大森貝塚から馬込文士村 ウォーキングストーリー
こんにちは。
最近、仕事が忙しくてなかなかウォーキングへ行く機会がなかったのですが、半日ばかり余裕ができたのを幸い、近場をほっつき歩くことにしました。
行ったのは、東京南部にある大田区。
一昔前までは、田んぼも結構残っていて、オイラの憩いの場所ともなっていたところです。
スタートは、JR大森駅。
駅の山王北口を出ると目の前は、池上通りで、車がじゃんじゃん行き交っています。
目的地である馬込文士村へ行こうと思ったのですが、近くに歴史好きならおそらく誰もが知っている場所があるのを思い出しました。
それは、大森貝塚。
日本考古学発祥の地とも言われるところですね。
教科書にも載っている話ですが、この貝塚を発見したのは日本人ではないのです。
それは、明治10年に来日したエドワード・モース博士。何でも、考古学者ではなく、アメリカ人の動物学者だそうな。
もちろん、このご近所に住んでいる人たちは、やけにたくさん貝殻が埋まっているな、くらいの認識はあったでしょうけど。
博士が汽車で横浜から東京へ移動中、車窓から何気に外を眺めていると、大森のあたりの崖から大量の貝が埋まっている地層が見えたのだそうな。
うぬぬ、これはもしかして、と思って調べてみたら、貝塚であった。
そしてモース博士は、生物学を教えることになった東京大学の教え子たちと大森貝塚を発掘したのですね~。
さらに、日本初の発掘報告書を出版。博士の大森貝塚の発掘は日本初の学術的発掘であり、調査報告書の発行も初めてのことだったとか。
…が、しかし。
長い年月を経て、そのモース博士が発掘した場所がどこかわからなくなってしまったそうな。
大森貝塚は現に存在しているのだから、たいした問題でもないような気がしますが、その位置がちょうど品川区と大田区との境界にあった。
なんたって、日本考古学発祥の地ですからね。
自分たちの区内にあるということであればメリットはあるはず。
で、品川区と大田区の間で、論争が一時期あったそうな。
それも、50年に以上に及ぶ論争がだったというからすごい。
今でも大森貝塚の碑は、大田区と品川区の両方あるのがその名残かも。
こちら大田区の碑。
そしてこっちが品川区の碑。
結局、決着がついたのは、モース博士の発掘から100年後でした。
大森貝塚発掘当時の文書が、東京都公文書館で発見されたそうなんですよ。
そして、そこに記された発掘地の住所が、現在の品川区の大森貝塚遺跡庭園の位置にあたることがわかったとのこと。
モース博士は、大森貝塚なのに品川区を発掘していたのですか。
品川区の遺跡公園が立派なのに対し、大田区側の史跡の周辺がなんともうらぶれた風情なのが哀しい。
その辺りの事情について、以前会ったことのある品川区の教育委員会の人が鼻高々に話していたのを思い出します。
さて、再び、大森駅方面に戻り、池上通りを右折してジャーマン通りを歩きます。
なぜ、ジャーマン通りというのかわかりませぬ。
ジャーマンスープレックスホールドで一世を風靡したカール・ゴッチと関係あるのかな、と想像を逞しくしながら歩き、次に向かったのが山王草堂記念館。
ここは、明治から昭和初期にかけて活躍したジャーナリスト、徳富蘇峰の住居だったところです。
ちなみに、世田谷に徳富蘆花の住居跡に作られた公園がありますが、蘇峰は蘆花の実兄ですよ。
今は、公園みたいになっていますが、入り口の石段に当時の豪邸の面影がしのばれます。
蘇峰は、日本最初の総合雑誌「国民之友」を発刊したり、現在の東京新聞の前身である「国民新聞」を創刊したりした人だとか。
しかし、なんと言っても、「近世日本国民史」全百巻の著者として有名ですね。
この長大な作品は、ギネスブックにも記載されたことがあるそうな。
しかも、56歳からはじめて、34年間かけて完成させたところは中高年にも勇気を与えてくれそう。
やはり人間は、大きな目的を持って生きるのが、健康で長生きできる秘訣なのかもしれません。
草堂記念館の中は、蘇峰が「近世日本国民史」を執筆した二階の書斎部分が移築、復元されておりました。
畳敷きの広い部屋が二間続いていて、仕事がしやすいように机の配置も工夫が凝らされています。
記念館のまわりは、起伏に富み、緑深い庭園になっていて、執筆に疲れた蘇峰がよく歩いたのでしょうね。
