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三浦半島・浦賀 ウォーキングストーリー2

 こんにちは。

 今日は先週の「浦賀をゆく」の続きです。

 浦賀水道を渡し舟で渡ったオイラは、西浦賀の町に降り立ちました。

 まず向かったのは、西叶神社。

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 さきほど行った東叶神社と浦賀水道を挟んで、どちらも叶神社というのが正式名称とのこと。

 区別するために、東叶神社、西叶神社というらしいのですが、どちらも同じルーツの神社なのですね。

 1692年の元禄年間に、浦賀村が東と西に分かれたとき、入江を隔てた東側の叶神社を若宮、西側の叶神社を本宮としたのですか。

 どちらも、歴史を感じさせる立派な社ですが、東叶神社が背面に小高い丘を背負っているのに対し、西叶神社は街中にある印象を受けました。

 西叶神社の見所は、江戸時代後期に建造されたという社殿。

 まわりに230を超える彫刻があり、当時の日本には渡来していないとされる花や鳥も彫られているそうな。

 西叶神社の近くにも小高い丘があって、公園にもなっているらしいので行ってみることにしました。

 木々に囲まれた急坂を上ると、港に面した木立の間から、浦賀水道が一望できます。

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 漁船や浚渫船などがたくさん停泊していて、今も浦賀港は重要な役割を果たしているのですね。

 かなり大きい船もあり、狭い浦賀水道ですがかなり水深があるのだろうと思いました。

 向こう岸に半島のように見える小高い丘は、さきほど登った明神山、もとい浦賀城址。

 房総からの敵に備えるには打ってつけの地形だと理解できますね。

 この公園は、愛宕山公園というらしいのですが、かつては浦賀園とも呼ばれ、横須賀で一番古い公園なのだとか。

 丘の上には、咸臨丸出港記念碑が立っていました。

 碑の裏には、咸臨丸の乗組員の名前が彫られており、勝海舟はもちろん、慶応の創立者の福沢諭吉の名前もあります。

 江戸時代にアメリカへ行ったのですから、さすがインターナショナルの慶応ですな。

 丘から降り、海の近くへ行ってみることにしました。

 この桟橋は、通称「陸軍桟橋」というらしい。

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 この曰くありげなネーミングがなければ気づかず通り過ぎてしまうような桟橋かも。

 ところがこの桟橋。太平洋戦争終了後、南方や中国大陸から引き上げてきた人たちが、懐かしい日本への第一歩をしるした場所なのですか。

 その数は56万人とも言われているらしい。

 大変な思いをして帰国した人たちが、この浦賀の風景をどんな思いをして眺めたのでしょうか。

 小さく、お世辞にも立派とはいえない桟橋ですが、当時の人たちの思いが染み込んでいるような気がしました。

 お散歩マップを見ながら、源為朝ゆかりの為朝神社にお参りして、住宅地を小高い山のほうに向かって歩いてゆくと、団地というか企業の社宅になっている一画があります。

 これもどこにでもある普通の団地に見えるのですが、よく見ると、堀と石垣で囲まれているのがわかります。

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 堀と石垣といえば城跡?と条件反射してしまうのですけど、堀も狭いし、石垣も低いっす。

 なんとここは、浦賀奉行所の跡なのですね~。

 海よりではなく、かなり内陸の多少不便な山の近くにあるというのは、異国船による砲撃を意識したからでしょうか。

 それにしても、当時の建物はすべて失われていましたが、奉行所の約2000坪の区画がそっくりそのまま団地の跡地になっているのですな。

 結果的に当時の堀や石垣が残ったのでしょう。

 ここに奉行所が置かれたのが、1720年。下田から浦賀へ奉行所が移されたのですね。

 海難救助や地方役所としての機能があったそうですが、なんといっても異国船から江戸を防備するための海防の拠点として、重要な役割があったらしい。

 ここには、与力10騎、同心50人の役人たちが勤めていたそうで、幕末にペリーが来たときは、天地がひっくり返ったような大騒ぎがここで行われたのでしょうね。

 今の静けさからすると、信じられないような気がしました。

 ここから再び海へ向かって歩きます。

 お散歩マップのコースではありませんが、せっかく海へ来たら砂浜も見たいじゃありませんか。

 …ということで、ヨットハーバーやお洒落なレストランを横目に燈明崎と呼ばれる場所に向かいます。

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 ここは江戸時代には浦賀港の入り口に当たるところ。

 燈明というネーミングからも解るとおり、江戸時代、岬の突端には「浦賀燈明堂」があったそうな。

 燈明堂は、今で言えば灯台。当時は一日も休まず、航路の安全を守ってきたそうですから、多くの船が浦賀港を出入りしていたのですね。

 岬の高台には、当時の燈明堂が復元されていました。

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 灯台のような建物を想像していたのですが、なんとも変わった建物ですな。

 強風に対処するためか、四方につっかい棒があるようで、こんな建物見たことない。

 上の障子で囲まれた部分の中に、菜種油で光を灯し、その光は約7.4キロの海上四海里まで届いたそうな。

 まわりは公園になっていて、小さな砂浜や岩礁などもあって磯遊びが楽しめそう。

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 この景色は、ペリーがやってきた当時とあまり変わらないのでしょうか。

 だとすれば、この先に巨大な黒船が4隻も浮かんでいたのですね。

 燈明崎から海岸線を歩いて西叶神社の近くまで戻り、内陸部を歩いて久里浜駅を目指して歩きます。

 途中、古い家や店、蔵などが残っていて、当時の面影が偲ばれました。

 バス通りに別れを告げ、高坂小学校の下の細い道をテクテク登ります。そこから住宅街を過ぎ、やがて樹木に囲まれた切通しの道に入ります。

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 緑あふれる公園というより、昼尚暗い原生林みたいだなと思ったのですが、このあたりは江戸時代、「御林」といって、浦賀奉行所が支配した幕府の御用林だったらしい。

