航空の町・所沢 ウォーキングストーリー
こんばんは。
今年もあと一日ですか。
いろいろあった一年でしたけど、来年はいい年にしたいですね。
不況のときは、まず足元を固めねば
…ということで、今回も足腰を鍛えるため行ったのは、所沢。
今年日本一になった西武ライオンズの本拠地がある場所として全国的に有名ですが、ここは日本の航空発祥の地でもあるそうなんですよ。
CAのおねーたんが一杯いる日本航空発祥の地ではありませんので念のため。
信じられない話かもしれませんが、飛行機にまだ乗ったことがないオイラ。別に乗れないほど貧乏ではないのですけど、日本史が好きなのでわざわざ海外へ行く理由が思い当たりませぬ。
でも、せめて航空発祥の地くらいは訪れてみようとか、と…。
所沢へ来たことは何度かありますが、オイラがいつも行くのは狭山湖やトトロの森など緑の多い狭山丘陵のほう。
市内を歩くという機会はそんなになかったような。
駅前にある何の変哲もない商店街。
これは、プロぺ通りというのだそうな。プロぺとは、プロペラの略なのだとか。なぜ、「ラ」だけ省略したのかわかりませぬ。
通りをゆくと、オイラの行きつけのファストフード店が見本市のように立ち並んでいる。
思わず、条件反射で店に入ろうとしました。
でも、わざわざウォーキングに来て、いつも食べているメニューもどうかと思いなおし、後ろ髪を引かれる思いで素通りします。
商店街をぬけると、さすが東京のベッドタウンとして急成長している町だというのが実感できました。
昭和の佇まいの店や商店が残っているなと思ったら、その隣には超高層のマンションが…。
まさに、カオスの町というイメージですね。
数十歩歩くごとに、過去と未来を行ったり来たりしているような気分っす。ノスタルジックな癒しとハイな気分とがごっちゃになって、慣れてないと疲れそう。
精神的にどっちつかずの状態のまま、薬王寺へ到着。
本堂は鉄筋コンクリートでしたが、このお寺は南北朝時代の武将・新田義宗の伝説が残るらしい。
南北朝で新田とくれば、足利尊氏のライバルであった新田義貞が思い浮かびます。義宗は、義貞の三男だそうですね。
南北朝が分裂したあとは、南朝に味方して、足利尊氏らの北朝と攻防を繰り広げたらしい。しかし、上野国(群馬県)で戦死してしまったとのこと。
ところが、このお寺の解説板には、
『 新田義宗は戦に敗れた後、再起の時を待つために主な家臣に言い含めて、軍勢を群馬県に引き返らせ、それから「義宗は北国に落ちていった」と云いふらせ、自分はひそかに所沢に隠れ住んだ。ところがその後、足利氏の勢いは日増しに強くなり、ついに南北朝も統一され、戦乱もおさまったとの話が伝わってきた。そこで義宗は髪を落とし、衣を着て、今までの隠れ家をお堂に改めた。そして、一体の薬師如来を彫刻し、その腹の中に守本尊をまつりこみ、戦死した一族や部下の菩提を弔いながら毎日を送り、ついに応永20年(1413)この地で亡くなった。』
…という伝説が書かれてありました。
テレビ東京の「新説!?日本ミステリー」みたい。
でも、義経は生きていて、ジンギスカンになったのだとか、土方歳三は箱館で戦死せずロシアへ渡ったとか、…という話よりは信憑性があるかも。
近場の所沢だし、モンゴルやロシアへ渡ったわけではないですからね。
でも、もしそうなら、室町幕府は見くびられたもの。
鎌倉幕府を逃れてモンゴルへ渡った義経や明治新政府を逃れてロシアへ渡った歳さんの伝説に比べると、こんな近くに隠れていても気づかないのだから。
所沢は、当時でも、平家の落人が暮らしたといわれる人里離れた山の中ではないですしね。
そういう伝説が残ること自体、当時の室町幕府の体制は脆弱だったのかな、と思いつつ、境内を出て、市内を流れる東川のほとりを歩きます。
この「飛行機新道」というネーミングの意味がわかないっす。
それはともかく、川の両岸、約3キロにわたって400本余りの桜が植えられていているのだとか。
行った日は12月のはじめで、花はもちろん葉っぱも散ってしまった後でした。でも、趣のあるのどかな景色は見ごたえ十分。
京都の冬の風情をイメージしてしまいそう。
桜の季節は、華やかな色で満たされるのでしょうね。
でも、心は満たされても、さきほどファストフード店をスルーしてしまったのでお腹がすいてきました。