山王草堂記念館を出て、これから馬込文士村と呼ばれる文士たちの文学碑をたどって歩くことにしました。
最初は、記念館のそばにある尾崎士郎の文学碑。
ちなみに昨日新聞を読んでいたら、尾崎士郎の旧宅跡を大田区が買い取って記念館を建設することになったそうなんですよ。
いよいよ、大田区の逆襲が始まったか、と思いました。品川区がどういう対抗策を打ち出すか、見ものかも。
ところで、士郎は、「人生劇場」の著者として有名ですが、この作品が世に出た当時はあまり評判にならなかったらしい。
注目されたきっかけは、川端康成が読売新聞の文芸欄で絶賛されてからだとか。
それはともかく、尾崎士郎と川端康成が同時代の作家だということに驚きました。
川端康成がノーベル賞を取ったときのことや自殺したときのテレビ番組を良く覚えているのですが、尾崎士郎自身のリアルな記憶はないですから。
この馬込の近辺が、文士村と呼ばれるようになったのは、尾崎士郎の働きかけによるところが大きかったらしい。
大正から昭和初期に、この馬込周辺に住んだ作家は、尾崎士郎とその妻の宇野千代、川端康成、萩原朔太郎、室生犀星、北原白秋、広津和郎、山本周五郎などそうそうたるメンバー。
これらの人たちの中には、相撲好きな人が多く、「大森相撲協会」なるものを立ち上げ、大真面目に練習をしていたそうですね。
中でも尾崎士郎は、太って強くなりたいために、インシュリンの注射を打ち、泡をふいて倒れたこともあったとか。
当時の文士たちの力士姿の写真が残っていますが、皆真剣な顔で土俵入りを披露しているシーンが印象的でした。
尾崎士郎の文学碑から、地図をたよりに住宅街を右往左往しながら向かったのが、北原白秋の文学碑。
詩人としてあまりにも有名ですが、彼もまた馬込の緑ヶ丘と呼ばれる高台に住んでいたらしい。
当時は、眺めがとても美しく、丘陵の尾根が見え、夜景がとてもきれいな場所だった。
その高台にある赤い屋根の洋館。中には、洋風の書斎で、白秋はとても気に入っていたとか。
今、その文学碑は、児童公園の入り口に立っていましたが、高低差は確認できるものの、眺望は損なわれていて残念でした。
次に行ったのは、山本周五郎の文学碑。
こちらも、小奇麗な児童公園の前に立っていました。

「もみの木は残った」「赤ひげ診療譚」「青べか物語」など今でも多くの人たちに読まれていますね。
文学碑には、直木賞を辞退するなど、かなり偏屈な人物みたいに書かれていましたが、その孤高の文体からもなんとなくわかるような気がしました。
このあたりはお屋敷が多いためか、緑が豊かです。
個人の所有なので中には入れませんでしたが、馬込の自然林が残っている場所を塀越しに眺めました。
巨木が生い茂ってすごい迫力っす。
暑かったので、汗を拭き吹き住宅街をテクテク歩き、大きなお寺の前に出ました。
ここは万福寺。
この寺を開基した人はしぶいですよ。
なんとあの梶原景時。
タッキー主演の大河ドラマ「義経」で、中尾彬が演じていた記憶があります。義経の悪口を源頼朝に伝えたとか、不運な最後からも分かるとおり、あくの強い人物だったみたいですが、鎌倉幕府の設立に大きな力を果たした人物であることは間違いないでしょうね。
寺には、景時の墓がひっそりと立っておりました。
万福寺の境内には、室生犀星の句碑もありました。そして寺を出て、少し歩くと、室生犀星の文学碑も。
室生犀星の名前は知っていましたが、俳人であり、詩人であり、小説家でもあったのですか。
文士の三冠王みたい。
文学碑のうしろのマンションが、「室生マンション」というのはそのものズバリですね。
当時は、この辺も畑ばかりだったのでしょう。
同じ道筋に、日本画の巨匠、小林古径の文学碑もありました。
そして最後に向かったのが、大田区立郷土資料館。
言い忘れましたが、さきほどの山王草堂記念館と同じく、こちらも入館無料なのがうれしい。
大田区は、羽田空港や京浜工業地帯といった雰囲気が濃厚ですが、多摩川の近くを中心に古墳が多い場所としても知られていますね。
しばらくお散歩ネタは、大田区を密着取材する予定です。
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