復活!70年代ファッション with 久留里 ウォーキングストーリー2
こんにちは。
やせてズボンのウエストがゆるゆるになったので、20代のときに買ったエドウィンのブルージーンズを穿いてみたんですよ。
おお、入る、入る。
ちょっときついけれど、ウエスト76センチをクリア。
これが穿けたのは十年ぶりでしょうか。
…となると、あれも穿けるかも。
押入れをひっくり返し、取り出しましたるは10代のときに買った、ベルボトムのジーンズ。
ククク…、これはきつい。
まるで、今話題のスピード社の水着、レーザーレーサーを着るみたい。(← もちろん着たことないけど)
悪戦苦闘の末、ようやく穿けたのです。ベルボトムを穿いたら、当時流行していた五分袖のトレーナーを着てみたくなりました。
またしても押入れをひっくり返して、ようやく70年代の地層から、目指す遺物の発掘に成功しましたぁぁぁぁぁぁ~♪
ベルボトムのジーンズに、五分袖のトレーナー。 …レトロっす。
自分の姿を鏡に映して当時を懐かしんだのですが、なんかまだ足りないような。
そうそう、あれを忘れてはなりませぬ。
今でも箪笥に入っているはず…。
取り出したのは、チューリップハット。
高校時代、風吹ジュンにあこがれて買ったのですね~。
ここまで完璧に70年代を再現できたら、外を歩いてみたくなるのが人情。
靴ではなく、フォークシンガーみたいに雪駄を履いて歩くというこだわりもありました。
外へ出て、完璧な「ナウい格好」で歩くオイラ。
炎天下でしたが、なんか背筋が寒いと思ってまわりを見渡すと、道行く人々の冷たい視線を感じるのでした。
結果的には、地球温暖化が人間の脳に与える影響について、問題を提議したことになるのかも。
さて、とうとう3回目に突入した久留里への旅。
今日で最終回にしなければ、どこまでも続きそう。
…ということで、またしてもお城の話題から。
以前から、久留里城を写真で見るとき、天守閣の横に芝生の土檀があって何だろうと思っていたのですよ。
今回の旅行で、やっとその理由がわかりました。
天守台の跡なのですな。
復元された天守閣は、その横に改めて作ったわけですか。
久留里城固有の城の形式かと思いましたが、疑問は氷解しました。
やっぱり現地に来ないとわかりませんね。
天守閣に入ると、やっぱし鉄コン筋クリート。
最近は、木造で忠実に史料考証された天守閣が再建されていますが、昭和に復元されたお城は、外見だけ似せて、町のシンボルとする試みが多かったみたい。
城ファンとしては、当時を忠実に再現してほしいですが、こうしてオイラがここに来たというのも、外側だけでも天守閣が見られるから。
鉄コン筋クリートでも、なければここには来なかったでしょうね。
一階には、日本全国の城の天守閣の写真が展示されていました。
天守閣に登り、望楼からまわりの景色を眺めます。
ふふふ、久留里3万石の城主になった気分。
下を眺めると、オイラと同じ城ヲタクが一眼レフのカメラでバシバシ写真を撮っているのが確認できます。
久留里城は、「雨城」という別名もあるそうなんですよ。
これは築城する際、3日に1度、21回も雨が降ったという伝説からつけられたらしい。
姫路城を「白鷺城」、松本城を「烏城」、会津若松城を「鶴ヶ城」と呼ぶように、鳥の名前をつけた城が多いですが、「雨」とは珍しい。
今に残るくらいだから、よっぽど城を作るときは困ったのでしょうね。
そのとき雨がたくさん降ったから、今も町の至る所で水が噴き出しているのだろうかと思ったりしました。
今日みたいにギンギラギンに晴れていると「雨城」というイメージはわきませんね。
ちなみに天守閣と本丸を見たあと、元来た山道を戻ったのですが、家に帰ってネットで検索してみたのです。
すると、本丸を別ルートで降りたところにド迫力の巨大堀切があると言うじゃないですか。
しまった、見逃したぁぁぁぁ~ と地団太を踏んで悔しがっても後の祭り。
そんな見所があるんだったら、解説板に書いといてよ!!
もっとも、城の興味がない人が見たら、行く手を阻む迷惑な崖があるだけですが…。
あとで悔しがるとは思わないオイラは、さきほど薬師曲輪の見晴台から眺めた三の丸のあとへ行ってみることにしました。
当時は三の丸御殿があったそうですが、今は広い田んぼが広がるのみ。
何も残ってないなと、何気にケータイを取り出して写真を撮ろうとしたら、手が滑って舗装道路に落としてしまいました。
ケータイは何度か落としたことがありますけど、今回はぶつかった場所が悪かったのか、蝶番の部分にひびが入ってしまったのです。
2年前の機種なので買い換えればいいんですけど、324万画素のカメラ付きなので惜しいっす。
…と、今もセロテープをケータイに貼って使っている自分が情けない。
調子こいて歩き回っていましたが、これも13日の金曜日のたたり?