 江戸城は何度か火災に見舞われましたが、復興にはここからも大木が切り出され、江戸へ運ばれたそうなんですよ。

 椎の樹木帯が陽光を遮り、江戸と浦賀を結ぶ浦賀道の面影をよく残していました。

 幕末、ペリーが来航したとき、急を告げる知らせが何度もこの道を往復したのでしょうか。 
 真福寺というお寺の前を回り込むように続く道を歩き、オイラが最後に向かったのは、怒田城址。

 いや~、今日二つめの城ですか。

 しかも、はじめて訪れる城ということで胸がときめきます。

 それにしても、怒田城は「ぬたじょう」と読むそうですな。パンフにふりがながなければ、「おこったじょ~」と読み間違えそう。

 「ちゃんと城跡が残ってないと、怒ったじょ~」と叫びつつ、自分の秀逸なジョークにうけてしまってゲラゲラ笑いながら前に進みました。

 怒田城は、源平盛衰記にも登場する城だそうですが、すると平安末期から鎌倉時代に栄えたのですな。

 なれば、きっと丘の上にあるはずと、目をつけた緑あふれる丘陵へ一直線。

 急な山道をあがると、解説板があって、やはりドンピシャ、ここが怒田城址なのでした。

 この時代の城はほとんど山城だからですが、さっきの浦賀城に比べるとずいぶん内陸へ入ったところにあるなと思いました。

 あとで調べてみると、当時の久里浜湾はこの辺りまで深く入り込んだ入江になっていたのですね。

 ここに城を築いた三浦一族は、ここからもう少し奥まった場所にあった衣笠城を本城に、今より深く入り込んだ湾を取り囲むそれぞれの山に城を築いたみたい。 

 すぐ近くまで迫った海に、三浦水軍の軍船がつなぎ止められていて、そこは今も舟倉という地名になっているそうですね。

 パンフには、源頼朝が石橋山の合戦で敗北したとき、三浦一族も平家方に追いまくられて、衣笠城に立てこもったと書かれていました。そのとき、三浦義明の孫である和田義盛が「怒田城のほうが要害堅固だから、そちらで籠城して戦いましょう」と進言したと伝えられています。

 以前、衣笠城のある山へ登りましたが、急勾配にかなりの守備力があると感じました。多少息も上がりましたが、こちらの怒田城は一気に駆け上がって来ましたが…。

 当時は、今とは違って海に囲まれ、難攻不落と考えられていたのでしょうね。

 確かに、本城の衣笠城が落城するとき、その後安房に逃れた頼朝と合流する三浦一族は、この怒田城から船で逃れたと考えられるそうな。

 そんなにすごい城だったのですね、この城は…。

 今は、空堀や土塁、土橋の跡などが残っていますが、当時の城の面影を伝えるものは少ないです。

 それにしても、城を作ったとき、縄文時代の貝塚を掘り返しちゃったのですね。

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 縄文時代の貝塚と中世の城跡の解説板がコラボであるのは珍しいかも。

 やっぱりどの時代の人も、目をつける一等地は同じかもしれませぬ。

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三浦半島・浦賀 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 暑いですね~。謹んで暑中お見舞い申し上げます。

 さて、今回行ったのは、神奈川県三浦半島の浦賀です。

 浦賀といえば、日本史の好きな人は幕末を思い浮かべるかも。

 江戸時代末期、アメリカの海軍提督ペリー率いる四隻の黒船が来航したのが浦賀沖なのでした。

 それによって、泰平の眠りから叩き起こされた日本は、幕末の動乱を経て近代国家へと歩み始めるのですね~。

 「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで、夜も眠れず」と狂歌にうたわれたのは有名の話。

 恥ずかしながら、今までその意味がわからなかったんですよ。

 今回浦賀へ行って、ようやく秀逸なジョークが理解できました。

 なるへそ~。笑点でそれを答えたら、座布団二枚は確実にもらえそう。

 そのココロはのちほど…。

 ところで、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号は、全長78.3メートル、排水量2450トン、乗組員300名くらいだったとか。

 今でも、そこそこの大きさの船ですが、当時の人たちから見たらガミラスの遊星爆弾や未知との遭遇の巨大なUFOが飛来したくらいの衝撃だったのでしょうね。

 当時の日本の巨大船といえば千石船。 

 大きさは20メートル前後で、重さは100トンくらいでしょうか。

 当時の人から見たら、「島が動き出したような船」という表現も誇張ではないような気がしました。

 ところで、黒船が黒いのは、防腐・防水のためにタールを塗っていたかららしい。

 マグマ大使に出てくるゴアの宇宙船も黒だし、宇宙戦艦ヤマトに登場する超巨大戦艦も黒。鉄人28号のブラックオックスも黒ですよ。

 黒い巨大なものがいきなり現れたら、民衆がパニックを起こすのは必然のような気がしました。

 そんな当時の風雲急を告げる状況をイメージしながら、浦賀を旅してみようか、と…。

 ウォーキングのスタートは、京浜急行の浦賀駅です。ここはターミナル駅でもあるのですな。

 駅を出ると、巨大な倉庫のような建築物が続いています。

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 これらの建物は、100年以上にわたって船を建造してきた浦賀ドックの跡なのだとか。

