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土方歳三のふるさと日野・高幡不動 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 新選組・日野シリーズの最終回は、いよいよ真打ち、土方歳三さまの登場っす。

 生家跡への訪問ですね。

 土砂降りの雨から天気が回復して、快適なウォーキングをすることができました。

 右手に見えてきた、こんもりと緑に包まれた丘。あれはどうみても、城跡でしょうとあたりをつけたら、案の定、高幡城址なのでした。

高幡城址


 川と丘がコラボであると、城跡を疑ってみたくなります。

 丘の麓には高幡不動があるので、あとで行ってみようと足を速めました。

 万願寺歩道橋を越え、左手に神社が見えたところを左折、住宅街を道なりに歩いてゆくと、庭に「誠」の旗が立っているお屋敷がありました。

土方歳三資料館


 ここが土方歳三資料館であるとともに、歳さんの生家あと。

土方歳三生家跡


 歳さんが青春時代を過ごした実家だったのですが、オイラが20年以上前に来たときとは、まわりの景色はもちろん家も様変わりしていました。

 20年でこんなに変わるんですね~。

 うろ覚えですが、田んぼや畑があって、当時は近郊の農村といった感じでした。今はお洒落な住宅街。

 すぐそばを多摩モノレールの高架が走っていて、スーパーやファストフードのお店も建ち並ぶ。

 昔のこの辺りを知っているオイラとしては、より歳さんが暮らした石田村に近い景観を見たことがあるぞ~、ひひひ、うらやましいだろ~と自慢したい気分になりました。

 立派ではあったものの、トタン屋根の崩れそうな家屋だった歳さんの実家も、ハイカラなお屋敷に変貌を遂げている。

 もっとも、以前の崩れかけたような家屋よりは今のお屋敷のほうが、あの写真に写っている歳さんのイメージに結びつくというのが変な感じですが…。

 こちらも、子孫の人たちが経営しているようで、月一回、第三日曜日だけの開館なので行った日は休館なのでした。

 歳さんの愛刀、和泉守兼定や書簡、池田屋事件で使用したと伝わる鎖帷子、鉢金、榎本武揚の書、歳さんも行商をした土方家家伝薬である石田散薬にまつわる資料などを保管しているらしい。

 それにしても、歳さんの肖像写真を見ると、江戸時代を生きた人とは思えないくらい現代的な顔立ちの美男子と思えます。

 当時の人たちも、「眉目清秀ニシテ頗ル美男子タリ」と言われていたそうな。

 五尺五寸で、身長は当時としては長身の168センチ。すらりとして、色も白く、一見商人風で鬼の副長と恐れられていたとは思えない。

 そのギャップが人気の一つなのでしょうね。

 うぬぬ、写真をよく見ると、ウッチャンナンチャンのウッチャンにも似ているぞ、とかいや、狩人の弟のほうにクリソツじゃとか、嫉妬心が湧き上がる今日この頃。

 個人的には、栗塚旭の土方歳三の、口下手で無骨だけど、ちょっとやさしくてかっこいいイメージが好きなのです。

 司馬遼太郎の「燃えよ剣」のイメージにぴったりで…。

 ただ、歳さんは昔、薬の行商をやったりして一見商人風の愛想のよさもあったのではないか。営業をやると、人格に劇的な変化が現れますからね。

 オイラも営業をやっていたから経験があるのですが、栗塚旭版土方歳三のキャラクター設定では行商はできなかったかも。ノルマ達成できなかっただろうといいますか。

 その点では、山本耕史版土方歳三のほうが、より実際の土方歳三に近かったのかな、という気はしています。

 それはともかく、この辺りの家は土方さんと書かれた表札が目につきますね。

 歳さんの実家あとの隣にある立派な長屋門のお宅も、土方さんという表札が掛かっていました。

隣にある立派な長屋門

 
 土方家は、この土地の大百姓だったというのも頷けますね。

 そんなことを考えつつ、資料館から道なりに歩いてゆくと、住宅街の中に小さな社を取り囲むように大木が数本ある場所に出ました。

とうかんの森


 ここは、「とうかんの森」と言って、土方家の氏神として祀られた稲荷神社の跡なのだとか。この近くにはかつて歳さんの生家、土方家があったのですね。

 浅川と多摩川の合流地点に近く、この場所はたびたび大雨の被害に見舞われ、天保十一年の洪水で歳さんの生家は流されてしまったらしい。

 それで、先ほどの場所に引っ越したのですな。

 大雨に悩まされたという点だけはオイラと共通点があったと喜びながら歩き、石田寺に到着。

石田寺


 ここは古くからこの土地に暮らしていた土方家の墓所であり、土方歳三顕彰碑がありました。

 確かに墓地に並んでいるお墓は、「土方家」のものばかり。

 境内にそびえる樹齢400年と言われるカヤの大木は高さ20メートルもあるらしい。当然、歳さんもこの木を眺めて少年時代を過ごしたのでしょうね。

カヤの大木


 石田寺から高幡不動へは浅川のほとりを歩きました。この河原に生えていた「牛革草」という野草を、土用の丑の日に石田村の村民が総出で採り、散薬にしたものが歳さんの生家に伝わる打ち身薬「石田散薬」なのですね。

