蔵の町・雨の川越 ウォーキングストーリー2

 こんにちは。

 今日は、川越シリーズの2回目。

 前回は、大雨の中、喜多院を見学したのでした。

 これからいよいよ、川越のメインストリートを歩くぞ、と意気込んで、蔵の町エリアへやってきました。

 でも、喜多院をじっくり見学したので、昼時をかなり過ぎている。

 腹が減ってはウォーキングができぬと、少し遅めの昼食にすることにしました。

 洗練された観光地のいいところは、飲食店の情報が充実していることですよね。

 朝、バスに乗る前にもらったパンフに書いてある飲食店を探します。

 オイラが選んだのは、札の辻という蔵の町の中心地から程近いところにある和食レストラン。

 芋釜めし、とはちょっと珍しいかも。

 そういえば、川越はイモを使ったお菓子や料理が名物なのでした。

 千円とちょっとなので、さっそくそれを注文です。

 これが芋釜めし。

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 若干、食いかけですが…。

 オイラが、お散歩先でグルメ写真をアップするのは極めて珍しいですな。
 
 いつも、ファストフードばっかりだし。

 どこへ行っても、名物店は混んでいて、とても並んで入る気が起きないのですが、雨の日はどこへ行ってもすいているのがいいですね~。

 芋釜めしを食べ、外へ出ると相変わらずの雨。

 しかも、完璧にさっきより雨脚が強くなったのがわかります。

 でも、驚いたことに、決して少なくない観光客が傘をさして歩いているんですよ。

 この悪天候の中ですから、晴天だったらすごい人ごみになっていたかも。

 ポジティブに考えるようにして、まず川越のランドマークタワー「時の鐘」へ。

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 高いものを見ると昇りたくなるオイラの琴線に触れる塔ですな。

 高さ、16メートルというからそれほど高くはありませんが、まわりに高い建物がないのと、何と言っても木造板張りのタワーって珍しい。

 そんじょそこらのビルとインパクトが違います。

 地上600メートルを誇る東京スカイツリーも、ツリーと言うだけあって、ホントに木造で作ったらすごいでしょうね。

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 怖くて誰も昇らないでしょうけど…。
 

 それはともかく、この「時の鐘」。

 初代は、江戸時代初期に川越城主の酒井忠勝が、こことは別の場所に建てたものが最初らしい。

 現在の鐘は四代目だそうで、明治半ばの再建だとか。 中は3層になっているそうですね。

 時の鐘というくらいだから、江戸時代から約350年間も、川越の町に「時」を告げてきたのですな。

 現在は、毎日、午前6時・正午・午後3時・午後6時の4回、鐘の音が鳴り響くのだとか。

 誰が一日4回もここに昇って鐘を撞くのだろうと思ったら、今は機械仕掛けなのですか。

 でも昔は、ここに昇って鐘を撞く人がいたのでしょうね。

 高いところと、鐘を撞くのが好きなオイラは、物欲しそうに見上げます。

 時の鐘の周辺は、ご存知、蔵造りの店が並んでいます。

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 重厚な黒い壁、そして堅牢な瓦屋根。今でも地方の古い町へ行くと、たびたび土蔵造りの店蔵を見ることができますけど、これだけ一そろい蔵が並ぶ景観は珍しい。

 さすが「小江戸・川越」と思ったのですが、これらの蔵のすべてが江戸時代からのものではないそうですね。

 なんでも、明治26年の川越大火があったとき、江戸時代から続く蔵造り建物が無事だったそうなんですよ。

 それで火事に強い建物ということで、これだけ多くの蔵造りの建物が作られたとのこと。

 現在、この周辺は、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、つい最近には「美しい日本の歴史的風土100選」にも選定されたらしい。

 きっと、江戸時代の日本橋とか、当時の繁華街はこんな感じだったのかもしれませんね。

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 昔に思いをはせ、ボーッと美しい街並みを眺めていたかったのですが、どんどん雨が強くなってきて、このままではやばい状況に立たされそうだったので、雨宿りすることにしました。

 おかげさまで川越には、雨宿りする場所には事欠かないのですね~。

 まず向かったのは、すぐ近くにある川越市蔵造り資料館。

 入館料100円なのもうれしい。

 ここは、かつて川越大火の直後に、当時、タバコの卸商を営んでいた小山文造氏が建てたものだとか。

 つまり、明治時代の中頃に建てられたのですな。

 でも、江戸時代の雰囲気もよく残しているのではないかと思いました。

 通りに面していて、間口はそれほどないものの、奥行きがすごくあるところ、とか。

 通りに面している部分は、店蔵や住居部分、そして奥に行くに従って、文庫蔵や煙草蔵、そして文庫蔵の順に並んでいます。

 小さな庭もあって、通りの喧騒とは別に静かな雰囲気が漂っていました。

 この庭からも「時の鐘」が見えます。

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 当時ここに住んでいた人は、東京人が東京タワーを眺めるイメージだったのかも。

 店の二階から、広い通りを覗けるのですが、鉄格子越しに外を眺めるのは不思議な気分。

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 二階へ上がる階段は狭くて急だし、しかも出入り口は一つだけ?

 窓には鉄格子がはまっているし、火事のときはどこから逃げようかと避難路を考えてしまいました。

 防火性が高いから、窓を閉めて篭城してしまえば大丈夫なのでしょうか。

 店蔵には、レンガ造りの地下貯蔵庫も設けられていて、城好きとしては抜け穴などいろいろイメージが膨らみます。

 もうひとつ別の蔵も見学しようと、次に向かったのは大沢家住宅。

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 なんと、この建物は重要文化財なのですね~。

 作られたのは、江戸時代中期の寛政年間とのこと。

 当時は、呉服太物を商っていた店蔵らしい。呉服はわかるけど、太物って何?と思い、この前買った電子辞書で調べてみました。

 何でも、絹織物を呉服というのに対し、綿織物・麻織物を総称した語らしい。

 載っていたのはさすが広辞苑ですが、説明が難しくてよくわかりませぬ。

 要するに、着物関係を扱っていたお店なのですな。

 この建物は、明治の川越大火の際も焼け残り、川越商人に蔵造りを建てさせるきっかけとなった建物の一つなのだとか。

 蔵の町・川越のルーツともなった建物なのですね。

 一階は、今でも川越観光のおみやげ物を売っていましたが、二階は見学できるそうなので入館料を払って入ります。

 話好きなおじさんが一生懸命解説してくれて、独特の建築様式がよくわかりました。

 太い大黒柱が二本もあり、二階は、16畳の広間のほかにも四部屋もあるのですね。

 お城や古民家を見慣れているオイラでも驚いたのは、箱階段の幅が狭くて急なところ。

 ここを日常、平気で上り下りしていたのだから、当時の人たちのバランス感覚はすごいと思いました。

 「いや、あんなものじゃないよ、こっちを見てご覧よ」とおじさんに言われて、今は使われていない裏の階段を見せてもらいました。


 おおおお~、すごい!! ほぼ垂直の階段。

 上から覗き込むと、階段と言うより、切り立った崖を上から見下ろすような感じです。

 しかも、手すりがない。

 現代人の会社や住宅にこんな急な階段があったら、日に何人かは転げ落ちる人が出るのは間違いない。

 打ち所が悪ければ、天国へ行く人も出るのではないか。

 でも、当時の人は平気で荷物を持って上り下りしていたのだとか。

 おじさんに聞いてみると、爪先立ちで上ったり下りたりしていたそうですね。

 かかとは使わなかったそうな。

 もっとも、かかとを置くほど階段の奥行きがありませんが。

 江戸時代や明治時代の人たちが小さくてやせているのはわかりますが、軽業師のような身のこなしができていたのは意外でした。

 大沢家住宅を出て、最後に向かったのは菓子屋横丁。

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 観光のために作られたのなら、昭和ブームのいいところに目をつけたなと考えていました。でも、ここはもともと、明治の初めから菓子を製造していました地域なのですね。

 なんでも、関東大震災で被害を受けた東京に代わって駄菓子を製造供給するようになったとか。

 現在も十数軒の店舗が集まっているのですね~。

 昭和の街並みと昔食べた駄菓子を楽しみにしていたのに、大雨で閑散とした雰囲気。

 前回来たときは、すごい混雑していて、駄菓子をゆっくり買う気がおきなかったのですが、すいていると逆に店に入りづらかったりして…。

 イモのアイスクリームを食べたいと思っていたのですが、行った日は寒いくらいだったのでパスせざるをえませんでした。

 もっとも、昭和の下町も大雨の日はこんな感じだったなとノスタルジックな気分に浸りながらバスに乗り込んで駅へ向かったのです。


 …が、しかし。

 川越の駅についたとき、またも大失態を演じたことに気づきました。

 ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~また、七福神めぐりの最後のお寺をお参りするの、忘れたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~


 また、いつか川越へ行かねばなりませぬ。

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雨の川越 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 去年の年末から粛々と続けてまいりました出版作業。

 ようやく、オイラの仕事は完了し、あとは印刷所での入稿、校了、印刷作業を待つばかりという段階に到達しました。

 ブログが滞りがちだったのに、温かく見守っていただきまして、どうもありがとうございました。

 村上春樹氏の「1Q84」を真似して、出版まで何の情報も…。

 …というほど、オイラは大物ではありませんので、さらっと紹介させていただきますと、今回も病気の本です。

 頭や胸、おなかなど病気が起きる場所ごとに章が分かれておりまして、見開きの左側にカラーの図版や解説、用語解説などがありまする。

 図解入門シリーズで有名な出版社さんだけあって、イラストは、いい仕事していますね~。

 そして右側には病気の解説文やポイントなどがコンパクトにまとめられておりまする。

 本も、A5版で前回の本より若干大きいっす。

 校正原稿を見せてもらいましたが、読みやすいし、見やすいし、これってホント、オイラが書いたの? というくらいの出来栄えに仕上がっていました。

 コラムも、トリビア感がなかなか。

 …と、自己満足、ポジティブ思考にどっぷり浸かっている今日この頃なのでした。

 いろいろお世話になっているので、なんか、ご恩返しなぞしたいと考えてはいるのですが…。

 出版までもう少し時間があるので、それは宿題ということで。


 さて、お散歩ネタ。

 今回行ったのは、埼玉県の川越です。

 以前、オイラのブログでもお散歩ネタとして取り上げた場所ですね。

 前回は、川越七福神めぐりにチャレンジして、最後のお寺のお参りを忘れるという大失態を演じたのでした。

 あれから、最後に残ったお寺のお参りをしなければと思いつつも、かなりの時間が過ぎてしまったのですね~。

 それはともかく、川越は現在、NHKの朝の連続テレビ小説の舞台として脚光を浴びているらしい。

 今回は、前回スルー気味だった、蔵造りの街並みや喜多院、菓子屋横丁という観光スポットに絞って行ってみることにしました。

 それからもちろん、七福神めぐりの成就も。

 かなりのタイムラグで、ご利益は期待できるのだろうかと若干不安なのですが…。

 しかし、行こうと思っていた日は、なんと朝から雨…。

 しかも、大雨ばかりではなく、風や雷にもご注意と天気予報のおねーたんが話しているのでした。

 うぬぬ、どうしよう…。

 しかし、こんな雨の中、観光に行く人は少ないだろうとポジティブに考え、決行することにしたのです。

 天気のいい土曜日だったら、テレビ小説の効果でとてもゆっくり観光できないでしょうからね。

 防水のウインドブレーカーに防水シューズで固めたオイラは、東武東上線の川越駅に降り立ちました。

 駅ではやはり、『つばさ』のポスターやパンフが並んでいます。パンフを手に取ると、裏にはこれもお約束の「受信料のお支払い」のお願いが…。

 うちは口座振替にしているのですが、衛星契約にすると結構な金額になるのですね。

 元を取るくらいNHKを見なければ、と思いつつ、何気に駅の広いコンコースを見回すと、市内のバスが乗り放題で300円というポスターが目に留まりました。

 これは、安いと早速チケットを買い求め、バスの乗り場に向かいます。

 まず向かうのは、川越大師喜多院。

 前回も来たのですが、観光の目玉でもある三大将軍「徳川家光誕生の間」や「春日局化粧の間」は、スルーしてしまったのでした。 

 昔、入ったことがあると言っても、20年前ですからね。今日は、じっくり見学してみようと思いました。

 バス停を降り、雨の中、小走りに喜多院の山門へ向かいます。

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 この山門は、寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたそうですね。

