと久留里の名水の試飲会です。

 どれもおいしい~♪

 く~、暑いときは水に限るね。

 だけど、味の違いがわからないっす。

 久留里の名水は、冷えていて新鮮な分、ホントにおいしいと感じました。

 胃をチャポチャポ揺らしながら次に向かったのは、真勝寺。

 ここには、幕末維新期の悲劇の主人公、杉木良太郎の墓があるとのこと。

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 「杉木良太郎の墓」という解説板を見て、杉良太郎様をイメージしない人はいないかも。

 でも、関係はないみたいですので念のため。 

 幕末、久留里藩が官軍に帰順する決定をしたとき、憤慨した藩士の一人である杉木良太郎が官軍の陣営に一人切り込もうとしたらしい。

 それを知った父が藩を守るため、息子を切り捨てたという悲劇があったのですね。

 「泣いて馬謖を斬る」という諺がありますが、息子を斬るなんて…。

 幕末の動乱期は、今では考えられないくらいの悲劇があったのですね。

 もっとも今も、昔の人からは考えられないくらいの事件が勃発していますが。

 同じお寺に、久留里藩最後の藩主、黒田直養(くろだ なおなか)の墓もありました。

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 3万石のお殿様のお墓としては小振りですが、大正時代に亡くなられたからでしょうね。

 次に向かったのは、久留里神社。

 途中、雨城庵の井戸という名水もあって、ポリタンクを持った人が車でやってきて水を汲んでいました。

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 胃がガボガボで苦しいけど、せっかく来たのだからと、また一口いただきましたが。

 それはともかく、久留里神社は1021年に平忠常が創建したらしい。

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 源頼朝が戦勝祈願をした伝承も残るそうですね。

 そして、なんとここでも境内に井戸があって清水が滾々と湧き出ていました。

 こうなりゃ、水の飲み比べじゃ~とここでも一口。

 名水が無料で飲み放題ですからね。

 今では500ミリリットル150円を遥かに超える価格の水もあるというのに…。

 かなり体が重くなって、これから登り坂なのに大丈夫かと心配しながら、いよいよ今日のメインイベント、久留里城攻めを開始します。

 深閑とした城山隧道を抜けると、久留里城の登山口。

 広い駐車場の脇に、登山用の杖がありました。

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 こういうのがあると、登るのが大変なのではと身構えます。

 無料で借りられるのはうれしいけれど、まだオイラには早いと杖を使わず行くことにしました。

 おととしの年末、日向薬師へ行ったとき、熊に対処するために太い丸太を拾って杖代わりに歩いた記憶がよみがえりました。

 久留里城本丸への登山道は、コンクリートでしっかり固められて杖の必要は感じない。

 歩きやすいけれど、山城の野趣が感じられませぬ。車が走れるくらい立派な道をどうして作ったのでしょうね。

 本丸や二の丸へも通じているらしいので、野鳥観察の道のほうを登ることにしました。

 おお、やっぱしこちらのほうが山城の雰囲気が残っているっす。

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 火薬庫の跡や尾根を深く掘り下げて敵の侵入を防ぐ堀切もよく残っていました。

 やがて二の丸へ到着。

 二の丸の外曲輪にある薬師曲輪からの眺めは最高でした。

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 今は田んぼになっていますが、城の下には三の丸御殿や内堀が広がっていたらしい。

 戦国時代、北条の2万の大軍が久留里城を取り囲んだそうなんですよ。

 里美八犬伝で有名な里見氏の当時の城主であった里見義堯・義弘父子はこれを撃退したのだとか。

 今はのどかな田園地帯で、激しい戦闘があったなんて信じられませぬ。

 二の丸にある資料館では、君津市内の出土物や里見氏から黒田氏に至る関係資料が展示されていました。

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 藩当時の久留里城の模型もありましたが、本丸の二重櫓、いわゆる天守閣はホントにあったのですね。

 関東の城は、幕府への遠慮から天守閣を設けなかった城も多いのですが、幕府から5千両を下賜されて城を再整備したというから驚きです。

 城の模型を10分近く見入っていたので、変なおじさんと思われたかもしれませぬ。

 城の縄張りを頭にインプットして、いよいよ本丸の攻略に向かいます。

 本丸へ向かう途中にあるのが、男井戸・女井戸。

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 おいど、めいど、と読むそうな。

 山城の本丸近くに豊富に水が湧き出る井戸があると心強いですね。

 こちらの井戸は、名水というよりかなり濁っていて飲めなさそうでしたが…。

 それにしても、本丸まであとわずかというのに、天守閣が見えないっす。

 天守閣があるのに、これだけ外から見えない城は珍しいかも。

 天守閣を作る理由はいくつかありますが、権力の象徴という点は否定できないでしょうね。

 姫路城や彦根城などは高台にあって、市内のどこからでも見ることができました。

 ところが久留里城の天守閣は、町のどこからも見えないような。

 そんなことを考えつつ、階段を登って、本丸への最終コーナーをまわると、おお、やっと見えました、久留里城天守閣。

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 昭和53年に復元されたそうですが、最近になって外壁をリフォームしてきれいになったみたい。

 写真では何度も見たことがありますが、実際見ると結構大きいですね。

 高さは約15メートルだとか。

 これからいよいよ久留里城の本丸を攻めるのですが、また長く書きすぎたために、終わらなくなってしまいました。

 とうとう「久留里をゆく」はシリーズ化か?

