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神楽坂 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今日は風情のある入り組んだ道で知られる都心のラビリンス、神楽坂っす。

 この神楽坂周辺といいますか、飯田橋から市ヶ谷にかけての都心の外側にあたる土地は、今でも古い町名が残っておりまする。

 たとえば、水道町、箪笥町、二十騎町、細工町、市ヶ谷鷹匠町、納戸町、揚場町…。

 江戸時代は、ちょうどお城の外堀に沿った外側直近の部分。地図で見ると、それぞれの町の面積が他の町よりすごく小さいんですよ。

 町名から、江戸時代の庶民が暮らしていた生活が覗けるようで興味深い。

 神楽坂の周辺は、江戸の文化も今なお残っている土地という印象がありますし…。

 ということで、五月のある土曜日、午前中に市ヶ谷周辺で仕事をすませたあと、江戸の名残が残る街を歩いてみることにしました。

 まずは最初が肝心と、市ヶ谷から外堀をあるいて飯田橋へ。

 江戸城の外堀はかなり埋め立てられてしまいましたが、四谷から飯田橋にかけて当時の雰囲気が若干残っていますね。

 釣り堀や貸しボートもあって、いつか利用してみたいと思っているのですが…。

 飯田橋駅の西口を出るとすぐあるのが牛込見附跡。

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 巨大な石垣が迫ってきて、当時世界最大と言われた江戸城の巨大さが偲ばれました。

 右手に飯田濠を見ながら坂を下り、神楽坂下の交差点を右折します。

 江戸時代、川からの荷揚げの場所だったといわれる牛込揚場の石碑を左折すると軽子坂。

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 近くの解説板を読むと、荷揚げされた荷物を軽籠で運んだことから軽子坂という名前がつけられたとありました。

 今は何の変哲もない都会の坂ですが、当時の様子を想像すると楽しい。

 江戸時代から繁栄した神楽坂のバックヤードがこの坂なのか、と…。

 軽子坂からいよいよ神楽坂の繁華街へ。

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 土曜日の午後は、ガイドブック片手の観光客が大勢訪れておりました。といっても、それほど目をひく名所旧跡は神楽坂にはないような。

 やはり、お洒落なカフェや老舗の飲食店めぐりが人気なのでしょうか。

 おいしいものを食べるのは好きですが、高いお金を払うと胃が痛くなるオイラは、神楽坂通りを突っ切り、若宮町方面へ。

 こちらのほうは、理工系の名門、東京理科大学の校舎が町に溶け込んでいました。

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 東京理科大といえば、全身の東京物理学校時代、夏目漱石の坊ちゃんの母校として有名ですね。

 落第学校としても知られ、卒業するのに相当勉強しなければならなかったと、同校OBである中学校の数学の先生が話していた記憶があります。

 理工系というと、オイラからもっとも遠い存在ですが、今は経営学部など文科系の学部もあるみたい。

 でも、理科系が得意そうな顔をしている学生を見て尻尾をまいて退散しようと思ったら、オイラでも入ってみたい施設を見つけました。

 それは、東京理科大学近代科学資料館。

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 科学技術の歴史という切り口なら興味あるかも。

 それより何より、無料という魅力に抗しきれず入ってみることにしました。

 この何ともレトロな建物は、物理学校時代の木造二階建て校舎を平成になってから復元したものだとか。

 実際はもう少し大きなものだったらしいですが、「坊ちゃん」が発表されたのと同じ明治39年に古い校舎は建てられたそうですね。

 行った日は江戸時代の和算家・関孝和の企画展が開かれていました。

 この辺りは、理科系と言ってもオイラの守備範囲ですな。

 いくら数学の不得意なオイラでも、江戸時代の数学はわかるでしょ、と思ったら、あまりの高度さに関孝和の和算の理論がわかりませぬ。

 21世紀に生きているオイラが、江戸時代の数学もわからないのか、と落ち込みました。

 もしかしてオイラの数学のレベルは、室町や鎌倉はおろか、平安や奈良を遡り、古墳時代かも。

 いや、古墳時代も、前方後円墳や円墳、方墳を作る時、レベルの高い数学が使われたそうだし…。

 すると、縄文、弥生時代?