…と、キョロキョロまわりを見回して、リンガーハットを発見。
結局、吉野家、松屋、日高屋の延長線上の店に入ったのでした。当然、その3店舗が目に入ったら突撃しましたが…。
ちゃんぽんを食べて元気を取り戻したオイラは、ふたたび東川沿いを歩きます。
やがて到着したのが、長栄寺。
本堂はそれほど古くない感じですが、ここのお寺には室町時代につくられた3体の阿弥陀仏像が安置されているらしい。
珍しいと思ったのは、江戸時代の天明5年(1785)に製作されたという閻魔様が、境内の閻魔堂に鎮座していること。
ガラスの窓から、中を覗いてみるととても大きい。
なんでも、「丈六仏」と呼ばれ、高さが2.9メートルもあるのだとか。
昼間見たからユーモラスな形に見えましたけど、夜や暗い場所で見たら結構怖いかも。
作られたのは天明年間なのですね。
天明というと、教科書には大飢饉があったと書かれている年代。
日本各地で悲惨な出来事があったらしいですが、それとこの閻魔様と関連はあるのでしょうか。
この閻魔像を作った江戸時代の人たちの気持ちを想像しつつ、いよいよ最終目的地の所沢航空公園へ向かいます。
向う途中の国道にあったのが、このケヤキ並木。
その距離は17キロにも及ぶとか。
こういう並木道は、やはり冬以外のほうがいいですな。
新緑も紅葉もなく、冬枯れの道をゆくと何となくこころ寂しい気分になってきたりして。
ところが、到着した航空公園では見事に色づいた木々が出迎えてくれました。
公園の南東部の池の辺りはよく整備されていて、美しい景色が堪能できます。
ところで、なぜ「所沢航空記念公園」かというと、ここが明治44年にできた日本初の航空機専用飛行場の跡だからだそうですね。
何でも、幅50メートル、長さ400メートルの滑走路があったらしい。
同年の4月5日には、徳川好敏大尉の操縦する複葉機がはじめてこの飛行場を飛び立ったのですね。
ただ飛行距離800メートルで、飛行時間は1分少々だったそうですが…。
400メートルの滑走路から飛び立って、飛行距離800メートルだったら、一体どこへ着陸したのだろうと、またも偏屈なオイラは考えるのでした。
それはともかく、当時の滑走路の面影は残っているのですかね。
地形的に、おそらくこの辺りなのでしょうか。
できたのは明治時代の終わりですから、まだ着物を着ていた人がほとんどだったはず。
轟音をあげながら空を飛ぶ機械に驚いたでしょうね。
公園の中を歩いていて見かけたのが、木村・徳田両中尉慰霊塔というモニュメント。
大正2年に、青山で行われた公開飛行から所沢飛行場へ帰る途中、突風にあって墜落死した二人の操縦士の慰霊塔なのですね。
なんでも、日本初の航空犠牲者なのだとか。
日本初の航空機専用飛行場という名誉とともに、初の犠牲者もこの土地に関係しているところが、フロンテアスピリットを感じました。
公園の一画にあるのが所沢航空発祥記念館。
ここは10年以上前に入ったことがあったのを思い出し、入館はパスしたのですが、古い飛行機やヘリコプターの本物が多数展示されています。
飛行場ができた当初に飛んでいた飛行機の実物大模型は、玄関ロビー天井にあるので誰でも見学することができる。
当時の機体は木製だったのですね。
これで空を飛ぶには、かなりの勇気が必要だったろうと思いました。
記念館の前にも飛行機が展示されています。
これは、カーチスC-46輸送機といって、1955年から航空自衛隊の輸送機として活躍したらしい。
アメリカ製とのことですが、この場所は太平洋戦争後、アメリカ軍に長く接収されていた歴史のモニュメントにもなっているのでしょうか。
公園の中をテクテク歩き、帰りは航空公園駅から。
駅前にも、航空機が展示されていました。
おお、これは有名なYS-11ですか。
YS-11は、戦後初であるとともに、唯一の国産旅客機でした。
最近、新たな国産旅客機ができたというニュースは聞きましたが、詳しいことは解りませぬ。
名機・ゼロ戦を作った日本人技術者が当時の最先端の技術を結集した飛行機として有名ですね。
最近まで、東京と大島の間を飛んでいたような記憶がありますけど、日本人が作っただけあってなんとなく親しみを感じるフォルムでした。
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