 その後起こった川越の大火からも焼失を免れ、喜多院では現存する最古の建物なのだとか。

 広い境内は、桜の名所としても有名で、テレビで見たときはものすごい混雑振りでした。

 ところが今日は、静かな雰囲気が漂っている。ゆったりした風情を感じるのは、雨の日ならではの醍醐味かも。

 雨に煙る多宝塔がいい味を出しています。

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 この塔は、バランスがよくて美しいと評判らしいですね。

 今日はすいているから、ゆっくり中を鑑賞できるだろうと喜多院の客殿と書院に向かいました。

 入り口で拝観料を払おうとすると、OH!NO~、今日は千円ですか。

 いつもは400円なのに…。

 特別展をやっているから、別料金みたい。常設展と特別展と分ければいいのに、と思いつつ、庫裏から中に入ります。

 着物や絵画、鎧兜に刀剣類など貴重な寺宝の数々が、客殿や書院に所狭しと展示してあります。

 千円の元を取ろうと、目を皿のようにして眺めましたが、頭のハードディスクの容量が最近落ちているので、あまり記憶に残りませぬ。

 写真は撮ってはいけないそうだし…。

 でも、警備員のおじさんに聞いたら、庭は好きなだけ撮ってもいいそうなので、お言葉に甘えてパチパチ撮影しました。

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 雨に濡れているためか、新緑がとても鮮やか。

 土砂降りの中、傘を差して日本庭園を歩くのは大変ですが、広い縁側から眺めると、雨のまた庭園の美しさを際立たせる演出にも思えてきますな。

 そして、いよいよ「家光誕生の間」へ。

 どうして、川越に家光の生まれた場所があるの?という疑問も湧きますが、もちろん家光が川越で生まれたわけではないのですね~。

 家光が生まれたと言われる御殿が、川越に運ばれたらしい。

 現在、喜多院の客殿や書院、庫裏となっている建物は、江戸城紅葉山にあった別殿を移築したものなのですな。

 何でも、寛永15年の大火によって、当時の喜多院の建物のほとんどが焼失してしまったとき、三代将軍家光が移築を命じたとのこと。

 結果的に、江戸城唯一の遺構として残されたのですね~。

 さて、「家光誕生の間」の広さは、12畳半だというのですが、部屋中に特別展ということで鎧兜が並んでいるので、むしろ狭い印象でした。写真に撮りたいところですが、年季が入っているから当時の豪華絢爛という風情はないような。

 「オイラは生まれながらの将軍なのじゃ~」と外様大名に大見得を切った三大将軍がここで生まれたとは不思議な感じです。

 興味深かったのは、近くに湯殿と厠、つまりバスとトイレが設けられている点。

 いわゆる当時の住居だから、トイレとバスがあるのは当然ですが、将来の将軍が生まれた建物なのに、思っていたよりずっと質素なのには驚きました。

 トイレとバスが隣同士にあるのは、ユニットバスみたいだし…。

 徳川の初期だし、家光が生まれた頃って、まだ大奥はできてなかったと記憶しています。

 まだ、戦国時代の気風が残っていたのかも、と考えたのですが、こればっかりはオイラはよくわかりませんので念のため。

 次に向かったのは、「春日局化粧の間」。

 ここも思ったより質素な造りですが、二階にあがることもできるそうなので、急な階段を上って見学します。

 それにしても、手すりのない急な階段。当時、着物を着た女性たちがホントに、上がり降りしたのですよね。

 かなりのバランス感覚と運動神経が必要だと思うのですが…。

 中二階といわれる部屋は、天井の高い屋根裏部屋という雰囲気。

 当時は倉庫のような役割があったらしいのですが、ここで、折檻なんかも行われていたかもしれませんと、音声解説がありました。

 確かに、見上げてみると縄をかけて吊るすのにお手ごろな梁もあったりして。

 昔見た、大奥を舞台にした映画のワンシーンがフラッシュバックします。

 昇るときは大変でしたが、さらに降りるときはもっと大変で、上り下りだけでも折檻になったのではないか、と…。

 特別展の展示も見ながら客殿を後にし、喜多院の本堂になっている慈眼堂に向かいます。

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 雨の中、外へ出なくても渡り廊下でつながっているのがうれしい。

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 それにしても風情のある廊下で、自分がお坊さんになったみたいですね。

 しかも、廊下の途中に休憩できるスペースがあって、そこからの庭の眺めも素晴らしかったです。


 本堂の畳の上に座り、しっかりお参りをしました。

 建物を出て、境内からも本堂にお参りしたあと、最後に向かったのが五百羅漢。

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 こちらも境内にあって、日本三大羅漢の一つに数えられるそうですね。

 傘を差しながら写真を撮ったら、ブレブレに…。

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 手振れ防止のケータイカメラが欲しいっす。

 それはともかく、これらの羅漢さまは、江戸時代の後期に、約50年間にわたって建立されたそうな。

 よく見ると、笑ったり、泣いたり、怒ったり、表情を一つひとつ眺めているだけでも楽しいのですが、雨が強くなってきて…。

 これはたまらんと、次の目的地へ向かうことにしました。

 さすがにこの大雨の中、観光客が少なくてゆっくり眺められるのはいいのだけれど、ゆっくり眺めているとびしょ濡れになってしまう。

 テクテク歩き、ようやく川越観光のメインストリート、蔵の町エリアへ。

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 さて、これから雨の川越のメインストリートを歩くのですが、それは次回。

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青梅の三古城 ウォーキングストーリー with 出版にまつわるエトセトラ

 こんばんは、ご無沙汰いたしておりまする。

 ちょー、忙しくて、なかなか更新できませぬ。

 でも、ここで途切れたら、一生更新ができなさそうなので、頑張ります。

 忙しいのは、懸案となっております、出版の件。それと、お役所から依頼された委員会の議案、その他モロモロ。

 出版もようやく、本文の原稿を書き上げたと思ったら、そこからがまた長かった。

 今回の本は、見開き半ページがイラスト満載の図版になるのですよ。

 イラストの解説文、重要用語の解説文、各章ごとの扉の文章まで書き上げてようやくほっとしたら、文字数を間違えて、全部文字を削らなければならなくなってしまいましたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~

 それでも、なんとか目処が立ったと思ったら、各章の終わりにコラムを9本も書かないといけなくて…。

 でも、ようやくゴールが見えてきたので、ロス五輪のマラソンで感動のゴールを果たしたアンデルセン選手を見習って頑張ろうと思いました。

 …ということで、お散歩ネタ。

 なぜ、忙しいのにこんなに長く書けるのかと疑われそうですが、以前、書いてあった文章があったのですね~。

 

 何気に図書館の本を物色していて、また面白い本を見つけました。

 それは…。

城巡礼 諸行無常東京48カ所めぐり
出版社:東京地図出版 (株)



 面白いといっても、城好きでなかったらたぶん、手に取る人はいないだろうと思いますが…。

 最近の本は、書店で目立つように、赤とか、黄色とか、ピンクとか、けばい色が多いような気がします。

 なのに、この本の表紙は黒が基調。

 本の内容のわりに薄い本なので、図書館の「お散歩の本」コーナーに埋没してほとんど目立たなかったのです。

 しかも、「城巡礼 諸行無常東京48カ所めぐり」のいうタイトルが、なんとも鄙びた地味なイメージがしました。

 内容は素晴らしいのだから、たとえば…。

「女子高生の聖地・渋谷に城があったってホント?」とか、「女子大生混浴露天プロ連続城跡殺人事件」みたいなネーミングにすれば、もっと注目を集めるのではないか。

 もっとも、内容が城跡ですから、やっぱり城好きだけが手に取ればいいわけで…。

 タイトルはともかく、東京の城跡にしぼって、専門的な解説を加えているところがグー。

 見る人が見れば、東京にもかなり城があったのですね~。

 たとえば、港区虎ノ門は起伏のある土地ですが、やはり城があったらしい。

 世田谷城や渋谷城は知っていましたが、この本で読んではじめてその存在に気づいた城も少なからずありました。

 この本を読んでいて、青梅のあたりに、まだ訪れていない城がいくつかあることに気づいたんですよ。

 しかも、写真で見る限り、かなり遺構がしっかり残っているみたい。

 青梅といえば、何度か訪れた場所。地図で見る限り、その100メートル近くまで接近していながらスルーしてしまった城跡があったのでした。

 これはリベンジを果たさなければならない、と、花粉が飛び交っていた2月末、まだ見ぬ東京の古城探検に出かけたのです。(← 古いネタですいません…)

 スタートは八高線の金子駅ですな。

 立川から八高線に乗って駅で降りたら、なんと小宮駅でしたぁぁぁぁ~

 一度も来たことがない駅なのに、なんか前に来たことがある駅だと思ったら

 なんと、立川で逆方向へ向かってしまったのでした。しかも、降りて駅前を歩き出すまで気がつかないとは…トホホ

 せっかく、立川まで最安ルートで入ったのに。

 花粉症で頭の中が相当いかれていたのですな。

 再度、金子駅に向かい、今度は地図にそって霞川沿いの道を歩きます。

 「城巡礼 諸行無常東京48カ所めぐり」を見ると、行き方についての詳しい記述があるので、今度は迷わず、最初の目的地「今井城」へと到着しました。

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 住宅地の中に、忽然と土塁が現れるのはおお~と思いますね。