 やみちくり~、まさか博物館見学で、自分の能力の低さをこんなに実感されられてしまうとは。

 ほかにも、物理学校時代の資料など興味深い展示品があったのですが、打ちのめされたオイラにはすべて高根の花に見えてしまうのでした。

 そんなオイラでも、計算機の歴史コーナーは興味を持って眺めることができましたよ。

 昔、見たことのある電卓などの計算機が展示されているのです。

 子供時代に、カシオの電卓を見たときは衝撃を覚えましたね。

 カシオミニのテレビコマーシャルを見て、これで算盤の勉強をしなくてもいいと小躍りして喜んだのを覚えています。

 でも、銀行に入ったとき、算盤が必修で、何度もどなられながら再試験を受けさせられ続けましたが…。

 それはともかく、今、100円ショップで売っているのより性能の落ちる電卓が当時は3万円以上もしたのですね。

 算盤の苦手な人間にとって、ホントに今の時代に生きている幸せに感謝しなければと思いました。

 20年以上も前に買って、今もたまに使っているのと同じ電卓が、資料館の展示ケースに収まっているのを見てびっくり。

 オイラの持っているものが、博物館にあるようなお宝だったなんて。

 展示ケースに収まっているくらい資料価値があるなら、もしかして高値で売れるのではないか、と…。

 シャープのポケットコンピュータもあるのですが、○万円でお譲りしてもいいですよ。

 ただ壊れていますけど。

 科学資料館を出て次に向かったのは、宮城道雄記念館。

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 宮城道雄といえば、正月になると誰でも聞いたことのある名曲「春の海」を作曲した人ですね。

 ここは、昭和53年に、宮城道雄が晩年まで住んでいた敷地に建設された記念館らしい。

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 海は見えないけれど、春の海と神楽坂のしっとりとした古い佇まいはイメージ的に合いそう。

 理科系で打ちのめされたあと、またしても苦手な音楽で打ちのめされると完璧に体調を崩しそうなので、また次回来たときに入ろうと思いました。

 住宅街をテクテク歩き、次に向かったのは光照寺。

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 一見何の変哲もないお寺ですが、なんとここは牛込城跡だと言うではありませんか。

 門前の解説板を読むと、戦国時代、群馬県赤城山麓大胡の豪族で、藤原秀郷の子孫である大胡氏がここに移住し、地名に因んだ牛込氏を名乗って牛込城を築城したらしい。

 何でも牛込氏は、当時は新宿から日比谷方面まで支配していたそうですね。

 東京のど真ん中を支配していたなんてすごいっす。

 …と思って、お寺の周辺を歩いてみましたが、城だとわかる痕跡はありませんでした。

 強いてあげると、高台で、当時は江戸湾がよく見えただろうなというイメージだけでしょうか。

 もっとも、城と言っても館レベルだったのでしょうけど。

 北条氏の時代まではあったらしいですが、徳川の世になって取り壊され、旗本屋敷になったあと、お寺がこの地に引越して来たらしい。

 いきなりお寺になっていれば、東京の九品仏浄真寺のように奥沢城址として痕跡が残ったかもしれませんね。

 うう、残念じゃと、そんなことを考えつつ、坂を下って再び神楽坂の喧騒の中へと戻ります。

 神楽坂の毘沙門天として名高い善国寺では何やらイベントが開催されていました。ここは、江戸の三毘沙門として賑わい、縁日の夜店の発祥の地なのだとか。

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 神楽坂の賑わいは、この辺りにルーツがあるのでしょうか。

 さて、ここからは神楽坂の代名詞ともなっている細かな横丁に入ります。

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 石畳の狭い路地は、なぜか落ち着いた気分になりますね。

 そういえば、神楽坂はずっと昔の伝説のドラマ、「前略おふくろ様」の舞台でしたね。

 萩原健一が演じる若き板前の青春遍歴がテーマだったような。

 …といっても、ほとんど見ていなかったのですが。

 静かな料亭街の路地を歩くと、神楽坂芸者さんとともに萩原健一や梅宮辰夫が現れそうな雰囲気。

 ここから筑土八幡神社へ向かうのですが、ゆっくり歩いていたら長くなってしまいました。

 この続きはまた次回。

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成東もとい山武市 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 オイラは十代の頃から、関東地方を中心に歩きまわっています。

