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千葉県北小金の二大本山・本土寺、東漸寺 ウォーキングストーリー

 こんにちは、ご無沙汰です。

 名優・森繁久弥さんがお亡くなりになりました。96歳の大往生ですね。

 国民栄誉賞を贈られるそうですが、おそらく反対する日本人はいないのではないか、と…。

 日本人に、これほど好かれた俳優は少ないかもしれませぬ。

 とくにイケメンというわけではなかったですが、味のある俳優さんという言葉がぴったりでした。

 オイラが物心のついたときは、すでに大俳優になっていて、重役や社長、駅前シリーズの人気はリアルでは知りません。

 子供の頃知ったのは、確か、向田邦子原作のテレビドラマ「だいこんの花」だったような。

 竹脇無我演じる主人公の父親役で、元海軍大佐。よく覚えていませんが、戦争中は艦長として活躍したものの、今は隠居の身で妻に先立たれて息子と二人で暮らしている設定だったと思います。

 この元海軍大佐が、二言目には戦時中の自慢話をするんですよ。

 近所に、同じ艦に乗っていた元部下が住んでいて、今も「艦長」と呼ばれて悦に行っている。

 今もはっきり覚えているシーンがあります。

 ある女性が家に訪ねてきて、たまたま彼女の父親が戦争中は海軍にいたことを元海軍大佐が知る。

 そのとき、「私は、戦時中は大佐で、艦長をしていたのだが、君の父親は、一兵卒かね、二兵卒かね」なんてことを言ったのですよ。

 女性が、「いえ、確か少将だと…」

 それを聞いたとたん、真っ青になってその場で昏倒してしまうというシーンなのでした。

 本来なら、その元海軍大佐はすごく嫌味のある人物なのですが、森繁さんが演じると実に愛嬌があって魅力的な人物なのですよ。

 話している内容や仕草は、魅力のないオヤジの典型なのに、どうしてあんなにほほえましく見えるのか、と…。

 やはり、森繁久弥氏本人の人間的魅力でしょうか。

 オイラも、あんなオヤジになりたいと感じる今日この頃です。


 さて、今日もお散歩ネタ。 

 前回、千葉県の東金へ行き、今回は同じ千葉県の小金です。

 お金のご利益がありそうな場所ですが、前回書きましたとおり、実はお金とは縁もゆかりもないネーミングなのでした。

 それでは、今回行った小金は? …と調べてみたのですが、地名の由来はわかりませぬ。

 あまり詳しく調べたわけではありませんけど…。

 でも、戦国時代は小金城が築かれ、江戸時代は、小金牧と言って幕府直轄の軍馬を養成する牧となった歴史もあるらしい。

 かなり古い地名なのは間違いなさそうですね。

 さて、ウォーキングのスタートは、JR常磐線の北小金駅。

 駅前のロータリーがある出口と反対側の北口に出て、商店街から住宅街へテクテク歩いて行きます。

 信号のある大通りにぶつかると、いきなり目の前に、道の左右に松並木が続く参道が見えました。

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 この松並木は、なんと水戸光圀公が寄進されたのだとか。

 行った日は日差しが強くて、暑かったので、黄門様から思わぬ日陰のプレゼントをいただいた気分で、涼しい木陰の参道を歩きます。

 やがて、朱塗りの重厚な山門が見えてきました。

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 ここは、本土寺(ほんどじ)。

 京都や鎌倉の本山となっている寺院に勝るとも劣らないほど立派だと思ったら、こちらも日蓮宗本山の寺院だそうですね。

 なんと、池上本門寺(長栄山)、鎌倉妙本寺(長興山)とともに「朗門の三長三山」と呼ばれているらしい。

 入り口へ向かうと、「拝観料500円」の文字が目に突き刺さります。

 仕方なく、財布を出して払おうとすると、受付の女性から「今は無料ですから、どうぞご自由にお入りください」と言われました。

 おお~、ラッキーと一瞬思ったのですが、実はこのお寺は「あじさい寺」と言われ、6月には境内や庭園にあじさいの花が咲き乱れるそうな。

 あじさい寺として全国的にも有名な鎌倉の明月院に対し、このお寺は「北の鎌倉」とも呼ばれるのですな。

 また、庭園には菖蒲田があり、ハナショウブとアジサイがコラボで楽しめるとか。

 あじさいの季節ではないから、無料で入れるのですね~。

 現在の本土寺のある場所は、源氏の名門、平賀左近将監忠晴の屋敷だったらしい。

 その後、鎌倉時代の1277年に、当時この地方の領主だった曽谷教信が開基。

 お寺の名前は、日蓮上人より授かったということからもわかる通り、日蓮宗屈指の名刹なのですね。

 境内でまず目が行くのは、やはり五重塔。

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 最近、作られたみたいですが、やはり五重塔があるとお寺はビジュアル的にも、高ポイントかも。