 もっとも、今井城からしたら、勝手に周りに住宅が建ち並んだ、ということなのでしょうけど。

 城跡の広さは、約8,500平方メートルというからそれほど広くはない。城というより館のイメージでしょうか。

 今井城は鎌倉時代の武将、今井四郎左衛門経家の子孫が代々居城としていたそうな。

 発掘調査の結果からも、室町から戦国時代の中世城郭のあとだと解説板には書かれていました。

 館と書きましたが、その縄張りや高くて広い幅を持つ空堀は、十分城ファンをうならせる規模です。

 土塁の一番高い部分に上ると、当時の城の様子がイメージできます。どこにどんな建物があって、どんな人たちが住んでいたのだろうと考えるのが城跡ウォッチングの醍醐味のひとつ。

 郭と郭をつなぐ土橋の跡なんかもあったりして、住宅地のなかにこれだけの城跡が残っているのは驚きでした。

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 しかも、草刈りが頻繁に行われているようで、くまなく歩き回ることができるのもグッドですな。

 ただ、入口がわかりづらいことや解説板も古いものしかなかったので、そちらも整備してほしいと思いました。

 近くの民家の犬にワンワン吠えられて、逃げるように今井城を後にし、次の目的地藤橋城へ向かいます。

 台地をくだって、ふたたび霞川のほとりを歩きます。

 このあたりは田んぼが広がり、奥多摩の稜線がかすんで見えました。

 その田園風景の中に、島のように樹木の茂る高台が藤橋城。

 今井城から20分くらい歩いただけで、別の城にたどりつけるのだから驚きです。

 青梅は、城銀座とも呼べるのではないか。

 もっとも、興味のない人だったら、藤橋城址は何の変哲もない普通の公園ですが…。

 公園化されていて、樹木や遊具などもありますが、よく見ると植え込みの下に立派な土塁も確認できました。

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 藤橋城は、築城の時期や作った人が誰だかわからないらしい。ただ、平山重吉という武将が城主だったそうですね。

 そういえば八王子のほうには、京王線の駅に平山城址公園という駅もありました。

 平山重吉の藤橋城も、滝山城主であった北条氏照の攻撃を受けて落城したそうです。

 当時の城がどの程度の規模だったのかわかりませんが、滝山城址の壮大な規模に比べたら、この城の規模はあまりにも小さい。

 攻められたらひとたまりもなかったのでしょうね。

 田んぼの中の道を通って、次の目的地へ向かったのですが、後ろを振り返ると、土塁がいい感じで周囲の景色にマッチしています。

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 何度も後ろを振り返りながら、歩きました。

 次はいよいよ、本日のメインディッシュの勝沼城へ向かうのですが、その前に以前訪れたことのある塩船観音寺にふたたびお参りすることにします。

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 このお寺は、なんと大化の改新で有名な大化年間にはじまるのだとか。

 仁王門は、寿永三年(1187)の建立で重要文化財なのですね~。

 茅葺の本堂も重要文化財。こちらは室町時代に作られたのですか。

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 屋根の曲線が美しい。

 ところで、塩船観音寺といえば有名なのは、つつじ。

 行った日は二月の終りだったのでつつじの時期ではなかったですが、本堂から祈願堂へ向かうと、境内の周囲がぐるりとすり鉢状の斜面に囲まれているのがわかります。

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 なんと、この広大な斜面につつじが植えられているのですね~。現在、境内には約1万7千株のつつじが植えられているのだとか。

 ちなみに、新東京百景にも選定されているそうですね。

 塩船というネーミングは、周囲の地形が小丘に囲まれ、あたかも小船のような形状であることから名づけられたらしい。

 天平年間に僧、行基が『塩舟』と名づけたそうな。

 つつじは咲いていませんでしたが、緑の斜面だけでも絶景です。

 丘の上に上ると、広い境内を見渡すことができました。

 ここにつつじが咲き乱れたらすごいでしょうね。

 塩船観音寺を後にし、勝沼城を目指します。

 数年前に青梅を訪れたとき、この近くにも来ているのですが、この近くにこんなにたくさん城があるとは気づきませんでした。
 
 そういえば、前回青梅の塩船観音寺へ来たときはこの城の真下を通ったのでした。


 ガイドブックに載っていなかったのですが、当時はこんな見ごたえのある城を見落としていたのですからね。

 こんな優れものの城跡があったのに、天下の有名出版社のガイドブックがスルーするなんて…信じられない…。

 それはともかく勝沼城も、築城の時期やだれが作ったか不明らしい。しかし、鎌倉時代の末期以降は幕府の御家人だった三田氏が城主を務めていたそうな。

 今井城同様、ここも入口がよくわかりませぬ。

 今は、妙光院と光明寺というお寺の裏山にあると言うことを聞いていたので、妙光院の左手の小道から登ります。

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 今は広い墓地になっている土地は、形状から見ると当時の郭の跡みたい。

 死んだあと、城跡に葬られたら城ヲタクとしては本望だと思いながら、道を歩きます。

 土塁や空堀もしっかり残っているし、本丸とおぼしき場所からの眺めもまずまず。

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 それにしても、これだけの城跡がそっくり残っていながら、あまり整備されていないのは仕方ないとしても、解説板もほとんどないのはいただけませぬ。

 城は、当時の人たちのアイデンティティーを象徴するものであったはずですし、今も地域の財産として、心の拠り所であってもしかるべきだと思うのですが…。

 その理由を知るためには、やはり城跡の登記簿謄本をとってもみないとわからなかったりして…。

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新型インフルエンザと鎖国の微妙な関係 with 瑞江~古川親水公園 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 新型インフルエンザの感染が少しずつ拡大していますね。

 いよいよ関東にもやってきたか、という感じです。 

 オイラは、新型インフルエンザの専門家ではないのでよくわかりませんが、江戸時代の鎖国でもしない限り、感染は避けられなかったのでしょう。

 病気についての本を書いていますが、歴史のほうにも興味があるので、インフルエンザの歴史を少し調べてみたんですよ。

 鎖国政策がとられた江戸時代にも、インフルエンザの流行があったのかどうか、と…。

 酒井シヅ著 「病が語る日本史」(講談社学術文庫)によると、江戸時代初期の1614年にインフルエンザの大流行があったらしい。

 ところが、それから百年間、インフルエンザの大流行の記録は残っていないそうです。

 明以外の船の入港を長崎・平戸に限定したのが1616年。鎖国は、一気に行われたのではなく、少しずつ体制が強化され、寛永の家光の時代に完成したそうですね。

 鎖国政策がとられてからパッタリ百年間も、インフルエンザの大流行がなかったなんて、やっぱり…という感じがしました。

 ところが、その後も鎖国下の日本でしたが、八代将軍吉宗の享保年間に、インフルエンザの大流行が起きてしまった。

 江戸の町では、夏の一ヶ月で死者がなんと八万人。

 棺おけが間に合わず、酒樽に亡骸を入れてお寺に運んだそうな。

 百年間もインフルエンザの流行がなかったそうですから、おそらく当時の日本人は免疫を持っていなかったのでしょう。

 ちょうどその頃、アメリカやヨーロッパ諸国でもインフルエンザが大流行していた記録が残っているそうです。

 島国であり、鎖国をしていた日本なのに、いったいどこからインフルエンザがもたらされたかというと、当時でもたった一箇所世界に開いていた場所があったのでした。

 それはご存知、長崎の出島。
 
 興味深いのは、長崎で流行してから江戸で流行するまで、3年のタイムラグがあったということ。

 当時の交通事情もあったのでしょうけど、現代では考えられませぬ。

 それにしても、今から300年も前の鎖国下の日本でも、インフルエンザが猛威を振るったというのは驚きです。

 300年前の長崎と今回の神戸、どちらも日本屈指の国際都市という共通点はありますな。

 いずれ、まわりでも感染する人が増えると思いますが、被害はまさか300年前とは違うでしょう。でも、弱毒だからと油断することなく、しっかり予防や感染防止の知識を持たねば、と思いました。

 
 免疫力を高めるにはまず体力…ということで、お散歩ネタ。

 インフルエンザの「イ」の字もなかった頃に出かけたので、写真の季節感に若干違和感がありますがご容赦ください。

 今回、都営地下鉄全線が500円で乗り放題のワンデーパスを使って行ったのは、江戸川区。

 都営地下鉄新宿線の瑞江から船堀をめぐるコースです。
 
 近くに、旧江戸川や新中川がとうとうと流れ、趣向をこらした親水公園もあって、なかなか変化に富んだウォーキングが楽しめそう。

 しかも、神社仏閣や江戸時代の長屋門もあるとか。

 もちろん、何度か訪れたことのある場所ばかりですが、初めて見るところもいくつかありそうなので行ってみることにしました。

 ウォーキングのスタートは瑞江駅。

 駅前はスーパーや商店が並ぶ、どこにでもある景色ですが、とびきり古い建物はないみたい。

 新宿線が開通したのは昭和61年で、そこから商業・住宅地として急速に発展したのですな。

 そう古くない時代は、水田や金魚の養殖池が広がるのどかな農村風景が広がっていたそうですね。

 瑞江駅前の雑踏を抜け、まず向かったのは豊田神社。

 それほど大きな神社ではありませんが、境内には大正時代に作られた富士塚がありました。

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 あまりモノホンの富士山には似ていませんけど、モノホンの溶岩を積み上げ、裏側には富士山の大沢崩れの跡を模すなど手が込んだ作りになっています。

 このコースには、ほかにも富士塚のある神社がいくつかあって、当時の富士講の流行が偲ばれました。

 豊田神社から住宅街の中をテクテク歩き、向かったのは明福寺。

 ここはオイラの家の宗派である浄土真宗の開祖、親鸞聖人ゆかりのお寺らしい。

 親鸞聖人は関東から上洛の途中、この地で請われて雨乞いをしてその後ここに草庵を作り3年間も住まわれたとのこと。

 本堂裏の墓所の前にある鏡が池は、親鸞聖人が自身の姿を水面に映して像を彫ったという伝説が残されています。

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 そして、境内には太子堂と親鸞堂などが建ち、太子堂には聖徳太子の自作と伝えられる聖徳太子立像、親鸞堂には親鸞の自作とされる親鸞聖人坐像が安置されているとのことでした。

 一見すると普通の小さな池ですけど、そんなに古くからここにあるのですね。

 明福寺の裏手はすぐ旧江戸川になっていて、川沿いの遊歩道からの眺めはなかなか。

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 ヨットハーバーみたいな施設もあって、湘南気分も味わえそう。

 旧江戸川と新中川の合流地点の近くにあるのが、今井児童交通公園。

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 ここは、レンタルのゴーカートや自転車に乗り、楽しみながら交通道徳を身につけられるのですね~。