 神奈川県東部や埼玉県南部に関しては、かなり詳しいかも。

 一都三県に関しては、まだ行ったことがない場所を探すのが大変になってきました。

 やっぱし、♪知~らない街を歩いてみた~い♪
 
♪どこか遠~くへ行きた~い♪


 …ですよね。

 まだ見たことがない街を歩き、その街に暮らす人たちの息吹を感じるのも旅の醍醐味のひとつ。

 自然豊かな山や海もいいけれど、歴史ある地方都市により魅力を感じます。

 プラス、城跡があったら、もう最高っす。

 でも、そんなオイラの旅愁をかきたてる場所が、近場では少なくなってきましたぁぁぁぁぁ~

 ところが、関東の地図を眺めていて、オイラは千葉方面にはあまり行っていないのに気がつきました。

 内房と言われる東京湾沿岸部は、鋸山まで。そこから先の館山方面には足を踏み入れておりませぬ。

 外房に至っては銚子と勤め人時代、社員旅行で行った九十九里浜までなのでした。

 内房と外房に挟まれた内陸部は、オイラの要求を満たしてくれる街も、まだまだたくさんありそう。

 たとえば、大多喜や久留里には城下町としての風情と城跡が残っているとか。

 それはもう少し先の楽しみに取っておいて、お気軽に日帰りできる場所はないだろうかとして見つけたのが、成東。

 成東は、なるとうと読み、成田の東という意味でつけられた地名でしょうか。

 どうして読み方を知っているかと言うと、成東高校を知っているから。

 かつて中日ドラゴンズの抑えのエースとして活躍した鈴木孝政の母校なのですね~。

 とくにファンではありませんでしたけど、高校時代顔がクリソツな友人がいて、みんなでからかったから覚えているのでした。

 それはともかく、成東城をはじめいくつか見所もあるらしい。

 …ということで、5月のはじめの休日。オイラはJR総武本線成東駅へ降り立ちました。

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 いつものように駅で、街の情報を仕入れようとすると、成東町ではなく山武市と住居表示がある。

 やまたけし?

 聞いたことのない地名。近くの観光案内所で観光マップを手に入れると、「 Nostalgia Land Sammu City 」と書いてありました。

 サム?そのとき、trfのサムの顔が浮かんだのはオイラだけでしょうか。

 後で聞いたら、山武市は「さんむし」と読みらしい。

 おととしの3月に、いわゆる平成の大合併でできた市なのですな。

 でも、市の由来は郡名の山武郡(さんぶぐん)からだそうなんですよ。

 歴史的には、さんむという読み方のほうが古いそうなんですが、果たして山武を「さんむ」と読める人がどれくらいいるのだろうか、と…。

 名前はオイラにとってあまり関係ないことなので、さっそくタウンウォッチングを開始します。

 まず向かったのが、波切不動尊。

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 遠くからでもこの朱塗りのあざやかな建物が目を引きました。

 露出した大岩の上にダイナミックに突き出るような形。清水の舞台を小さくしたような外観ですな。江戸時代に改築された建物を現代まで改築を加えながら守り続けてきたのですか。

 ちなみにこれを、懸崖造りというらしい。

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 正式には、「長勝寺」と言うそうですが、江戸時代、漂流した漁船を寺の灯りが導いて、無事に難を逃れたことから「浪切不動」と呼ばれるようになったとか。

 確かに、急な階段を上って本堂から下を見下ろすと、成東の街が一望できました。
 
 遥かかなたに、太平洋の大海原がぼんやり霞んで見えます。

 本堂に安置されている不動明王は、奈良時代の僧行基が彫ったと伝えられ、社殿の背後には、千葉県天然記念物に指定されている石塚の森という自然林もありました。

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 波切不動尊の後ろにそびえる小山が気になります。

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 これはいわずと知れた成東城跡っすね。

 さっそく、喜び勇んで城攻めに取り掛かりました。

 城跡を取り巻く細い水路。

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 今ではとても堀の名残だとは思えませんけど、城のまわりをぐるっと取り囲んでいる。

 水の手は当時もあったのでしょうね。やはり堀があったのではないか、と…。

 住宅街から細く暗い林道に分け入ります。かなり急な上り坂。

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 標高はそれほどありませんけど、山城っぽい雰囲気は感じました。城が築城されたのは、足利義満が将軍だった頃らしい。

 戦国時代の頃は、この辺りに勢力を誇っていた千葉氏の一族が城主を勤めていたのですか。

 道は急でしたけど、ほどもなく頂上に到着。

 広場になっていて、愛宕曲輪(推定本丸)の表示があります。いきなり本丸っすか。

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 ここから見る眺望も最高でした。不動尊よりも若干高いみたい。

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 本丸は、それほど広くはないけれど、戦国時代の実戦的な城はこんな感じですね。本丸は広くてはいけないという意見もあったようで、それにしてはなかなかの広さ。40メートル四方はあるのでしょうかね。