 13日の金曜日で、星座占いの運勢はブービー賞なのに、結構順調に行っている今回の旅。

 このままビジベンは無事帰れるのか。

 次回最終回にその結果がわかります。

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東京湾アクアライン ウォーキングストーリー 

 こんにちは。

 遅ればせながら、ついに東京湾アクアラインの横断に成功しましたぁぁぁぁ~

 海ほたる経由で、オイラが行ったのは千葉県の久留里です。

 直線距離にしたら近いのですが、ぐるっと東京湾の周辺を回ってゆくと、日帰り旅ではなかなか大変な場所。

 房総半島の内陸部にありますからね。

 復興ですが、関東地方では貴重な天守閣のある城跡があるので、前から訪れてみたかった土地です。

 そんな近くて遠い場所が、都心から2時間もかからず行けるのを知ったのはつい最近でした。

 高速バスという手段があったのですね~。

 オイラは電車ではかなり旅行の経験がありますが、1時間以上バスに乗って旅行をするというのは、勤めていた頃の社員旅行以来。

 チケットを買うにはどうしたらいいだろうと、出発地点である浜松町のバスターミナルに仕事帰りに聞きに行きました。

 そこで、全然関係ないはとバスの窓口でおねーたんを困らせる羽目に…。

 ネットで調べてみたら、いろんな買い方があるのですね。

 電話はもちろんネット予約という手もあるみたいですが、面白そうだったのでコンビニの端末でチケットを購入してみました。

 おお、これは便利。ネットのようにクレジットカードを使ったり、プリンターで書類を印刷したりすることなく、現金で買えるし…。

 そんなわけで、日曜日に仕事をする日が続いていたので、自分へのご褒美と、平日に行ってみることにしました。

 当日は、13日の金曜日。しかも、めざましテレビの星座占いでは11番目と、幸運とは無縁の日でした。

 この日しか空いている日はなかったし。でも、そんなの関係ねぇ~と7時40分発の高速バスに乗り込みます。

 このバスの行き先は、亀田総合病院なのだとか。

 都心から直通バスが地方都市の病院に直通バスが出ているのですからすごいですね。

 評判の病院らしいので、一度訪れてみたいものだと思いました。

 最初、えっ、乗客はたったの4人?と驚いたのですが、次の東京駅でゾロゾロと乗ってくる人が増えました。

 それでも皆、2つのシートを一人占めできるくらいゆったりした雰囲気でしたよ。

 バスは都内の喧騒を抜け、首都高へ。

 チケットを買うのに全精力を使い果たしてしまい、どういうルートで行くのかまでは頭が回りませんでした。

 それがちょっとしたミステリーツアーの気分になったのかも。

 海岸通りからよく見た風景が続くと思ったら、おお、もしかしてレインボーブリッジを越えるのか?

 下の遊歩道は何度も渡ったことがありますが、橋の最上部をオイラが走るなんて。

 なんか少し、出世した気分。

 天井や柵のあるのとは違って、圧倒的な視界が広がります。

 行った日は、前日までの雨が嘘のように消え、真夏の日差しが容赦なく照り付けました。

 湾岸道路を快調に疾走する高速バス。

 おお、左手に見えるのは、羽田空港もとい東京国際空港じゃないっすか。

 巨大な旅客機が、大空から舞い降りてくるのがすぐ近くで確認できました。

 最近、来ていないけれど、羽田も変わったっすねぇ。

 巨大な建造物が次々に現れ、未来都市に紛れ込んだよう。

 バスの中を見ると、ギラギラ照りつける太陽を避けるため、皆カーテンを引いて眠ったり、ケータイを覗き込んだりしていました。

 カーテンを全開にして、直射日光をモロに浴びながら外の景色に興奮しているのはオイラだけっすか。

 ほかの乗客たちは、高速バスの常連客みたい。

 前に座っている中年の女性は、発車と同時にカーテンを引き、ライトやエアコンの方向を調節して文庫本を読んでるし…。

 バスに乗ってずっと下を向いていると、気持ち悪くならないのでしょうか。

 そういえば昔のバス遠足は、ゲ○吐き用のビニール袋を必ず持参するように言われたような。

 クラスメートで、バスに乗ると必ずゲ○を吐いていた子の顔がフラッシュバックして、ノスタルジックな気分になりました。

 バスに酔うという話は近頃聞かないですけど、最近の子は大丈夫なんですかね。

 高速バスで大人が酔うと恥をさらしそうなので、なるべく遠くを見ていることにしました。

 …と思ったのも束の間、バスはトンネルの中に突入し、遠くを見ることができないっす。

 このトンネルは多摩川トンネルと言うらしい。

 国境の長いトンネルを越えると、川崎だった。

 倉庫や工場が建ち並ぶ工業地帯。まさに、子供の頃習った京浜工業地帯のど真ん中にいるイメージ。

 さて、今度はどこへ向かうのか。

 巨大なインターチェンジをぐるっと回ると、またバスはトンネルの中へ。

 おお、今度のトンネルは多摩川トンネルより完璧に長いっす。

 しかも、徐々に下っている。

 地の底へ降りてゆくみたい。

 トンネルの横幅が広くて、天井も高く、巨大な鍾乳洞のように感じられました。

 暖色系のライトが、遥かかなたまで続いている。

 出口が見えないよう。

 あれっ、こんなに長いトンネルなんてあったっけ?

 も、もしかして、今オイラが走っているのが、東京湾アクアライン?

 冗談抜きで、東京湾アクアラインは、三浦半島の先端が入り口だと思っていました。

 地図で見て、東京湾が一番狭くなっているところだから。

 川崎から木更津まで直通していたら、東京からすぐですよね。

 自分の常識のなさに愕然としたとき、パッと視界が広がってトンネルから外へ出ました。

 おお、360度オーシャンブルーじゃ~

 窓から見える外は海。そして反対側の窓から見えるのも海。
 
 オイラは今、東京湾の上を走っているのですね。

 まさか目的地に向かうバスだけでこんなに文字を費やすと思ってなかったので、写真はこの一枚だけしか撮れませんでしたが…。

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 昔、フェリーに乗って、東京湾を渡った頃の記憶がよみがえって来ました。

 当時、東京湾をそのまま渡れるなんて思ってもいなかった。

 うう、長生きはするもんじゃて。

 フロントガラスに広がる前方は、青い海の上に一本の白いラインがどこまでも続いていて、その先には木更津の市街地が広がっている。

 房総半島に近づくにつれ、遠浅になっているようで、海から何本も棒が突き出ているのが見えました。

 橋のすぐ下で、海苔を取っているのでしょうか。

 木更津市街に上陸すると、それまでノンストップで走っていたバスは路線バスのようにバス停に止まります。

 ここまで何と約一時間。

 木更津に住んで、東京までバス通勤するという選択肢もありそう。

 東京駅の前まで行きますからね。

 さすがに東京湾の上を走るから、台風とか来たら困りそうですが…。

 そんなことを考えている間も、バスは快調に走って木更津市街から君津へと入ります。

 いよいよ、オイラにとって処女地なので、背筋を伸ばしてシートに座りなおしました。

 房総半島の内陸部は、もっと山が多いと思いましたが、バス路線に関しては平地が多いような。

 水田の緑はたくさんありましたけど、結構家も建ち並んでいて、この辺りまで首都圏が進出してきているようなイメージも受けましたね。

 やがて、バスはとあるバス停に。

 そこで、リクルートスーツを着た女子大生が降りたのですが、会社訪問?