浅川


 この河原で、若い日の歳さんが村人たちをまとめて、草を総出で刈っている姿が目に見えるようでした。

 そして最後に向かったのが高幡不動。

高幡不動


 土方歳三の菩提寺で、関東三不動の一つにも挙げられる古刹ですね。

 不動堂や仁王門は重要文化財にも指定され、新しく作られた五重塔とともに、とても美しい境内だと思いました。

 そして境内には、土方歳三の銅像。

土方歳三の銅像


 こちらはまたすこぶるイケメンですな。若い頃の栗塚旭と山本耕史を足して2で割ったような。
 佐藤彦五郎たちが建てた殉節両雄の碑もありましたよ。

 夕方でしたが、丘の急斜面を登って高幡城跡にも行ってみました。

高幡城本丸跡


 城の縄張りの地図もなく、本丸跡の標識があるだけでしたね。

 なんでも、城についての記録は少なく、金剛寺の裏山に城址があったという伝承があるだけなのだとか。

 土塁や空堀のあとも推定するしかなかったですが、新選組とお城がコラボで見られたのは一粒で二度おいしいウォーキングコースでした。

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新選組のふるさと、日野 ウォーキングストーリー2

 こんにちは。

 今日は前回の続きです。

 日野宿本陣を出ると、なんと土砂降りの雨。

 曇っていて、今にも雨が降り出しそうでしたが、やっぱり降りましたか。ネットで調べてから出かけたのですが、降水確率は40パーセントでした。

 前のブログでも書きましたが、豪雨でかなりヤバイ状況に陥ったことがありますから備えは万全。

 あの事件以来、どんなに晴れた日でも折りたたみ傘はカバンの中に入れて出かけます。そして今日のように雨が降りそうな日にウォーキングに行くときは防水仕様のシューズ。

 5センチ防水とか書いてあるスニーカーを買ったのですね~。

 雨の中でも長靴で遊んだ子供時代を思い出して、次の目的地井上源三郎資料館へと向かいます。

井上源三郎資料館


 ただ、この資料館は個人経営で、第一・第三日曜日だけが開館日だそうですので念のため。

 行った日は休館日だとわかっていたのですが、外から眺めさせてもらおうと思ったのです。

 それにしてもすごい雨。風も強くて歩きづらい。

 でも完全防水の買ったばかりのスニーカーは万全…。

 …と思ったら、ジワジワと靴下に水が染み込む嫌な感じ。その2分後には完璧に靴の中に水が入って、歩くたびに靴の中でビチョ、ビチョと気持ち悪い音を立てるのでした。

 何が完全防水じゃ~とメーカーに腹を立てても後の祭り。

 こんなことなら、普通のウォーキングシューズのほうが楽なのでした。

 でも、5年前の相模川の悪夢と比べたら天国といってもいい状況だと思い直し、目指す目的地に到着。

 ここに資料館があるということは、当時井上源三郎はここに住んでいたのでしょうかね。

 家に帰ってネットで調べてみると、やはり実家のあった場所だとわかりました。

 大河ドラマでは、兄弟子なのに後輩たちの細々とした世話をしてあげたり、庭を率先して掃除したり、とてもきさくでやさしい人柄に描かれていましたね。

 リアルでも「源さん」と呼ばれていたように、無口で人の良い人だったようです。真面目で誠実な人柄で、若い隊士から慕われていたらしい。

 一方で頑固なところもあって、一度言い出したらきかない面もあったそうな。

 ドラマの最後のシーンも、まわりが止めるのも聞かないで官軍の鉄砲隊の前に仁王立ちになって戦死しましたね。

 享年40歳というから、近藤勇や土方歳三よりも年長なのですか。決して長いとは言えない人生でしたが、こうして資料館までできるとは本人も思っていなかったのではないかと思いました。

 新選組の名前がある限り、永遠に語りつくされていくのでしょう。

 びしょ濡れになりながら、そんなことを考えつつ歩き、八坂神社に着く頃にはシューズから水があふれ出るような状態に。

 気持ち悪いっす。

 雨がすごかったし、八坂神社の本殿は最近できたみたいだと思ってよく見なかったのですが、あとでこれは覆屋だとわかりました。

八坂神社


 この中に、1800年に建造された本殿があったのですね。精巧な彫刻が施された江戸後期を代表する神社建築で、日野市の指定重要文化財だそうな。

 ほかにも、後に新選組に参加することになる近藤勇や井上源三郎らが奉納した天然理心流の剣術額もあったそうですね。

 見学しないで、もったいないことをしたと後悔しました。

 だから雨は嫌いなのじゃ

 そこから3分ほど歩くと、宝泉寺があります。

宝泉寺


 ここは井上源三郎の菩提寺だそうで、彼の顕彰碑がありました。

井上源三郎顕彰碑


 次に向かったのは、大昌寺。

大昌寺


 少し雨が小降りになってきて、青々と濡れた芝生がとても鮮やかでした。

 ここには、前回の記事でご紹介した日野宿の名主で本陣も経営し、さらに新選組の育ての親でもあった佐藤彦五郎のお墓と彼の妻で歳さんのお姉さんのお墓があるのですね。

佐藤彦五郎のお墓


 由緒あるお寺らしく、ほかにも日野の町ゆかりの人たちが大勢眠っておりました。

 ここから住宅街をテクテク歩き、中央ハイウェイの下をくぐりぬけて向かったのは、その名もズバリ「新選組のふるさと歴史館」。

新選組のふるさと歴史館


 ここは新選組の調査・研究・展示活動を行うために日野市が設けたのですか。

 昔はなかったと思ったら、平成17年開館というからつい最近できたのですね。
 
 新選組は、隊士の写真が残っているくらい古い組織ではないですからね。どんなものが残っているのだろうと興味津々で行ったら、休館でしたぁぁぁぁぁぁ~

 休館日といっても、その日だけ休みだったわけではなく現在展示替えが行われているらしい。

 次回展示は、9月27日(土)~12月14日(日)までの予定で、日野市郷土資料館特別展『ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語』を開催するのだとか。