 本丸のまわりには土塁。

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 場所によっては深い空堀もまわりにあったりして、当時の姿を想像できました。

 当時の土橋と思われる道をたどって城の内曲輪(推定二の丸)へ。

 本丸と二の丸との間には、空堀を二つ越えないといけなくてなかなか堅固です。

 難攻不落の山城とは言えませんが、行って損はないお城ですね。

 山城というより、平山城でしょうけど…。

 城跡を堪能したあと、道なりに進んで少し下ると元ぜん寺。

 藤の花などいろいろな花が咲き乱れて美しい寺でした。

 そこから成東城址公園の山裾を回りこむように歩き、成東病院の前を過ぎ、東金線の踏切を越え、水田地帯に向かいます。

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 こんな広々とした水田を見たのは何年ぶりだろうかと思いました。

 かわいらしい稲が水田からちょこちょこ頭を覗かせています。水の中からはカエルの鳴く声も聞かれました。

 気持ちいい田園散歩で着いたのが、食虫植物群落地。

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 ここは、モウセンゴケやイシモチソウなど昆虫を捕らえて栄養源にする食虫植物を身近で見ることができるのだとか。

 日本初の天然記念物にも指定されているらしい。

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 生物など理科系の苦手なオイラにとって、ただの原っぱにしか見えないのですが、ボランティアの人たちが熱心に説明してくれました。

 食虫植物群落地から立て看板をたよりに次の目的地まで快適なウォーキングコースでした。

 成東もとい山武は、『野菊の墓』で有名な明治時代の作家、伊藤左千夫の生まれ故郷だそうなんですよ。彼の生家も残っているらしい。

 伊藤左千夫といえば、先日東京亀戸のお墓にお参りしたばかり。なんとなく因縁を感じましたね。

 生家へ行く途中、伊藤左千夫の両親の墓もありました。

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 そして、生家の隣には、山武市歴史民族資料館。

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 行った日は、ちょうど伊藤左千夫の作品展が開催されていました。

 「野菊の墓」を書いた作家ということで、文学青年っぽい優男を想像してしまいますが、猪首でいかつい顔をしたおじさんの写真を見て、驚いている見学者たちが多かったですね。

 元牛乳屋さんだったということは初めて知りました。事業が軌道に乗ってから、歌人として正岡子規などとも交流ができたみたい。

 歌集の同人や編集をするなど歌人として活躍する機会のほうが多かったのでしょうか。

 でも、伊藤左千夫が後世に大きな名を残したのは、43歳のとき書いた「野菊の墓」があったからかも。

 発表当時、夏目漱石が激賞した手紙の文章が紹介されていました。

 それと、松田聖子主演の『野菊の墓』のポスターやパンフレットも。

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 でも、野菊の墓のストーリーより、聖子ちゃんのおでこのほうが話題をさらってしまったようですが…。

 ザ・ベスト10に民子の衣装で出演したとき、久米宏が聖子ちゃんのおでこを見て、「ギャハハハハハハハハハ」と笑っていた声が今でも耳に残っていますね。

 それはともかく、伊藤左千夫の生家。

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 実家は農家だったそうですが、庄屋とまではいかなくても組頭クラスの立派な家ですね。

 庭には、左千夫が東京本所で暮らしたときの茶室も移築されていました。

 帰りは、野菊路を通って駅へ向かいます。

 市役所の前に、伊藤左千夫記念公園がありました。

 そこには、民さんと政夫の銅像が…。

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 ここまで伊藤左千夫で盛り上がっているのなら、山武市よりも、野菊市とか、左千夫市のほうがインパクトあったかも、と考える今日この頃の旅でした。

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奥多摩・御岳渓谷と吉野梅郷 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 一ヶ月前になりますが、連休の中日、またウォーキングに行ってきました。

 行ったのは、御岳渓谷と吉野梅郷。

 三年前に青梅に行ったとき、その先の青梅線と多摩川の上流を探検したいと思ったのです。

 やっと、その目的を達成できる日がやってきたのですね~。

 連休中だったのと、前日の旅行番組で奥多摩を紹介していたみたいでどこもかなり混んでいました。景色だけじゃなく人間ウォッチングを趣味なので、人がたくさんいてもそれなりに楽しめましたが…。