 ここらあたりは、緑豊かな丘陵地帯。

 会社があるとは思えないのだけれど。

 東京のど真ん中から、来るくらいだからきっと大企業の秘密研究所があるのかもしれませんね。

 小さな山と水田が広がる土地をしばらく走って、目指す目的地の久留里へやってきました。

 時刻は9時20分を少し過ぎたあたり。

 ここまで2時間弱で、時間と空間を越えて旅をしたような気分になります。

 降りたバス停は、商店街の中にありました。

 思ったより、人通りというか車通りが多い。

 上を見ると、おお久留里城が。

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 これからいよいよ城下町・久留里をめぐるのですが、目的地に向かうだけで文章を書きすぎました。 

 この続きは次回。

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一億円の札束と市谷 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 またまた口内炎ができて痛いっす。

 以前は、口の中を全力で噛んで血が出て、そこから口内炎に移行するタイプが多かったのですよ。

 口の中をよく噛むのは、太ったときにそうなると聞きました。口の中に脂肪がついて狭くなるからだそうな。

 そこでダイエットして、標準体重を下回るようになったら、口の中を噛むという悲劇は確かになくなりました。

 でも相変わらず、数ヶ月に一度は口内炎になる。

 よくストレスがたまると口内炎になると言われますが、ホントですかね。

 確かに、ウォーキングへ行くと良くなるのですが…。 

 
 …ということで、口内炎の改善のため、前回のお散歩ネタの続きから。

 神楽坂の代名詞ともなっている石畳の狭い路地を抜け、大久保通りに出ると巨大なビルが…。

 おお、ここは大手ゼネコンの熊谷組の本社ビルっすか。

 熊谷組とは個人的にも会社的にも関係はないのですが、なぜか子供の頃に見たインパクトのある映像が今でも記憶に残っています。

 それは熊谷組が都市対抗野球に出たときの応援風景。

 その後、かなり長く生きていて、プロ野球や大学野球をはじめいろいろな球場へ足を運んでことがありますけど、あんなすごい応援を見たことがない。

 当時は、東京ドームができる前で、屋外の後楽園球場でした。

 親戚の知り合いが熊谷組に勤めていて、入場券をもらって友人と見に行ったのだと思います。

 都市対抗野球の決勝で、応援席がすごい盛り上がり。

 野球の応援といえば、チアガールと応援団が定番ですよね。

 熊谷組のチアガールは普通の衣装だったのですが、男の応援団はヘルメットをかぶり、土木作業員のコスチーム。足はもちろん地下足袋。

 そして、つるはしやスコップを持って、チアガールと踊りまくる。

 中には、日に焼けて、つるはしを振り下ろす腰がすわっていて、とても素人には見えない人たちも何人かおりました。

 真夏の試合だったので、筋肉質のおっさんから飛び散る汗が球場のライトに照らされてキラキラ光ります。

 そのまま後楽園球場の改修工事に取り組めそう。

 試合よりも、おっさんたちの勇姿に目が釘付けっす。

 でも、最終回に逆転されて負けてしまったのでした。

 相手チームの優勝決定の瞬間、グラウンドに投げるために渡された紙テープを握り締め、悔し涙にくれたのでした。

 その後、野球部が解散したと聞いたのですが、今はどうなのでしょうね。

 せめて、あの応援風景をもう一度見たいものじゃと思いつつ、熊谷組の本社ビルの前にある小高い丘の階段を上りました。

 丘の頂上にあるのが、筑土八幡神社。

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 土で築くという名前から、土塁をイメージしてしまいます。

 ここも城跡の名残かも、と思いましたが、筑紫宇佐の八幡宮の土を取りよせて基礎を作ったことに由来するという説があるそうですね。

 神社の境内には、「田村虎蔵先生をたたえる碑」がありました。

 いかめしい名前の雰囲気から一瞬引いてしまいましたが、

 まさかりかついで きんたろう くまにまたがり おうまのけいこ ハイシイドウドウ ハイドウドウ ハイシイドウドウ

 という「金太郎」の歌を作曲した人だと知って、急に親近感がわいてきました。

 参拝したあと、境内の裏手から出て、御殿坂を下る角を右折し、道なりに進みます。

 けやきの大木のある白銀公園で一休みしたあと、近くの赤城神社へ向かいました。

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 牛込城主であった牛込氏は、元は群馬県赤城山麓の豪族大胡氏だったそうですから、この地にも赤城の関連のある神社があるのでしょうか。

 赤城というだけあって、参道には赤い燈籠が並び、社殿も鮮やかな朱色が目にまぶしい。

 本家の赤城山も、やはり赤のイメージがする山なのだろうかとまだ行ったことのない山に思いをはせます。

 赤城神社から早稲田通りを経て、朝日坂を上りました。この辺りは、横寺町というだけあってお寺が多い。

 江戸の香り漂うと言いたいところですが、一見なんの変哲もない住宅街を歩いてゆくと、民家の細い路地に解説板があるのを見つけました。

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 見ると、尾崎紅葉旧宅跡ですと。

 尾崎紅葉といえば、寛一お宮の「金色夜叉」で一世を風靡した作家ですが、気をつけていないと通り過ぎてしまうような場所に住んでいたのですね。

 でも、紅葉は30歳代の若さで亡くなり、この地に住んだのは25歳のときだったとか。

 20歳代で多くの弟子を抱えていたのに驚きましたが、この小さな家で玄関番をしていたのが、若き日の泉鏡花だったというのにはさらにびっくり。

 泉鏡花賞など権威のある賞もあるくらいの文豪ですから、若い頃から注目されてちやほやされているような印象でした。

 でも、金沢から十代で上京し、友人たちと同居しながら六回も下宿を引越したとか。

 そのあと、紅葉の家で書生をしながら、文章を磨いていったのですね。

 今でこそ、紅葉や鏡花は国語の教科書には欠かせない大人物ですが、この地にいたときは、20歳代の作家と10代の書生。

 今のオイラより年下だった二人は、どんな青春を送ったのかいろいろイメージは膨らみました。

 あまり長い時間狭い路地に立っていると、不審者と間違われそうなので次の目的地へ向かいます。

 そのまま道を直進すると、公園のそばにコンクリートの塀で囲まれた一画がありました。

 門が閉まっていて中に入れないのですが、上から覗くと古いお墓が並んでいる。

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 また解説板を読むと、ここは「林氏墓地」だとか。

 林氏といえば、林羅山が徳川家康にお目見えし、その後代々儒学をもって幕府に仕えた家というくらいの認識。

 そういえば、江戸幕府の学問所だった昌平坂学問所の前身は林氏の私塾だったそうですね。

 東大のルーツをたどると昌平坂学問所に行き着くそうだから、そのまたルーツは林羅山が作った私塾になるのでしょうか。

 湯島聖堂に合格祈願へ行く前に、ここへお参りするのもご利益あるかも、と思いました。

 誰もお参りしていないから、ご利益の競争率は低そうだし…。

 もっとも、扉が閉まっていて中には入れないのでした。

 住宅街のラビリンスをくぐり抜け、たどり着いたのは泉鏡花旧宅跡。

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 紅葉の玄関番から出世して、とうとう一軒家に住むことができたのですね。