 信号を備えた車道と歩道が作られてあって、子供たちが交通ルールを守りながら自転車をこいでいます。

 料金表示がどこにもないから無料かも。

 二人乗りで、ペダルをこぎながらモノレールのように場内を一周できるサイクルモノレールは楽しそう。

 行った日は新年だったので、ボランティアの係員の人たちのほうが子供たちより多い状態。

 並ばないで、しかも無料で、遊園地にあるような施設を楽しめるのだから、これはこの近くに住む人の特権かも。

 巨大な今井水門を眺めながら瑞穂大橋を渡り、住宅街をしばらく行くと宇田川家長屋門がありました。

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 この長屋門は、江戸時代後期に作られたらしい。

 宇田川家は、旧二之江村の村役人を代々勤めた旧家だそうですね。ご先祖は、後北条氏の家臣で、この地域の開拓者でもあるのだとか。

 少し、右側の屋根が高くなっているのが気になりましたけど、茅葺のまま現在まで残っているのは珍しい。

 元武士の豪農であり、この地域のパイオニアとしての威厳が感じられました。
 
 長屋門のすぐそばから延びているのが、古川親水公園。

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 旧古川の流れをそのまま公園にしたもので、国内の親水公園の第1号にもなった由緒ある公園なのですね~。

 今は全国に親水公園というネーミングのついた公園がありますけど、それらのお手本になったのですか。

 お手本だけあって、たんなる水の流れだけにとどまらない趣向を凝らした仕掛けが面白かったです。

 ちなみに、全長は1.2キロ。

 古川は、江戸川を下る水路として古くから使われていたようで、江戸時代は行徳の塩を江戸へ運ぶ重要な水路だったらしい。

 川のせせらぎ沿いの遊歩道をテクテク歩いて向かったのは、妙勝寺。

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 区内でもっとも古い寺院だそうですね。

 解説板には、鎌倉時代に近くの葛西沖に難船が漂着し、残されていた童子を二之江村の漁師五郎という者が救いあげたという話が書かれていました。時に、1248年。

 その童子は平家の出身で、後に僧になってこの近くに草庵を結んだらしい。これが妙勝寺の始まりだそうですね。

 鎌倉幕府が作られて50年以上もたってから、どうして平家の少年が船に乗って、どこへ行こうとしていたのだろうと考えると夜も眠れなくなりそう。

 鎌倉幕府も安定して、平家の出身といっても、大手を振るって生きてゆける世の中になっていたのでしょうかね。

 妙勝寺の前には、巨大な岩のオブジェから怒涛の如く水があふれています。

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 このあたりの親水公園は見どころが満載。

 昔、長崎で見たメガネ橋のような橋がありました。

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 しばらく行くと、ミニ吊橋にミニトンネル。

 こちらは親水と藤棚のコラボっすか。

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 水辺のプチ景観を楽しみながら歩き、着いたのが妙光寺。

 境内の七面殿には、葛西沖で漁師の網にかかって行き上げられた「海中出現七面大明神」が祭られているらしい。

 このあたりを歩いて海をイメージするものはあまりないですが、江戸時代はもっと海が近くにあって、近隣の人たちは海のそばの暮らしをしていたのでしょうか。

 古川親水公園に別れをつげ、商店が立ち並ぶ陣屋橋通りをテクテク歩いて今度は一之江境川親水公園へと入ります。

 こちらは平成7年に完成したまだ新しい親水公園。

 何度か来たことがあったと思いましたが、よく覚えていないっす。3.2キロもあるのですね。

 少しあるいて日枝神社に。

 ここにも富士塚がありました。それほど高くなく、登りやすそうですけど入口にローブが張ってありました。

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 そして最後に向かったのが、タワーホール船堀。

 ここは江戸川区の複合文化施設で、ホールや映画館、レストランなどがあります。

 …といっても、オイラが注目するのは、高さ115メートルの展望台。

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 今やタワーとしてはそれほど高くありませんが、まわりに高い建物がほとんどありませんからね。

 都心の115メートルとはわけが違いまする。

 前に一度来たことがあり、その360度の大パノラマは一見の価値ありでした。

 しかも、確か無料だったような。

 …と喜び勇んで行こうとしたら、休館日でした。

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不思議な家と写真にまつわるエトセトラ

 こんにちは。
 
 またまたご無沙汰いたしてしまいました。連休はいかがお過ごしですか?


 前回のネタはお花見かと思ったら、もう初夏のような日差しが降り注ぐ今日この頃になってしまったのですね~。

 日本桜の名所100選に選ばれた茂原公園の桜は素晴らしかったです。

 でもよく考えてみたら、オイラの家の近所にもなかなかの桜の名所があるんですよ。

 小学生の頃は、川が流れていた場所ですが、今は暗渠になって普通の道路になっているのです。

 今では、ここが昔、川だったということを知らない人のほうが多いかも。

 その通り沿いに、桜が数百メートルにわたって植えられているのですね~。

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 家から事務所までは30分くらい歩くのですが、毎年、桜のシーズンは、必ずこの道を歩いて通勤しておりまする。

 若干、遠回りになりますけど、桜の魅力には抗えない。

 お気に入りの100円の自販機でコーヒーを飲みながら、公園のベンチに座って桜を眺めるのは至福のひとときです。

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 桜の名所は世の中に数えきれないほどありますが、やはり場所より開花の時期のほうが重要かもしれませんね。

 そのあと、花粉の禁断症状が現れて大変なことになるのですが…。

 
 それはともかく、この通り沿いに前から気になっている家があったんですよ。

 過去形なのは、最近取り壊されてしまったから。

 いずれその家の秘密について、誰かに聴いてみたいと思っていたのですが、永遠の謎?になってしまいました。

 それは、この家…。

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 どこにでもある普通の家なのですが、なぜ二階に扉だけあるの?

 ま、普通は、昔、二階へ通じる階段があって、その階段だけ撤去され、扉だけ残ったと考えるでしょうね。

 オイラもそう考えたのですが、階段があったという痕跡がない。

 あるいは、前はもっと大きい家だったのだけれども、半分取り壊すなど改築したとき、二階の扉だけ何らかの理由で残ったとか。

 でも、改築した痕跡もない。

 写真で見てもわかると思いますが、隣の家はもっと古いですし、ふたつの家の間はほとんどスペースがないんですよ。

 もしかして、非常口?

 普段から、扉がもし簡単に開いたら、寝ぼけて落ちる人とかいないのだろうか。

 謎の扉の理由をいろいろ考えると、眠れなくなりそう。

 
 不思議といえば、オイラが子供の頃に見た写真が、数十年前からずっと、心の片隅に引っかかって取れないのです。

 当時のことはあまりよく覚えていないのですが、その写真だけは今でも鮮明に記憶に残っている。

 不思議というより、怪奇といったほうがいいかもしれませんが…。

 それはオイラが小学校の4年生か5年生の頃。

 当時は、学校が終わると、狭い道路で友達と三角ベースの野球をするのが日課でした。

 三角ベースの野球も一区切りつき、オイラは行きつけの駄菓子やで、合成甘味料と合成着色料満載のすももを頬張っていたのです。

 そのとき、クラスメートのT君と隣のクラスのH君が駄菓子やの前を通りかかりました。

 いつもは明るく元気な二人ですが、今日はいつもと様子が違う…。

 二人とも目の焦点があっていないと言いますか、足取りもふらふらしている。

 どうしたのかな、と思っていたら、二人がオイラに気づいて近寄ってきました。

「ビジベン。これ見ろよ」

 二人は一枚の写真をオイラに見せました。

「えっ?何?」

 それは、日光の「華厳の滝」のスナップ写真。

 以前、オイラが家族旅行で日光へ行ったとき買った絵葉書の構図とほとんど同じです。

 おそらく、彼らも家族旅行で日光へ行ったとき、撮った写真の一枚なのでしょう。

 綺麗に撮れていましたが、よくある構図ですし、別に騒ぐほどのこともないのではないか。

 そう思って、オイラが首をひねりながら眺めていると、H君が「ここを見ろよ」と写真の一点を指差しました。

 それは、華厳の滝の滝つぼから少し上の辺り。

 轟音を響かせながら、圧倒的な水量が滝つぼの水面を打ち、水しぶきが霧のように立ちこめている部分です。

 オイラが、そこを見たとたん、一瞬で凍りつき…。そして、背筋に鳥肌がゾワワワワ~と立つのがわかりました。

 小さいのでよく見ないと見逃してしまうような部分でしたが、そこにはくっきりと女性のシルエットが…。

 髪の長い若い女性だというのがわかります。見えているのは、女性の上半身だけで、下半身は水しぶきの中に溶け込んでいるよう。

 オイラが一瞬で鳥肌が立ったのは、そのポーズでした。髪を振り乱し、のけぞる姿勢で、救いを求めるように片手を上に伸ばしている。

 断末魔の叫びをあげながら苦しんでいるのがわかります。

 水しぶきのシルエットだけで、そんな細かな部分までわかるか、と突っ込みを入れたくなるのはごもっともですし、これが逆の立場だったら、眉につばをつけたくなるでしょうね。

 でも、ホント、おそらく等身大の大きさでありながら、ありえないくらい鮮明に、滝つぼの上空に浮かんでいるのです。

 オイラは、この写真を見て、次の言葉が出てきませんでした。

 二人は、呆然と立ち尽くすオイラを残し、またふらふらとした足取りで別のクラスメートに写真を見せています。

 得意になって見せているというより、この恐怖を共有したいと思っているかのように…。

 その後、H君に、あの写真もう一回見せて、という友人はいたようですが、二度と見せることはなかったようです。

 何でも、勝手に写真を持ち出したということで、家の人からこっぴどく怒られたみたい。その後、彼の父親がどこかへ写真を持っていってしまったとH君が話していたのを覚えています。

 あれから何十年も立ちますが、今でもあの写真を思い出すと背筋が寒くなりますね。

 皆様の中にはきっと、たまたま水煙が女性の形になったと思われる人が少なくないでしょう。

 でも、絶対、あれは水煙ではないと、今でもオイラは断言できます。

 ネス湖のネッシーの写真みたいにぼやけていないし、若い女性の完璧なシルエット。振り乱す髪の毛、指の形まで鮮明でした。

 ただ、トリック写真に関しては、可能性がまったくないとは言えないかも。

 でも、デジタル写真全盛の現代ならともかく、昭和40年代前半のアナログ時代に、あれほど見事なトリック写真が作れたかどうか。

 水煙の粒子と女性のシルエットが完璧に一体化しているんですよ。ひとかけらの不自然さもなく…。

 もし、トリック写真だったとして、子供たちしか見ていない写真のために、何のメリットがあって作ったのかという疑問も残ります。

 それ以降、完全に闇の中に消えてしまったのですから。

 お金と時間を費やして作ったのなら、多くの人に見せたいと思うのは人情だと思うし…。

 
 今、ネットで「華厳の滝 心霊写真」のキーワードで検索すると、すごい数のページがヒットしますね。

 やはり、あの不思議な写真は心霊写真だったのでしょうか。

 当時、あの写真を見た瞬間、この女性は華厳の滝で自殺した女性だという気がしました。

 とくに理由はなく、頭の中で閃いたと言いますか。

 あの苦しんでいるポーズを見ると、やはり自殺はやめたほうがいいのかも。


 それ以降、オイラは霊感がないのか、同じような経験は一度もありません。

 でもああいう写真を見てしまうと、死後の世界がまったくないとは言い切れないですな。

 やっぱり、何もないよりは死後の世界はあったほうがいいと思います。

 真っ暗で静寂な「無」の世界だったら寂しいし…。

 でも、舌を抜かれたり、釜茹でになったりするのも嫌ですが。


 さて、皆さんは、死後の世界やオイラの写真の話を信じますか?