 しかも、新選組とは関係ありませんので念のため、という注釈までついているのでした。

 せっかく新選組で町おこしをしようと頑張っているのに、日野宿の本陣は最近観光客が減っているみたいだし、こちらも新選組から別の展示ですか。

 本当に好きなファンは当然すでに来られているでしょうし、リピーターになるのはよほど知恵を絞らないと難しいのかもしれませんね。

 せっかく楽しみにしていたのに残念と、すぐそばの日野市役所で休憩。

日野市役所


 レンガ色の立派な建物ですな。

 すぐ横には、日野中央公園の緑が目にまぶしいっす。どうやら雨も止んだようで、太陽が顔を覗かせました。

 ここから土方歳三資料館までは約3キロの道のり。

 日野バイパスを越え、浅川の河原沿いの遊歩道を下流に向けひたすら歩きます。

浅川の河原沿いの遊歩道


 ここから歳さんの実家あとへ向かうのですが、それはまた次回。

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新選組の故郷、日野 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今回行ったのは、新選組の故郷といわれる日野です。

 新選組といえば、最近、NHKの大河ドラマでも話題になりましたね。

 オイラ的には、子供の頃見たテレビドラマ「燃えよ剣」のイメージのほうが強烈。

 栗塚旭の演じた鬼の副長土方歳三の鬼気迫る生き方に、すっかりファンになってしまいました。函館五稜郭の最後のシーンは、今でもくっきり脳裏に焼きついておりまする。

 テーマミュージックも、勇ましく一途に生きた歳さんのイメージそのままでかっこいい。

 それはこちら

 司馬遼太郎の原作を読んだのは確か高校生のときだったと思います。もしかしたら、司馬作品の中で初めて読んだのがこの本だったかも。

 司馬作品の面白さを、オイラのDNAの中に組み込んでくれたという点では記念碑的な作品ですね。

 土方歳三の生家が日野に残っていると知ったのは、社会人になってからです。今から20年以上も前だったと思いますが、ガイドブック片手に訪ねたのですね~。

 田のあぜ道や畑が広がるのどかな田園風景の中に、黒塗りのトタン屋根の生家がありました。土方家は、多摩地方に広がる豪農の家系で「お大尽」とよばれる大百姓だったらしい。

