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航空の町・所沢 ウォーキングストーリー

 こんばんは。

 今年もあと一日ですか。

 いろいろあった一年でしたけど、来年はいい年にしたいですね。

 不況のときは、まず足元を固めねば

  

 …ということで、今回も足腰を鍛えるため行ったのは、所沢。

 今年日本一になった西武ライオンズの本拠地がある場所として全国的に有名ですが、ここは日本の航空発祥の地でもあるそうなんですよ。

 CAのおねーたんが一杯いる日本航空発祥の地ではありませんので念のため。

 信じられない話かもしれませんが、飛行機にまだ乗ったことがないオイラ。別に乗れないほど貧乏ではないのですけど、日本史が好きなのでわざわざ海外へ行く理由が思い当たりませぬ。

 でも、せめて航空発祥の地くらいは訪れてみようとか、と…。

 所沢へ来たことは何度かありますが、オイラがいつも行くのは狭山湖やトトロの森など緑の多い狭山丘陵のほう。

 市内を歩くという機会はそんなになかったような。

 駅前にある何の変哲もない商店街。

何の変哲もない商店街


 これは、プロぺ通りというのだそうな。プロぺとは、プロペラの略なのだとか。なぜ、「ラ」だけ省略したのかわかりませぬ。

 通りをゆくと、オイラの行きつけのファストフード店が見本市のように立ち並んでいる。

 思わず、条件反射で店に入ろうとしました。

 でも、わざわざウォーキングに来て、いつも食べているメニューもどうかと思いなおし、後ろ髪を引かれる思いで素通りします。

 商店街をぬけると、さすが東京のベッドタウンとして急成長している町だというのが実感できました。

 昭和の佇まいの店や商店が残っているなと思ったら、その隣には超高層のマンションが…。

 まさに、カオスの町というイメージですね。

 数十歩歩くごとに、過去と未来を行ったり来たりしているような気分っす。ノスタルジックな癒しとハイな気分とがごっちゃになって、慣れてないと疲れそう。

 精神的にどっちつかずの状態のまま、薬王寺へ到着。

薬王寺


 本堂は鉄筋コンクリートでしたが、このお寺は南北朝時代の武将・新田義宗の伝説が残るらしい。

 南北朝で新田とくれば、足利尊氏のライバルであった新田義貞が思い浮かびます。義宗は、義貞の三男だそうですね。

 南北朝が分裂したあとは、南朝に味方して、足利尊氏らの北朝と攻防を繰り広げたらしい。しかし、上野国(群馬県)で戦死してしまったとのこと。

 ところが、このお寺の解説板には、

『 新田義宗は戦に敗れた後、再起の時を待つために主な家臣に言い含めて、軍勢を群馬県に引き返らせ、それから「義宗は北国に落ちていった」と云いふらせ、自分はひそかに所沢に隠れ住んだ。ところがその後、足利氏の勢いは日増しに強くなり、ついに南北朝も統一され、戦乱もおさまったとの話が伝わってきた。そこで義宗は髪を落とし、衣を着て、今までの隠れ家をお堂に改めた。そして、一体の薬師如来を彫刻し、その腹の中に守本尊をまつりこみ、戦死した一族や部下の菩提を弔いながら毎日を送り、ついに応永20年(1413)この地で亡くなった。』