 塔の横に建つ鐘撞堂には、県下で二番目に古いといわれる国指定重要文化財の梵鐘がありました。


 そして、本堂へ行ってしっかりお参りをします。

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 お寺は、今までかなり訪れているという自負はありましたけど、本堂正面にこれだけ大量の卒塔婆があるお寺はあまり記憶にありませぬ。
 
 卒塔婆は、故人の供養追善のためにお墓のうしろに立てられますが、これはどういう意味なのでしょうね。

 お墓を拝むということなのかしらんと考えつつ、あじさいは咲いていないけれども、あじさいをイメージしながら境内を歩いてみることにしました。

 本堂から程近い場所に古いお墓があります。

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 解説板を読んでみると、なんと徳川家康の側室で、武田信吉を産んだ秋山夫人のお墓なのですか。

 秋山夫人とは、甲斐武田氏家臣・秋山虎泰の娘とされる人物。武田信吉は、家康の五男ですが、21歳の若さで早世してしまったそうです。

 でも、すでに水戸25万石の大名だったそうですから、彼が早死にしなければ、徳川光圀も水戸のご老公ではいられなかったかもしれませぬ。

 そのまま境内を歩いてゆくと、菖蒲田の緑が陽光に輝いてとてもきれいでした。

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 藤棚や日本庭園のコラボもあったりして、やっぱりあじさいの季節に来ればよかったと悔やむことに…。

 本土寺をすっかり堪能したあと、かつて広大な田んぼを切り開いて作られた住宅街を歩き、幸田貝塚へと向かいます。

 貝塚といっても、現在は何の変哲もない児童公園に解説板があるだけでした。

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 でも、今からおよそ6000年前の縄文時代前期に形成された貝塚で、その分布範囲は南北約250m、東西が約180mにも及ぶ広大なものらしい。

 度重なる発掘調査の結果、縄文時代前期をはじめとする竪穴式住居跡が160軒以上も確認されたとか。

 全国でも指折りの大規模集落の跡なのですな。

 貝塚があるくらいですから、こんな内陸まで海が入り込んでいたのでしょうね。

 地球温暖化で海面が上昇すると騒がれていますが、地球の長い歴史から見れば過去に何度もあったことなのだと実感できました。

 
 小金は歴史のある街だけあって、古刹が多くあります。

 廣徳寺もそのひとつ。

 このお寺は、室町時代、小金城を築いた高城胤吉によって開基されたそうで、その後も高城氏の菩提寺として栄えたらしい。

 広い境内には、江戸時代に建立されたという高城氏の墓碑がありました。

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 さて、次はいよいよ本日のメインイベント、小金城じゃ~


 東金城を見損なった分を取り戻すぞ~と、勇んで向かう道すがら、松本清記念会館なる古びた建物が…。

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 そういえば、ここ松戸はマツキヨ発祥の地なのでした。

 マツキヨは商品券が使えるので、ネットアンケートでゲッツしたギフトカードでよく買い物します。

 松本清は、その名の通り、マツモトキヨシ創業者にして、千葉県議会議員や松戸市長などを歴任した人物。

 オイラが子供の頃は、松戸市役所の「すぐやる課」がマスコミで取り上げられていましたが、そのアイデアを出した市長としても知られていますね。

 もしかして、マツキヨ創業の建物?と思ったのですが、ネットで調べてみると直接の関係はないみたいでした。

 でも、建物の裏には、松本清氏が昭和40年代にこの辺りの土地改良に尽力したという巨大な記念碑が。

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 ちなみに、松本清記念館で検索すると、「松本清張記念館」の検索結果がダダダダ~と出てしまうのですな。

 それはともかく、小金城っす。

 調べてみると、城の大きさは東西800m、南北700mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った平山城だったとか。

 それはすごい、と大谷口歴史公園の小高い丘をのぼると、土塁や畝堀、障子堀などの遺構を見ることができます。

 障子堀はあまり確認できませんでしたが、畝堀は底のほうにしっかりと畝が残っていて、待ってました~後北条氏のお城じゃ~と、なんだかうれしくなって眺めました。

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 さて、他には何が? …と思ったのですが、これでお仕舞い。

 えっ、こんなに狭くないよね、と当時の縄張り図を確認すると、公園になっている部分は、小金城の末端なのですな。

 入り口部分がかろうじて残っている…みたいな。

 どうして小金城址というネーミングで紹介しないのだろうと思ったのですが、ここは城跡といっても端っこだからでしょうか。

 城の中心部分は市街地の中にすっぽり埋もれているみたい。

 しかし、小金城の遺構はほかにも、近くに達磨口跡として残っていました。

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 普通の崖のように見えているものが巨大な土塁だったりして。