 子孫の人たちが暮らしているようで中には入れませんでしたが、今にも崩れそうな外観に歴史を感じました。

 当時から歳さんの例の軍服を着たお洒落で、さっそうとした写真は知っていましたから、何の変哲もないまわりの景色は少し意外だったのを覚えています。

 でもよく考えてみると、すぐそばには甲州街道の日野宿がある。歳さんの姉のご主人は、日野本郷の名主兼日野宿問屋をつとめ、脇本陣も経営していたとか。

 歳さんはそこへよく出入りしていたそうですし、実家も秘伝の石田散薬を作り、行商の経験もあったらしい。

 司馬遼太郎の本を読むと、石田散薬を作るとき、子供の頃から村の人たちを動員してシステマチックに動かした経験が新選組の組織作りに役立ったという記述があります。

 現在の上野松坂屋で奉公したという伝説もあるそうですが、武士の魂を持ちつつも、商売人としての合理的な思考方法があれだけの活躍を生んだのだろうと思いました。

 …ということで、新選組の故郷を20年ぶりに訪れようと、9月のどんより曇ったある日、オイラは日野にやってきました。

 日野駅を出ると目の前の通りは、旧甲州街道。

 まず目についたのはこの建物なのですが、これがなんと日野駅の駅舎なのですか。

日野駅の駅舎


 れっきとした東京近郊のJRの駅なのに、峠の茶屋のような面影が…。今はトタン屋根ですが、昔はわら葺だったのでしょうかね。

 駅の構内にいると気づかないのですが、外へ出て後ろを振り返るとおお~と思いました。

 さすが元宿場町。

 甲州街道を府中方面にテクテク歩くと、右手に旧日野宿の本陣があります。

旧日野宿の本陣


 ここは都内に現存する唯一の本陣だとか。

 江戸時代の本陣とは、街道の宿駅で、大名・公家・幕府役人などが宿泊した公的な宿。

 今はひとつだけですが、当時は大きな本陣と脇本陣が長屋門を構えて並び立っていたそうな。ちなみに今残っている建物は脇本陣だったらしい。

 そして幕末、この脇本陣を経営していたのが、土方歳三の姉が嫁いだ佐藤彦五郎なのですね。

 さすがに高貴な人たちを迎えるために作られた建物だけあって、玄関の立派さに圧倒されました。

旧佐藤彦五郎邸玄関


 でも昔来たときは、ゆっくり見た記憶がないのです。

 どうしてかな、と思いつつ、建物の横へまわりました。入り口があって、入場料200円で中が見学できるらしい。

 入るとボランティアで解説をしてくれるおじさんから声をかけられました。

 オイラが今日はじめてのお客さんなのですか。

 どんより曇った日でしたけど、午前11時をまわった頃。この建物は、新選組のファンにとってはかけがえのないものですからね。

 平日でしたが、新選組の土方・沖田ファンの女性が訪れているのではないか、と…。

 大河ドラマが放映していたときは、平日でも大賑わいだったそうですが。

 でも、見学者にとっては、すいているほうがゆっくり思う存分、スペースを独占できるのがうれしい。

 ボランティアのおじさんとマンツーマンで本陣の中を見学することにしました。

 まず、古い民家にはつきものの土間。そして現在残っている主だった部屋は9部屋。それも今のマンションのような狭い部屋ではなく、一番広い部屋は18畳もあるのですか。それに4畳の間や広い廊下がプラスされる。