 京急の駅でもらったお散歩マップによると、浦賀ドックは平成15年に閉鎖されたみたい。

 日本丸などの帆船や青函連絡船、大型タンカー、自衛隊の艦船などもここで作られたのですね~。

 入り口は質素ですが、歴史と威厳を感じました。

 中は見学できないので、敷地の外の通りをずっと歩いてゆくと、やがてレンガ塀越しにドライドックが見えてきました。

 お散歩ガイドによれば、「背が高い人は、背伸びをすれば塀の向こうのドックが見えます」と書いてある。

 おお~、オイラも背伸びをすれば中がよく見えまする。

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 176センチということで、背が高いという基準が最近、適用されなくなってきたと感じていたので、すこぶる気を良くして眺めました。

 歴史を感じさせるドックですが、それもそのはずで明治32年に作られたのだとか。隣に見えるクレーンは、昭和18年に作られ、一つだけ解体されずに残っているクレーンとのこと。

 最盛期は、こんなクレーンが建ち並んで、巨大な艦船を作っていたのですね。

 少し山のほうへ歩き、浦賀コミュニティセンターの分館へ寄ってみました。

 浦賀の歴史を紹介する小さな博物館なのですが、浦賀奉行所やペリー艦隊、勝海舟で有名な咸臨丸の模型などがあって興味深かったです。

 奉行所の与力だった中島三郎助という人をはじめて知りました。幕末の船の建造や函館の五稜郭で幕府方として戦って戦死するなど、波乱に満ちた生涯を送ったのですね。

 ところで、先ほどの「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで、夜も眠れず」という狂歌。

 この狂歌にでてくる上喜撰とは、上質のお茶のことだとか。お茶にはコーヒーと同じカフェインが含まれていて、飲みすぎると夜眠れなくなりますよね。

 そこで、上喜撰と蒸気船をかけ、黒船が現れたことによって、日本人が夜に眠れなくなるほどの衝撃を受けたということを表現したのですね~。

 それを知って、思わず、パチパチパチと拍手したオイラなのでした。

 浦賀コミュニティセンター分館を出て、再び浦賀駅のほうへ戻り、対岸の東浦賀と呼ばれる地域へ向かいます。

 浦賀水道を右手に眺めながらテクテク歩き、着いたのが東叶神社。

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 東叶神社というからには、西叶神社もあるのだろうかと思ったのですが、その通りで、浦賀の港を挟んで東西の叶神社が向かい合っているのだそうな。

 叶神社とは珍しいネーミングだと思いました。

 社伝によると、平家物語にも登場する文覚上人が、源氏の再興を願って房総半島の鹿野山に修行し、 もし自分の大きな願いが叶えられるなら、よい土地を選んで神社をたてることを誓ったそうな。

 結果は見事、源氏の再興どころか、天下を取ってしまったのですね~。

 そして文治2年(1186)には源頼朝公が源家再興願意成就の意を込めて神号を改め、叶大明神と尊称されたと伝えられているとのこと。

 夢が叶うから叶神社とは、実に人々のニーズを的確につかんだネーミングですな。

 これはしっかりお参りしなければ、と鳥居をくぐります。

 社務所の裏に洞窟のような場所があったので行ってみると、ここは勝海舟が咸臨丸での太平洋横断の前に、この井戸で水垢離をしたのだとか。

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 そのあと、この神社の裏山となっている明神山山頂で断食をしたらしい。

 お寺や神社のこういう因縁話は、多少眉につばをつけて聞かないといけない部分もありますが、時代が近いからこれはホントだろうと思いました。

 石段をあがり、しっかりお参りをしたあと、振り向くと青い海が見えます。

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 海に面して立つ神社も趣があっていい。

 境内の左手には、裏山へと続く急な階段があります。

 上ろうかどうしようか迷っていると、神社のおじさんに声をかけられました。

 頂上にのぼると海が見られるよ、とのこと。

 う~ん、海は上らなくても見られるし、どうしようかなと思ったら、なんとこの丘は城跡だと仰るではあ~りませんか。

 それを早く言うてくだされ~、上ります、上ります、とお礼を言い、脱兎のごとく石段を目指します。

 言われてみれば、海に向かって山が半島のごとく突き出した地形ですから城跡だと疑わないオイラがどうかしていました。

 20年以上も前にもこの神社に来たことがあるのですが、当時のガイドブックには城跡という記載がなかったような。

 あとで調べると、ここは浦賀城といって、小田原北条氏における水軍の海賊城だったらしい。

 北条氏と激しい戦闘を繰り広げた三浦道寸の築城らしいですね。

 確か、司馬遼太郎の「箱根の坂」で読んだことがあったなと思いつつ、急な石段を上りました。

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 さすがに戦国時代の城跡だけあって、難攻不落さが実感できます。

 もっとも当時は、頂上まで続く石段なんてなかったから、もっと大変だったと思いますが…。

 ようやく、頂上にたどりつくとそこには石垣に囲まれた社がありました。

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 その近くには、勝海舟が断食をしたといわれる場所に解説板が。

 海が見えるという崖の近くに行くと、広い東京湾を挟んで房総の山並みが見渡せます。

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 当時は、房総の里見氏との争いの拠点として、この城が重要な役割を果たしたというのも頷けます。

 この見晴らしは、三浦半島へ侵入する里見水軍の前線基地として打ってつけでしょうから。

 頂上付近の本丸から、尾根を歩いたり、崖を下りたりしてみました。

 空堀なども発見して、城の縄張りをイメージし、家に帰ってからネットで検索して、当時の縄張り図と比べるのが、オイラの城歩きの醍醐味のひとつ。

 思っていたより、大規模な城だったようですね。

 城跡歩きを堪能したあと、東浦賀から対岸の西浦賀へと向かうことにしました。

 直線距離はさほどでもないのですが、海岸線をまわると結構な距離を歩かねばならない。

 でも、ここには渡し舟があるのですね~。

 渡し舟に乗る前に、吉田松陰や桂小五郎が泊まった旅館という徳田屋の跡を探してみたのですが、解説板を発見できませんでした。

 だいたいあの辺りかなという場所はわかったのですが…。

 さて、渡し舟。

 渡し舟といっても、矢切の渡しのような木造船ではなく、こちらの船は江戸時代の御座船をイメージしたという強化プラスチック製の船なのですね~。

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 川ではなく、こちらは一応海ですからね。

 料金は150円で、3分ほどで対岸まで運んでくれます。

 行った日は、わりと風が強く、結構揺れたので料金以上の迫力を満喫できました。

 浦賀ドックや浦賀水道を取り巻く山なども、海から眺めると別の景色のように感じられます。

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 さて、これから西浦賀の町を歩くのですが、それはまた次回。