 …という伝説が書かれてありました。

 テレビ東京の「新説!?日本ミステリー」みたい。

 でも、義経は生きていて、ジンギスカンになったのだとか、土方歳三は箱館で戦死せずロシアへ渡ったとか、…という話よりは信憑性があるかも。

 近場の所沢だし、モンゴルやロシアへ渡ったわけではないですからね。

 でも、もしそうなら、室町幕府は見くびられたもの。

 鎌倉幕府を逃れてモンゴルへ渡った義経や明治新政府を逃れてロシアへ渡った歳さんの伝説に比べると、こんな近くに隠れていても気づかないのだから。

 所沢は、当時でも、平家の落人が暮らしたといわれる人里離れた山の中ではないですしね。

 そういう伝説が残ること自体、当時の室町幕府の体制は脆弱だったのかな、と思いつつ、境内を出て、市内を流れる東川のほとりを歩きます。

 この「飛行機新道」というネーミングの意味がわかないっす。

飛行機新道


 それはともかく、川の両岸、約3キロにわたって400本余りの桜が植えられていているのだとか。

 行った日は12月のはじめで、花はもちろん葉っぱも散ってしまった後でした。でも、趣のあるのどかな景色は見ごたえ十分。

東川のほとり


 京都の冬の風情をイメージしてしまいそう。

 桜の季節は、華やかな色で満たされるのでしょうね。

 でも、心は満たされても、さきほどファストフード店をスルーしてしまったのでお腹がすいてきました。

 …と、キョロキョロまわりを見回して、リンガーハットを発見。

 結局、吉野家、松屋、日高屋の延長線上の店に入ったのでした。当然、その3店舗が目に入ったら突撃しましたが…。

 ちゃんぽんを食べて元気を取り戻したオイラは、ふたたび東川沿いを歩きます。

 やがて到着したのが、長栄寺。

 本堂はそれほど古くない感じですが、ここのお寺には室町時代につくられた3体の阿弥陀仏像が安置されているらしい。

 珍しいと思ったのは、江戸時代の天明5年(1785)に製作されたという閻魔様が、境内の閻魔堂に鎮座していること。

閻魔堂


 ガラスの窓から、中を覗いてみるととても大きい。

 なんでも、「丈六仏」と呼ばれ、高さが2.9メートルもあるのだとか。

 昼間見たからユーモラスな形に見えましたけど、夜や暗い場所で見たら結構怖いかも。

 作られたのは天明年間なのですね。

 天明というと、教科書には大飢饉があったと書かれている年代。

 日本各地で悲惨な出来事があったらしいですが、それとこの閻魔様と関連はあるのでしょうか。

 この閻魔像を作った江戸時代の人たちの気持ちを想像しつつ、いよいよ最終目的地の所沢航空公園へ向かいます。

 向う途中の国道にあったのが、このケヤキ並木。

ケヤキ並木


 その距離は17キロにも及ぶとか。

 こういう並木道は、やはり冬以外のほうがいいですな。

 新緑も紅葉もなく、冬枯れの道をゆくと何となくこころ寂しい気分になってきたりして。

 ところが、到着した航空公園では見事に色づいた木々が出迎えてくれました。

南東部の池


 公園の南東部の池の辺りはよく整備されていて、美しい景色が堪能できます。

 ところで、なぜ「所沢航空記念公園」かというと、ここが明治44年にできた日本初の航空機専用飛行場の跡だからだそうですね。

 何でも、幅50メートル、長さ400メートルの滑走路があったらしい。

 同年の4月5日には、徳川好敏大尉の操縦する複葉機がはじめてこの飛行場を飛び立ったのですね。

 ただ飛行距離800メートルで、飛行時間は1分少々だったそうですが…。

 400メートルの滑走路から飛び立って、飛行距離800メートルだったら、一体どこへ着陸したのだろうと、またも偏屈なオイラは考えるのでした。

 それはともかく、当時の滑走路の面影は残っているのですかね。

 地形的に、おそらくこの辺りなのでしょうか。

滑走路の面影


 できたのは明治時代の終わりですから、まだ着物を着ていた人がほとんどだったはず。

 轟音をあげながら空を飛ぶ機械に驚いたでしょうね。

 公園の中を歩いていて見かけたのが、木村・徳田両中尉慰霊塔というモニュメント。

木村・徳田両中尉慰霊塔


 大正2年に、青山で行われた公開飛行から所沢飛行場へ帰る途中、突風にあって墜落死した二人の操縦士の慰霊塔なのですね。

 なんでも、日本初の航空犠牲者なのだとか。

 日本初の航空機専用飛行場という名誉とともに、初の犠牲者もこの土地に関係しているところが、フロンテアスピリットを感じました。

 公園の一画にあるのが所沢航空発祥記念館。

所沢航空発祥記念館


 ここは10年以上前に入ったことがあったのを思い出し、入館はパスしたのですが、古い飛行機やヘリコプターの本物が多数展示されています。

 飛行場ができた当初に飛んでいた飛行機の実物大模型は、玄関ロビー天井にあるので誰でも見学することができる。

 当時の機体は木製だったのですね。

 これで空を飛ぶには、かなりの勇気が必要だったろうと思いました。

 記念館の前にも飛行機が展示されています。

カーチスC-46輸送機


 これは、カーチスC-46輸送機といって、1955年から航空自衛隊の輸送機として活躍したらしい。

 アメリカ製とのことですが、この場所は太平洋戦争後、アメリカ軍に長く接収されていた歴史のモニュメントにもなっているのでしょうか。

 公園の中をテクテク歩き、帰りは航空公園駅から。

 駅前にも、航空機が展示されていました。

YS-11


 おお、これは有名なYS-11ですか。

 YS-11は、戦後初であるとともに、唯一の国産旅客機でした。

 最近、新たな国産旅客機ができたというニュースは聞きましたが、詳しいことは解りませぬ。

 名機・ゼロ戦を作った日本人技術者が当時の最先端の技術を結集した飛行機として有名ですね。

 最近まで、東京と大島の間を飛んでいたような記憶がありますけど、日本人が作っただけあってなんとなく親しみを感じるフォルムでした。

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お葬式にまつわるエトセトラ

 こんにちは。

 突然ですが、実は先月、父が亡くなりまして。

 ネットに書くのもどうかと思って黙っていたのですが、新年のご挨拶があることを思い出しました。

 このまま新年を迎え、「明けおめ~」とは、心情的にも、日本古来の風習からも言いづらい。

 知り合いに喪中ハガキは出したのですが、ネットでも新年のご挨拶は失礼させていただきますのでよろしくご配慮のほどお願い申し上げます。

 皆様にはどうぞよい年をお迎えください。寒さに向かう折から、ご自愛のほどをお祈り申し上げます。


 父は肝硬変から肺炎を併発しまして、八十歳で永眠しました。

 昔から肝臓が悪く、検査のたびに指摘されていたようです。

 ところが、お酒はほとんど飲まず、タバコも吸わない。肝臓が悪いと言われてからは、しじみ汁もよく飲んでいたんですよ。

 それでも良くならず、どんどん悪くなって、最後は肝硬変の末期的症状をすべて併発して亡くなったのでした。

 偏差値70を超える大学医学部の病院へ長く通院していたにもかかわらず、原因がわからなかったそうな。 

 最近、少し医学の門前で小僧をやっていますので、今になって考えてみると、その原因は「食べ過ぎ」だったのではないかと考えるのです。

 まさか病院の先生も、その食べっぷりのすさまじさは想定外だったのではないか。

 たとえば、厚さ5ミリのバターを塗ったトーストをメインにした朝食をしっかり食べた後、デザートにクリームパンを1個食べる。

 昼食の前に、お腹がすいたと食パンをそのまま食べ、昼食はしっかり1人前食べたあと、おやつにせんべいやケーキなど家にあるものをすべて…。

 これ以上は書けませぬ。故人を鞭打つようなことは。

 でも、どんなに少なく見積もっても一日4000Kcalは超えていたでしょうね。

 当時は、年をとってもその健啖ぶりはすごい、健康だから食欲があるのだという認識があったのは事実です。

 幼年時代を戦争で過ごし、好きなものを十分食べられなかった反動もあったのかと…。

 本来なら、肥満体や血糖値が上がって糖尿病になるはずですが、それほど太らず、血糖値もあまり上がらなかった。

 結果的に、それで危険信号が見過ごされてしまったのでしょうね。

 オイラの血液検査の結果から見て感じるのですが、うちの家系は遺伝的にインスリンの分泌は盛んみたい。

 日本人は一般的に、西洋人と比べるとインスリンの分泌が良くなく、糖尿病になりやすい民族だと言われます。

 農耕型で、比較的少ないカロリーの食生活で生き続けてきたからでしょうか。

 ところが西洋の狩猟民族は、高カロリーの肉をよく食べるため、血糖値を下げるためのインスリンが分泌しやすい体質になったのだとか。

 …とすると、オイラの家系は西洋狩猟民族?