 交通費を安く上げるため、ネットの路線案内を参考に南武線経由で立川へ。そこから青梅に出て、また青梅線の電車に乗り換えます。

 いつもはガラガラなのだと思いますが、車内はハイキングを楽しもうとする人たちでいっぱい。結構年配の方たちも多かったですね。

 オイラの隣にすわっていた70歳過ぎと思われる女性二人が、会話している声が聞こえてきました。

 なんか、毎日のように外出しているみたい。

 手帳を開いて二人で覗き込んでいるので、何気に見たんですよ。

 スケジュールが細かい字でぎっしり書き込まれている。日曜出勤、サービス残業のビジネスマンよりすごいかも。

 カルチャーセンターを3つ掛け持ちして、お役所のツアーや見学会、勉強会には全部参加していると話していました。それから嫁に行った娘の家にも週一で訪ねているのですか。

 聞き耳を立てるつもりはなかったのですが、二人で江戸時代の上下水道について話し込んでいるのですが、話の内容が高度なのでびっくり。

 今回は、多摩川上流の視察旅行っすか。

 元気に長生きして、人生を楽しんでいる女性が多いと実感しましたね~。

 やがて電車は御嶽駅に到着。

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 ドドドドッと降りる人が多かったのですけど、皆、御岳渓谷ではなく、御岳山へ行くらしくバス停は長蛇の列ができています。

 それにしても、駅名は御嶽駅なのに、渓谷は御岳渓谷っすか。

 理由はわかりませんけど、御嶽のほうが深山幽谷のイメージがあるのはオイラだけでしょうか。

 そんなことを考えつつ、オイラは駅前を流れる多摩川の河原に降りて行きました。

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 下流はゆったりのびやかに流れている印象の多摩川も、ここいら辺りは川も生まれたばかりでエネルギッシュ。

 ザザザザ~という流れる音がすさまじい。水の流れも速い。

 そんな急流を利用して、カヌー競技のトレーニングをしている人たちがいました。またゴムボートを使って急流下りを楽しむ若者たちのグルーブも。

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 新緑の山に包まれて、アクティブに急流を仲間と下ったら、「ファイト~一発!!」気分でしょうね。

 昔、ライン下りをして全身ずぶ濡れになった爽快感がよみがえってきました。

 また、やってみたいっす。 

 ひとしきり、水との格闘技ともいえるスポーツを眺めたあと、対岸にわたります。

 御嶽駅から御岳橋をわたってすぐのところにあるのが玉堂美術館。

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 日本画の大家、河合玉堂の作品を収蔵した美術館ですな。

 河合玉堂は、去年のぐるっとパスの美術館めぐりでさんざん作品を拝見した画家。自然をテーマにした静謐にして気品のある作品が印象に残っています。

 玉堂が晩年をここ御岳で過ごしたということは、その時知りました。

 実際、現地へ行ってみると、美術館のすぐ前が多摩川の絶景。川の流れる迫力ある音がつねに耳に入ってきます。

 かなり音が大きいと思うのですが、慣れると煩くないといいますか、むしろ静謐に感じられるところが玉堂の作品のイメージにあっているかも。

 玉堂も、それでこの地に住んだのかと思いましたが、この美術館は玉堂の没後に完成したのですね。

 当時の画室が再現されていましたが、実際のアトリエはどこらあったのだろうと思いました。

 美術館は鉄筋コンクリート造りで、天平の寺院風でも、古民家風でもあってまわりの景観に溶け込んでいましたよ。

 石庭の白と周りを取り囲む山の緑、そして川の流れる音のコラボが印象に残っています。

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 ふたたび御岳小橋を渡り対岸に戻り、御岳渓谷を下流に向かって歩きます。

 河原には、特徴的な大岩がゴロゴロ。

 それらの岩を素手で登ろうとチャレンジしている人たちがあちこちで見かけました。

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 岩の下にマットを敷き、落ちても怪我をしないようにして、腕の力だけで登るのですか。

 昔は体重が60キロなかったので、オイラも木登りや鉄棒は得意でした。

 海へ行って大きな岩を見ると必ず登っていましたが、岩登りのスポーツも流行しているのですね。

 当時だったら、結構いい線行ったかもしれないのに残念、とあと20年遅く生まれていればやったかも。

 はやく生まれすぎたことを悔やみつつ、日本名水百選にも選ばれたという清流と奇岩を目ながら歩きました。

 いったん渓谷から離れ、沢井駅前にある雲慶院へ。

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 茅葺の屋根が美しい一見普通のお寺ですけど、ここは戦争中、浅草寺や大倉集古館の宝物の疎開先になったらしい。