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日本桜の名所100選・茂原 ウォーキングストーリー

 こんばんは。

 さて、、今回行ったのは千葉県の茂原市。

 太平洋に近く、温暖で自然がいっぱいのところなのだとか。

 茂原へ行こうと思ったのは、まだ一度も訪れていない町だからというのが一番の理由です。

 でも、行くんだったら春がいいみたいですよ。

 …というのは、日本桜の名所100選にも選ばれた茂原公園があるからなのですね~。

 ネットで調べたら、ちょうど、「桜まつり」も開催されているそうなので一か月ぶりにお散歩に行くことにしました。

 ついでに桜の名所100選について、ネットで調べてみたんですよ。

 さすがに、弘前公園や吉野の桜など、日本が世界に誇る桜の名所がランクインしていました。

 ちなみに、東京都内の桜の名所は、以下の五つ。

東京上野公園
新宿御苑
隅田公園
小金井公園
井の頭公園

 わりと人生を長く生きているから、これらの公園全部、桜が満開の時期に行ったことがあります。いずれ劣らぬ、ゴージャスな桜の名所であることは間違いありませぬ。

 これらと同じ土俵に選出された、茂原公園とはどんなところか、期待が膨らみます。

 JR茂原駅の南口を出て、地図に従って茂原公園を目指して歩きます。駅から徒歩で30分ほどかかるのですね。

 歩きながら、そういえば茂原って、オイラの学生時代の知り合いに関係している場所だったと思いだしました。

 大学生になったとき、一年間ほどアパートを借りて住んだことがあったのですよ。

 隣の部屋に入ったのが、同じ大学の同級生。

 だけど、三浪の人だったので、みんなは「先輩」と呼んでいました。

 その人がすごいプレイボーイ(今や死語?)で、毎月、彼女を変えているのです。毎晩遊び歩いているのだから、夜も遅くならないと帰ってこない。

 アパートの部屋の前で、いつも「先輩」の帰りを毎晩待っている女性がいました。冷たい板敷の廊下に座り込んで、文庫本を読んでいるのです。

 「先輩」は、彼女とは別れたと言っていたのに、彼女のほうでは別れたという認識はないみたい。

 一週間も毎日通ってくるので、気の毒になったオイラは、やっぱり同じアパートに住んでいた別の同級生と一緒に、廊下に座り込んで身の上話をいろいろ聞きました。

 聞いてみたら、100パーセント「先輩」が悪いので、同級生と二人で腹を立てたのです。実はその女性が住んでいたのが茂原でした。

 こんな遠いところから、毎日通っていたのですな。

 当時の彼女の苦労を思い出し、少し重たい気分で商店街を歩きます。

 ある商店の店頭を何気に見ると、おお、これはクワっすか。

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 まわりに畑がないのに、クワや竹かごを売っている店があるのですね。

 通り沿いには、古い家もところどころにあってうれしくなります。

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 しばらく歩くと川にぶつかりました。市内の中央を流れる豊田川らしい。

 水辺の緑と近代的な建物がいい味を出していますな。

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 東京は、ビルには不自由していませんが、こういう緑あふれる川は意外と少ないかも。

 ただ一つ目立つ高層ビルは、市役所の庁舎でした。市内のどこからでも見られるのはいい目印ではあるのですが、いつもお役人に見下ろされているのもどうか、と…。

 市役所の近くにあるのが、藻原寺。

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 藻原寺は、そうげんじと読み、「茂原市」の市名の由来にもなったお寺らしい。さすがに、「そうげんし」とはならなかったのですな。

 日蓮聖人が、お題目初唱をした霊場として知られる日蓮宗の名刹なのですね。

 このお寺のシンボルとなっているのが、山門。

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 竜宮城を思わせる多宝塔式の山門で、高さが24メートルもあるのだとか。

 境内にも桜が植えられて、思わず足を止めて見とれてしまいます。

 古い木造建築と桜のコラボは、日本人のDNAを刺激して郷愁をそそられますな。

 藻原寺の境内では骨董市が開かれ、古い彫刻やら、古い時計やら、着物や洋服やら、ゆっくり眺めました。

 歴史好きだけど、骨董にはそれほど興味がないオイラが注目したのは、古い雑誌。

 おお、30年くらい前のプロレス雑誌じゃ~!!!

 ドリーファンク・ジュニア、バーン・ガニア、ジン・キニスキー、ペドロ・モラレスなどそうそうたるプロレスラーが表紙を飾っている。

 今日訪れた人たちで、これらのレスラーの名前を全部言えるのはオイラだけかも。

 よっぽど買おうかと思ったのですが、うちの押入れを探せばあるかも、と思って眺めるだけにしました。

 目指す茂原公園は、藻原寺の裏に広がっているみたい。楽しみはあとでと、先に鷲山寺にお参りします。

 藻原寺と違って、こちらのお寺は訪れる人もなく静かな佇まいでした。

 境内で目に付いたのは、「元禄津波供養塔」。

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 徳川綱吉の元禄時代に、地震による大津波によって太平洋に面する九十九里や白子の人たちが津波によって大勢亡くなったらしい。その供養塔なのですな。

 現代も、首都直下型の地震は来るのでしょうね。

 そのときは、家に押しつぶされて危ういだろうと思いつつ、それなら、今のうちに桜を眺めておこうと足を速め、茂原公園へ向かいました。

 茂原公園は、昭和初期に開設され、さくらはソメイヨシノなど約2,850本が植えられているとか。

 行った日は、六分から七分咲き程度でしょうか。

 満開の一歩手前で、園内が桜であふれかえっているという雰囲気ではなかったです。でも休日だったので、桜を見に大勢の人たちが集まっていました。

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 この公園の特徴的な風景は、池と赤い弁財天の建物と橋、そして桜のコラボでしょうか。

 この池は、弁天池といって、もともとは用水池として作られたらしい。約16万平方メートルの敷地内には、桜のほか、ツツジやシダ等も植えられているそうですね。

 池と赤い歴史のある建物、そして桜のピンクは色彩的にも相性は抜群。

 それほど桜の本数は多くないようですが、その見事なコラボが桜の名所100選の理由なのではないか、と…。

 ホントは、もう少し満開の桜が見たかったのだけれど…。

 それでも芝生の広がる野外ステージでは、バンドや太鼓演奏、踊りなどのイベントが開催され盛り上がっていました。

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 そして、茂原公園の奥にあるのが、茂原市立美術館・郷土資料館

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 平成6年10月に開館したそうですが、ここは「美術館」と「郷土資料館」がコラボで見られるのがうれしい。公園で桜を眺めながら、気軽に芸術と文化の両方に親しめるのですね。

 まさに、一粒で二度おいしい状態。

 しかも、無料っす。

 行った日は、美術館では、郷土ゆかりの作家を中心とした作品。郷土資料館では、茂原市のおもに稲作における歴史資料が展示されていました。

 もう少し、茂原市の歴史背景が知りたいと思いましたが、無料ですから注文はあまりつけられませぬ。

 美術館と郷土資料館を堪能したあとは、茂原公園内を、桜を眺めながらそぞろ歩きします。

 茂原公園の展望台に上ると、公園内はおろか市内も一望できました。

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 この見晴らしと丘の急斜面、そして広い池、城好きとしては、ここに城を築きたくなりますな。

 …と思って帰ってからネットで検索してみたんですよ。

 そしたらなんと、ここは藻原城の城跡でもあるらしい。公園内には何も表示がなかったのですけどね。

 戦国時代の城ではなく、鎌倉時代の居館みたいですが、現在、藻原寺の建つところに建物があったそうな。

 オイラが土塁かと思った部分も、その可能性があるとのこと。現在の弁天池も水掘の名残かも、と…。

 今も昔も、城好きにとって、城を築きたくなる土地は同じなのかも。

 時間があったので、桜がきれいだという豊田川のほとりを歩き、船着神社というところへ行ってみることにしました。

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 日差しが強く、紫外線の攻撃をモロに受けつつ、川沿いの遊歩道をひたすら歩きます。

 地図を見ながら歩いたのですが、行けども行けども、目的地に到着しない。

 もう限界っす、とあきらめて撤退を余儀なくされる羽目になったのです。

 オイラが、ウォーキングマップのコースを予定通り歩けないなんて…。

 気づかないうちに、足腰が弱くなっているのだろうか。

 とうとう、老いがオイラにも訪れたのかな、とブルーな気分になってトボトボ国道沿いの帰り道を歩きました。

 かなり歩いたと思ったとき、行く予定だった船着神社が目の前に。

 ものすごいスピードで歩いていたから、気づかないで通り過ぎてしまったのですね。

 こんな小さな社だとは思わず…。

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 あとで調べたら、正規のコースより4キロも余分に歩いていたのでした。

 足腰が弱っていたわけではなかったのですね~。

 それにしても、注意力が散漫なのは花粉症のせい?

 足腰より、脳みそのほうが心配な、今日この頃でした。

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出版決定しました~! with 八王子・多摩御陵 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 大変ご無沙汰致してしまいました。

 一ヶ月以上も更新しなかったのは、ブログ始まって以来の最長無更新記録。

 3月は、ちょっと半端じゃないくらい忙しかったのです。

 いつもは昼間に仕事をして、その合間や夜にネットアンケートなどの副業をしていたのですが、先月は、これに出版の原稿執筆作業が加わってしまったのですね~

 原稿の締め切りがあったので、3月は一日も休めずに、土日はずっと仕事状態。毎日原稿を書きまくっていて、さすがにブログを書く精神的なゆとりがなかったといいますか。

 でも、おかげさまで4月になってようやく、執筆作業に一区切りをつけることができました。 

 これから、リハビリをかねて、少しずつプログも復活していきたいのだけれど…さて、どうなりますか。

 今度出版される本に関しては、またブログの中で少しずつご報告させていただければ、と思います。

 …ということで、約二ヶ月ぶりのお散歩ネタ。


 突然ですが、昭和天皇のお墓がどこにあるか、ご存知でしょうか。

 この質問を渋谷か新宿の路上でしたら、どういう答えが返ってくるでしょうね。

 ちゃんと答えられる人はそれほど多くはないかも。

 …というのは、オイラの周りの人たちに聞いてみたら、答えられる人が半分もいなかったのですよ。

 京都ではないかという人がいたり、皇居だという人がいたり、明治神宮の中にあるという人もいたり…。

 もっとも、オイラも、以前お参りに行ったことがあるから知っているだけで、テレビや新聞、雑誌で見た記憶はないのですが。

 答えは、東京八王子。正式には武蔵陵墓地というらしい。

 父の葬儀や納骨をしているうちに、なぜか昭和天皇の墓にもお参りをしたくなったので、八王子近くのお散歩をかねて伺うことにしたのです。

 最寄の駅は、高尾駅。

 JRと京王電鉄が乗り入れているのですが、料金が安いので例によって京王線を利用します。 

 高尾駅を出て、まず向かったのは、多摩森林学園。

 ネーミングを見ると、林業科の学校というイメージですが、いわゆる学校ではないみたい。独立行政法人森林研究所の研究施設なのですね。

 明治時代は宮内省の林業試験場だったそうですな。近くに、大正天皇の陵墓が築かれたのはその関連もあったのかもしれません。

 ここの目玉は、園内の桜保存林だとか。

 なんでも、日本全国各地からさまざまな桜が集められ、その遺伝子を保存するための「クローン」を植えているのだとか。

 行った日は、冬でしたから当然桜の花は見られません。でも、整備された園内をめぐり、桜の咲いている頃をイメージしようか、と…。

 ところが入口近くまで行ってみると、以下の張り紙が…。
 
『 2008年8月末の豪雨により園内各所に土砂崩れが発生したため、ただいま休園しております。
 皆様には大変ご迷惑をおかけし、お詫び申し上げます。
 2009年3月24日(火)には再開することを目指して復旧工事に取り組んでいるところです。』

 がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~ん、休園っすか。

 ガックリきたと同時に、これで入園料300円が浮いたというせこいことを考えるオイラがいたのでした。


 実際行ったのは去年だったので、現在はもう開園していると思いますよ。

 でも、近くの杉林からの花粉の密度を考えると、とても、今また改めて出かける気になりませぬ。
 
 ところでこの辺りは、400年以上前に、武田信玄の武将・小山田信茂と滝山城主・北條氏照の重臣・横地監物らとが一大血戦を行なったところだそうですね。

 近くに、廿里古戦場(とどりこせんじょう)の解説板がありました。

 廿里山に陣を張って待ち伏せた小山田勢とそこへ押し寄せた北條氏照の重臣・横地監物らが現在の長房町付近の平地で激闘を演じたとか。

 確かに、丘陵を背負った平地はいかにも戦場になりそうな場所。

 この戦いで北条方は散々に敗れ散ったらしい。

 この敗戦を契機に、滝山城からより奥深い山の中の八王子城が築かれることになったそうですね。

 今まで行った場所が頭の中でフラッシュバックし、ストーリーを伴ってつながる瞬間がお散歩の醍醐味っす。

 南浅川まで戻り、下流に向かって歩くと陵南公園に着きました。

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 ここは、東京オリンピックのときに自転車競技場として使用された場所だそうな。

 今は野球場や日本庭園、林の広場になっていますが、オリンピック当時はどうなっていたのでしょうね。

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 ちょっと想像ができませぬ。

 公園のエントランス部分は、甲州街道から南浅川橋を渡って伸びる武蔵野陵墓地の参道に接しているのですな。

 オイラはその参道を歩いて、武蔵野陵墓地へ参拝します。

 ケヤキ並木の広い通りですが、車の通行もほとんどなく深閑とした雰囲気。

 やがて、広い広場が現れ、北山杉の並木が続く参道を望むことができました。

 オイラはおごそかな気分で、玉砂利を踏みながら進みます。

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 参道はよく整備されていて、塵一つ落ちていない。

 歩いているうちに、だんだん背筋が伸びてゆくような感じですね。

 周囲は、昔、伊勢神宮をお参りしたときの風景によく似ています。

 武蔵野陵墓地には、大正天皇と皇后さま、そして昭和天皇と皇后さまの4人のお墓があるのですね。

 まず向かったのは、大正天皇の多摩陵。

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 大きな鳥居があって、その向こうには石段。石段の上には、石で葺かれたドームが垣間見えます。まわりの木々の緑とよく溶け合っていますね。

 ドームの下は石垣の段がありました。

 上円は直径15メートルで高さは10.5メートルあり、一番下部の段は一辺27メートルの正方形なのだとか。

 これは上円下方墳という形態なのですね。

 この形式は、明治天皇の伏見桃山陵が参考にされたらしい。明治天皇の御陵が京都にあるとは、今回の記事を書くまで知りませんでした。

 明治神宮に明治天皇のお墓があるものとばかり思っていまして…。

 それにしても、上円下方墳のお墓を下から仰ぎ見ながら拝んでいると、古代の人たちの感覚を共有しているような感覚になりました。

 隣にある大正天皇のお后であった貞明皇后の多摩東陵にお参りしたあと、昭和天皇の武蔵野陵にお参りします。

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 陵の形式は、大正天皇のお墓と同じなのですね。

 ただ少し、イメージ的にやさしい感じがしたんですよ。

 家に帰ってネットで調べてみたら、その理由がわかりました。

 大正天皇のお墓より上円部の丸みがなだらかになり、石段の高さが低くなっていて、威圧感を減らす試みがなされているのですね。

 昭和天皇のお后であった香淳皇后の武藏野東陵も同じで、あのやさしそうだった皇后さまの顔が目に浮かびました。

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 それにしても、上円下方墳とは古墳の歴史から言っても珍しい形式だと思うのですが、その経緯について知りたいと思いました。

 まさか、仁徳天皇陵みたいな巨大な前方後円墳は作れないと思いますが。

 武蔵陵墓地を出て、住宅街をテクテク歩き、次に向かったのは東照寺と長泉寺。

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 この二つのお寺は、もともとは今訪れた武蔵陵墓地の敷地内にあったのを墓地建設にともなって現在地に移転したらしい。

 どちらも室町時代に創建された古刹なのですね。

 長泉寺には、徳川家康の兵として関ケ原や大坂で戦功をあげた後、出家して諸国を回り、やがてこの地に庵を結んだ石平道人の墓がありました。

 この人の名前は知りませんでしたが、一流の官公庁や企業を中途退職して、自分のやりたいことをやろうとした人は当時もいたのだと驚きます。

 再び南浅川の河原沿いの道を下流に向かって歩きます。

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 東横山橋で川を離れ、住宅街を歩くと左手の丘陵の上に吉祥院がありました。

 丘陵の上にはたくさんのお墓が建ち並び、そこからは市内や高尾山をはじめとした山の稜線を眺めることもできます。

 お墓参りをするのは大変だけれど、眺めのいい景色を望めるお墓っていいですね。

 吉祥院から次に向かったのは、龍泉寺。

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 ここは八王子城の城主だった北条氏照を開基として創建されたらしい。

 北条氏照といえば、去年小田原へ行ったときお墓参りをしたばかり。一人の武将の足跡に、いろんな場所を旅するたびに出会えるのは楽しいっす。

 そして最後に向かったのは、西八王子駅からほど近い場所にある宗格院。

 この人もオイラは知らなかったのですが、幕末の開国論者、松本斗機蔵の墓がありました。
松本斗機蔵は、千人同心頭の長男で寛政5年(1795年)の生まれだそうですね。

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 江戸の昌平坂学問所で天文 地理 兵制を学び江川太郎左衛門や渡辺崋山らとも交流があったとか。

 海外事情に精通して、日本開港を主張したということからも先見性がうかがえますね。
やはり激動の時代は、バイタリティのある人が生まれます。

 今も、激動の時代と言っていいと思うのですが…。

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私が仕事中聴いている名曲ベスト5 平成の女性ボーカル編

 こんにちは。

 またまた、更新が滞ってしまいました。

 いろいろ近況を書きたいところですけど、長くなりそうなので、それはまたいずれ。


 今日は、去年お送りした「私が仕事中聴いている名曲ベスト5 フォークソング編」の続編です。

 昨日、テレビで懐かしい歌をたくさん聴いたので、またやってみようかと…。

 前回、フォークソングを聴くのは、ひたすら忍耐力が必要な単純作業をしているときが多いって書きました。何度も聴いて耳になじんでいるから、気軽に聞き流せるといいますか。

 雨が降っているときや寒いとき、傘やオーバーを貸してくれるのが、フォークソング。カジュアルな気分で、心が温かくなるといいますか。

 さて今回は、平成の女性ボーカル編。

 そのジャンルで、オイラが去年よく聴いた曲のベスト5です。

 中には、この曲が平成?と疑われるものもありますが、ギリギリ平成なのですね~。

 ほかにも、アイドル歌手編や演歌編、昭和の歌謡曲編、ニューミュージック編、ジャニーズ編、映画音楽編、最近のヒット曲編、サザン編、聖子ちゃん編、森高編といろいろあるのですが、それはまたいずれ。

 ところで、これから紹介する曲は休憩時間に缶コーヒーなんぞを飲みながら聴くことが多いです。

 だから、わりと癒し系のバラード曲が多いかも。

 どんなに疲れていても、2~3曲も聴いていると、さあやるぞと、いつの間にか仕事に戻っているんですよ。

 知らず知らずのうちに、元気を充電してくれる曲といってもいいかもしれません。

 そういえば、最近のスポーツ選手は皆、試合が始まる前に音楽を聴いている人が多いみたい。

 マラソンの高橋尚子選手が、シドニーで金メダルを取る前にノリのいい音楽を聴いていたのは有名な話。
 
 フィギュアスケートの浅田真央ちゃんも、試合の前にいつも聴いていますよね。

 テレビでその様子を見ていて、何を聴いているのかなと、そっちのほうがレースより気になったりして。

 ほかの人が読んでいる本がよく気になるのですが、ほかの人が聴いている音楽も気になる今日この頃。

 それはともかく、ビジベンが仕事に疲れたとき、砂漠でオアシスを求める如く聴いている平成の女性ボーカルの曲ベスト5は、次のように決定いたしましたぁぁぁぁぁぁぁぁ~


ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ… (← ドラムの音?)