 アジアやアフリカにも狩猟民族はいると思いますが…。
 
 それはともかく、インスリンの分泌が悪くなると、血液中の糖分が細胞に取り込まれず、高血糖が続いて糖尿病になります。

 ただ、インスリンの分泌が盛んだと、血液中ではなく細胞の中に糖分や脂肪が取り込まれる。脂肪はちょっと記憶が定かではありませんが、内臓脂肪として蓄えられるのは間違いないみたい。

 内臓脂肪は脂肪肝と直結しますからね。

 長年、肝臓が悪かったのは、肝臓そのものから来るのではなく、高カロリー食をし続けたために、肝臓が悲鳴をあげていたサインだったのはないか。

 本来の死因は、メタボリックシンドロームだと感じました。

 だから、病院から長年肝臓の薬をもらって飲み続ける前に、ダイエットに励むべきだったのでしょう。

 病院の先生は、ダイエットは勧めてはいたものの、肝臓の病気とコラボで考えてはいなかったみたい。

 多少太めでしたが、肥満体ではなかったですからね。メタボが騒がれるようになったのは、そんなに古くはない話ですし、騒がれたときはもうどうしようもないくらい病状が進んだ後でした。

 もっとも、これは検査結果を見たオイラの推理ですし、専門家から見たら、全然見当外れなのかもしれませんが…。


 でも、そう考えると驚くべきは父の体力。

 40歳代のオイラよりもはるかに大量のカロリーを数十年にわたって摂取しつつも、80歳まで生きたのだから。

 健康に気をつけて、日々節制していても70歳前に亡くなってしまう人は少なくないはず。

 オイラも一時期、真似してガンガン食べたことがありましたが、3年ほどで体が悲鳴をあげてしまいました。

 父は終戦の年に国家公務員になって、平成9年に財団法人を退職するまで、勤続52年。

 70歳まで仕事ができて、定年後は思う存分食べたい物を食べ、趣味に没頭できた人生はうらやましいと言うほかありません。


 お葬式も、遺族みんな泣くこともなく、淡々と進められたのはそういう思いがあったのかもしれませぬ。


 …ということで、おかげさまで父の葬式は無事すんだのですが、お葬式というと、いつも思い出す出来事があるのですよ。

 オイラにとっては、人生最大の修羅場だったと言いますか。

 父の葬儀の話題の後に書くネタではないかもしれませんけど…。

 でも、父は日頃はカタブツのイメージでしたが、オイラの子供の頃は、いつも家族が寝静まってから起きだし、深夜テレビを見ていました。

 ふと、目を覚ますと、テレビのコメディを見ながら、ククククククと押し殺したような声で笑っていたのを覚えています。

 きっと、父もこの話題は嫌いではないはず。


 もう20年近く前、銀行に勤めていた頃の話ですが、職場の先輩の父君が亡くなったということで、支店のみんなとお通夜にお伺いすることになったのです。

 お通夜の会場は先輩の自宅。

 夜8時を過ぎていたので、遺族や親族、関係者のお焼香が大方終わった頃です。

 そこへ支店の行員がゾロゾロ並んで、一人ずつお焼香をします。

 古い日本家屋の縁側を挟んだ座敷に祭壇が作られていて、その前に喪主の未亡人と息子の先輩が正座し、参列者のお焼香が終わるたびに会釈しました。

 故人はまだ60歳代だったと記憶しています。未亡人もまだ若く、涙に濡れてうつむく姿が痛々しい。

 いつもはニコニコ笑っている先輩も、さすがに今日は沈鬱な表情でうなだれている。

 オイラはまだ若かったので、お焼香の仕方がわからず、お焼香をする人たちを後ろから眺めておりました。

 冠婚葬祭のマナーは、しっかり守らないといけませんからね。

 お焼香が進み、いよいよ次の次がオイラの番。

 すぐ前に立っていたのが、副支店長でした。後ろから副支店長の所作に注目するオイラ。

 さすが副支店長。数珠を用意しているっすか。

 数珠を右手から左手に持ち替えた。

 そして、お香に向かって右手が伸びる。

 そのとたん、キャというくぐもった声がお通夜の会場に響きました。

 皆がお焼香をしている副支店長に注目します。

 副支店長の右手が体の横でひらひら揺れている。

 なんと、お香を取ろうとして、間違って香炉に手を突っ込んじゃったみたい。

 大勢の人たちのお焼香が終わったあとなので、香炉の中は真っ赤かに燃えている。

 そこへ思いっきり手を突っ込んだら、激痛が脳天を直撃したはず。

 本来なら、思いっきり、ギャァァァァァァァ~とか、アチャャャャャャャ~と悲鳴をあげるところでしょうけど、キャッという必要最小限の悲鳴で留めるあたりは、さすが副支店長だと思いました。


