猿橋~岩殿城~大月 ウォーキングストーリー
こんにちは。
今日は、ゴールデンウィークに訪れた二つ目の場所です。
行ったのは、今、何かと話題の甲斐の国。
東京モノにとって、神奈川や千葉、埼玉は身近な存在ですが、山梨となるとちょっと遠い感じがするのはオイラだけでしょうか。
若い頃から今まで、いろんなところをほっつき歩いてきたオイラですが、意外と山梨に足を踏み入れたことは数えるほどしかない。
中央本線って、JRで電車賃も高いような気がしますし。
でも、先日、山手線の駅で、すぐれもののガイドブックを手に入れたんですよ。
その名は、「甲州古道ウォーキング 相模湖駅~甲斐大和駅」。
古道をウォーキングなんて、いかにもオイラ好みのネーミング。
さっそく、ネットの乗り換え案内で、所要時間と料金を調べてみました~♪
なんと、意外と山梨って近いし、安く行けるんじゃないっすか。
オイラがたまに私鉄を使って行く、群馬や栃木、茨城より安い。
もちろん、裏技があるのですが。
それは、新宿から中央線に乗るのではなく、高尾まで京王線に乗り、そこで中央線に乗り換えること。
電車賃節約のコツは、いかに目的地のそばまで私鉄で行けるかということでしょうか。
さて、そうやってせこいルートを乗り継ぎ、オイラは中央線の鳥沢駅にたどり着いたのでした。
でも、京王線の急行に乗ったので、それほど時間のロスは感じませんでしたが。
鳥沢駅周辺は、かつて鳥沢宿という宿場町でにぎわったところらしい。
富士講の名残など、かつては旅籠や下駄屋、お茶屋などの街並だった面影が味わえるとか。
古道というより、国道の車の往来が激しくて、せわしない雰囲気がありましたけど。
でも、歩いてゆくと昔ながらの宿場町の面影のある古い家がところどころに残っておりました。
これらの古い家は、出桁軒裏造りといって庇が長いのが特徴だとか。二階の窓に設置された手すり部分は、それぞれデザインが異なり、なかなか凝っていますな。
国道20号を歩き、大月方面を目指します。
行った日は、雲ひとつないいいお天気でした。いい形の山があったりして、見とれながらの快調なウォーキング。
国道を折れ、細い小道に入ってしばらく行くと、中央本線の複線化以前に使用した橋台がありました。
ちょうど、深い谷越しに向かい合う形で、石組みの立派な橋台が残っています。草木が生い茂り、一昔前にここを列車が走ったなんてとても思えない。
SLが煙を上げながら轟然と鉄橋をわたるシーンを想像しました。
ふたたび、国道に戻り、今度は猿橋めざして歩きます。
なんとなく、猿橋という名前の橋があることは知っていましたが、こんな近くにあるとは思っていませんでした。
名前だけ知っていたのは、おそらく「日本三奇橋」のひとつだから耳に入ったのでしょうね。
ちなみに、あとの二つは、「岩国の錦帯橋」「木曽の棧(かけはし)」。
有名ですが、どちらも行ったことがございませぬ。まだまだ日本中、行ったことない場所だらけだから、老後の楽しみが増えそう。
それはともかく、実際目で見ると、やはり変わった橋ではありました。
長さ31m、幅3.3mだそうなので、さほど大きくはない。この独特なフォルムは、谷が深くて橋脚が立てられないため、橋脚を使わず、両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支えているところからくるみたい。
7世紀に、猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説があるそうですな。なるほどそう言われてみると、両岸から張り出した四層のはね木が重なっている猿にまったく見えなくはない。ちょっと苦しいですが。
それにしても、猿橋の欄干から下を見ると、かなり谷が深いっす。
水面からの高さが31メートルですか。しかも、まわりの緑との調和も見事。自然の景観との調和が素晴らしいということで、国の名勝に指定されたのも納得が行きました。
江戸時代の浮世絵師、安藤広重の「甲陽猿橋の図」も有名らしいですね。江戸時代からもその絶景が話題になっていたのですか。
猿橋を去り、これがホントの「去る橋」なのじゃ~と久しぶりに納得のいく駄洒落を思いつきました。
でも、こういう駄洒落は、絶対どこかのオヤジがかまして著作権を申請しているでしょうね。
参考文献みたいに出展を明らかにしないと訴えられるかも。
猿橋近隣公園の深い緑を堪能しつつ、大月市郷土資料館にたどりつきました。