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埼玉県・加須 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 街を歩くと、マイケル・ジャクソンのポスターや在りし日のプロモーションビデオをよく目にしますね~。

 同い年ということもあって、オイラの青春時代はすごく気になる存在でした。

 …というか、当時、オイラの唯一の自慢は、全盛時代のマイケル・ジャクソンと同じ身長と体重ということでしたから。

 そういえば、トシちゃん(田原俊彦氏ですので、念のため)も、「日本のマイケル・ジャクソン」を目指すといつも言っていたのを覚えています。

 スリラーやBADのビデオを見てしまったら、誰でもその類まれなダンスに心が浮き立つはず。

 オイラも、身長・体重が同じというだけでは満足できず、マイケルの動きまで真似してみたいと思ったのです。

 当時はビデオなんてなかったから、テレビを見ながら頑張って真似して踊ってみるのですが、常人では、とてもあの素早い動きに対応できない。

 トシちゃんの「哀愁でいと」や「原宿キッス」は、バク転も含め、かなり忠実にコピーできたと自他ともに認めているのに…。

 マイケルの兆速のダンスには、一歩たりとも近づけなかったですね~。

 ムーンウォークなんて、いくら普通の人間が努力しても、絶対あの水準には到達できないのではないか。

 でも今、マイケル・ジャクソンの当時のプロモーションビデオを見て気づいたことがあるのですよ。


 身長・体重は同じでも、足の長さが倍ほども違っていた…。


 そんな簡単なことに気づかず、マイケル・ジャクソンにあこがれていたなんて…。

 天国のマイケルに謝りたい。

 やっぱり、若いのは怖い、と感じる今日この頃です。


 …ということで、またしてもお散歩ネタ。

 今回行ったのは、埼玉県の東北部にある加須。

 かつて、奥州街道の脇往還沿いの宿場町として栄えたらしい。

 ここへ行ったのは、まだ行ったことのない町ということもあるのですが、当日は天気予報で、午後3時頃から雨が降ると言われていたから。

 朝早くに家を出て、3時頃までに観光スポットをまわれるウォーキングコースだと踏んだからなのですね~。

 雨が降るとわかっていて、山歩きはかなりハードですし…。

 それはともかく、加須という地名は珍しいですよね。

 地元の人でないと、読めないかも。

 加須は、「かぞ」と読むそうな。

 地名の由来をネットで調べてみると、いろいろな説があるそうですね。

 たとえば、この地方の古刹を創建した人の名前に由来するとか、有力なお寺の別名に由来するとか、あるいは江戸時代の新田開発に由来するとか。

 新田を開発すれば、石高が加増しますから、加増がなまって加須…。

 どれもありそうな理由ですが、立派なお寺があって、広い田んぼが広がる土地だったのは想像できます。

 それから加須は、「鯉のぼりのまち」としても有名らしい。 

 なんと、鯉のぼりの生産量日本一を誇るそうな。

 それは知りませんでしたね~。

 行った日は、五月の初旬でしたが、やけにたくさん街中に鯉のぼりを見かけると思ったらそういうわけだったのですな。

 …ということで、ウォーキングのスタートは、東武伊勢崎線の加須駅。

 どんよりと曇った空で、今にも雨が降り出しそう。

 天気予報どおり、午後3時までは雨が降らないでくりぃ~と祈りつつ、歩きはじめました。

 まず向かったのは、駅から程近い場所にある千方神社。

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 「せんぽう神社」や「せんかた神社」ではなく、「ちかた神社」と呼ぶらしい。

 「千方」という社名は、平将門を討伐したことで有名な藤原秀郷の六男藤原千方が由来らしい。

 ということは、かなりの歴史がある神社ということですな。

 お祭などイベントがあるときは、露店なども出て賑やからしいのですが、静かな雰囲気が漂っていました。

 千方神社から古い家が建ち並ぶ道を通って向かったのが光明寺。

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 このお寺は、戦国時代の1571年に開山されたとのこと。本堂前には浄土宗の宗祖法然上人の銅像があります。

 清潔感漂う境内に足を踏み入れると、背筋がピーンと伸びますね。

 光明寺の裏手にあるのが、会の川。

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 この川の風景は、家の近所にあって今は暗渠になっている昭和時代の立会川の景観によく似ているんですよ。

 もちろん、こんなに川幅や道幅は広くなかったですが。

 川沿いを歩いてゆくと、やはりこの川も暗渠になっている部分があって、会の川親水公園となっていました。

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 この公園は、平成6年に完成したのですか。

 水遊びのできるせせらぎや花壇、ベンチなどが設けられています。

 噴水の水だまりでは、かなりの大きさの鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。

 さすが、鯉のぼりの街だけあって、鯉のぼりのモニュメントもありましたね~。

 しばらく親水公園を歩くと、再び川の流れが顔を覗かせます。

 やっぱりオイラは、こっちの景観のほうがノスタルジックな気分に浸れるような。

 昭和の時代には、うちの近所にもこんなレトロな石の橋もまだ残っていましたね。

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 しかも、まわりの商店を含めた景観が当時にタイムスリップしたかのよう。