 ただ、そのあとの所作は若干問題かも。

 本来なら、数珠を両手のひらにかけ、合掌礼拝しなければならない。

 ところが、激痛で大脳皮質がマヒしたためか、パンパンと柏手を2回も打ってしまった。

 真正面からこんな滑稽なライブを見せられてはたまらない。

 それまで泣き濡れていた未亡人が、思わずプッと吹き出したのです。

 神社にお参りしているわけじゃないから、それはまずいっすよ。

 副支店長はお焼香が終わると、左手で右手を抑えながら、そそくさとその場を離れます。

 そして一目散に出口に走ってゆくのでした。

 きっと火傷した指を冷やそうと、水を探しに行ったのでしょう。


 もちろん、その時のオイラはその一部始終を冷静に眺めていたわけではなく、信じられない光景にただ呆然と立ち尽くしているだけでした。

 気がつくと、お焼香はオイラの番。


 前を見ると、今まで涙に濡れていた未亡人が必死で笑いをこらえている。先輩は下を向いて目をギュッと閉じ、両手で膝がしらをつかんでいる。

 他人から笑っていると思われないためには、これがベストな方法かも。
 
 肩が小刻みに震えているのは、どこから見ても、父親の悲しみに耐えている姿にしか見えませぬ。

 本来なら、こういう面白すぎる光景を見てしまうと、ギャハハハハハハハハハハと人目をはばからず大声で笑うのですが、さすがに非常識と言われるオイラでもそんなことできるわけありませぬ。

 父の位牌にお香を投げつけたと言われる織田信長でも、さすがに笑ってはいなかったでしょうし…。

 笑いながらお焼香をするなんて、人として一番やってはいけないことですからね。

 人生最大の汚点だけは残したくない。

 とっさに思ったオイラは、思いっきり尻の肉をつまみあげて、込み上げてくる笑いを必死で抑えました。

 目の前では喪主と先輩が笑いをこらえているのがわかりますけど、こっちは笑いをこらえている様子すらわかってはまずい。

 目を見開き、歯を喰いしばって、必死に耐えてお焼香をすませました。

 脂汗は出てくるし、もう大変でしたね。


 後日、先輩から、そのときのオイラは鬼気迫る表情をしていたと聞きました。

 石川さゆりの「天城越え」のときの表情みたいだったと…。

 でも、そんな色っぽくはなかったはず。

 大相撲の優勝決定戦で、足の痛みに耐え、貴乃花が武蔵丸を破って優勝したときの「鬼の表情」と言って欲しかったっす。

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私が仕事中聴いているフォークソングベスト5

 こんにちは。

 今日は、久々のベスト5ネタっす。

 オイラは最近、事務所でシコシコ文章を書いていることが多いのですが、そのためには資料集めが必要。

 これが結構、大変なのですね~。でも昔と比べて、ネットで検索できるようになってからはすごく楽になりました。

 以前は、図書館へ行って、本棚からごっそり参考文献を両手に抱えて持ち出し、閲覧室の机に積み重ねて、片っ端から読みまくる。

 使えそうな本は左へ積み重ね、そうではない本は右へ。

 そうやって粗読みをして、一次選考を突破した本に対しては、少しじっくり腰をすえて読む。

 2~3行だけ使える文章を見つけたら、ノートにメモするのですが、とても書ききれない量の文章を引用しようと思ったらコピーを取りまくり。

 そして、コピーを直接ハサミで切ったり、メモも文章ごとに細かく切ったりして文章を細切れにし、あとはその順序をあ~でもない、こ~でもないと試行錯誤しつつ並べ替え、なんとか辻褄のあう文章をこしらえる。

 文章の表現の仕方を整え、最後に秘伝の隠し味の調味料をパラパラとふりかけて、はい、できあがり~♪

 …というふうに書いていたのですが、最近は図書館へ一日がかりで行って参考文献を収集する手間がかなり低減しましたね。

 でも、ネットで必要な情報が簡単に手に入るようになったのと反比例して、読解力が落ちてきたなと思う今日この頃です。

 その話題はまた今度にして、ネットで大量に情報を収集する作業はそれほど頭を使わない代わり、単純作業の忍耐力が必要だとわかりました。

 それを行う推進力になっているのが、オイラの場合、音楽なのですね~。

 学生時代、深夜放送のラジオを聴きながら受験勉強していた気分に浸られるといいますか。

 効果があがっているかどうかは疑わしいのですが、ずっと机に座っていられるのだけは間違いないみたい。

 どんな音楽が効果あるか試してみたのですが、オイラの場合、ひたすら忍耐力が必要とする作業に関しては、昔のフォークがいいのではないかという結論に達しました。

 そこで、本日は、ビジベンが仕事するとき聴いているフォークソングベスト5をお送りしようか、と…。

 ほかにも、アイドル歌手編や演歌編、昭和の歌謡曲編、ニューミュージック編、ジャニーズ編、映画音楽編、最近のヒット曲編、サザン編、聖子ちゃん編といろいろあるのですが、それはまたいずれ。

 こうして考えてみると、オイラは果たしてちゃんと仕事しているのだろうかと考えてしまうのですが…。

 それはともかく、ビジベンが頭を空っぽにして仕事に励んでいるときに聴いているフォークソングのベスト5は次のように決定いたしましたぁぁぁぁぁぁぁぁ~


駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々… (← ドラムの音?)