小さな資料館でしたが、100円を支払って入館。郷土資料はそれほど目を引くものはなかったですが、特別展で白旗史朗の写真展をやっていました。
富士山を撮り続けた写真家として有名らしいですね。
行った日も、富士山を写した白幡史朗や地元のアマチュアカメラマンの作品が展示されていました。
あらためて、富士山がいろんな顔を持っていることを確認しました。富士山といえば、東海道というイメージがありましたが、大月市もまた絶景ポイントがたくさんあるのですね。
さて、郷土資料館を出て、大月市の市内を流れる桂川につかず離れず歩いてゆくと、前方に妙な形の山が見えてきました。
高さはそれほどでもないけど、山の中腹から頂上にかけて垂直に切り立った岩盤がドームのように見えるっす。
これがあの岩殿山城ですか。
こここそ、あの「風林火山」にも登場する中世・武田氏の家臣、小山田氏の居城のあった場所。小山田氏は武田24将の一人として有名ですね。
「風林火山」当時の小山田家当主は、小山田信有。
確か、田辺誠一が演じていたような。
小山田氏が岩殿山を本格的な居城となしたのは天文元年(1532)といわれ、武田信玄の躑躅ヶ崎城の境目の城として、重要な押さえとなっていたとか。
話には聞いていたけど、実際近くで見ると、その迫力がすごいっす。
岩殿山は、その名の通り海抜635mの岩山。まわりには、東に葛野川、南に桂川を配し、頂上近くの垂直の岩盤は、まさに天険の要害ですな。
眼前に立ちはだかる岸壁を前にして、あとに引くことはできませぬ。
ガイドブックのコースにはないのですが、その要害を落とすべく、城攻めを開始しました。
よく整備された階段をのぼってゆくと、やがて中世の城の遺構を思わせる建築物が。
ここは、岩殿山ふれあいの館。
岩殿山中腹に建ち、外見からは信じられないですが、なんと中にプラネタリウムもあるとか。
小山田氏が城主だった当時は、やはりこんな建築物もあったのでしょうか。
さて、そこから先もコンクリートの階段が延々と続いておりました。やはり、城攻めは楽じゃないっす。朝から、歩き詰めだし。
でも、苦しさに反比例して、標高がぐんぐんあがり、市内を眼下に望む見晴らしが良くなる。
そしてようやく、岩殿山城の揚木戸門跡が見えてきました。巨大な岩がすごいっすね。
横に巨大な岩があるため、読んで字のごとく、門は上に引き上げる形式だったらしい。
そこからすぐ上にあがったところにあるのが、番所跡。それほど広いスペースはないですが、門番の詰め所かなんかがあったのでしょうか。
そしてようやく頂上近くの尾根に到着。
そこからの眺めはさすがに素晴らしかったです。さっき、山の下から見えた垂直に切り立った岸壁がこの下にあるのですね~。
尾根の部分に、本丸や二の丸、三の丸、馬場などがあるのでしょうけど、それぞれそれほど広くはないし、かなり削られた部分もあるようで、これぞ城跡の遺構というものは感じられませんでした。
あえて言えば、帯郭下にある亀ヶ池と馬洗い池ですかね。山城は、水の確保が最重要課題ですから、小さいとはいえ今も枯れることがない水源があるのは心強かったでしょう。
それにしても、ゴールデンウィークでよかったと、去年行った城跡で、大量の蚊のじゅうたん爆撃にさらされたオイラは切に思ったのでした。
せっかくだから、山の頂上にある本丸へ行ってみました。
もともとせまいスペースなのに、電波塔様が我が物顔で居座っていらっしゃいました。
今の城主は、電波塔様なのですね。
本丸のまわりに空堀が残っていて喜んだはずみに、空堀に転落してしまいました。
戦国時代だったら、上から矢を射掛けられて戦死していたかも。
城攻めを果たし、晴れて岩殿山から降りてきたのですが、そのときが一番大変でした。
道に、細かい石がたくさんあって、トレッキング用のシューズではなかったので滑る、滑る。
山道で、ヘッドスライディングみたいに派手な転び方を何度もしました。
高校時代の体育で習った柔道の受身が、こんなところで役に立つとは思いませんでしたね。
そういえば、今での短くない人生において、蒲田行進曲の階段落ちに匹敵する転倒を何度も経験しました。
JR渋谷駅の一番上の階段から、踊り場まで転げ落ちるとか。
そのたびに、ディフェンスのうまさで九死に一生を得てきたのです。
若いうちに、いろいろ習い事をするのもいいですが、受身だけは勉強より役に立つかもしれません。
倉本聡的 「間」
転ばない方法を考えろと、誰か突っ込みいれてくれぇぇぇぇぇぇ~
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