 そんな懐かしい街並みを歩き、次の目的地の龍蔵寺に到着しました。

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 寺の門前で、絵を描いている人がいましたが、絵に残したくなるくらい見事な朱色の門です。

 この寺は、南北朝時代の1355年に開山されたとのこと。

 解説板には、この寺にちなんだ伝説が書かれていました。

 なんでも、このあたりは昔、鬼島といわれ、邪悪な白龍が棲んでおったそうな。

 教蔵上人という偉いお坊様が、これを退治し、この龍蔵寺を創建したのですね。

 白龍の飲料水であったという龍水井戸や退治した白龍の亡骸の頭のところに植えたという大イチョウが境内にあります。

 その大イチョウは、樹齢約650年、幹回りが4.3メートルもありました。

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 オイラが持っているガイドブックでは高さ50メートルとあったので、こりゃまさにスカイツリーを連想したのですが、どうやらミスプリで、実際は高さ約20メートルみたい。

 江戸時代には、徳川幕府から寺領を保護され、3代将軍家光から14代家茂にかけての9通の朱印状が当寺に保存されているのですな。

 1835年から9年間の歳月をかけて完成した本堂は荘厳で、将軍家からも厚く保護された風格が伝わってきました。

 ゆっくりしたいところですが、いよいよ厚く雲がたちこめ、いつ雨が降ってもおかしくない天候。

 先を急ごうと、大通りを渡り、住宅地をテクテク歩き、加須パイパスを越えて前進します。

 そして着いたのが、市民運動公園。

 ここはその名の通り、野球場やテニスコート、陸上競技場、プール、体育館を備えた加須市民のための運動公園なのですね~。

 行った日は、少年野球大会が開催されていたようで、多くの子供や保護者が野球場に集まっていました。

 これから雨が降るというのに、その熱意に脱帽です。

 この程度のコンディションで中止していたら、将来のハンカチ王子やマー君は現れないのかも。

 市民公園の中央広場に、平和の鐘と呼ばれる時計塔があります。

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 高台からは、公園が一望できました。

 藤棚もあったりして、一休みするには最適かも。

 しかし、雨雲に追われているオイラは、休憩もそこそこに次の目的地へ向かいます。

 田んぼの中の車道沿いにあるのが首なし地蔵。

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 首なし地蔵というからには、ミステリアスな伝説があるのかと思いきや、解説板には、「地元では、願い事がかなう地蔵尊として信仰され、願いが叶うと前掛けを奉納する習わしがある」と記載されていました。

 首があるように見えるのですが、どうやら普通の石を乗せているみたい。

 この地蔵は、江戸時代まで、付近にあった喜福寺という寺院の境内にあったもののようで、喜福寺が明治の廃仏毀釈によって廃寺になったため現在地にうつされたそうですね。

 願いをかけようと思ったのですが、願いが叶うと前掛けを奉納しに来なければならないので…。

 そして最後に向かったのが、関東三大不動尊の一つとして江戸時代から信仰を集める總願寺。

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 このお寺は、江戸時代の初期に總願上人によって開山されたそうですから、いままで参拝した神社仏閣より歴史は新しいのですね。

 急速に発展したのは、館林城主の庇護を受けたところが大きかったそうな。

 ちなみに、関東三大不動尊とは、このお寺のほかに成田山新勝寺と高幡不動なのだとか。

 どちらも、地元の人たちばかりではなく、多くの地域から信仰を集める大寺院です。

 オイラのブログでも、ご紹介しましたね~。


 …ということは、このお寺をお参りすれば、関東三大不動尊を全部お参りしたことになるのですか。

 これは、ご利益が期待できそう。

 境内の広さや門前町の大きさは一番小さいものの、趣のある建物が並び、さすが由緒あるお寺の風格を感じました。

 まずは、金色の山門。

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 百年ぶりの大改修の一環として、山門の改修が行われたみたい。以前朱色から金色に生まれ変わったのですか。

 金色とは珍しいかも。

 本堂は、幕末近くの1844年に建立されたらしい。解説板を読むと、本尊の不動尊像は、1039年に古利根川の大洪水でこの付近に漂着したという伝説があるそうですね。

 本堂の脇には、鎌倉時代末期に作られたという散蓮華模様青石塔婆という板碑がありました。

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 珍しい模様なのだそうですが、素人にはよくわかりませぬ。