第五位 PRIDE 今井美樹

 それはこちら

 この曲は、平成8年に発売以来、翌年にかけてオリコンカラオケリクエストチャートでは長期間上位にランクインしていたらしい。

 この曲を聴いたら、カラオケでロマンチックなムードに浸りながら歌いたいと思う女性は多いはず。

 オイラは一度も見たことがないですが、フジテレビのドラマ『ドク』の主題歌だったと聞きました。ドラマの人気もあって、最終的には160万枚の大ヒットになったとか。

 今井美樹の透き通るようなピュアな歌声に、曲のイメージが見事にあっていますな。

 それにしても、この美しい歌を作ったのは布袋寅泰なのですか。

 身長187センチの強面の印象で、最近も芥川賞作家をボコボコにした傷害事件が記憶に新しいですけど、やっぱり心の中にこういうロマクチックな部分がないとこの言う曲は作れないでしょうね。

 この曲がヒットしたあと、今井美樹が結婚したのも、その部分に惹かれたのかもしれませぬ。

 ホントに人の見かけと才能の神秘さには驚かされます。

 作詞・作曲の才能がまったくないオイラは、あこがれますね。

 一生涯のうち1曲だけでもいいからこんな曲が作れれば、その後の人生はずっと幸せかも。 
 

第四位 Secret of my heart  倉木麻衣

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 倉木麻衣は、デビューしてからもう10年になるのですか。最近はあまり見かけなくなりましたけど、当時は現役の女子高生がヒット曲を連発して、宇多田ヒカルとヒットチャートを争っていたのを覚えています。

 もっとも、テレビはあまり出なかったので、オイラが知ったのはラジオのベスト10番組でしたが…。

 デビュー曲の「Love, Day After Tomorrow」と次の「Stay by my side」も好きでしたが、ラジオでこの曲を聴きながら、埼玉県の吉見百穴という場所をウォーキングしたことがあるのです。

 古代の墳墓が眼前に広がる神秘さとこの歌の穏やかな奥行きの広さが見事にマッチングして、イメージのシナジー効果を生み出しました。

 英語のタイトルでありながら、オイラでもなんとなく意味がわかるのもうれしい。

 この歌は、『名探偵コナン』エンディングのテーマでもあったとか。

 古代の墓やアニメなど、世代を超えた幅広いジャンルに合うのは、曲自身の根源的な魅力によるものではないか、と考えるのでした。


第三位 涙そうそう 夏川りみ

 それはこちら

 でも、この曲こそ、世代を超えて支持された代表曲と言えるでしょうね。

 オイラのまわりには、曲の好き嫌いが激しい人もいるのですが、この歌が嫌いだという人にお目にかかったことはありませぬ。

 カラオケでマイクを持ったら離さない、うざいと言われたオヤジが歌っても、この曲のときだけは皆、黙って聴いているような。

 イントロで沖縄の三線とか入っていて、青い海とどこまでも広がる白い砂浜がイメージできる。

 夏川りみは、演歌歌手の星美里と言った時代からテレビで知っていましたけど、うまいけれど素直すぎる歌い方に演歌では難しいかな、と思っていました。

 でもこの歌は、まさに夏川りみの声質と素直な歌唱法だからこそ、魅力が最大限に引き出せたのでしょうね。

 作詞した森山良子と作曲したBEGINも、この歌できっと永遠に名前が残るでしょう。

 タイトルの「涙そうそう」は、沖縄の言葉で「涙がぽろぽろこぼれ落ちる」という意味だというのはあまりにも有名ですけど、「そうそう」を「ぽろぽろこぼれ落ちる」とイメージには捉えにくい。

 あっさりしすぎている感じがするのですけど、悲しみをあっさり表現すると奥行きが逆に広くなって、強く心に残ると思いました。

 それにしても、夏川りみさんは結婚したのですね。

「一緒にいて楽しいし、お酒が強いところが好き」という理由が、沖縄の人らしい。


第二位 100回のKISS  松浦亜弥

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 オイラがよく聴く第三位はあややっす。

 あややと言えば、「桃色片想い」や「Yeah! めっちゃホリディ」のような元気な曲をあげる人が多いと思いますが、この曲はつんくの作った曲の中で1、2位を争う名曲だと思うのです。

 この曲は、歌手デビューする前からモーニング娘。のコンサートで歌っていたそうですね。

 当時は「100回のKISS」の2番の歌詞が未完成だったらしい。

 …ということは、一番に作られた?

 それが、発売が何曲かあとになったのは、つんくとしてもかなり吟味して作ったということでしょうか。

 レコーディングのときも、かなり気合が入って、つんくから怒られたとあややが話していた記憶があります。

 それにしても、どうしてオイラの記憶があるのかわかりませぬ。

 つんくも、よくこんな少女の気持ちに共感できた歌を作れると思いました。


第一位 secret base ~君がくれたもの~ ZONE

 それはこちら 

 この曲は、どちらかというと昭和の香りを感じさせるような気が…。

 この歌がヒットしたとき、メンバーの4人は中学生と高校生だったらしいですけど、しっかりした演奏と歌のうまさに驚きましたね。

 しかも、全員がボーカルで、皆レベルが高い。

 ガールズバンドというと、プリプリのように派手な衣装と茶髪みたいなイメージがありました。

 彼女たちは、中学や高校生としてのラインを守りつつ、バンド活動をしていた印象でしたね。

 …といっても、はじめてオイラがテレビで見たのは初出場した紅白のとき。

 それまではラジオで聴いて知っているだけなのでした。

 この歌がヒットしていた頃は、あるクリニックで仕事しているときで、院長先生が亡くなって閉院を余儀なくされたときでした。

 歌詞の中に「突然の転校で、どうしようもなく~」という部分があるのですが、「突然の閉院で、どうしようもなく~」とつぶやいていたのを思い出します。

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正月恒例? 高水三山駅伝 ウォーキングストーリー 

こんにちは、ご無沙汰です。

 この時期、突然、更新がストップすると、夜逃げしたのではないかと憶測を呼ぶ今日この頃。

 今までの仕事に加え、某官庁の委員やら、某医療系大学の授業のお手伝いやら、知り合いの夜逃げ引越しのお手伝いやらで多忙な日々が続いておりまする。

 しかも、今までブログを更新していた土日に集中して仕事が入っているんですよ。

 しばらくブログの更新が停滞気味になりますが、当分夜逃げする予定はありませんので念のため。 

 さて、今日は約一年ぶりの山歩きネタ。

 なんと、一ヶ月以上前の正月の話題なのですね~。 
 
 前にも書きましたが、正月は、博物館や美術館の休館が多いので山へハイキングに行くことが多いのです。

 山が正月休みで休業しているのはあまり聞きませんからね。

 お正月といえば初詣。

 だけど混んでいるので、毎年すいてからお参りすることにしています。

 だから、毎年ご利益のおこぼれにあずかれないのか、と…。

 神社仏閣のご利益は、先着何名様と定員が決まっているからあんなにいつも混んでいるのかなと考えたりして。

 それはさておき、一月二日の朝、オイラはJR青梅線軍畑駅に降り立ちました。

 新宿から特別快速の電車が出でいるので、オイラの自宅から2時間かからないで行けるのですね~。

 それにしても、軍畑駅というネーミング。

 戦国時代好きのオイラはそそられまする。

 …と思って調べてみたら、やっぱりここで大きな戦があったそうですね。

 永禄6年(1563)、多摩川上流域を支配する三田綱秀と、八王子付近一帯を支配する滝山城主北条氏照が、この近くで激戦を展開したとか。

 結局、戦いは北条軍の圧勝に終わったのですが、その合戦での両軍の戦死者や具足を集めて葬った鎧塚があるとのこと。

 ハイキングコースには入っていませんでしたが、せっかくなので行ってみることにしました。

 青梅線のガードの下にある欝蒼とした森で、結構大きい。

鎧塚


 高さが約8.8mで、直径が約30mもあるのですか。

 これは、古墳時代の円墳といわれても納得してしまいそう。

 これだけ巨大な塚が今も残っているのですから、その激闘のほどがしのばれました。

 ハイキングコースに戻り、平溝川を右手に見ながら広い車道を登って行きます。

 さすがに正月なので、車はもちろんハイカーもほとんど見かけませぬ。

 このハイキングコースは、奥多摩の入門コースと言われるくらい人気があるらしいのですけどね。

 いつも騒然とした都会に暮らしていると静かすぎるのも落ち着かないっす。

 …と、ラジオのスイッチを入れると箱根駅伝の実況中継が。

 聴きながら歩いていると、自分も駅伝に参加しているような気分になります。

 ラジオ中継の沿道の歓声に励まされつつ、大きなストライドで第1中継所の高源寺へ到着しました。

高源寺


 初詣の人たちが一人もいない深閑としたたたずまいは、まさに山里のお寺というイメージ。

 競争率が低そうなので、ご利益の当選確率が高まるかも。

 しっかりお参りしたあと、左手の坂道を登ります。

 空気がピーンと張り詰めて肌寒いのですが、直射日光がすごいっす。

 例によって、ユニクロのエアテックコートを着ていたので、10分も歩くと汗びっしょりに。

 コートを脱ぎ、シャツを腕まくりして真冬とは思えない姿で山を登りました。

 やがてコンクリートのダムが目の前に現れます。

コンクリートのダム


 脇の急な階段を、息を切らして登り、いよいよここからが欝蒼とした木々に囲まれた本格的な登山道。

 大きな石がゴロゴロ転がっていたり、古木の根っこが蛇のようにうねっていて、行く手をさえぎります。

 くくく、きつい。汗が目に入って前が見えないっす。

 ここで、耳にさしたイヤホンから、アナウンサーの「さあ、ここからが箱根駅伝2区の難所、権太坂にさしかかります」との声が。

 う~、オイラも頑張って登らねば…。

 足場が悪く、昼なお薄暗い沢沿いの道を転びそうになりながらも前進。

大きな石が転がる登山道


 花の2区を走る各大学のエースランナーに負けじと、急な斜面に作られたジグザグな登山道を登ります。

 立ち止まって休みたいけれど、母校のタスキを必死でつなぐ後輩たちに、先輩が負けるわけにはいかないっす。

 悪戦苦闘を続けるうちに、周囲が明るくなり尾根が近づくのがわかりました。

 ようやく尾根道に出て、勾配がややゆるやかに。

 でもまだ、六合目ですか。

 箱根駅伝の中継は、日大がダニエル君の快走で順位をグングン上げているらしい。

 …と、前を見ると、先行するハイカーを発見!

 休まず、ぐんぐん登って来たから追いついたのですね。

 距離は、約100メートル。

 ラジオでは、ダニエル君が20人をゴボウ抜きと言っています。

 よし!オイラも先行するハイカーを追い抜くのじゃ~!