 戦争中も平和が感じられるような景色が広がっていたのでしょうか。

 ふたたび御岳渓谷にもどり、楓橋をわたって寒山寺へ。

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 中国の蘇州の寒山寺は有名ですが、このお寺は昭和5年、その寒山寺の仏像を安置して建てられたとか。

 大岩の上のお堂に急階段を上って参拝すると、水墨画の中に入ったような気がしました。

 渓谷を下流に向かって歩きます。

 少しずつ川の幅が広くなって流れがゆるやかに…。

 軍畑大橋をわたって多摩川の別れを告げ、住宅街へ入っていきます。

 しばらく歩いて、愛宕神社に到着。

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 社殿まで、ここでも急階段があって大変でしたが、上からの眺めは格別でした。

 つつじのピンクと新緑とのコラボで春を実感です。

 愛宕神社を降りてすぐのところにあるのが、吉川英治記念館。

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 吉川英治といえば、「宮本武蔵」や「新平家物語」などが思い浮かびます。なんでも、日本人の作家の中で、古今を通じて最も多く著作が読まれた作家らしい。

 ですが、オイラはつい最近まで一冊も読んだことがなかったことに思い至りました。

 子供の頃、吉川英治原作で、高橋幸治主演の「宮本武蔵」や仲代達矢が平清盛を演じた「新平家物語」のドラマは楽しく見た記憶がありますけど…。

 それじゃいけないと、ひと月前読んだのが「平の将門」。

 猛々しい武将というイメージだったのですが、センチメンタルでごく普通の人という人物造型が異色でしたね。

 案外、吉川英治の書き方が的を射ているのではないかと思ったりして。

 それはともかく、ここ青梅市吉野の地で、英治は、昭和19年3月に家族と東京赤坂 から疎開して、昭和28年8月まで生活していたそうですね。

 さすが人気作家だけあって、梅林に囲まれた二千坪の広大な敷地の中に、もともとあった幕末に建てられた古民家を改造して暮らしたみたい。

 当時暮らしていた家に入ると、吉川英治が「草思堂」と名付けた雰囲気がそのまま残っていました。

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 新平家物語を執筆した書斎は、明治期に建てられた小さな洋館にあるのですか。今も執筆活動を続けているように机の上には原稿用紙や万年筆が置かれています。

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 そして広い庭は起伏に富んだ美しい芝生。その隣には椎の巨木。

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 横の階段をあがってゆくと、吉川英治の業績を紹介する展示室がありました。

 父親は実業家だったそうですが、会社が倒産してからは住み込み店員や工員などになって少年時代は苦労したみたいですね。

 大衆小説作家の原点がこのあたりにあるのではないかと感じました。

 当時の映像も残っていましたが、当時の村人たちの中に入って、一緒に踊るなどひょうきんな一面も見られて楽しかったです。

 ここに来るまでは、もっと山の中にあるのかと思っていましたが、吉野街道沿いの住宅街の中にあるのは少し意外。

 深山幽谷の山の中に一人籠って、新平家物語を書いていたようなイメージでしたから。

 河合玉堂をはじめ、周りの村人たちとの賑やかな交流の中で生まれた文学だったのですね。

 記念館を出て、吉野街道をさらに行くと、即清寺。

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 立派なお寺で、裏山に幕末から明治時代の初めにかけて作られた四国八十八カ所霊場になぞらえた新四国八十八カ所がありました。

 都内のお寺にも似たようなアトラクションはいくつかありましたけど、こちらは大規模でご利益がありそうですね。

 時間がなくて行けませんでしたけど…。

 そして最後に向かったのが、青梅市梅の公園。

 面積は4万5千平方メートルですが、起伏に富んでいて全部を攻略するのはなかなか骨が折れました。

 急な坂や階段をのぼり、ようやく公園の最高所へ。

 吉野郷が見渡せて、これまた絶景。

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 奈良県の吉野は桜が有名ですが、青梅は梅なのですね。

 全山さまざまな種類の梅が植えられていて、シーズンの時の景観は圧巻でしょうね。

 是非、梅のシーズンにまた来てみたいと思ったのですが、梅の木のまわりには大量の杉のバリケードが…。

 シーズンは花粉の量も半端じゃないということがわかりました。

 うぬぬ、もし来るんだったら、命がけの観梅になりそう。

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私のお気に入りの動画ベスト5(あなた、エイトマン、マッハGOGOGO、セシル、C-girl)