 そして注目すべは、境内の西側にあるこの黒門。

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 なんと、1842年に作られた忍城の城門だったとか。

 それを明治6年に移築したそうですね。

 お寺に来て、城の遺構を見られるなんて得した気分。

 …と思ったら、ポツポツとお約束の雨が頭上から降ってきました。

 時計を見ると、午後2時半。

 雨に追われたウォーキングも、どうやら逃げ切ったようですね。

 でも、加須駅まで土砂降りの中をトボトボ歩く時間は計算に入れてなかったのでした。

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蔵の町・雨の川越 ウォーキングストーリー2

 こんにちは。

 今日は、川越シリーズの2回目。

 前回は、大雨の中、喜多院を見学したのでした。

 これからいよいよ、川越のメインストリートを歩くぞ、と意気込んで、蔵の町エリアへやってきました。

 でも、喜多院をじっくり見学したので、昼時をかなり過ぎている。

 腹が減ってはウォーキングができぬと、少し遅めの昼食にすることにしました。

 洗練された観光地のいいところは、飲食店の情報が充実していることですよね。

 朝、バスに乗る前にもらったパンフに書いてある飲食店を探します。

 オイラが選んだのは、札の辻という蔵の町の中心地から程近いところにある和食レストラン。

 芋釜めし、とはちょっと珍しいかも。

 そういえば、川越はイモを使ったお菓子や料理が名物なのでした。

 千円とちょっとなので、さっそくそれを注文です。

 これが芋釜めし。

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 若干、食いかけですが…。

 オイラが、お散歩先でグルメ写真をアップするのは極めて珍しいですな。
 
 いつも、ファストフードばっかりだし。

 どこへ行っても、名物店は混んでいて、とても並んで入る気が起きないのですが、雨の日はどこへ行ってもすいているのがいいですね~。

 芋釜めしを食べ、外へ出ると相変わらずの雨。

 しかも、完璧にさっきより雨脚が強くなったのがわかります。

 でも、驚いたことに、決して少なくない観光客が傘をさして歩いているんですよ。

 この悪天候の中ですから、晴天だったらすごい人ごみになっていたかも。

 ポジティブに考えるようにして、まず川越のランドマークタワー「時の鐘」へ。

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 高いものを見ると昇りたくなるオイラの琴線に触れる塔ですな。

 高さ、16メートルというからそれほど高くはありませんが、まわりに高い建物がないのと、何と言っても木造板張りのタワーって珍しい。

 そんじょそこらのビルとインパクトが違います。

 地上600メートルを誇る東京スカイツリーも、ツリーと言うだけあって、ホントに木造で作ったらすごいでしょうね。

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 怖くて誰も昇らないでしょうけど…。
 

 それはともかく、この「時の鐘」。

 初代は、江戸時代初期に川越城主の酒井忠勝が、こことは別の場所に建てたものが最初らしい。

 現在の鐘は四代目だそうで、明治半ばの再建だとか。 中は3層になっているそうですね。

 時の鐘というくらいだから、江戸時代から約350年間も、川越の町に「時」を告げてきたのですな。

 現在は、毎日、午前6時・正午・午後3時・午後6時の4回、鐘の音が鳴り響くのだとか。

 誰が一日4回もここに昇って鐘を撞くのだろうと思ったら、今は機械仕掛けなのですか。

 でも昔は、ここに昇って鐘を撞く人がいたのでしょうね。

 高いところと、鐘を撞くのが好きなオイラは、物欲しそうに見上げます。

 時の鐘の周辺は、ご存知、蔵造りの店が並んでいます。

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 重厚な黒い壁、そして堅牢な瓦屋根。今でも地方の古い町へ行くと、たびたび土蔵造りの店蔵を見ることができますけど、これだけ一そろい蔵が並ぶ景観は珍しい。

 さすが「小江戸・川越」と思ったのですが、これらの蔵のすべてが江戸時代からのものではないそうですね。

 なんでも、明治26年の川越大火があったとき、江戸時代から続く蔵造り建物が無事だったそうなんですよ。

 それで火事に強い建物ということで、これだけ多くの蔵造りの建物が作られたとのこと。

 現在、この周辺は、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、つい最近には「美しい日本の歴史的風土100選」にも選定されたらしい。

 きっと、江戸時代の日本橋とか、当時の繁華街はこんな感じだったのかもしれませんね。

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 昔に思いをはせ、ボーッと美しい街並みを眺めていたかったのですが、どんどん雨が強くなってきて、このままではやばい状況に立たされそうだったので、雨宿りすることにしました。

 おかげさまで川越には、雨宿りする場所には事欠かないのですね~。

 まず向かったのは、すぐ近くにある川越市蔵造り資料館。

 入館料100円なのもうれしい。

 ここは、かつて川越大火の直後に、当時、タバコの卸商を営んでいた小山文造氏が建てたものだとか。

 つまり、明治時代の中頃に建てられたのですな。

 でも、江戸時代の雰囲気もよく残しているのではないかと思いました。

 通りに面していて、間口はそれほどないものの、奥行きがすごくあるところ、とか。

 通りに面している部分は、店蔵や住居部分、そして奥に行くに従って、文庫蔵や煙草蔵、そして文庫蔵の順に並んでいます。

 小さな庭もあって、通りの喧騒とは別に静かな雰囲気が漂っていました。

 この庭からも「時の鐘」が見えます。

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 当時ここに住んでいた人は、東京人が東京タワーを眺めるイメージだったのかも。

 店の二階から、広い通りを覗けるのですが、鉄格子越しに外を眺めるのは不思議な気分。

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 二階へ上がる階段は狭くて急だし、しかも出入り口は一つだけ?