第五位 「風」 はしだのりひことシューベルツ

 それはこちら

 この曲は1960年代ですから、オイラもヒットしていた当時の記憶はほとんど残っていないっす。

 次の出だしの歌詞の意味もよくわからなかったような。

北山修作詞  「風」

 人は誰もただ一人旅に出て
 人は誰もふるさとを振り返る
 ちょっぴりさみしくて振り返っても
 そこにはただ風が吹いているだけ

 
 寂しくなって振り返っても、風なんかいつも吹いていなかったし…。

 でも年を経るに従って、その歌詞がずんと胸に響いてくるようになりました。

それに、はしだのりひこの美しいメロディーラインと歌声が重なります。同志社大学神学部卒らしいから、賛美歌のように心の奥の一番敏感な部分に届くのでしょうか。

この歌は以前、教科書にも載っていたらしいですね。

今の若い人たちは知っているのだろうか、と思いました。


第四位 「学生街の喫茶店」 ガロ

 それはこちら


 「風」の品行方正な雰囲気とは違って、ちょい悪っぽい若者3人が、授業をさぼってタバコをプカプカふかしながら喫茶店で、人生とは何か、なんてだべっている当時の世相を反映している歌でした。

 もっとも当時のオイラは中学生くらいだからよくわかりませんでしたけど。

 ガロっていうネーミングは斬新だと思いました。当時流行っていた漫画雑誌の名前からつけられたのだと思っていましたが、ホントは三人の世話役だった人が、自分の子供に「我朗」とつけようと思っていたところからのネーミングだったそうな。

 この歌を聴いたためか、オイラの学生時代は喫茶店へ友人たちと入り浸っていた記憶ばかりが残っています。

 当時はインベーダーゲームが全盛で、あのピコピコ鳴る音と喫茶店でいつも食べた大盛りのナポリタンのイメージが強烈でした。

 授業中の記憶が空白なのはなぜ?


第三位 「心の旅」 チューリップ

 それはこちら


 これもオイラが中学生のときのヒット曲。

 ラジオのベスト10番組が好きで、当時はいつも聴いていましたが、一位を長く維持していた記憶があります。

 チューリップはつい最近まで活躍していましたね。

 この歌を作ったのは、財津和夫。

 ほかにも、『青春の影』や『サボテンの花』、『虹とスニーカーの頃』などの名曲をてがけていますな。

 オイラ的には、松田聖子の『チェリーブラッサム』や『白いパラソル』のほうが印象強いっす。

 とくに『白いパラソル』は聖子ちゃんの曲の中ではベスト3に入るほど好きな曲。

 そういえば、「心の旅」は、かつて吉田栄作がカバーしていましたね。

 当時の映像を見ていて、財津和夫も今と全然雰囲気が違うな~と思っていたんですよ。

 この記事を書くので調べてみたら、当時のボーカルは財津和夫ではなくて、メンバーで一番若かった姫野達也だったと知りました。

 なんでも、デビューからシングル2枚、アルバム2枚を出したがヒットせず、当初リーダーの財津和夫が歌うはずだったが、レコーディングの直前になって、関係者の間で「財津より、甘い声が魅力の姫野に歌わせよう」ということになったとか。

 「心の旅」は30年以上、財津和夫が唄っているとばかり思っていたのでした。

 財津和夫が唄っていたら、どんな雰囲気の曲になっていたのでしょうね。


第二位 岬めぐり 山本コウタローとウィークエンド

 それはこちら


 コミックソングの『走れコウタロー』でブレイクした山本コウタローが、長い時間をおいてまったく違うイメージで大ヒットした名曲。

 中学から高校時代にかけてよく通学のときに口ずさんでいた記憶があります。

 『走れコウタロー』のときは小学生でしたけど、曲の途中で当時の美濃部都知事の物まねが入ったりして、当時としては斬新な構成でした。

 あのまま終わっていたら、コミックバンドのリーダーとしての記憶だけが残ったと思いますが、この曲で見事にイメージを一掃しましたね。

 吉幾三や殿様キングスのさきがけと言いますか。

 郷愁を感じるメロディーラインと縦笛(リコーダーというらしい)がいい雰囲気を醸し出し、バスは走る~♪という歌詞にぴったりのリズム感。

 オイラはそれほど歌がうまくないのですが、カラオケで歌うとすごく歌いやすい。

 一時期、岬めぐりが趣味だったのは、この歌の影響かも。


 さて、 いよいよ第一位の発表っす。

 ビジベンが頭を空っぽにして仕事に励んでいるときに聴いているフォークソングの第一位は…

 駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々… (← ドラムの音?)