 こんにちは。

 最近オイラがはまっているのが、YouTubeの動画。

 記憶には残っているのだけれど、もう二度とお目にかかれないと思っていた画像に再会できるなんて、喜びを通り越して感動に震えます。

 あらためて見ると、新たな発見があったりして楽しい。

 もちろん、古い画像を見て昔を懐かしんでいるばかりじゃないですよ。

 当時はあまり印象に残らなかったものが、今見ると素晴らしく思えるものもたくさんありました。

 年を経るに従って、自分の中身も変わっているのが実感できます。

 ただ、進化したと言えないのが哀しい。

 …ということで、今日は、最近オイラが繰り返し見ている動画をご紹介しようか、と…。

 あと一か月もしたら、嗜好もまた変わってゆくと思うのですが、昔見て今また感動した動画は生涯オイラの頭の中に鮮明に残ってゆくのでしょうね。

 まず一つ目は、去年も私が好きな音楽でも紹介した小坂明子の「あなた」←クリック

 前にも書きましたけど、この曲を最初に聴いたのは、ラジオでした。深夜番組の主題歌だったような。

 けだるい感じのイントロ部分から、サビの熱唱、そしてまた静かな中盤を経て、ラストの「あなた、あなた」の叫ぶような心に響く歌声、そして旋律の美しさに一瞬で魅了されました。

 この、静と動、スローとハイスピードとの対比が絶妙。

 この歌は、小坂明子さんが高校時代の授業中に作った歌だったらしい。

 「あなた」は第4回世界歌謡祭では最優秀グランプリに輝き、発売1ヶ月で100万枚を突破。3ヶ月で165万枚を売り上げ、ポップス界の歴史的ヒットとなった曲。

 紅白にも出場し、当時は毎日のようにテレビに出ていました。大ヒットする前からラジオで聞いてファンだったので、自分のことみたいにうれしかったです。

 それなのに、30年近くも歌っている姿を見ることができませんでした。

 自分の中ではもう伝説になっていた曲なので、再びネットで見られたときはうれしかったですね~。

 しかも、当時の姿そのままで…。

 オーケストラの大音量に一歩も引けを取らない歌唱力はさすがです。しかもまだ十代だと思いますよ。

 その若さで、歌謡史とオイラの記憶にしっかり足跡を残したのですね。

 
 二つ目は、「エイトマン
」。←クリック

 友人に言わせると、鉄腕アトムと宇宙少年ソラン、そしてこのエイトマンが懐かしのアニメ主題歌名曲ベスト3だそうな。

 うぬぬ、ジャングル大帝やあしたのジョーも入れたいけれど、とくに反論はありませぬ。

 アニメとしては、鉄人28号に一番萌えましたけど…。

 それはともかく、選手時代の原辰徳の応援曲でもあったような。

 正直、それは自分の中で少し違和感がありました。

 なんたって、エイトマンは超特急ひかり号を追い抜く走力の持ち主ですよ。

 それと、走っている車に飛び乗る瞬発力、車を持ち上げるパワーを兼ね備えた選手こそ相応しいのではないか。

 そんな選手はいるわけありませんけどね。

 当時のアニメソングはどれも旋律がしっかりしていて、オーケストラ演奏としっかりした男性コーラスが多く、手抜きがまったく感じられない。

 オイラの子供時代、この曲の勇ましさに魅せられて、「エイトマン走り」をして通学しました。

 左手を前に出し、右手を後ろに引いて、どちらも動かさず、足を高速に回転させる。

 思ったより速く走れず、運動会でいい結果が残せなかったのはこのアニメのせいだったかもしれません。

 そして三つ目は「マッハGOGOGO
」←クリック

 アニメのオープニングの動画ではどれだけ見たかわかりませぬ。

 今年の夏は、ハリウッドで実写化した映画が見られるそうですが…。

 それはともかく、YouTubeの動画を最初に見たときは、感動して涙目になりましたね。

 子供時代、こんなスタイリッシュでかっこいいアニメに出会えたことに感謝したいくらい。

 今見てもかっこいいですね~、マッハ号。

 …というより、それ以降これほどかっこいい車に出会ったことがないような。

 50年代にデザインが似たレーシングカーがあって、それをベースにしてできたという話も聞いたことがありますが、半世紀も前に今見ても超未来的なデザインの車が作られていたということに驚きました。

 原作は吉田竜夫で、その後ガッチャマンやタイムボカンといった名作を生み出したタツノコプロの制作。どれもスタイリッシュな作品が多いですね。

 ネットで調べてみると、原作者や総監督の笹川ひろしなど主要スタッフは、当時運転免許を持っていなかったらしい。逆にそれが、型にはまらないデザインや設定を生んだということも聞きました。

 確かに、マッハ号のデザインの魅力はMの字をかたどった特徴的なノーズにあると思うのですが、バンパーがつけられないから公道を走るのは無理かも。よく見ると、運転席の後方に空気取り入れ口があるからマッハ号はミッドシップエンジン?