 もちろん全部プライベートな空間ではなく、庄屋さんと本陣の公的なスペースとしてこれだけの広さが必要だったのですね。

 この建物が面白いと思ったのは、庄屋さんと本陣の機能がコラボで一つの建物の中に存在すること。

 土間からあがる18畳の広いスペースが庄屋さんとしてのオフィスや会議室として利用されたのですね。

18畳の広いスペース


 昭和になってからですが、このスペースで日野館というお蕎麦屋さんを営業していたらしい。

 前回来たとき、お蕎麦屋さんだったので、中に入れなかったことを思い出しました。

 昼ご飯を駅の近くでたらふく食べてから来たので、スルーしてしまったのですね。 

 18畳の部屋と格式のある玄関から続く10畳間との間を大きな板戸で締め切って、庄屋と本陣の機能を分離しているということでした。

 使われ方がまったく違うから、本来は壁にして完全に分離したほうがいいのでしょうけど、家の中が迷路みたいになって使い勝手が悪くなりますからね。

 そして玄関から続く10畳間で、土方歳三が昼寝をしていたと言われているそうなんですよ。

 その部屋に入ってみると、昼間なのに薄暗い。当時の行灯を模した照明が、足元をぽんやり照らし出すだけ。

 彦五郎さん一家のプライベートスペースは4畳間を隔てた奥のほうにあり、格式の高い本陣のスペースは当時、普段は使われていなかったのでしょう。

 広々として薄暗くて静かで、昼寝をするにはもってこいの部屋だと、歳さんの心境がわかるような気がしました。

 その隣は、6畳間が二部屋続く。

 奥の6畳間は、新選組の少年隊士で土方歳三の小姓をしていた市村鉄之助が匿われていた部屋なのだとか。

 そういえば、大河ドラマの「新選組!」の続編のドラマで、それにまつわるシーンがありましたね。

 市村鉄之助はほかの隊士と一緒に戦死する覚悟だったが、歳さんは彼の若さと将来を思いやって箱館からの脱出を命じる。

 歳さんの遺品を託されて函館を脱出した市村は、官軍の包囲を掻い潜って土方の故郷日野の佐藤彦五郎家にやってくる。なんと3ヶ月もかかったとか。

 あの有名な歳さんの肖像写真も、市村鉄之助の難行苦行の旅がなかったら、今日の我々は拝めなかったのでしょうね。

 鉄之助はそのあと2年ほど、佐藤彦五郎家に匿われていたらしい。

 NHKのドラマが放映されたあと、市村鉄之助役のイケメン俳優の人気で、随分若い女性がこの部屋を訪れて写真を撮ったとか。

 中廊下をはさんだ座敷は、本陣をしていたときは中の間、下の間として利用されたらしい。

 当時は、そこから上段の間と御前の間が続いていたそうですが、明治になってから彦五郎の息子が養子に行った家が火事で焼けてしまったとき、移築されたそうです。

 今でもその移築された座敷はこの近くに残っているそうで、その内部の写真が展示してありました。

 ボランティアのおじさんによると、この家は材木を吟味して、10年という準備期間を費やして作られたとのこと。

 重厚な大黒柱や太い梁など強固な造りが実感できました。関東大震災でもびくともしなかったそうですね。

佐藤彦五郎家居住スペース


 確かに、いろんな古民家を見慣れているオイラとしても、城郭なみの大黒柱だと思いました。

 この館の主、佐藤彦五郎氏の肖像写真も展示してあります。

 あれ~? どことなく「新選組!」で佐藤彦五郎を演じた小日向文世に似ている。

 スリムな体型。額が広いこと。面差し。全体の雰囲気が。

 ドラマのようなひょうきんな性格だったかどうかはわかりませんけど、新選組の誕生からその後にいたるまで大きな影響を及ぼした人だったみたいですね。

 近藤勇の養父であった近藤周助に入門し、天然理心流の免許の奥義を許されたのだとか。

 武芸を習った動機は、当時の治安の悪化によるもので、この屋敷の中に道場を開いて、近藤勇たちを応援したらしい。

 そういえばドラマでもそんなシーンがありましたね。

 佐藤彦五郎は日記も残していて、近藤勇や土方歳三、沖田総司の当時の活動の様子を伺うことができるとか。

 もらったパンフレットを眺めると、近藤勇がこの地方へ出稽古に来て、この地区の人たちと交流を持った様子がわかりました。

 それしても、土方歳三の記載の仕方が、安政の頃、俊蔵だったり、歳蔵だったり一定しないのはなぜ?と思ったりしました。

 義理の弟だし、名前を間違えるはずはないのだけれど…。

 戊辰戦争の頃は、日野の人たちも、新選組とともに甲陽鎮撫隊に加わって激動の中に飲み込まれてゆく。

 鉄砲など武器を集めて、官軍と戦うことになるのですな。

 佐藤彦五郎氏も官軍から追われる身となって、お寺へ隠れていたとボランティアのおじさんが話してくれました。

 明治維新ののちも生き長らえのことができ、明治35年76歳でこの世を去る。

 明治になってから、当然、新選組は「悪の巣窟」と言われた時代が長く続いたと思いますが、一貫して新選組隊士の復権と顕彰に尽力した生き方は立派だと思いました。

 最後に、新選組にまつわるビデオを見たんですよ。

 新選組6番隊長井上源三郎の子孫の人がテレビに出たのですが、大河ドラマで井上源三郎を演じた小林隆によく似ている。

 ドラマの中でも源さんと言われて、温厚な人柄が画面からにじみでていましたね。

 子孫の人と目のあたりが似ていて、朴訥とした感じが小林隆演じる源さんそっくり。

 子孫の人たちからキャスティングを考えることはないと思いますから、やはり当時の写真や証言から、似ている俳優さんを選んだのでしょうか。

 そういえば、土方歳三役の山本耕史も写真によく似ているし…。

 栗塚旭より、本物に似ているかも。

 でも、近藤勇は似てないっすね~。

 やっぱり、ジャニーズ事務所の実力がキャスティングに影響を与えたのかも。

 日野宿本陣を出ると、なんと土砂降りの雨。

日野宿本陣と土砂降りの雨。


 大雨の中、土方歳三の実家を目指すのですが…。

 日野のネタは次回も続きます。

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湘南・江の島 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 ここに来て、かなり涼しくなってきましたね。

 夏に行った場所のお散歩ネタでは、季節感がおかしくなりそうだと感じる今日この頃。

 日々の活動にブログの更新頻度が追いつきませぬ。

 でも、ノスタルジックな気分で、過ぎ去った夏を思い出すのもいいかも。

 サザンの桑田さんの映画「稲村ジェーン」の中で、清水美砂が「暑かったけど、短かったね・・・夏」と言った台詞が似合う季節になりましたし…。


 …ということで、秋真っ盛りに、真夏の記事を書く場所は、湘南江の島です。

 行った日は、8月の中頃。

 海水浴で行く人は多いけれど、江の島だけを見に行く人は少ないだろうなと思ったら、すごい人でびっくり。

 やっぱり夏の湘南は、古くは石原慎太郎の「太陽の季節」、加山雄三、ワイルドワンズの湘南サウンド、最近ではサザンと、いつの時代も魅力があるのですな。

 が、しかし…。江の島はなんと鎌倉時代から参詣者を集めていたそうなんですよ。

 しかも、江戸時代は三泊四日の江の島弁才天ツアーが大人気だったとか。

 当時は、今みたいに江の島弁天橋もなく、渡し舟で島へ渡ったそうですね。

 そこでオイラも、当時の旅人になった気分で東海道藤沢宿から、彼らが往来した古道江の島道を歩いてみることにしました。

 藤沢駅までは小田急で。オイラの家からだと、交通費が節約できるのですね~。

南口から国道467号線に沿って歩きます。

 お洒落な店が左右に建ち並び、そぞろにウインドウショッピング。

 おお、ユニクロもあるっす。ユニクロを見ると、条件反射で中へ入って新商品が出ていないか、それとともにバーゲンの値札を確認してしまう自分が哀しい。

 市民会館の先に、モダンな建物がありました。

Ca3a0093

 これは旧近藤邸。

 大正14年に、別荘として辻堂東海岸の松林の中に建てられたのだとか。老朽化のため取り壊されそうになったところ、市民運動によって移築保存されたのですね。

 この建物はどこかで見たようなイメージでしたが、帝国ホテルの設計で知られたアメリカ人の建築家ライトの弟子であった遠藤新の設計なのだとか。

 遠藤新といえば、去年行った池袋の自由学園の講堂や校舎で有名な建築家。

 いろいろほっつき歩いていると、どこかで点がつながって、知識が広がってゆくのが楽しいっす。

 上山本橋で境川を渡り、川沿いをテクテク歩きました。

Ca3a0094

 また例によって日陰はなく、ギンギンギラギラと太陽が容赦なくオイラを直撃します。

 でも、海が近いのか、さわやかな川風が吹いていて、意外と楽。

 しばらく行くと、何の変哲もない道路上に解説板がありました。

Ca3a0095

 ここは、馬喰橋(うまくらばし)というのですか。道路かと思ったら、下に細い川が流れています。

 解説板には、「源頼朝が片瀬川に馬の鞍を架けて橋の替りにしたことから馬鞍橋、また昔馬がこの橋にさしかかるといななき突然死んでしまうことから馬殺橋と呼ばれたが、あるときに行者聖が橋の石を取り替えてから災難はなくなった」と書かれていました。

