江戸時代の城下町・小田原 ウォーキングストーリー
こんにちは。
今日は、前回の小田原散歩の続きです。
北条時代の小田原城を見たあとは、江戸時代の小田原城へGO!
…ということで居神神社を出て、道路を挟んだ反対側の大久寺へ向かいます。
こちらは、寺の名前から江戸時代の藩主大久保氏の関係があるんだろうなと思ったら、やはり大久保氏の菩提寺なのでした。
一族の墓が境内にあったのですね~。
大久保神社に大久寺ですか。そのものズバリのネーミングですな。
東海道本線の線路を越え、しばらく行くと北条氏当時の小田原城の遺構である「早川口遺跡」。
ここも豊臣秀吉の小田原征伐に備えて作られた大外郭の一部なのですね。土塁もかなり磨耗して低くなっていましたが、住宅街のど真ん中に北条氏の遺跡が残っているのはすごい。
現在の小田原城址公園からもかなりの距離があり、当時の城の巨大さが改めて実感できました。
御幸の浜といわれる海岸を眺めた後に向かったのが、小田原文学館。
趣のある古い洋館だったので有名な人の家だったのかなと思ったんですよ。
やっぱし、佐藩の藩士で明治維新後は宮内大臣などを歴任した田中光顕の別荘として建てられたのだとか。
司馬遼太郎の幕末ものにもたまに登場する人物ですな。
昭和12年に建てられたスペイン風建築だそうで、今住んでも違和感のないモダンな建物。
館内では、小田原出身やゆかりの文学者の作品や手紙、写真などが紹介されていました。
北村透谷、北原白秋、尾崎一雄、谷崎潤一郎、三好達治、坂口安吾はオイラも知っているっす。
中には知らない作家も大勢いましたが、当時の肖像写真が飾られているんですよ。
井上康文という詩人は、今も時代でもジャニーズに入ったら人気が出そう。「嵐」のメンバーに似ているし。
田原俊彦に似ている作家もいましたよ。
かつてはジャニーズにあらざるものはアイドルにあらず…なんて言われた時代もありましたが、明治・大正の文壇にもジャニーズブームはあったのでしょうか。
ちなみに樋口一葉も、そのネーミングや五千円札の雰囲気から、古風でおとなしい女性のイメージです。
でも樋口一葉記念館に残された写真や手紙を拝見すると、結構キャピキャピギャルの一面もあったみたいなんですよ。
古いセピア色の写真から、セピア色の性格をイメージしてしまいがちですが…。
それにしても、オイラはどういう基準で人を見ているんでしょうね。
庭園を挟んで、尾崎一雄の移築された書斎や田中光顕の別荘の別館として建てられた純和風の建物では、北原白秋の童謡にまつわる展示もありました。
古い日本家屋とマザーグースのミスマッチがまたグーです。
文学館を出て、小田原城址公園へ向かうときにはもう午後4時近くに…。
公園の南側の入り口から城内へ入ります。北条時代の小田原城をゆっくり見たから、天守閣に入る時間がなくなってしまいました。
ま、以前入ったことあるし、と思いましたが、それはなんと20年くらい前なのでした。
展示物はそれほど大したものはなかったと記憶していますけど、なんと言っても標高60メートルからの眺望は見事でしょうね。
かつて小田原第2尋常小学校の講堂だった建物の小田原城歴史見聞館にも入ったことないし、今度またゆっくり小田原城へ来ようと思いました。
昔から比べれば小田原城の城内も整備され、今でも関東の城の中では横綱クラスの見所が満載です。
まず、近年復元された銅門を通って二の丸へ。
今はだだっ広い広場になっていますが、かつてここには壮麗な二の丸御殿があったのですね~。
赤い常盤木橋を渡ります。今は田んぼになっていますが、かつてここには幅20メートル近くある堀になっていて、本丸を守っていたらしい。
橋を渡り、石段を上ると昭和45年に復元された常盤木門。
さすが江戸幕府の関東前線基地としての威容が感じられました。
巨大な門をくぐっていよいよ本丸へ。
本丸に上がると、巨大な天守閣が圧倒的な迫力で目に飛び込んできます。江戸時代もこれと同じ大きさだったのでしょうか。
当時の人たちは、東京タワーや六本木ヒルズを見上げるような感覚で眺めたのだろうと思いました。
江戸時代初期には、三大将軍家光がこの天守閣に登り、眺望を楽しんだという記録が残っているらしい。