 でも、一年くらいで引越してしまったそうですが、鏡花の生涯をたどっているような気分になりました。

 この辺りは古い町で、江戸、明治の史跡がたくさん残っておりまするな。

 坂をくだったところにあるのが、浄輪寺。

 ここには、先週、数学の不得意なオイラを落ち込ませた関孝和先生のお墓がありました。

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 ここへお参りすると、数学の不得意な人は大宰府や湯島天神より専門性があるからご利益があるかも、と思ったりして…。
 
 隣の多聞院には、新劇の大女優、松井須磨子の墓が。

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 ずっと昔、NHKの朝のドラマで見たことがありますが、文芸評論家であり演出家であった島村抱月のあとを追って自殺したそうですね。

 享年34歳。若くして亡くなってしまう俳優さんは、強烈なイメージとともに名前が残るのですな。

 そしてオイラが最後にむかったのが、「お札と切手の博物館」。

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 ソフトな名前がつけられていますが、正式には財務省印刷局記念館というらしい。

 子供時代、切手の収集が流行っていましたが、あまり興味はなかったです。

 反面、お札には今も昔も大きな興味を寄せていますけど、なかなかうまく収集できないっす。

 古いお金じゃなくて、出来立てのお金でもいいんですけどね。

 そんな思いが通じたのか、館内にはなんとモノホンの一億円が…。

 一億円の札束を持って重さを体験できるコーナーがあるのですね~。

 その重さを実感してもらおうという意図なのだと思いますが、思ったより軽いような。

 銀行員時代、聖徳太子の札束三億円をタクシーで運んだことがあったのでした。

 現金バッグが肩に食い込んで、そのときはお金なんか嫌いじゃ~と叫びたくなりましたね。

 今、貧乏なのは、そのときの心の叫びが神様に届いてしまったのではないか、と…。

 ほかに興味を覚えたのは、顕微鏡を使ってお札に入っている「マイクロ文字」が見られるコーナー。

 ここにはサンプルのお札はなくて、自分の財布から出さねばならない。

 財布から大枚一万円札を出して顕微鏡で見てみると、一本の細い線に見えたのが超細かい文字だというのがわかりました。

 「NIPPON GINKO」の文字は、どんなに近眼の人でも見ることはできないでしょう。

 さすがに印刷技術の粋を集めてお札が作られているだけあって、偽札防止の対策がいろいろ施されているのですね。

 オイラの持っているお札はおかげさまで偽札ではないということが証明できました。

 ホログラムやすかし、凸版印刷など、お札一枚でも技術の高さが実感できます。

 ほかにも、日本のお札や切手の歴史をたどるコーナーや世界各国のお札や切手。

 お札や切手を芸術の視点で触れられるコーナーもありました。

 それにしても、現在の一万円の肖像が、KO大学の創立者の福沢諭吉なのは異論がありますな。

 今日はたまたま一万円札が財布に入っていましたけど、いつもはなるべく福沢諭吉のお札は財布に入れないようにしています。 

 やっぱし、尊敬する野口英世の千円札がオイラのメイン紙幣なのだと…。 ← たんに貧乏なだけ?

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神楽坂 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今日は風情のある入り組んだ道で知られる都心のラビリンス、神楽坂っす。

 この神楽坂周辺といいますか、飯田橋から市ヶ谷にかけての都心の外側にあたる土地は、今でも古い町名が残っておりまする。

 たとえば、水道町、箪笥町、二十騎町、細工町、市ヶ谷鷹匠町、納戸町、揚場町…。

 江戸時代は、ちょうどお城の外堀に沿った外側直近の部分。地図で見ると、それぞれの町の面積が他の町よりすごく小さいんですよ。

 町名から、江戸時代の庶民が暮らしていた生活が覗けるようで興味深い。

 神楽坂の周辺は、江戸の文化も今なお残っている土地という印象がありますし…。

 ということで、五月のある土曜日、午前中に市ヶ谷周辺で仕事をすませたあと、江戸の名残が残る街を歩いてみることにしました。

 まずは最初が肝心と、市ヶ谷から外堀をあるいて飯田橋へ。

 江戸城の外堀はかなり埋め立てられてしまいましたが、四谷から飯田橋にかけて当時の雰囲気が若干残っていますね。

 釣り堀や貸しボートもあって、いつか利用してみたいと思っているのですが…。

 飯田橋駅の西口を出るとすぐあるのが牛込見附跡。

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 巨大な石垣が迫ってきて、当時世界最大と言われた江戸城の巨大さが偲ばれました。

 右手に飯田濠を見ながら坂を下り、神楽坂下の交差点を右折します。

 江戸時代、川からの荷揚げの場所だったといわれる牛込揚場の石碑を左折すると軽子坂。

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 近くの解説板を読むと、荷揚げされた荷物を軽籠で運んだことから軽子坂という名前がつけられたとありました。

 今は何の変哲もない都会の坂ですが、当時の様子を想像すると楽しい。

 江戸時代から繁栄した神楽坂のバックヤードがこの坂なのか、と…。

 軽子坂からいよいよ神楽坂の繁華街へ。

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 土曜日の午後は、ガイドブック片手の観光客が大勢訪れておりました。といっても、それほど目をひく名所旧跡は神楽坂にはないような。

 やはり、お洒落なカフェや老舗の飲食店めぐりが人気なのでしょうか。

 おいしいものを食べるのは好きですが、高いお金を払うと胃が痛くなるオイラは、神楽坂通りを突っ切り、若宮町方面へ。

 こちらのほうは、理工系の名門、東京理科大学の校舎が町に溶け込んでいました。

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 東京理科大といえば、全身の東京物理学校時代、夏目漱石の坊ちゃんの母校として有名ですね。