めざましテレビの星座占いで、大切なものを壊すかもしれないから気をつけて、とお天気おねーたんの愛ちゃんが言っていたのを思い出しました。
気を取り直して、後半の旅を続けます。
久留里城の駐車場まで戻り、森林体験交流センターの横を通って道なりに進むと、県道大多喜君津線。
ほとんど車の通らない県道も珍しい。
日陰がなく、久留里の名水とミネラルウォーターを満載した体から水分がどんどん蒸発してゆくのがわかりました。
炎天下の田園をしばし歩き、久留里に来て始めて見たスーパーマーケットの横を右に入ってしばらく歩くと、お寺の山門が見えてきました。
このお寺は円覚寺。
鎌倉にも円覚寺というお寺があって、国宝に指定されているお堂もあったと記憶しています。
こちらの円覚寺は、江戸時代初期の久留里の城主であった土屋家の菩提寺だそうな。
土屋家の先祖は、武田信玄に仕えた武将で、信玄愛用の数珠が所蔵されているらしい。
このお寺の見所は、裏の墓所にある五輪塔。
五輪塔とは、現代でいえば墓石でしょうか。
県内最大の五輪塔という表示があったので行ってみることにしました。
おお、高さは約4メートルもあるのですね。
そういえば、吉良上野介の五輪塔が都内にありましたが、こちらのほうがずっと大きい。
2万石でも大名と高家筆頭との差はこんなところにあるのですかね。
そういえば、二つ前の記事に書いた久留里藩最後の藩主黒田直養のお墓は元大名のお墓としては小さかったような。
江戸時代初期と幕末から明治にかけてのお墓の変遷が面白かったです。
隣の円如寺は、「花の寺」とも言われ、一年中花が咲いているシーンを見られるそうな。
オイラが行った日も、境内に花が咲いていました。
花の知識に疎いので、何の花かわからないのですが…。
ここから再び田園地帯を歩いて久留里駅前に出れば今回のウォーキングコースは終わりなのですが、まだ帰りのバスの時間には余裕がある。
そこで地元でもらったガイドマップを再チェック。
見所を完全に制覇しようという野望を企てたのでした。
まず、朝、行き忘れた正源寺へ。
ここには加勢観音像があり、戦国時代の久留里城主だった里見義堯が、夢のお告げに従って観音像を背負って小田原北条氏との合戦に臨んだらしい。
それで合戦に勝ったのですか。
オイラの住んでいるところは、江戸時代はともかく戦国時代の逸話なぞ聞いたことがありませぬ。
地方都市には、昔の出来事がタイムカプセルみたいによく残っているのですね。
それにしても、町内には井戸がホントにたくさんあります。
どうしてこんなに井戸がたくさんあるのかと考え、たくさん掘ったからという答えを導き出しました。
それもそのはず、久留里は有名な「上総掘り」発祥の地だそうですね。
それは、江戸時代後期に考案された井戸掘りの技法。
櫓を組み、竹ひごの先に鉄管を取り付け、地下400メートルも掘り進むのだとか。
前の記事で書いた久留里城址資料館の裏に、上総掘りの巨大な模型が展示されていました。
この技法を使って、今も発展途上国で井戸掘りが行われているというから驚きます。
現代人でも、素人だったら地中400メートルも掘り下げる方法なんて思いつかないでしょう。
どの時代にも、頭のいい人はいるのですな。
…と思いつつ、またも町中の井戸から水をしこたま飲むのでした。
そして最後に向かったのが、日本史の教科書でおなじみの新井白石の居宅跡。
小学校の近くの公園に、新井白石居住の地の立派な碑が建っていました。
徳川六代将軍家宣と七代将軍家継の政治顧問として、さまざまな改革を行った人物であるというくらいの知識ですが、そんな有名人がここに住んでいたというのは驚きでした。
江戸初期の藩主だった土屋家の藩士の子として生まれ、青年期の3年間をこの土地で過ごしたのだとか。
その後、お家騒動で追放になったものの、勉強して儒学者・木下順庵の門下生となり、出世の糸口を掴んだのですね。
追放にならなければ、教科書に載るような大人物にはなれなかったのかもしれないし、人の一生は、塞翁が馬だとつくづく思いました。
そして帰りは、行きと同じく高速バスで。
東京湾アクアラインから見た東京湾が、夕日にキラキラと光り輝いてとてもきれいでした。
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