 窓には鉄格子がはまっているし、火事のときはどこから逃げようかと避難路を考えてしまいました。

 防火性が高いから、窓を閉めて篭城してしまえば大丈夫なのでしょうか。

 店蔵には、レンガ造りの地下貯蔵庫も設けられていて、城好きとしては抜け穴などいろいろイメージが膨らみます。

 もうひとつ別の蔵も見学しようと、次に向かったのは大沢家住宅。

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 なんと、この建物は重要文化財なのですね~。

 作られたのは、江戸時代中期の寛政年間とのこと。

 当時は、呉服太物を商っていた店蔵らしい。呉服はわかるけど、太物って何?と思い、この前買った電子辞書で調べてみました。

 何でも、絹織物を呉服というのに対し、綿織物・麻織物を総称した語らしい。

 載っていたのはさすが広辞苑ですが、説明が難しくてよくわかりませぬ。

 要するに、着物関係を扱っていたお店なのですな。

 この建物は、明治の川越大火の際も焼け残り、川越商人に蔵造りを建てさせるきっかけとなった建物の一つなのだとか。

 蔵の町・川越のルーツともなった建物なのですね。

 一階は、今でも川越観光のおみやげ物を売っていましたが、二階は見学できるそうなので入館料を払って入ります。

 話好きなおじさんが一生懸命解説してくれて、独特の建築様式がよくわかりました。

 太い大黒柱が二本もあり、二階は、16畳の広間のほかにも四部屋もあるのですね。

 お城や古民家を見慣れているオイラでも驚いたのは、箱階段の幅が狭くて急なところ。

 ここを日常、平気で上り下りしていたのだから、当時の人たちのバランス感覚はすごいと思いました。

 「いや、あんなものじゃないよ、こっちを見てご覧よ」とおじさんに言われて、今は使われていない裏の階段を見せてもらいました。


 おおおお~、すごい!! ほぼ垂直の階段。

 上から覗き込むと、階段と言うより、切り立った崖を上から見下ろすような感じです。

 しかも、手すりがない。

 現代人の会社や住宅にこんな急な階段があったら、日に何人かは転げ落ちる人が出るのは間違いない。

 打ち所が悪ければ、天国へ行く人も出るのではないか。

 でも、当時の人は平気で荷物を持って上り下りしていたのだとか。

 おじさんに聞いてみると、爪先立ちで上ったり下りたりしていたそうですね。

 かかとは使わなかったそうな。

 もっとも、かかとを置くほど階段の奥行きがありませんが。

 江戸時代や明治時代の人たちが小さくてやせているのはわかりますが、軽業師のような身のこなしができていたのは意外でした。

 大沢家住宅を出て、最後に向かったのは菓子屋横丁。

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 観光のために作られたのなら、昭和ブームのいいところに目をつけたなと考えていました。でも、ここはもともと、明治の初めから菓子を製造していました地域なのですね。

 なんでも、関東大震災で被害を受けた東京に代わって駄菓子を製造供給するようになったとか。

 現在も十数軒の店舗が集まっているのですね~。

 昭和の街並みと昔食べた駄菓子を楽しみにしていたのに、大雨で閑散とした雰囲気。

 前回来たときは、すごい混雑していて、駄菓子をゆっくり買う気がおきなかったのですが、すいていると逆に店に入りづらかったりして…。

 イモのアイスクリームを食べたいと思っていたのですが、行った日は寒いくらいだったのでパスせざるをえませんでした。

 もっとも、昭和の下町も大雨の日はこんな感じだったなとノスタルジックな気分に浸りながらバスに乗り込んで駅へ向かったのです。


 …が、しかし。

 川越の駅についたとき、またも大失態を演じたことに気づきました。

 ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~また、七福神めぐりの最後のお寺をお参りするの、忘れたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~


 また、いつか川越へ行かねばなりませぬ。

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雨の川越 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 去年の年末から粛々と続けてまいりました出版作業。

 ようやく、オイラの仕事は完了し、あとは印刷所での入稿、校了、印刷作業を待つばかりという段階に到達しました。

 ブログが滞りがちだったのに、温かく見守っていただきまして、どうもありがとうございました。

 村上春樹氏の「1Q84」を真似して、出版まで何の情報も…。

 …というほど、オイラは大物ではありませんので、さらっと紹介させていただきますと、今回も病気の本です。

 頭や胸、おなかなど病気が起きる場所ごとに章が分かれておりまして、見開きの左側にカラーの図版や解説、用語解説などがありまする。

 図解入門シリーズで有名な出版社さんだけあって、イラストは、いい仕事していますね~。

 そして右側には病気の解説文やポイントなどがコンパクトにまとめられておりまする。

 本も、A5版で前回の本より若干大きいっす。

 校正原稿を見せてもらいましたが、読みやすいし、見やすいし、これってホント、オイラが書いたの? というくらいの出来栄えに仕上がっていました。

 コラムも、トリビア感がなかなか。

 …と、自己満足、ポジティブ思考にどっぷり浸かっている今日この頃なのでした。

 いろいろお世話になっているので、なんか、ご恩返しなぞしたいと考えてはいるのですが…。

 出版までもう少し時間があるので、それは宿題ということで。


 さて、お散歩ネタ。

 今回行ったのは、埼玉県の川越です。

 以前、オイラのブログでもお散歩ネタとして取り上げた場所ですね。

 前回は、川越七福神めぐりにチャレンジして、最後のお寺のお参りを忘れるという大失態を演じたのでした。

 あれから、最後に残ったお寺のお参りをしなければと思いつつも、かなりの時間が過ぎてしまったのですね~。

 それはともかく、川越は現在、NHKの朝の連続テレビ小説の舞台として脚光を浴びているらしい。

 今回は、前回スルー気味だった、蔵造りの街並みや喜多院、菓子屋横丁という観光スポットに絞って行ってみることにしました。

 それからもちろん、七福神めぐりの成就も。

 かなりのタイムラグで、ご利益は期待できるのだろうかと若干不安なのですが…。

 しかし、行こうと思っていた日は、なんと朝から雨…。

 しかも、大雨ばかりではなく、風や雷にもご注意と天気予報のおねーたんが話しているのでした。

 うぬぬ、どうしよう…。

 しかし、こんな雨の中、観光に行く人は少ないだろうとポジティブに考え、決行することにしたのです。

 天気のいい土曜日だったら、テレビ小説の効果でとてもゆっくり観光できないでしょうからね。

 防水のウインドブレーカーに防水シューズで固めたオイラは、東武東上線の川越駅に降り立ちました。

 駅ではやはり、『つばさ』のポスターやパンフが並んでいます。パンフを手に取ると、裏にはこれもお約束の「受信料のお支払い」のお願いが…。

 うちは口座振替にしているのですが、衛星契約にすると結構な金額になるのですね。

 元を取るくらいNHKを見なければ、と思いつつ、何気に駅の広いコンコースを見回すと、市内のバスが乗り放題で300円というポスターが目に留まりました。

 これは、安いと早速チケットを買い求め、バスの乗り場に向かいます。

 まず向かうのは、川越大師喜多院。

 前回も来たのですが、観光の目玉でもある三大将軍「徳川家光誕生の間」や「春日局化粧の間」は、スルーしてしまったのでした。 

 昔、入ったことがあると言っても、20年前ですからね。今日は、じっくり見学してみようと思いました。

 バス停を降り、雨の中、小走りに喜多院の山門へ向かいます。

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 この山門は、寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたそうですね。