 当時はかなりの規模の城だったのがわかります。

 その後、小金城は、豊臣秀吉の小田原攻めの際、後北条氏方として戦ったものの、豊臣氏方の浅野長政らに攻められ開城。

 徳川家康の五男、武田信吉が居城としたが、1593年に廃城となったとの由。

 武田信吉の母上のお墓がどうして小金の本土寺にあるのだろうという疑問がこれで解けました。

 今回は時間がなかったので、当時、城の中心部だった「本城」や「中城」などへは行きませんでしたが、きっと地形に何らかの痕跡が残ってはいるのでしょうね。

 またいつか、訪れてみたいと思いました。

 そして、最後に向かったのが、JR常磐線の線路を越えたところにある東漸寺。

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 このお寺は、今から約500有余年前の1481年に創建。江戸時代には徳川幕府の手厚い保護を受け、関東十八檀林の一つとされた名刹だそうです。

 至るところに、徳川家の紋所である三つ葉葵があしらわれていて、水戸黄門好きのオイラとしては、思わず、ははぁ~とひれ伏したくなるお寺でした。

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池と湖と心霊スポットと…千葉県東金 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今回行ったのは、千葉県の東金市。

 実は夏休みに行った場所なのですが。

 以前、成東もとい山武市や茂原市へ行ったとき、いつか訪れてみたいとチェックしておいた場所です。

 オイラが行ってみたい場所といえば、当然、城跡があるのですね~。

 しかも、「金」がつく地名なんて、行けばなんか、おカネのご利益がありそうで…。

 埋蔵金の伝説なぞ、あったりして。

 …が、しかし。

 東金の地名は、「金」には関係ないみたいです。

 この場所は昔、鴇(とき)が舞い飛ぶ丘陵地だったそうな。

 街の西方に「鴇ヶ峰」と呼ばれる丘があり、そこに「鴇嶺城(ときがねじょう)」という城が築かれたとか。

 この「ときがね」が、後に「東金」になったと言われているのですな。

 うぬぬ、「ときがね」から「とうがね」は文字にしてしまうとかけ離れていますが、話し言葉では「とー」と伸ばしたほうが言いやすいのかも。

 文字の意味よりも、話しやすさを優先させる昔の人の思考方法が興味深いっす。

 当時は、文字による伝達より、伝言ゲームみたいな形で知識が広がって行ったのかニャーと思いました。

 伝言ゲームで村人の誰かが言い間違えた言葉を、現代の人たちは何の疑問もなく使っているのかもしれませんね。

 どこにも、東の金なんて、意味はないですし…。

 …ということで、ウォーキングのスタートは、JR東金線の東金駅。

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 昭和を感じさせる駅前商店街をゆっくり10分ほど歩くと、まぶしい緑に囲まれた美しい池に着きました。

 ここが最初の目的地、八鶴湖(はっかくこ)。

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 池と言いましたが、名前的には「みずうみ」なのですな。

 でも、面積は3.4ヘクタールで、周囲は約800メートルほどだと言うから、どうみても「池」としか見えませぬ。

 それにしても、日本の原風景を見るような美しい景色。

 池の三方を取り巻く丘は、東金の地名の由来にもなった「鴇ヶ峰(ときがみね)」ですか。

 確かに、今でも鴇が舞い飛んでいても納得できそう。

 でも、この「池」は元からこの大きさではなかったそうですね。

 池のすぐそばに、千葉県立東金高等学校があるのですが、この場所は江戸時代初期には、東金御殿があったそうな。

 東金御殿は、なんと徳川家康が鷹狩りの際宿泊した御殿とのこと。

 御殿建設の際、もとは小さな池だったものを多く広げられ、現在の「湖」の姿になったとか。

 確かに、背景の丘を借景にした美しい佇まいは、かなり吟味して作られた日本庭園の趣がありますな。

 その八鶴湖の東岸にあるのが最福寺。

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 これは一見して由緒ある寺院だと思ったら、なんと807年に伝教大師最澄によって創設されたらしい。

 「湖」に面する高台に位置するローケーションは最高です。

 しかも、この元禄時代に建立されたという本堂は、一部、江戸浅草、浅草寺の古材を譲りうけて作られたそうなんですよ。

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 ほかにも、広い境内には興味深いアイテムがたくさんありました。

 たとえば、このお墓。

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  歌舞伎「お富・与三郎」の切られ与三郎のモデルになったという4代目、芳村伊三郎のお墓なのだそうですね。