 当時はもっと野趣あふれる景観だったのでしょうけど、今はイメージするのが難しいかも。

 新屋敷橋のところで住宅街に入り、しばらく歩くと片瀬小学校の脇に、江の島弁財天の道標がありました。

Ca3a0097

 これは江戸時代のトップ鍼灸師、杉山検校が江の島神社に参拝する人たちの道標に寄進したものの一つだとか。

 参詣の道を歩いていて、いくつか同じ道標を目にしました。現在でも10余基ほども残っているらしい。

 そこには「ゑのしま道」と刻まれておりました。

 緑あふれる住宅街の細い道をどんどん歩いてゆくと、左手あるのが諏訪神社上社。

 急な石段を上ればきっといい景色が見られるはず、と汗をふきながら本殿に向かいます。

 なぜか境内は扉が閉まっていて入れなかったのですが、丘の上からは相模湾と江の島がちょこっと見ることができました。
Ca3a0099

 それにしても、雲ひとつない快晴。

 再び元の道に戻り、密蔵寺、本蓮寺、常立寺という古いお寺を巡って歩きます。

 湘南モノレールの湘南江の島駅を左手に見つつ、国道467号線をゆくと龍口寺がありました。

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 ここは鎌倉時代、龍の口刑場があったそうですね。

 この地に送られた者はすべて斬首になったのですか。日蓮宗の開祖、日蓮上人も鎌倉幕府の反感を買って捕えられ、この地に連行されたそうなんですよ。

 そして斬首されそうになったとき、江の島から満月のような光が飛んできて斬首役人の目をくらませられたり、処刑に使われた刀に光がかかり三つに折れたり、とかという伝説があるそうな。

 それで処刑は中止になったとか。

 何でも、龍の口刑場で処刑を免れた者は歴史上、日蓮聖人だけだそうですね。

 境内には、刑場へ向かう前の日に日蓮聖人が一晩を過ごした土牢が今も残ってしました。

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 奥行きがなくて、じめじめしていて、一晩でもここで過ごすのは苦しかったと思います。

 江戸時代に建てられたという本堂は立派で、豪壮な彫刻が見事。木造の五重塔は神奈川では最古と言われているそうですが、境内でオイラがビビビときたのは、この大書院。

大書院

 なぜか、この建物が気に入って、時間を忘れてずっと見入っていました。

 家に帰ってネットで検索したら、それもそのはず、昭和初年に信濃国松代藩の藩邸を移築したものだとわかりました。

 松代藩といえば、真田10万石。城の遺構だったのですね。

 オイラが魅せられて当然なのでした。

 龍口寺門前は、江ノ電の撮影スポットなのだとか。オイラも写真を撮ろうと粘ったのですが、いつまでたっても電車が来ない。

 直射日光を避け、街路樹にもたれて待つこと10分近く。

 昔東京の中心部を走っていた都電とも違う存在感のある電車がいきなり一般道を
走ってくるのはインパクトがありました。

江ノ電


 一応注意を促す信号が点滅しますが、踏み切りがない歩道をいきなり横切ってくるのは迫力満点。

 江ノ電は鎌倉辺りではかわいい印象ですが、江の島辺りに来ると、道路交通の王様のような威厳が感じられました。

 江ノ電江の島駅の踏切を渡ります。

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 商店の建ち並ぶ洲鼻通りを歩いていよいよ江の島へ向かいました。

 江の島弁天橋から江の島を望む。

江の島弁天橋から江の島を望む


 ところで、ケータイのカメラの設定がおかしくなって、画像が小さくなってしまいました。

 どうやら、ケータイの壁紙の設定になってしまったみたい。

 買ったぱかりで元に戻し方がわからず、これからはこの写真で失礼します。

 家に戻って説明書を読んで、直し方がわかりましたけど…。

 せっかく来たのだからと、片瀬東浜海水浴場に寄ってみました。

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 うう、砂浜は特に暑いっす。

 家に戻ったら、顔や手が日に焼けて真っ赤でした。別に砂浜で甲羅干ししたわけではないのですが、夏の海の紫外線のすごさを感じましたね。

 弁天橋を渡り、いよいよ江の島に上陸。

 江の島に来たのは何年ぶりでしょうか。子供時代以来思い出せませぬ。

 NHKのニュースでは毎日のように、夏の江の島の映像が出るので、久しぶりという気はしないのですが…。

 江の島の入り口に立つ、青銅製の鳥居をくぐるとみやげ物店や飲食店がにぎやかに並ぶ江の島神社の参道が続いていました。

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 江の島の名物、しらす丼をメニューに掲げる店がたくさん。お昼はかなり過ぎていたのですが、どこの店もお客さんで一杯です。

 エスカーというエスカレーターで江の島の頂上まで昇れるそうなのですが、有料ということで当然足に頼ることにしました。

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 江の島神社のご祭神は、三人姉妹で、奥津宮、中津宮、辺津宮それぞれの社殿にお祭りされているのだとか。

 階段を上り、最初にお参りした辺津宮の境内の奉安殿には、八臂(はっぴ)弁財天と、 日本三大弁財天のひとつとして有名な裸弁財天・妙音(みょうおん)弁財天が安置されておりました。

江の島神社


 中津宮へ行く途中の階段からは、江の島のヨットハーバーが見渡せます。

江の島のヨットハーバー


 中津宮から奥津宮へ行くとき、右手に見えたタワー。前から気になっていたのですが、これは江の島展望塔と言って、江ノ島電鉄(株)の開業100周年記念事業として建て替えられたものらしい。