 近くにあったベンチを横目に、追撃態勢に入るオイラ。

 差が50メートルほどに詰まってくると、先行するハイカーは、頭の登山帽から足の登山靴までびっしりブランド物で固めたオヤジだというのがわかりました。

 トップをゆくオヤジ学院大学をビジベン大学が急追。しかし、急な斜面に足を取られ、思ったように前に進まない。

 先行するオヤジがオイラの存在に気づき、ピッチを上げます。

 高い杉が見下ろす九合目で、ようやくオヤジ学院大学をとらえ、後方にピタリとつきました。

 そのまま両校は並走状態に。

 急な上り坂が終わり、頂上に続く尾根道に出たところでビジベン大学がラストスパート。

 ぐんぐんその差を引き離し、トップで第2中継所の常福院にゴールすることができました。

 ハイペースで飛ばし過ぎたので、さすがにゴールしたあとは石段にすわりこんでしまいましたが…。

 高水山常福院は、いかにも山奥の古刹といった風格が感じられるお寺。

高水山常福院


 ここは何でも、鎌倉時代の有名な御家人であった畠山重忠にもちなんでいるらしい。焼失する何代か前の不動堂は、重忠が再建したそうですね。

 境内で小休止をしたあと、高水山向けて歩き、ようやく山頂へ。

高水山山頂


 この山の標高は、759メートルですか。

 軍畑駅からの標高差は約500メートル。自分の足で、東京タワーの1.5倍の高さを登ってきたのですね。

 さすがに山頂だけあって、雪はないものの地面が凍結している。

地面が凍結


 3つの山のうち、一つの山をクリアし、次の岩茸石山を目指します。

 木の根が露出した急な斜面を下ります。気をつけないと滑り落ちそう。

木の根が露出した急な斜面


 それにしても、山の頂上付近は風が強いのですね。生木が裂けて転がっているのを何度か目にしました。

生木が裂けて転がっている


 こんな強風に見舞われたら、人間はひとたまりもないかも。

 ゆるやかな尾根道をしばらく行くと、また急な坂が。

 岩の角や木の根っこにつかまりながら登ります。

 そして、第3中継所の岩茸石山山頂へ到着。

 この山の標高は、高水三山で一番高い793メートル。

 そのせいか、360度の眺望が素晴らしい。

岩茸石山山頂


 見渡す限り、山、山、山…。

 正月で空気が澄んでいるためか、奥多摩の大パノラマを満喫することができました。

 再び、急な岩場を降り、第4中継所の惣岳山を目指します。

 下界に、すすきの原が広がる風景やどこまでも続く杉林の尾根道は、一見の価値がありましたね。

すすきの原が広がる風景


 快適なウォーキングを続け、最後の難所・惣岳山の岩場登りにチャレンジです。

ロープを使って岩場を登る


 久しぶりにロープを使って岩場を登ることができて楽しかったっす。

 惣岳山の山頂は、杉の大木が囲まれて眺望はよくないですが、古い社殿があって荘厳な雰囲気。

 これは青渭神社の奥宮なのですね。

 惣岳山からの下りは、また木の根や岩が行く手をはばむ難所でした。

 登りは息が苦しいけれど、下りは息が楽な分膝や腰に負担がかかりますな。

 これだけの急坂を延々と下ったのは、筑波山を下ったとき以来ではないか。

 …と思って、後ろを振り返ると、ハイカーがオイラを急追している。

 今度は、茶髪スポーツ刈りのおにーさんじゃ。大学のウインドブレーカーを着ている体育会系っすね。

 う~、ものすごいスピードでオイラを猛追しているっす。

 別にオイラを追っているわけじゃないけれど…。

 ああ、このままではトップが奪われてしまう。

 足を速めるオイラ。

 いくら日頃からウォーキングをしていても、体育会系のおにーさんにオヤジがかなうはずはない。

 すんなり追い抜かれてしまったのです。

 でも、ここからが勝負じゃ~とスピードを上げようとしたとき…。

 グキッと足をひねって転倒。

 骨は折れなかったものの、ゴール寸前で涙の途中棄権となってしまったのでした。

 来年は予選会からの出場っすか。

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「大富豪」に学ぶ苦境脱出の方法

 

 こんにちは。

 うう、昨日から涙が止まりませぬ。

 とくに悲しいことはないのに、オイラも年のせいで涙腺がゆるんだのかなと思ったら…


 今年も、花粉症がキタァァァァァァァァァァァァ~


 不況と花粉症のツープラトンの攻撃にもだえ苦しむ今日この頃です。


 ということで、今日は前回の続きのビジネスネタ。

 前回は、大企業と下請けの中小企業の関係をカードゲームの大富豪と大貧民との関係になぞらえました。

 実際は、中小企業でありながら大富豪となっている会社は多々ありますけど、話を単純化するために、あえてこのようなシチュエーションにしましたので念のため。

 さて、この大貧民たる中小企業がどう大企業に対抗していくのか、という点。

 それは「大富豪」のどう大貧民の状況から抜け出すか、というテーマと、似ているのではないかと考えたのでした。

 だから、「大富豪」の敗因を分析することは、その状況から脱却できるヒントが隠されているのではないか、と…。

 そのように考えてくると、「大富豪」で負け続ける人は、結構同じパターンを踏むことが多いというのが前回までのお話です。

 それは、どういうプレイヤーか。

 それはまず、大富豪とまともに張り合おうとする人ですな。

 大富豪が「13」を出せば、「A」を出し、「A」を出せば、たった一枚しかない虎の子の「2」を序盤で使い切ってしまう。

 結局、「3」が一枚だけ残って、次々と他のプレイヤーに先に上がられて「大貧民」になってしまうパターン。

 負けず嫌いなのでしょうけど、もともと大したカードを持っていないのだから、すぐ底をついてしまう。

 いわゆる「カネ」で、中小企業が大企業と張り合おうとするのと同じ。

 創業したての中小企業って、意外とこのパターンで潰れることが多い。

 15年くらい前、同じ時期に創業した会社同士の親睦会があったんですよ。

 10社近くがそれに参加して、オイラも名刺交換させてもらったのですが、信じられない話、今残っている会社は一つもないのです。

 オイラの会社は、残っていると自慢できる規模ではないので自主的に省きましたが…。

 当時何度か、親睦会に参加した会社へお伺いさせてもらったことがあるのですけど、どこも羽振りがよかった

 …印象でした。

 ブランドの高い場所に事務所を借り、従業員を多数かかえていた会社もいくつかありました。

 中には、事務所の面積の半分近くを豪華な内装の社長室が占めていた会社も。

 当時は随分うらやんだものですが、その5年後くらいにどこも倒産や廃業してしまったのです。

 銀行や取引先に対する見栄もあって、それを維持するために借金を繰り返していたのでしょうか。

 創業間もない中小企業にとって、一番の敵は社長さんの見栄だと骨の髄まで思い知らされました。

 最初から、自分より数段上を望んでしまうと、「カネ」の面で必ず資金ショートします。

 「大富豪」でいったら、よほど自分のカードに自信がない限り、最初から大富豪とまともに張り合ったら駄目ですね。

 地道に「バス」を繰り返し、チャンスがあったら3~5などの小さい数字のカードを着実に減らしてゆく。

 大富豪や富豪とまともに戦わず、まずは平民を目指して一歩ずつ階級をあげてゆくことが肝要だと思いました。

 でも、残念ながらそれだけでは大富豪には太刀打ちできませぬ。

 「人」と「モノ」、そして「情報」を駆使してかからないと、「カネ」の面で圧倒的に不利な大貧民の中小企業は這いあがれない。

 企業における「モノ」は商品やサービスと言えます。

 大企業には、大資本を背景にした商品力、ブランド力がありますね。また大量生産によって、価格を下げても利益を維持できるので中小企業ほど苦しくはならない。

 「大富豪」で言ったら、悪いカードを大貧民に押し付け、自らダブルやトリプル、階段のカードをコーディネートできる状態でしょうか。

 ちなみに、階段のカードとは、「3」「4」「5」みたいに数字の一番違いのカードを3枚以上出せる状態っす。

 もともと「2」や「エース」「ジョーカー」などいいカードを豊富に持っているのに、それにプラスしてダブルやトリプル、階段のカードを作れるわけですから、ゲームを始める前にかなり有利な状況ですな。

 大企業も同じ。

 商品やサービスを市場に供給する前に、中小企業に比べかなり有利な状態なのは間違いない。

 それから「人」の問題も、最初からクリアできている。

 大企業は労働条件がいいから、当然優秀な人材が集まります。

 「大富豪」も、最初から同じ条件ではじめるわけですから、その中から勝ち抜いて大富豪になったということはある程度のスキルがあるということですからね。

 「カネ」はもちろん、「人」「モノ」でも劣る大貧民はどう大富豪に対抗してゆくのか。

 いつも悪いカードを大富豪から押し付けられる大貧民ですが、我慢しながらゲームを続けていると、悪いカードなりに特徴を持ったカードが集まることがあるのですよ。

 たとえば、最悪の「3」でも、それが3枚集まればトリプルだし、4枚集まればフォーカード。

 革命ルールがなくても、これを出せば他のプレイヤーは誰も対抗できないでしょう。

 それから、「3」「4」「5」のカードだって、階段の状態で出せば、切れる可能性はかなり高い。

 これを中小企業にあてはめると、商品特徴で勝負ということになるのでしょうか。

 単品では大企業と勝負にならなくても、それを加工したり、うまく組み合わせたりすることによって、大企業がすぐには真似のできない商品やサービスを創造することができる。

 身軽ですし、失うものが少ない分、大企業よりはダイナミックな勝負をすることもできると思います。

 ただここで大きな問題がありますな。

 「大富豪」で言うと、大貧民は、苦労して作ったそのカードをなかなか出すことができない。

 中小企業で言ったら、自信のある商品・サービスを持っていても、広告宣伝費にかけるお金がないということになるのでしょうか。

 「2」や「ジョーカー」など決定力のあるカードを多数持っている大富豪は、自分の出したいカードを自由に出すことができますからね。これは広告宣伝費に湯水の如くお金を使える大企業の状態に似ている。

 しかし大貧民は、カード出してもすぐ上のカードを他のプレイヤーに出されてしまう。

 しかも、オイラがやっていた「大富豪」のルールでは、最初に大富豪から出す決まりになっていたんですよ。

 普通は、大貧民から出すことが多いようですが…。

 大富豪に絶対的な権力が集中していたんですね。

 だから自分より上位のプレイヤーがハイレベルのカードでゲームをしている間、大貧民はじっと足の痛みに耐えて待っている。

 こんなとき、自分の虎の子のカードを使ってしまったら、数少ないチャンスを掴むことができないですからね。

 ここで待てるかどうかが、大貧民から這い上がる人とそうでない人との別れ道だと感じました。

 待っている間でも、今までどういうカードが出たかを記憶し、他のプレイヤーはどんなカードを持っているかを洞察することが大事ですね。

 中小企業としては、市場動向を調査しながら、いつ勝負に打って出るか、その時期を検討することが大切なのだと感じました。

 オイラが大貧民の場合、最初から勝てないと思ったら、大富豪や富豪に先に上がらせてしまうことが多かったです。

 下手に勝負に出て、虎の子のカードを使うよりは、戦力を温存して着実にひとつ階級を上げるといいますか。

 景気が悪くなって一気に業績が落ち込んだとき、一発逆転を狙って大勝負に出る経営者の人は意外と多いです。

 大勝負に勝って、一気に形勢を逆転できるならいいのですけど、不況でどこも必死で頑張っているときは思い通りに行くことはあまりないかも。

 オイラが上がるときは、大抵同じパターンが多かったです。

 ほかのプレイヤーがあと、1~2枚残っているとき、こちらはまだ4分の3のカードが残っている。

 でも、カードを出すチャンスがめぐってきたら、すべてトリプルや階段のカードを使って一気に上がってしまう、みたいな。

 そうやって着実に階級を上げて行き、大富豪や富豪になったら負けないゲームをする。

 大富豪になって、当然のように大貧民に一番悪いカードを渡すと、立場が逆転したとき仇をとられますからね。

 隣のプレイヤーが次のカードを出しやすいように、きれいな終わり方をしたり、大貧民が上がりやすいようなカードを渡す。

 オイラの「大富豪」の経験からいって、大富豪のときに恨みを買ってしまったら必ずあとでしっぺ返しにあいました。

 同じように、現在、大企業が下請けの中小企業に不況のつけを背負わすと、いつの日か必ずしっぺ返しにあうような気がするんですけどね。

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«「大富豪」と企業経営の深い関係?