 落第学校としても知られ、卒業するのに相当勉強しなければならなかったと、同校OBである中学校の数学の先生が話していた記憶があります。

 理工系というと、オイラからもっとも遠い存在ですが、今は経営学部など文科系の学部もあるみたい。

 でも、理科系が得意そうな顔をしている学生を見て尻尾をまいて退散しようと思ったら、オイラでも入ってみたい施設を見つけました。

 それは、東京理科大学近代科学資料館。

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 科学技術の歴史という切り口なら興味あるかも。

 それより何より、無料という魅力に抗しきれず入ってみることにしました。

 この何ともレトロな建物は、物理学校時代の木造二階建て校舎を平成になってから復元したものだとか。

 実際はもう少し大きなものだったらしいですが、「坊ちゃん」が発表されたのと同じ明治39年に古い校舎は建てられたそうですね。

 行った日は江戸時代の和算家・関孝和の企画展が開かれていました。

 この辺りは、理科系と言ってもオイラの守備範囲ですな。

 いくら数学の不得意なオイラでも、江戸時代の数学はわかるでしょ、と思ったら、あまりの高度さに関孝和の和算の理論がわかりませぬ。

 21世紀に生きているオイラが、江戸時代の数学もわからないのか、と落ち込みました。

 もしかしてオイラの数学のレベルは、室町や鎌倉はおろか、平安や奈良を遡り、古墳時代かも。

 いや、古墳時代も、前方後円墳や円墳、方墳を作る時、レベルの高い数学が使われたそうだし…。

 すると、縄文、弥生時代?

 やみちくり~、まさか博物館見学で、自分の能力の低さをこんなに実感されられてしまうとは。

 ほかにも、物理学校時代の資料など興味深い展示品があったのですが、打ちのめされたオイラにはすべて高根の花に見えてしまうのでした。

 そんなオイラでも、計算機の歴史コーナーは興味を持って眺めることができましたよ。

 昔、見たことのある電卓などの計算機が展示されているのです。

 子供時代に、カシオの電卓を見たときは衝撃を覚えましたね。

 カシオミニのテレビコマーシャルを見て、これで算盤の勉強をしなくてもいいと小躍りして喜んだのを覚えています。

 でも、銀行に入ったとき、算盤が必修で、何度もどなられながら再試験を受けさせられ続けましたが…。

 それはともかく、今、100円ショップで売っているのより性能の落ちる電卓が当時は3万円以上もしたのですね。

 算盤の苦手な人間にとって、ホントに今の時代に生きている幸せに感謝しなければと思いました。

 20年以上も前に買って、今もたまに使っているのと同じ電卓が、資料館の展示ケースに収まっているのを見てびっくり。

 オイラの持っているものが、博物館にあるようなお宝だったなんて。

 展示ケースに収まっているくらい資料価値があるなら、もしかして高値で売れるのではないか、と…。

 シャープのポケットコンピュータもあるのですが、○万円でお譲りしてもいいですよ。

 ただ壊れていますけど。

 科学資料館を出て次に向かったのは、宮城道雄記念館。

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 宮城道雄といえば、正月になると誰でも聞いたことのある名曲「春の海」を作曲した人ですね。

 ここは、昭和53年に、宮城道雄が晩年まで住んでいた敷地に建設された記念館らしい。

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 海は見えないけれど、春の海と神楽坂のしっとりとした古い佇まいはイメージ的に合いそう。

 理科系で打ちのめされたあと、またしても苦手な音楽で打ちのめされると完璧に体調を崩しそうなので、また次回来たときに入ろうと思いました。

 住宅街をテクテク歩き、次に向かったのは光照寺。

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 一見何の変哲もないお寺ですが、なんとここは牛込城跡だと言うではありませんか。

 門前の解説板を読むと、戦国時代、群馬県赤城山麓大胡の豪族で、藤原秀郷の子孫である大胡氏がここに移住し、地名に因んだ牛込氏を名乗って牛込城を築城したらしい。

 何でも牛込氏は、当時は新宿から日比谷方面まで支配していたそうですね。

 東京のど真ん中を支配していたなんてすごいっす。

 …と思って、お寺の周辺を歩いてみましたが、城だとわかる痕跡はありませんでした。

 強いてあげると、高台で、当時は江戸湾がよく見えただろうなというイメージだけでしょうか。

 もっとも、城と言っても館レベルだったのでしょうけど。

 北条氏の時代まではあったらしいですが、徳川の世になって取り壊され、旗本屋敷になったあと、お寺がこの地に引越して来たらしい。

 いきなりお寺になっていれば、東京の九品仏浄真寺のように奥沢城址として痕跡が残ったかもしれませんね。

 うう、残念じゃと、そんなことを考えつつ、坂を下って再び神楽坂の喧騒の中へと戻ります。

 神楽坂の毘沙門天として名高い善国寺では何やらイベントが開催されていました。ここは、江戸の三毘沙門として賑わい、縁日の夜店の発祥の地なのだとか。

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 神楽坂の賑わいは、この辺りにルーツがあるのでしょうか。

 さて、ここからは神楽坂の代名詞ともなっている細かな横丁に入ります。

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 石畳の狭い路地は、なぜか落ち着いた気分になりますね。

 そういえば、神楽坂はずっと昔の伝説のドラマ、「前略おふくろ様」の舞台でしたね。

 萩原健一が演じる若き板前の青春遍歴がテーマだったような。

 …といっても、ほとんど見ていなかったのですが。

 静かな料亭街の路地を歩くと、神楽坂芸者さんとともに萩原健一や梅宮辰夫が現れそうな雰囲気。

 ここから筑土八幡神社へ向かうのですが、ゆっくり歩いていたら長くなってしまいました。

 この続きはまた次回。

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成東もとい山武市 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 オイラは十代の頃から、関東地方を中心に歩きまわっています。