右手に見えたタワー


 これは灯台としての機能もあるわけですか。

 時間も遅かったし、サムエル・コッキング苑という庭園に入場料を払って入らないと昇れないので今回はパス。

 食堂やみやげ物店が並ぶ起伏のある細い道を歩き、奥津宮に到着。

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 門の天井には、酒井抱一の「八方睨みの亀」がありました。この写真はレプリカですが、どこから見ても、亀さんと目が合うのだとか。

八方睨みの亀


 面白い構図の絵ですな。

 そして急な崖の階段を降り、江の島の岩戸へ。

江の島の岩戸


 それは一言でいえば、長い歳月をかけ、波が岩を削り取ってできた洞窟。

 第一岩屋と第二岩屋に分かれていて、それぞれ152mと112mもあるらしい。

 何とここは、江ノ島信仰発祥の地といわれていて、弘法大師や日蓮上人などがここで修行を積んだそうな。

 入り口で500円を払い、中で蝋燭をもらって入ります。

 所々明かりがあって、ろうそくがなくても大丈夫そう。古い石造物があり、龍神のオブジェなども展示されていました。

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 今は明るいけれど、昔の人は、真っ暗闇の中をろうそくの火だけを頼りにお参りしたのでしょうね。

 涼しくて、ところどころ水がヒタヒタと落ちていて、快適な地底探検でした。

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結城ウォーキングストーリー 見世蔵の町編

  こんにちは。

 今日は先日の結城ウォッチングの続きです。
 
 さて、前回から変わった点。

 それは、写真なのですね~。

 ケータイ電話を機種変更したとき、よりカメラ機能の充実したケータイに買い換えたのです。

 少しは違いがわかりますでしょうか。

 前回の機種は、324万画素で、今回は515万画素。

 パッと見はあまり変わらないかもしれませんが、撮影はこちらのほうが断然楽。

 前はズームにするとぼやけるからかなり前進したり、大きすぎてカメラの枠に収まらないときは思いっきり後退したり、写真一枚撮影するのにも体力勝負でした。

 今度の機種は、ズーム機能が充実しているからその場で、画像を大きくしたり小さくしたりできるのですね~。

 より本式のデジカメに近づいたといいますか。

 それから前のケータイのカメラは、暗い場所だったらまったく写らなかったけれど、今度のは、ナイトモードにすればそこそこ暗くても大丈夫。

 もしかしたら、一日で五千歩くらいは減らすことができるかも。

 カメラで太ったということにならないようにと願う今日この頃です。

 それはともかく、お散歩ネタ。

 前回は、親鸞聖人の奥様の墓をお参りしたところまででしたね。

 玉日姫の墓から市内中心部に向かって歩き、結城小学校の手前を右折して細い道に入ってしばらく行くと、再び古いお墓がありました。

 こちらは、源翁和尚の墓。

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 源翁和尚と聞いてもすぐにはピンと来ないかもしれませんが、大工さんが使う鉄製の大きな槌を俗に「ゲンノウ」と呼びますよね。

 その呼び名は、源翁和尚の名に由来しているらしい。

 それは殺生石の伝説によるのだそうですね。

 何でも平安時代、鳥羽法皇の寵姫「玉藻の前」は、陰陽師の安部泰成によって白面金毛九尾の狐だと正体を見破られる。

 この狐は、中国と日本の名だたる人物のもとにだけ出没する妖狐だったとか。

 妖狐は、那須野に逃れてゆくが、そこで射殺されてしまう。しかし、その霊が石と化して大勢の人や動物を殺してしまい、死骸が山のようにできてしまったとのこと。

 そこで朝廷では源翁和尚をつかわし、祈祷を行う。そのあと源翁和尚は手にした金槌で殺生石を砕き、九尾の狐もその妖力を失ったそうな。

 そういえば、殺生石や九尾の狐を退治したお坊様のお話はどこかで聞いたことがありましたね。

 アニメの「日本昔ばなし」だったかどうか忘れましたけど。

 ゲンノウは、九尾の狐を退治した強力アイテムだったのですか。

 そう言われてみると、このお墓もパワーというか、どこか力強さを感じます。

 ところで、そんな偉いお坊様のお墓がどうして那須ではなく結城に?と思いました。

 史実としての源翁和尚は、室町幕府が成立する直前に越後の国で生まれたらしい。

 ネットで調べてみたら、生年月日がみんな違っているんですよ。

 出家して北関東を中心に行脚。1371年、結城家8代城主直光が和尚を招いて、結城の安穏寺を禅宗(曹洞宗)の寺に改宗して、中興開山の人となったそうな。

 九尾の狐の化身であった殺生石を退治したのが、1385年の8月で、翌年に後小松天皇より能昭禅師の号と結城山の勅額を賜ったのですね。

 時期が特定できるということと、天皇から号もいただいているわけですから、殺生石にまつわる何らかのイベントはあったのだろうと思いました。

 そのイベントの中身を考えるといろいろイメージが膨らみます。

 その源翁和尚が中興開山したという安穏寺はお墓から歩いてすぐの場所にありました。

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 結城駅前通りを南下すると、結城の町の魅力のひとつである見世蔵が随所に見受けられます。

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 見世蔵は、江戸時代からの商店建築様式のひとつ。読んで字のごとく蔵であっても、倉庫ではなく店として利用されたとのこと。