第一位 或る日突然 トワ・エ・モワ

 それはこちら


 この歌がヒットしていたのは小学生の頃だったのと思いますが、当時ももちろんいい歌だと感じていました。

 でも、ホントに好きになったのは、改めて聴きなおした最近ですね。

 イントロや全体の雰囲気がなんともハイカラ。

 まだ日本家屋全盛で、水洗式のトイレもそうなかったであろう当時の雰囲気から生まれた歌だとはとても思えませぬ。

 日本よりヨーロッパ、とくにフランスのイメージがすると思ったのはオイラだけでしょうか。

 もっとも、フランスへ行ったことは一度もなく、カトリーヌ・ドヌーブやイブ・モンタンが全盛の頃のフランス映画のイメージなのですが…。

 そういえば、トワ・エ・モワというネーミングは、フランス語で「あなたと私」という意味だそうですね。

 ネットで調べてみると、メンバーの芥川澄夫と山室英美子それぞれソロ志向だったそうな。

 事務所の方針でコンビを組んでデビューしたのですか。

 そういえば、当時から唄っているときの二人の距離感が、チェリッシュとは違う素人っぽい雰囲気がありましたね。

 その後、山室英美子は白鳥英美子としてソロで活躍していましたが、最近はたまにトワ・エ・モワとしてテレビに出演する機会も増えたと感じます。

 最近のヒット曲は、それほど詳しくありませんけど、こういうメロディーラインの美しい曲ってあるのですかね。

 それを期待して、今年も紅白を見ようと思いまする。

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多摩から町田の鎌倉古道 ウォーキングストーリー

 こんばんは。

 前回は写真がなくて失礼しました。

 やっぱり、お散歩ネタはビジュアルが大事だと、その重要性を再認識した次第です。

 実はもうフォトデータが一杯になっていて、前の画像を削除しないと新しい画像をアップできないんですけどね。

 100円払うと、フォト容量をアップできるとどこかで聞いたのですが…。

 でも、100円あれば100円ショップでペットボトルのお茶が買えるし、松屋で野菜サラダをオーダーできますからね。

 しばらく、古い画像を削除しながら、継続するしかないっす。


 さて、今回行ったのは、多摩ニュータウンのそばに今も残る鎌倉街道。

 今も鎌倉街道と呼ばれる道は残っていますが、古道としての鎌倉街道は、鎌倉時代、幕府の御家人が、何か一大事が起きたとき、「いざ鎌倉」と鎌倉へ馳せ参じた道ですね。

 歴史関係の雑誌に、現在の鎌倉古道の写真が載っていたんですよ。

 鎌倉へと向かう道は当時、何本もあったそうなのですが、今回オイラが行ったのは、鎌倉から武蔵国西部を抜けて、上州すなわち群馬県に向かう道。

 その中の多摩市から町田市の小野路・野津田・七国山周辺です。

 東京都なのに、鎌倉時代の武士が歩いてもおかしくないような雰囲気の箇所が残っていて、一気に興味を魅かれたのでした。

 森閑とした古道を歩いていると、タイムトラベルしてきた鎌倉武士に出会えるのではないか、と…。

 …ということで、まず向かったのが、京王線、小田急の二つの私鉄の駅がある永山駅。

 そこからテクテク歩いて、現在の鎌倉街道、都道18号線を越えると前方に見える貝取山緑地の小高い丘を登ります。

 貝取山というくらいだから、縄文時代の貝塚でもあるのかしらんと思いましたが、詳しいことはわかりませぬ。

 頂上にマンションがあったりして少し期待外れでしたが、そのまま尾根を南下します。

 そういえばここには以前来たことがあり、面白い形をした石があったことを思い出しました。

 すると、その巨石が遊歩道の傍らに存在感を持って現れます。

象石


 確か、象に見えるから象石とも呼ばれていた記憶がありますが、確かに色といい、つやと言い、小象が寝ころんでいるように見えなくもないですな。

 遊歩道を抜けると巨大団地多摩ニュータウンの真っただ中。

 ところどころ広い公園があって芝生の広場も完備しておりまする。

多摩ニュータウンの公園


 団地の建物といくつもある広い公園のコラボを満喫しながら歩いているうちに、迷ってしまいました。

 まわりを見回しても、360度、巨大な四角い建物がどこまでも続き、方向感覚を狂わせます。

 わぁ~、またラビリンスへ迷い込んでしまっただ、とあせって歩き回るうち、都立高校の建物が目に留まりました。

 そこを目印に地図で調べてみると、なんと目的地から2キロもずれている。

 ウォーキングで、オイラがこんなに間違った方向へ歩いたのは初めてかも。

 もっとも、仙台へ行ったとき、松島行きの電車に乗ったと思ったら、山形へ行ってしまったことはありましたが…。

 それはともかく、ルート修正のため余計な距離を歩く羽目に。

 そのおかげで、金メダリストのビッグマウス、石井慧選手の母校、国士舘大学の体育学部の前を通ることができました。

 石井選手のビッグマウスは、アメリカプロレスのショーマンシップを見るようで、個人的には好きなのですが。

 ようやく、次の目的地一本杉公園へたどり着くことができました。

一本杉公園


 ここは、池や芝生が広がる落ち着いた公園。となりにある女子大の緑あふれるキャンパスも眺めることができます。

 ここには、多摩市内から移築された古民家が二つ、屋外展示されていました。

 こちらの旧有山家住宅は市の指定有形文化財なのだとか。

旧有山家住宅


 座敷の床は竹を編んで並べてあるのですね。

床は竹


 歩くたびに竹踏みができて健康には良さそう。

 だけど、縁の下が透けて見えて、冬はかなり寒いだろうなと思いました。

 一本杉公園を出て、いよいよ古道の雰囲気が漂う旧鎌倉街道へ。

旧鎌倉街道へ


 思わず下の舗装道路を行きそうになりましたが、引き返して左の小道へと入ります。

 最初は、ハイキングコースと変わりないじゃんと思っていましたが、歩くにつれ、いかにも鎌倉時代の古道と思われる場所もありました。

 掘割みたいに凹状に見られる道は、鎌倉街道なのでしょうね。

凹状に見られる道


 …と思って、家に帰ってからネットで検索してみたんですよ。

 鎌倉街道の道幅の規格は6メートルなのだとか。

 これはどう見ても、3メートルもないような気が…。

 鎌倉街道ではなく、後世に作られた道ではないかという疑念もわいたりして。

 それはともかく、そのときは鎌倉街道と信じて疑わなかったので、鎌倉武士がタイムトラベルしてきたら、どう対応しようと考えつつ歩きました。

 ところどころ、視界が開ける場所があり、都内とは思えない山里の景観が望めます。

 馬頭観音、子育て地蔵など、道の歴史を感じさせるアイテムを眺めつつ、小野路へ。

子育て地蔵


 小野路は、古くから鎌倉街道の宿として知られるそうですね。近世に入っても大山道の宿場として賑わったらしい。

 通り沿いに、幕末、新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司さんたちが剣術の出稽古に通ったという小島家には、小野資料館がありました。