 神奈川県東部や埼玉県南部に関しては、かなり詳しいかも。

 一都三県に関しては、まだ行ったことがない場所を探すのが大変になってきました。

 やっぱし、♪知~らない街を歩いてみた~い♪
 
♪どこか遠~くへ行きた~い♪


 …ですよね。

 まだ見たことがない街を歩き、その街に暮らす人たちの息吹を感じるのも旅の醍醐味のひとつ。

 自然豊かな山や海もいいけれど、歴史ある地方都市により魅力を感じます。

 プラス、城跡があったら、もう最高っす。

 でも、そんなオイラの旅愁をかきたてる場所が、近場では少なくなってきましたぁぁぁぁぁ~

 ところが、関東の地図を眺めていて、オイラは千葉方面にはあまり行っていないのに気がつきました。

 内房と言われる東京湾沿岸部は、鋸山まで。そこから先の館山方面には足を踏み入れておりませぬ。

 外房に至っては銚子と勤め人時代、社員旅行で行った九十九里浜までなのでした。

 内房と外房に挟まれた内陸部は、オイラの要求を満たしてくれる街も、まだまだたくさんありそう。

 たとえば、大多喜や久留里には城下町としての風情と城跡が残っているとか。

 それはもう少し先の楽しみに取っておいて、お気軽に日帰りできる場所はないだろうかとして見つけたのが、成東。

 成東は、なるとうと読み、成田の東という意味でつけられた地名でしょうか。

 どうして読み方を知っているかと言うと、成東高校を知っているから。

 かつて中日ドラゴンズの抑えのエースとして活躍した鈴木孝政の母校なのですね~。

 とくにファンではありませんでしたけど、高校時代顔がクリソツな友人がいて、みんなでからかったから覚えているのでした。

 それはともかく、成東城をはじめいくつか見所もあるらしい。

 …ということで、5月のはじめの休日。オイラはJR総武本線成東駅へ降り立ちました。

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 いつものように駅で、街の情報を仕入れようとすると、成東町ではなく山武市と住居表示がある。

 やまたけし?

 聞いたことのない地名。近くの観光案内所で観光マップを手に入れると、「 Nostalgia Land Sammu City 」と書いてありました。

 サム?そのとき、trfのサムの顔が浮かんだのはオイラだけでしょうか。

 後で聞いたら、山武市は「さんむし」と読みらしい。

 おととしの3月に、いわゆる平成の大合併でできた市なのですな。

 でも、市の由来は郡名の山武郡(さんぶぐん)からだそうなんですよ。

 歴史的には、さんむという読み方のほうが古いそうなんですが、果たして山武を「さんむ」と読める人がどれくらいいるのだろうか、と…。

 名前はオイラにとってあまり関係ないことなので、さっそくタウンウォッチングを開始します。

 まず向かったのが、波切不動尊。

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 遠くからでもこの朱塗りのあざやかな建物が目を引きました。

 露出した大岩の上にダイナミックに突き出るような形。清水の舞台を小さくしたような外観ですな。江戸時代に改築された建物を現代まで改築を加えながら守り続けてきたのですか。

 ちなみにこれを、懸崖造りというらしい。

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 正式には、「長勝寺」と言うそうですが、江戸時代、漂流した漁船を寺の灯りが導いて、無事に難を逃れたことから「浪切不動」と呼ばれるようになったとか。

 確かに、急な階段を上って本堂から下を見下ろすと、成東の街が一望できました。
 
 遥かかなたに、太平洋の大海原がぼんやり霞んで見えます。

 本堂に安置されている不動明王は、奈良時代の僧行基が彫ったと伝えられ、社殿の背後には、千葉県天然記念物に指定されている石塚の森という自然林もありました。

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 波切不動尊の後ろにそびえる小山が気になります。

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 これはいわずと知れた成東城跡っすね。

 さっそく、喜び勇んで城攻めに取り掛かりました。

 城跡を取り巻く細い水路。

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 今ではとても堀の名残だとは思えませんけど、城のまわりをぐるっと取り囲んでいる。

 水の手は当時もあったのでしょうね。やはり堀があったのではないか、と…。

 住宅街から細く暗い林道に分け入ります。かなり急な上り坂。

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 標高はそれほどありませんけど、山城っぽい雰囲気は感じました。城が築城されたのは、足利義満が将軍だった頃らしい。

 戦国時代の頃は、この辺りに勢力を誇っていた千葉氏の一族が城主を勤めていたのですか。

 道は急でしたけど、ほどもなく頂上に到着。

 広場になっていて、愛宕曲輪(推定本丸)の表示があります。いきなり本丸っすか。

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 ここから見る眺望も最高でした。不動尊よりも若干高いみたい。

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 本丸は、それほど広くはないけれど、戦国時代の実戦的な城はこんな感じですね。本丸は広くてはいけないという意見もあったようで、それにしてはなかなかの広さ。40メートル四方はあるのでしょうかね。

 本丸のまわりには土塁。

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 場所によっては深い空堀もまわりにあったりして、当時の姿を想像できました。

 当時の土橋と思われる道をたどって城の内曲輪(推定二の丸)へ。

 本丸と二の丸との間には、空堀を二つ越えないといけなくてなかなか堅固です。

 難攻不落の山城とは言えませんが、行って損はないお城ですね。

 山城というより、平山城でしょうけど…。

 城跡を堪能したあと、道なりに進んで少し下ると元ぜん寺。

 藤の花などいろいろな花が咲き乱れて美しい寺でした。

 そこから成東城址公園の山裾を回りこむように歩き、成東病院の前を過ぎ、東金線の踏切を越え、水田地帯に向かいます。

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 こんな広々とした水田を見たのは何年ぶりだろうかと思いました。

 かわいらしい稲が水田からちょこちょこ頭を覗かせています。水の中からはカエルの鳴く声も聞かれました。

 気持ちいい田園散歩で着いたのが、食虫植物群落地。

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 ここは、モウセンゴケやイシモチソウなど昆虫を捕らえて栄養源にする食虫植物を身近で見ることができるのだとか。

 日本初の天然記念物にも指定されているらしい。

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 生物など理科系の苦手なオイラにとって、ただの原っぱにしか見えないのですが、ボランティアの人たちが熱心に説明してくれました。

 食虫植物群落地から立て看板をたよりに次の目的地まで快適なウォーキングコースでした。

 成東もとい山武は、『野菊の墓』で有名な明治時代の作家、伊藤左千夫の生まれ故郷だそうなんですよ。彼の生家も残っているらしい。

 伊藤左千夫といえば、先日東京亀戸のお墓にお参りしたばかり。なんとなく因縁を感じましたね。

 生家へ行く途中、伊藤左千夫の両親の墓もありました。

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 そして、生家の隣には、山武市歴史民族資料館。

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 行った日は、ちょうど伊藤左千夫の作品展が開催されていました。

 「野菊の墓」を書いた作家ということで、文学青年っぽい優男を想像してしまいますが、猪首でいかつい顔をしたおじさんの写真を見て、驚いている見学者たちが多かったですね。

 元牛乳屋さんだったということは初めて知りました。事業が軌道に乗ってから、歌人として正岡子規などとも交流ができたみたい。

 歌集の同人や編集をするなど歌人として活躍する機会のほうが多かったのでしょうか。

 でも、伊藤左千夫が後世に大きな名を残したのは、43歳のとき書いた「野菊の墓」があったからかも。

 発表当時、夏目漱石が激賞した手紙の文章が紹介されていました。

 それと、松田聖子主演の『野菊の墓』のポスターやパンフレットも。

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 でも、野菊の墓のストーリーより、聖子ちゃんのおでこのほうが話題をさらってしまったようですが…。