いきなり天守閣の内部へ入るのではなく、石垣の急階段を登って入り口に到達するのが特徴的かも。登るとき、視界が広がって、ワクワクするような高揚感を当時の人たちも感じたのでしょうね。
それをオイラも味わいたくて、是非また近いうちに来たいっす。
天守閣の建っている丘を反対側に下ると小さな遊園地になっていて、そこからまた下って、報徳二宮神社へ向かいます。
向かう途中のこの池。
神社によくある心字池かと思いきや、北条時代の堀の跡なのだとか。
石垣を用いない戦国時代の堀の原型をよく留めているらしい。
堀の幅は、20メートル以上、深さは5メートル以上もあるのですか。
澱んだ水で、意外と浅いのではないかと思いましたが、底には北条氏の堀特有の障子堀の一部を残していますと解説板には書かれていました。
報徳二宮神社の境内は、北条氏によって作られた古い曲輪の跡だそうです。雷曲輪を呼ばれる二つの堀に両側から囲まれた細長い平垣地で、江戸時代は、小田原城の火薬庫があったそうな。
報徳二宮神社は、かつて学校の校庭でよくお目にかかった二宮金次郎を祭った神社。
そういえば、二宮金次郎は小田原藩領の出身でしたね。小田原藩の家老や小田原藩の分家、その後天領の財政再建に腕を振るったと聞いたことがあります。
それにしても、こちらも二宮神社というストレートなネーミング。
隣にある郷土文化館が無料で入れるというので、行ってみることにしました。そういえば、前回来たときも「無料」という言葉に吸い寄せられたような。
発掘資料や民俗資料など、よくある展示物が所蔵されていましたが、オイラが興味を持ったのはやはり小田原城の資料。
とくに、北条時代の小田原城の縄張りは興味深かったっす。
朝からずっとオイラがたどってきた道を見ながら、当時の小田原城をイメージしてしたら、おじいさんに声をかけられました。
係の人ではないみたいですが、説明してくださるみたい。
まず、小田原城の総構えの巨大さを指摘されます。
「総構え」ってわかる?
…と聞かれましたが、ええ、何となく聞いたことがあります、と何気に聞き上手になってしまう自分が哀しい。
城の説明の中で間違っている箇所に、必死で突っ込みを入れたくなるのを押さえ、しっかりお礼を言って外に出ます。
再び城内を通って、水堀を渡り、幸田門跡へ。
戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時に激闘がここで繰り広げられたそうな。
確かに平地で、居館があったといわれる場所までもうあと少し…。
謙信も、信玄も、あと一歩まで攻めたものの落とせなかったというのが実感できました。
幸田門跡から続くスペースに、土塁が残っている。
ここは、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡だそうですね。
さきほどの早川口遺構の土塁は、住宅街の中にありましたが、こちらの土塁は完璧に市内中心部。
土塁の上を歩くと、ビルで働いている人たちを窓ガラス越しに眺めることもできます。
やはり小田原は城と町とが見事に共存しているのですな。
そして最後に向かったのは、北条氏政・氏照の墓。
北条氏政は、北条氏第4代の当主。氏照は、氏政の弟で八王子をはじめ5つの城主だった存在。
当然、由緒正しい寺院の墓地の奥にひっそりと、というイメージでしたが、小田原駅から程近い歓楽街の一画にあったのは少々驚きました。
二人は、小田原落城の後、城主氏直は高野山に追放され、父氏政、その弟氏照の両人は責任を負って自刃したのですね。
遺骸は北条氏の氏寺であった伝心庵に埋葬されたらしい。
江戸時代になって伝心庵は移され、その跡に別の寺が建立。この墓所は長く放置されてあったのを、後の小田原城主が北条氏追悼のため作り直したのだとか。
それも関東大震災のとき埋没し、行方不明になっていたのを地元の有志の人たちが復興したのですね。
北条氏のとっては悲劇的な結末でしたが、新しい花が供えられ、今でも小田原の人たちから慕われているのがわかりました。
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