 観光案内所にもらったマップには、30軒くらいの見世蔵が紹介されていました。明治初期から大正期にかけて、結城ではこれらの蔵造りの建物が数多く建築されたらしい。

 これらのほとんどは、今も店舗や住宅として利用されているのですか。

 関東で蔵の町というと、まず川越、栃木、佐原などが浮かびます。関東ではないですが、喜多方も有名ですね。

 それらの町の蔵は、観光資源として、別の用途に使われているケースが多いのですが、結城の蔵はほとんどが現役選手。

 内部の見学ができない蔵がほとんどですが、今でも使われている蔵は、しっかり街並みの中に溶け込んでいました。

 与謝蕪村の詩碑がある妙国寺、戊辰戦争の兵士が眠る光福寺などをめぐり、弘経寺へと向かいます。

 さすがに歴史のある城下町だけあって、由緒ある寺院が多数並んでおりますな。

 弘経寺は、1595年、結城秀康の長女松姫の菩提を弔うために創建された寺院だそうです。

 当時は関が原の戦いの前で、徳川家康は256万石の関東の覇者の時代。次男の秀康は、結城10万石の城主だったのですね。

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 創建当時から一度も焼失していないということから、この本堂は当時のものでしょうか。

 安土桃山時代の豪壮な建築様式は感じられるのですが。

 このお寺には、当地に滞在した与謝蕪村の襖絵も残っているそうですね。

 さすがに炎天下歩き回ったので疲れました。趣のあるしっとりとした境内で一休み。歴史のある寺院は、心にも涼風を送ってくれます。

 弘経寺の境内から、レンガ造りの古い煙突が見えたので、疲れも忘れて正面にまわってみたのです。

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 おお、造り酒屋ですか。しかも安政蔵といって、江戸時代に造られた蔵が今も現役で活躍しているのがすごいっす。

 観光施設ではないから中には入れないのですが、逆に蔵としてのリアリティを感じましたね。

 蔵の中からちょんまげ姿の職人さんが現れても、全然違和感がない。

 しばらく歩くと、また別の造り酒屋の建物が…。

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 こちらも江戸時代に建てられた蔵を店舗や醸造蔵として利用しているのですね。

 お酒はあまり飲めないのですが、好きな人にはたまらないかも。

 酒蔵から歩いてすぐのところにあるのが、考顕寺。

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 このお寺は、結城家15代政朝が開基し、結城秀康が再建。江戸時代末期の結城水野家の菩提所でもあったそうな。

 結城秀康は、江戸幕府が成立後、越前に移り、越前松平家の祖となる人ですが、結城の町にこれだけ大きな足跡を残しているとは知りませんでした。

 二代将軍秀忠のアニキですが、豊臣秀吉の養子になったりして、家康からは粗略に扱われたイメージなのですが。

 考顕寺から道路を挟んだところにあるのが、称名寺。

 このお寺は、結城家初代の朝光が親鸞の教えに帰依して、彼の高弟を招いて開基したそうですね。

 境内には、結城朝光の墓がありました。

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 横にある解説板を読むと、この人はなんと、87歳まで生きたのですね。

 鎌倉幕府の草創期から北条氏の台頭の時期、幕府の中枢にありながら天寿を全うできたのはすごいかも。

 木曽義仲の追討から、平家とのファイナルマッチであった壇ノ浦の戦いにも参加。
その後、戦勝報告のため東下した源義経を頼朝の使者として、「鎌倉入り不可」の口上を伝える。

 奥州藤原氏との戦いにも参加し、その功により奥州白河三郡を与えられ、頼朝が死んだあとは、畠山重忠や梶原景時など多くの御家人が失脚したのですが、そのときも家を守りぬいたのはさすがです。

 梶原景時は、以前大河ドラマで中尾彬が演じたように、濃いキャラクターというイメージ。

 結城家初代の朝光は鎌倉幕府の御家人の中でも礼節を守る紳士として、人望を集めたそうですね。

 親鸞に帰依したことからも解るとおり、信仰心も厚かったのでしょう。

 北条政子に代表されるような北条氏の「出る釘は必ず打つ」鎌倉幕府の内紛の時代でも、引き続き厚遇されていたのは、その清廉な性格によるところも多かったのでしょうか。

 気骨のあふれるエピソードも残っているそうですね。

 パッと花火が咲くように一瞬輝いて、そのあとすぐ消えていく会社や経営者は少なくないですが、400年もこの地方に家を繁栄させ、今なお語り継がれる人物はあらためてすごいと思いました。

 結城駅へと向かう大通り沿いに、市民から「金仏さん」と呼ばれる常光寺の阿弥陀如来像がありました。

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 確かに親近感のあふれるやさしい顔をした仏像ですね。

 ここまで来れば、結城駅はすぐそこ。

 再び、結城攻略の作戦本部である駅前の図書館に行き、疲れた体を休めるのでした。

 暑い中、ほとんど休まず歩いたので、時刻はまだ午後3時。

 立ち止まると汗が噴き出すので、海を回遊するマグロのごとくずっと歩き詰めだったのです。

 「古寺めぐりコース」が終わったので、今度は「見世蔵めぐりコース」にチャレンジしようか、と…。

 再び、炎天下図書館から出たオイラは、市内中心部を目指すのでした。

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 蔵造りの美しい街並みは、無理してでも行ってよかったと思います。

 行った日は休みでしたが、つむぎの館は着物の好きな人にはたまらない魅力でしょうね。

 また、結城の小学校は、堀や石垣に囲まれてお城のよう。

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 これなら不審者も、侵入が難しいかもしれませぬ。

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