 ザ・ベスト10に民子の衣装で出演したとき、久米宏が聖子ちゃんのおでこを見て、「ギャハハハハハハハハハ」と笑っていた声が今でも耳に残っていますね。

 それはともかく、伊藤左千夫の生家。

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 実家は農家だったそうですが、庄屋とまではいかなくても組頭クラスの立派な家ですね。

 庭には、左千夫が東京本所で暮らしたときの茶室も移築されていました。

 帰りは、野菊路を通って駅へ向かいます。

 市役所の前に、伊藤左千夫記念公園がありました。

 そこには、民さんと政夫の銅像が…。

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 ここまで伊藤左千夫で盛り上がっているのなら、山武市よりも、野菊市とか、左千夫市のほうがインパクトあったかも、と考える今日この頃の旅でした。

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奥多摩・御岳渓谷と吉野梅郷 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 一ヶ月前になりますが、連休の中日、またウォーキングに行ってきました。

 行ったのは、御岳渓谷と吉野梅郷。

 三年前に青梅に行ったとき、その先の青梅線と多摩川の上流を探検したいと思ったのです。

 やっと、その目的を達成できる日がやってきたのですね~。

 連休中だったのと、前日の旅行番組で奥多摩を紹介していたみたいでどこもかなり混んでいました。景色だけじゃなく人間ウォッチングを趣味なので、人がたくさんいてもそれなりに楽しめましたが…。

 交通費を安く上げるため、ネットの路線案内を参考に南武線経由で立川へ。そこから青梅に出て、また青梅線の電車に乗り換えます。

 いつもはガラガラなのだと思いますが、車内はハイキングを楽しもうとする人たちでいっぱい。結構年配の方たちも多かったですね。

 オイラの隣にすわっていた70歳過ぎと思われる女性二人が、会話している声が聞こえてきました。

 なんか、毎日のように外出しているみたい。

 手帳を開いて二人で覗き込んでいるので、何気に見たんですよ。

 スケジュールが細かい字でぎっしり書き込まれている。日曜出勤、サービス残業のビジネスマンよりすごいかも。

 カルチャーセンターを3つ掛け持ちして、お役所のツアーや見学会、勉強会には全部参加していると話していました。それから嫁に行った娘の家にも週一で訪ねているのですか。

 聞き耳を立てるつもりはなかったのですが、二人で江戸時代の上下水道について話し込んでいるのですが、話の内容が高度なのでびっくり。

 今回は、多摩川上流の視察旅行っすか。

 元気に長生きして、人生を楽しんでいる女性が多いと実感しましたね~。

 やがて電車は御嶽駅に到着。

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 ドドドドッと降りる人が多かったのですけど、皆、御岳渓谷ではなく、御岳山へ行くらしくバス停は長蛇の列ができています。

 それにしても、駅名は御嶽駅なのに、渓谷は御岳渓谷っすか。

 理由はわかりませんけど、御嶽のほうが深山幽谷のイメージがあるのはオイラだけでしょうか。

 そんなことを考えつつ、オイラは駅前を流れる多摩川の河原に降りて行きました。

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 下流はゆったりのびやかに流れている印象の多摩川も、ここいら辺りは川も生まれたばかりでエネルギッシュ。

 ザザザザ~という流れる音がすさまじい。水の流れも速い。

 そんな急流を利用して、カヌー競技のトレーニングをしている人たちがいました。またゴムボートを使って急流下りを楽しむ若者たちのグルーブも。

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 新緑の山に包まれて、アクティブに急流を仲間と下ったら、「ファイト~一発!!」気分でしょうね。

 昔、ライン下りをして全身ずぶ濡れになった爽快感がよみがえってきました。

 また、やってみたいっす。 

 ひとしきり、水との格闘技ともいえるスポーツを眺めたあと、対岸にわたります。

 御嶽駅から御岳橋をわたってすぐのところにあるのが玉堂美術館。

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 日本画の大家、河合玉堂の作品を収蔵した美術館ですな。

 河合玉堂は、去年のぐるっとパスの美術館めぐりでさんざん作品を拝見した画家。自然をテーマにした静謐にして気品のある作品が印象に残っています。

 玉堂が晩年をここ御岳で過ごしたということは、その時知りました。

 実際、現地へ行ってみると、美術館のすぐ前が多摩川の絶景。川の流れる迫力ある音がつねに耳に入ってきます。

 かなり音が大きいと思うのですが、慣れると煩くないといいますか、むしろ静謐に感じられるところが玉堂の作品のイメージにあっているかも。

 玉堂も、それでこの地に住んだのかと思いましたが、この美術館は玉堂の没後に完成したのですね。

 当時の画室が再現されていましたが、実際のアトリエはどこらあったのだろうと思いました。

 美術館は鉄筋コンクリート造りで、天平の寺院風でも、古民家風でもあってまわりの景観に溶け込んでいましたよ。

 石庭の白と周りを取り囲む山の緑、そして川の流れる音のコラボが印象に残っています。

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 ふたたび御岳小橋を渡り対岸に戻り、御岳渓谷を下流に向かって歩きます。

 河原には、特徴的な大岩がゴロゴロ。

 それらの岩を素手で登ろうとチャレンジしている人たちがあちこちで見かけました。

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 岩の下にマットを敷き、落ちても怪我をしないようにして、腕の力だけで登るのですか。

 昔は体重が60キロなかったので、オイラも木登りや鉄棒は得意でした。

 海へ行って大きな岩を見ると必ず登っていましたが、岩登りのスポーツも流行しているのですね。

 当時だったら、結構いい線行ったかもしれないのに残念、とあと20年遅く生まれていればやったかも。

 はやく生まれすぎたことを悔やみつつ、日本名水百選にも選ばれたという清流と奇岩を目ながら歩きました。

 いったん渓谷から離れ、沢井駅前にある雲慶院へ。

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 茅葺の屋根が美しい一見普通のお寺ですけど、ここは戦争中、浅草寺や大倉集古館の宝物の疎開先になったらしい。

 戦争中も平和が感じられるような景色が広がっていたのでしょうか。

 ふたたび御岳渓谷にもどり、楓橋をわたって寒山寺へ。

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 中国の蘇州の寒山寺は有名ですが、このお寺は昭和5年、その寒山寺の仏像を安置して建てられたとか。