小野資料館


 何でも当時の当主は、近藤勇と義兄弟の間柄だったそうな。

 資料館は、毎月第一・第三日曜日の公開だそうで、行った日は休館日でしたが、古い門に歴史を感じました。

 小野資料館からすぐ近くにあるのが、小野神社。

小野神社


 平安時代の学者で、遣唐使の小野妹子の子孫であった小野篁(おののたかむら)を祭る神社なのですね。

 なんでも、平安時代に小野篁の子孫が武蔵国の国司として赴任した時、先祖を祭ったのだとか。

 国司も注目するくらいだから、この辺りは当時、交通の要衝として栄えていたのだろうと思いました。

 次は、小野路一里塚へ向かったのですが、またまた道を間違えて1キロ以上も余計に歩くことに…。

 実は、地図を図書館でコピーしたものを持って行ったのですよ。

 図書館のコピーが薄くて、道路がよくわかりませぬ。

 仕方なく、あとは感だけで歩いたのですけど、運よく一発で一里塚にたどり着くことができました。

 ここは、徳川家康の遺骨を静岡の久能山から日光東照宮へ移すときに道が整備されたのですね。

 そのとき、家康の遺骨を乗せた輿が壊れて、鍛冶屋を呼んで直すなど大騒ぎになったらしい。 

 それにしても、道だけではなく、一里塚まで作っていったわけですから、当時の大イベントだったのでしょうね。

 そのすぐ近くに広がるのが野津田公園。

 起伏を利用した広大な公園で、陸上競技場や湿生植物園、上の原広場など見どころが満載でした。

 まずオイラが向かったのは、バラ園。

バラ園


 さまざまな種類のバラの花が咲き乱れておりました。もう少し前に来れば、満開だったのでしょうけど。

 行った日は秋たけなわの頃でしたので、上の原広場には、すすきの穂が風に揺られていました。

上の原広場


 これだけ大量のすすきを見る機会は、東京では滅多にないので久しぶりに秋の景観を堪能できましたね。

 園内から、再び鎌倉古道を歩き、七国山を目指して歩きます。

 鶴見川まではよかったのですが、迷路のような住宅街に阻まれ、再び道がわからなくなってしまいました。

 そういえば、15年前に七国山という絶景が望めそうなネーミングに惹かれてやってきたのに迷ってしまい、結局目的地へ到着できず、すごすご引き返したことがあったのを思い出しました。

 今回も方向感覚までわからなくなって、再び鎌倉街道へ出るまで住宅街をぐるぐる歩き回りました。

 鎌倉井戸には行ってみたかったのですが…。

 そこからまた町田駅まで、延々と歩くのでした。

 うちに戻って迷っていた距離を計算すると、通常のルートより5キロは余分に歩いたような。

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思い出の板橋 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~ん。

 いつも通り、お散歩ネタを書いて、ケータイに入っている写真をパソコンに転送しようとしたのです。

 しかし…、そこで大失態を。

 ケータイに撮り貯めてあった写真を、間違えて全部削除しちゃいましたぁぁぁぁぁぁぁぁ~!!!