 でも、よく子供と猿が後ろのトランクに隠れて乗っていたような記憶もあったりして。

 前のボンネットを開けて、エンジンを修理していたシーンもあったような気もしますが、どっちなのでしょうね。

 それはともかく、マッハ号の最高速度は確か500キロ。エイトマンでも追いつけなさそう。

 しかも、マッハ号には8つの特殊装備が施されている。ハンドルについているボタンを押すと、ジャンプしたり、フロントから鋸が出たり、水中を走れたりする。

 高速道路の渋滞で、間違ってジャンプボタンを押したら、大変なことになったりして…。

 オイラは子供時代、マッハ号にあこがれて、さまざまなスーパーカーをデザインしました。でも、これほど余計な装飾がないにもかかわらず、かっこいい車を思いつくことはできませんでした。オイラにはレーシングカーデザイナーは無理だと悟ったのも、マッハ号を見たからかも。

 いくら考えても、ウルトラセブンのポインターやキャプテンスカーレットに登場する車みたいになってしまう。それはそれで、かっこいいのですが…。

 やっぱり、デザインのもっとも基本的な部分のコンセプトがしっかりしているのでしょうね。とくに、車のサイドは実に個性的でシャープです。

 オープニングの画像も、マッハ号の魅力的な部分がてんこもりです。

 上部からMの字を模した独特のフォルム。サイドに視点が移り、三船剛が飛び乗り、キーをまわす。

 ドラムのソロ。アナログの計器盤も今では逆にレトロでお洒落っす。

 センターロックのホイールのアップ。その中から三船剛が現れ手を振る。顔がちょっときいちのぬりえみたいですが、それもレトロ感があってグー。

 そこからレースシーンへの場面転換。そして、アフリカのサバンナを疾走するマッハ号。

 オートジャッキボタンを押して、アフリカ象の上を飛び越える。これはアニメの歴史に残る名シーンですよ。

 また場面が変わり、岩山でインディアン?レーサーから銃撃をうける。

 場面転換には、当時のバットマンなどのアメリカのドラマの影響もあるような気がしました。

 最後のチェッカーフラッグのへの展開の仕方も素晴らしい。

 今のアニメのオープニングはよく知りませんけれど、ここまでよく考えられた作品はそうないのではないでしょうかね。

 さて、長くなったので、四つめと五つ目は一緒に。

 浅香唯の「セシル」と「C-Girl」っす。

 浅香唯が活躍していたのは、80年代後半から90年代前半にかけてだと思いますが、あまり記憶に残っていません。

 一か月の残業時間が100時間を超えて仕事していた頃でしたからね。

 もちろん存在は知っていましたけど、それほど注目はしていませんでした。

 キョンキョンの動画を見ようとして何気に、浅香唯の動画をクリックしたのです。

 それは「セシル
」。←クリック

 当時も知ってはいましたが、あらためて見て、こんないい曲なぜ当時注目しなかったんだろう、と…。

 曲はもちろんですが、麻生圭子の作詞が秀逸。

『人は大人になるたび弱くなるよね
ふっと自信をなくして迷ってしまう

恋は楽しいときより悲しいときに
そっと始まったほうが長く続くね

きっと誰でも一人は味方がいるの
いつも私がそれになれればいいのに』

 まわりの人たちも含めて、いろいろ経験を積んできた人間にとって、これらの歌詞は仰る通り、っていう感じがしました。

 「セシル」が素晴らしかったので、別の曲ということで「C-girl
」の動画も見てみました。←クリック

 雰囲気がガラッと変わってこれもいい。

 「C-Girl」については、ほかにも動画がありましたけど、オイラ的にはこれがベストではないか、と…。

 とくにピヨコ隊にからまれたときの唯ちゃんの表情がいいですね。

 でも、見ようによっては、セクハラかも。

 当時は、セクハラのおやじにもやさしい時代だったのかと思いましたが、こればっかりは懐かしんではいけませんね。

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