 大岩の上のお堂に急階段を上って参拝すると、水墨画の中に入ったような気がしました。

 渓谷を下流に向かって歩きます。

 少しずつ川の幅が広くなって流れがゆるやかに…。

 軍畑大橋をわたって多摩川の別れを告げ、住宅街へ入っていきます。

 しばらく歩いて、愛宕神社に到着。

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 社殿まで、ここでも急階段があって大変でしたが、上からの眺めは格別でした。

 つつじのピンクと新緑とのコラボで春を実感です。

 愛宕神社を降りてすぐのところにあるのが、吉川英治記念館。

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 吉川英治といえば、「宮本武蔵」や「新平家物語」などが思い浮かびます。なんでも、日本人の作家の中で、古今を通じて最も多く著作が読まれた作家らしい。

 ですが、オイラはつい最近まで一冊も読んだことがなかったことに思い至りました。

 子供の頃、吉川英治原作で、高橋幸治主演の「宮本武蔵」や仲代達矢が平清盛を演じた「新平家物語」のドラマは楽しく見た記憶がありますけど…。

 それじゃいけないと、ひと月前読んだのが「平の将門」。

 猛々しい武将というイメージだったのですが、センチメンタルでごく普通の人という人物造型が異色でしたね。

 案外、吉川英治の書き方が的を射ているのではないかと思ったりして。

 それはともかく、ここ青梅市吉野の地で、英治は、昭和19年3月に家族と東京赤坂 から疎開して、昭和28年8月まで生活していたそうですね。

 さすが人気作家だけあって、梅林に囲まれた二千坪の広大な敷地の中に、もともとあった幕末に建てられた古民家を改造して暮らしたみたい。

 当時暮らしていた家に入ると、吉川英治が「草思堂」と名付けた雰囲気がそのまま残っていました。

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 新平家物語を執筆した書斎は、明治期に建てられた小さな洋館にあるのですか。今も執筆活動を続けているように机の上には原稿用紙や万年筆が置かれています。

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 そして広い庭は起伏に富んだ美しい芝生。その隣には椎の巨木。

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 横の階段をあがってゆくと、吉川英治の業績を紹介する展示室がありました。

 父親は実業家だったそうですが、会社が倒産してからは住み込み店員や工員などになって少年時代は苦労したみたいですね。

 大衆小説作家の原点がこのあたりにあるのではないかと感じました。

 当時の映像も残っていましたが、当時の村人たちの中に入って、一緒に踊るなどひょうきんな一面も見られて楽しかったです。

 ここに来るまでは、もっと山の中にあるのかと思っていましたが、吉野街道沿いの住宅街の中にあるのは少し意外。

 深山幽谷の山の中に一人籠って、新平家物語を書いていたようなイメージでしたから。

 河合玉堂をはじめ、周りの村人たちとの賑やかな交流の中で生まれた文学だったのですね。

 記念館を出て、吉野街道をさらに行くと、即清寺。

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 立派なお寺で、裏山に幕末から明治時代の初めにかけて作られた四国八十八カ所霊場になぞらえた新四国八十八カ所がありました。

 都内のお寺にも似たようなアトラクションはいくつかありましたけど、こちらは大規模でご利益がありそうですね。

 時間がなくて行けませんでしたけど…。

 そして最後に向かったのが、青梅市梅の公園。

 面積は4万5千平方メートルですが、起伏に富んでいて全部を攻略するのはなかなか骨が折れました。

 急な坂や階段をのぼり、ようやく公園の最高所へ。

 吉野郷が見渡せて、これまた絶景。

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 奈良県の吉野は桜が有名ですが、青梅は梅なのですね。

 全山さまざまな種類の梅が植えられていて、シーズンの時の景観は圧巻でしょうね。

 是非、梅のシーズンにまた来てみたいと思ったのですが、梅の木のまわりには大量の杉のバリケードが…。

 シーズンは花粉の量も半端じゃないということがわかりました。

 うぬぬ、もし来るんだったら、命がけの観梅になりそう。

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私のお気に入りの動画ベスト5(あなた、エイトマン、マッハGOGOGO、セシル、C-girl)

 こんにちは。

 最近オイラがはまっているのが、YouTubeの動画。

 記憶には残っているのだけれど、もう二度とお目にかかれないと思っていた画像に再会できるなんて、喜びを通り越して感動に震えます。

 あらためて見ると、新たな発見があったりして楽しい。

 もちろん、古い画像を見て昔を懐かしんでいるばかりじゃないですよ。

 当時はあまり印象に残らなかったものが、今見ると素晴らしく思えるものもたくさんありました。

 年を経るに従って、自分の中身も変わっているのが実感できます。

 ただ、進化したと言えないのが哀しい。

 …ということで、今日は、最近オイラが繰り返し見ている動画をご紹介しようか、と…。

 あと一か月もしたら、嗜好もまた変わってゆくと思うのですが、昔見て今また感動した動画は生涯オイラの頭の中に鮮明に残ってゆくのでしょうね。

 まず一つ目は、去年も私が好きな音楽でも紹介した小坂明子の「あなた」←クリック

 前にも書きましたけど、この曲を最初に聴いたのは、ラジオでした。深夜番組の主題歌だったような。

 けだるい感じのイントロ部分から、サビの熱唱、そしてまた静かな中盤を経て、ラストの「あなた、あなた」の叫ぶような心に響く歌声、そして旋律の美しさに一瞬で魅了されました。

 この、静と動、スローとハイスピードとの対比が絶妙。

 この歌は、小坂明子さんが高校時代の授業中に作った歌だったらしい。

 「あなた」は第4回世界歌謡祭では最優秀グランプリに輝き、発売1ヶ月で100万枚を突破。3ヶ月で165万枚を売り上げ、ポップス界の歴史的ヒットとなった曲。

 紅白にも出場し、当時は毎日のようにテレビに出ていました。大ヒットする前からラジオで聞いてファンだったので、自分のことみたいにうれしかったです。

 それなのに、30年近くも歌っている姿を見ることができませんでした。

 自分の中ではもう伝説になっていた曲なので、再びネットで見られたときはうれしかったですね~。

 しかも、当時の姿そのままで…。

 オーケストラの大音量に一歩も引けを取らない歌唱力はさすがです。しかもまだ十代だと思いますよ。

 その若さで、歌謡史とオイラの記憶にしっかり足跡を残したのですね。

 
 二つ目は、「エイトマン
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 友人に言わせると、鉄