 ひぃぃぃぃぃぃ~、今回はよく撮れていると思ったのに。

 何よりショックだったのは、先週行った、横浜市の茅ヶ崎城址と大塚・歳勝土(おおつか・さいかちど)遺跡の画像が消滅してしまったこと。

 復元された「環壕集落」とか、弥生時代の村の雰囲気がよく出ていたんですけどね。

 まさに「覆水盆に返らず」「It's no use crying over spilt milk」状態。

 記事を書いてしまったので、今回は写真なしで行くしかないっす。

 あらためて読み返すと、写真なしのお散歩ネタは、コーヒーにクリープが入ってないみたいに味気ないですな。

 それが実感できたという点では、画像なしのお散歩ネタも一度アップする意義があるかもしれませぬ。


 さて、去年の秋から冬にかけては、「ぐるっとパス」を使って都内の美術館や博物館を徹底的に歩き回ったのでした。

 できれば今年もやってみたいですが、さすがに毎年やるわけにもいかず、今年は、パスを使ってプチお得旅をしてみることに…。

 それは、都営地下鉄「秋」のワンデーパス。

 ワンコイン(500円)で都営地下鉄が一日乗り放題になるのですね~。

 もっとも、使えるのは休日だけ。

 平日にビジネスに使えたら、営業マンの得意先回りの訪問件数が増えるかも。

 それはともかく、その優れもののパスを使って今回行ったのは、板橋区のあたり。

 オイラの自宅の最寄り駅から目的地の蓮根駅までは360円。

 その周辺をウォーキングして、高島平駅から帰ったとすると往復で720円。

 つまり、220円もお得になるのですね~♪

 何度でも改札を出たり入ったりできるから、その気になればもっとお得感は味わえるのですが…。

 地下鉄に乗るのが趣味という人にとっては、たまらないでしょうね。

 …ということで、都営三田線の蓮根駅へやってきました。

 地下鉄というのに、この辺りに来ると駅は皆、高架になっているのですな。

 駅前から住宅街を抜け、団地のそばを通って来たのが、城北交通公園。
入口に近くにあるのが、年代物のこの蒸気機関車。

 あまりに小さいので、昔の遊園地のアトラクションかと思ったら、なんと当時メジャーで活躍していたというからびっくり。

 1912(明治45)年にドイツのコッペル社で製造されたらしい。その名もかわゆく、ベビーロコ号。

 当初は和歌山県の有田鉄道で活躍し、1952(昭和27)年、東武鉄道の気動車と交換して、東武東上線の川越機関区に配置されたのだとか。

 ただ、最大時速は20キロで、燃料や水の積載量が少ないことから、実際はほとんどなかったようですね。

 引退してから保管場所を転々として、現在の場所に移されたらしい。

 それにしても、小さいニャーと思ったのですが、日本で最初に新橋と横浜の間に開通した鉄道も、陸蒸気(おかじょうき)と呼ばれ、これくらいの大きさだったのでしょうね。

 城北交通公園には、そのほかにもD51型蒸気機関車、通称デゴイチも保存展示されておりました。

 次に向かったのは、「植村冒険館」。

 ここに来たのは、15年ぶりですかね。

 実は、オイラの会社の創業当初、ある会社から営業を頼まれて、東京の城北部から埼玉県南部にかけて営業に回ったことがあるのでした。

 今では懐かしい思い出ですが、当時は喜びより苦しみのほうが10倍以上もあったような。

 でも、そのとき頑張ったおかげで、会社が今でも細々と続いているのですね~。

 その辛い時期、休み時間についふらふらと立ち寄ったのがこのミニ博物館です。

 植村冒険館とは、ご存知国民栄誉賞を受賞した冒険家植村直己の生涯と数々の冒険で使用したグッズなどを展示してあるのですな。

 当時はこれを見て、勇気をもらったことを思い出しました。

 いくら仕事が辛いと言っても、命までは取られませんからね。

 北極点到達やグリーンランド縦断など犬ぞりを使って、しかも単独で冒険を達成したところがすごい。

 狭いテント暮らしを何か月で、話し相手は犬だけ。

 冒険家としての植村直己のすごい点は、冒険の現地で長期間を過ごし、生活まで現地の人たちに溶け込んでしまうところにあったらしい。

 たとえば、グリーンランドを犬ぞりで横断したときは、エスキモーの家に寄宿し、犬ぞりの技術はもちろん、衣食住や狩・釣りに至るまで、極地に暮らす人々から直に学んだそうな。

 冒険館には、そのときの冒険の様子を写したパネルが展示されておりました。

 それほど大きな博物館ではありませんけど、一階には冒険や登山関係の書籍、ビデオが無料で利用できますから、そういう趣味を持っている人にはたまらないかも。

 冒険館を出て、住宅街をテクテク歩き、環八通りを横断して坂道を上ります。

 関東平野といっても、このあたりは起伏がかなりあって、とても23区内とは思えない。

 この辺りは、つい最近までのどかな農村風景が広がっていたのかも。

 そんな風景に溶け込んでいたのが、円福寺。

 本堂の前にそびえるコウヤマキの2本の大木が印象的でした。

 この辺りを歩いていると、ところどころ緑豊かな公園にぶつかります。都会の中にある人工的な児童遊園と違って、起伏があって自然な森のようになっている公園は癒されますな。


 前谷津川緑道を通って、昆虫公園へ。

 ここも前に来たことがあります。雑木林の斜面に、昆虫のいる3つの温室と小さな標本室があるのでした。

 施設はかなり古くなっていて、虫さんはホントにいるの?という感じでしたが、標本室ではお母さんと子供が熱心に蝶の標本を眺めておりました。

 昆虫公園から前谷津川緑道に戻り、今度は反対側の坂道を上ります。

 前谷津川は現在暗渠になっていて、その上が緑道として整備されていますが、昔は川の両側は崖になっていたのでしょうね。

 相当な急坂ですが、マンションが建ち並んでいます。

 その坂道を、ベビーカーを押した若いお母さんが息を切らしながら押しているのが印象的でした。

 長崎など坂道の多い町に住む人たちは、足腰が丈夫で心肺機能も高いそうですが、日々の買い物などで毎日この坂道を登ったらメタボとは無縁かも。

 便利で楽なだけが、幸せではないと思いましたね。

 そんなことを考えつつ坂道を登りきると、由緒ありそうな神社がありました。

 こちらは北野神社。なんと、995年創建の板橋区でもっとも古い神社なのだとか。

 境内には、菊の花がたくさん置かれていました。

 この神社には、毎年2月11日に行われる「田あそび」という神事があるそうですね。

 「田あそび」というから、田んぼに村の人たちみんな集まってお花見やカラオケみたいなことをするのかなと思ってしまいました。

 実は、水田耕作に関わる行事で、年の始めに、その年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し、稲作の作業内容を唱え、言葉と所作によって表現するのだとか。

 神社の隣にある郷土芸能伝承館には、そのときに使用する衣装や道具が展示されておりました。

 神社にお参りしてから、前の通りを右折します。

 ここから次の目的地、水車公園までの道の街路樹は、ちょっと変わっているような気が…。

 なんか、大きな盆栽が道の両側に並んでいるような感覚。

 この木はマキといって、街路樹として使われることは全国的にも珍しいのだとか。

 確かに、ほかでは見たことありませぬ。

 面白い景観に見とれているうちに『徳水亭』という茶室のある庭園に到着。

 ここも、以前何度か来たことがあってよく覚えています。広くはないけれど、石の配置や池の形、深山幽谷を表した岩の景観などよく考えて作られていますね。

 隣にあるのが、水車公園。

 公園の名前の由来にもなっている通り、ここにはモノホンの水車があるのでした。

 水車小屋では、実際に脱穀や製粉の様子も見ることができます。木製の巨大な歯車がまわってゴトゴト音を立てる様は迫力満点。

 この辺りは、徳丸田んぼと呼ばれ、かつてはのどかな田園風景が見られたそうな。

 現在も、ところどころ畑が残っていて、当時の様子をイメージすることができます。

 水車公園を出て赤塚公園に向かう途中にも、小さいながらも個性豊かな公園が並んでおりました。

 それにしても、この自販機はなぜかよく覚えている。

 真夏の暑い盛りに、この自販機から何本も清涼飲料を買ったのでした。

 当時は、コーラやジュースなどカロリーの高いものをがぶ飲みしていましたね。

 最後に向かった赤塚公園は、高島平団地と首都高速5号線に沿って、東西にのびる公園。自然林が広がる崖の上から、高島平の巨大団地群を臨むことができます。 

 高島平は、江戸時代後期に、この地で砲術家の高島秋帆が日本で初めての洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なったのがネーミングの由来。

 ところが、高島平と呼ばれるようになったのは、意外と新しく昭和44年だそうなんですよ。

 できた当初、高島平団地は高島忠夫にちなんで作られたのではないかと友人と話したのを思い出しました。

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