 その後起こった川越の大火からも焼失を免れ、喜多院では現存する最古の建物なのだとか。

 広い境内は、桜の名所としても有名で、テレビで見たときはものすごい混雑振りでした。

 ところが今日は、静かな雰囲気が漂っている。ゆったりした風情を感じるのは、雨の日ならではの醍醐味かも。

 雨に煙る多宝塔がいい味を出しています。

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 この塔は、バランスがよくて美しいと評判らしいですね。

 今日はすいているから、ゆっくり中を鑑賞できるだろうと喜多院の客殿と書院に向かいました。

 入り口で拝観料を払おうとすると、OH!NO~、今日は千円ですか。

 いつもは400円なのに…。

 特別展をやっているから、別料金みたい。常設展と特別展と分ければいいのに、と思いつつ、庫裏から中に入ります。

 着物や絵画、鎧兜に刀剣類など貴重な寺宝の数々が、客殿や書院に所狭しと展示してあります。

 千円の元を取ろうと、目を皿のようにして眺めましたが、頭のハードディスクの容量が最近落ちているので、あまり記憶に残りませぬ。

 写真は撮ってはいけないそうだし…。

 でも、警備員のおじさんに聞いたら、庭は好きなだけ撮ってもいいそうなので、お言葉に甘えてパチパチ撮影しました。

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 雨に濡れているためか、新緑がとても鮮やか。

 土砂降りの中、傘を差して日本庭園を歩くのは大変ですが、広い縁側から眺めると、雨のまた庭園の美しさを際立たせる演出にも思えてきますな。

 そして、いよいよ「家光誕生の間」へ。

 どうして、川越に家光の生まれた場所があるの?という疑問も湧きますが、もちろん家光が川越で生まれたわけではないのですね~。

 家光が生まれたと言われる御殿が、川越に運ばれたらしい。

 現在、喜多院の客殿や書院、庫裏となっている建物は、江戸城紅葉山にあった別殿を移築したものなのですな。

 何でも、寛永15年の大火によって、当時の喜多院の建物のほとんどが焼失してしまったとき、三代将軍家光が移築を命じたとのこと。

 結果的に、江戸城唯一の遺構として残されたのですね~。

 さて、「家光誕生の間」の広さは、12畳半だというのですが、部屋中に特別展ということで鎧兜が並んでいるので、むしろ狭い印象でした。写真に撮りたいところですが、年季が入っているから当時の豪華絢爛という風情はないような。

 「オイラは生まれながらの将軍なのじゃ~」と外様大名に大見得を切った三大将軍がここで生まれたとは不思議な感じです。

 興味深かったのは、近くに湯殿と厠、つまりバスとトイレが設けられている点。

 いわゆる当時の住居だから、トイレとバスがあるのは当然ですが、将来の将軍が生まれた建物なのに、思っていたよりずっと質素なのには驚きました。

 トイレとバスが隣同士にあるのは、ユニットバスみたいだし…。

 徳川の初期だし、家光が生まれた頃って、まだ大奥はできてなかったと記憶しています。

 まだ、戦国時代の気風が残っていたのかも、と考えたのですが、こればっかりはオイラはよくわかりませんので念のため。

 次に向かったのは、「春日局化粧の間」。

 ここも思ったより質素な造りですが、二階にあがることもできるそうなので、急な階段を上って見学します。

 それにしても、手すりのない急な階段。当時、着物を着た女性たちがホントに、上がり降りしたのですよね。

 かなりのバランス感覚と運動神経が必要だと思うのですが…。

 中二階といわれる部屋は、天井の高い屋根裏部屋という雰囲気。

 当時は倉庫のような役割があったらしいのですが、ここで、折檻なんかも行われていたかもしれませんと、音声解説がありました。

 確かに、見上げてみると縄をかけて吊るすのにお手ごろな梁もあったりして。

 昔見た、大奥を舞台にした映画のワンシーンがフラッシュバックします。

 昇るときは大変でしたが、さらに降りるときはもっと大変で、上り下りだけでも折檻になったのではないか、と…。

 特別展の展示も見ながら客殿を後にし、喜多院の本堂になっている慈眼堂に向かいます。

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 雨の中、外へ出なくても渡り廊下でつながっているのがうれしい。

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 それにしても風情のある廊下で、自分がお坊さんになったみたいですね。

 しかも、廊下の途中に休憩できるスペースがあって、そこからの庭の眺めも素晴らしかったです。


 本堂の畳の上に座り、しっかりお参りをしました。

 建物を出て、境内からも本堂にお参りしたあと、最後に向かったのが五百羅漢。

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 こちらも境内にあって、日本三大羅漢の一つに数えられるそうですね。

 傘を差しながら写真を撮ったら、ブレブレに…。

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 手振れ防止のケータイカメラが欲しいっす。

 それはともかく、これらの羅漢さまは、江戸時代の後期に、約50年間にわたって建立されたそうな。

 よく見ると、笑ったり、泣いたり、怒ったり、表情を一つひとつ眺めているだけでも楽しいのですが、雨が強くなってきて…。

 これはたまらんと、次の目的地へ向かうことにしました。

 さすがにこの大雨の中、観光客が少なくてゆっくり眺められるのはいいのだけれど、ゆっくり眺めているとびしょ濡れになってしまう。

 テクテク歩き、ようやく川越観光のメインストリート、蔵の町エリアへ。

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 さて、これから雨の川越のメインストリートを歩くのですが、それは次回。

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