 この話のあらすじは知りませんでしたが、解説板を読むと、実際にもすごいストーリーだとわかります。

 8代目団十郎が、このフィクションに目をつけ、善玉、悪玉を誇張しておもしろく書きあげたのも頷けました。

 西洋の「モンテクリスト伯」や「オペラ座の怪人」にも匹敵するのではないか、と…。

 江戸の町民たちは、現代人が上記の芝居を見るような感覚で、ワクワクドキドキしながら観劇していたのかもしれないと思いました。

 境内には、鐘撞堂も。

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 鐘撞堂があるのはお寺として全然珍しくないのですが、「鐘の音の余韻まで心で受け止めてお撞きください」という表示があったのですよ。

 えっ!? 撞いてもいいの?

 実はオイラ、20年以上前に、長崎で平和の鐘なるものを撞かせてもらってから、一度も撞いていないのです。

 鐘を見れば撞きたくなるのだけれど、どこのお寺も、勝手に鐘を撞かないでくださいと張り紙があり…。

 それじゃ、お言葉に甘えて…。

 …と大きく振りかぶり、心をこめて撞き棒を鐘にガツゥゥゥゥゥゥ~ンと。

 ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ~ん。


 おおお~、心に染み入るような美しい鐘の音じゃ~。

 鐘の余韻がいつまでも周囲に響き渡り、煩悩にまみれたオイラの心に涼風が吹き渡るのがわかりました。

 すっきりした気分になり、「湖」のほとりを歩いて今度は西岸にある本漸寺へ向かいます。

 このお寺は、鎌倉時代に禅宗の寺として創建されたものの、戦国時代に、この地を支配していた酒井定隆によって顕本法華宗に改宗したそうですね。

 その酒井氏の菩提寺で、裏山には鬱蒼とした杉林。

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 とても、花粉症の時期には来れないと思いました。

 でも、この険しい崖の上に、目指す東金城があるのですね~。

 いざ、城攻め。

 …と勇み立ち、本漸寺の裏山へ立ち入ろうとすれど、どこにも登り口がな~い。

 本堂の近くにあるお墓では、東金城主だった酒井氏のお墓を見つけることはできたのですが…。

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 東金城は、立ち入り禁止なのかも。

 城跡に入れないのは残念だけど、遺構を守るためでしたら止むを得ませぬ。

 そう自分を言い聞かせて、無念の撤退を余儀なくされたのです。

 でも、自宅に帰ってネットで検索してみたら、東金城の本丸や土塁、空堀、郭の写真がたくさん載っているじゃあ~りませんか。

 どうやら、入り口は東金高校の隣付近にあったみたい。

 本漸寺の境内からは行けないのでした。

 しかも、東金高校は、小倉優子、別名ゆうこりんの母校でもあるそうですね。

 やっぱり、ウォーキングの前には、ネットでしっかり情報収集をしてから行けばよかった。

 知っていれば、東金高校にも、ゆうこりんのこりん星の痕跡を探したのに、と後悔する今日この頃です。

 高校周辺を不審なオヤジが歩き回っていると通報されていた可能性も皆無ではないので、塞翁が馬なのかもしれませんが…。

 それにしても、東金城、見たかったっす。
 
 下から見上げた感じでは、かなり土塁は急峻ですし、丘の上の縄張りも巧みなのがわかります。

 酒井氏は戦国時代の70年間もこの城を居城としていたそうですから、かなり実戦的な仕掛けがいろいろ凝らされていたの思うのですけどねえ。

 あとで悔やむことになるとは夢にも思わなかったオイラが次に向かったのは日吉神社。

 ここの神社も由緒あるらしいのですが、1615年に徳川家康がここに御成りしたそうな。

 そのとき、神社の復興を命じられ、200メートルにわたる参道に杉並木を植樹されたらしい。

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 杉並木といえば日光を思い出しますが、ここの杉並木も巨木が建ち並んで壮観でした。

 花粉症の時期に来なくてよかったっす。

 たぶん来ていたら、杉並木の植樹に一役買った徳川家康に文句を言っていたかも。

 神社の近くにある丸山公園は芝生の緑が最高に綺麗でした。

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 青い空と緑の木々、花粉の飛ばない爽やかな空気。

 暑くなければ、夏は最高なのだけれど…。

 そこから、炎天下、汗をドバドバかいて、舗装道路をトボトボ歩きながら考えました。

 ああ、水をガバガバ飲みたいっす。

 …と思う頃、最後の目的地、雄蛇ヶ池(おじゃがいけ)に到着。

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 池というより、こっちのほうが「湖」ではないですかねぇ。「池」と「湖」の定義にこれだけ頭をひねる場所も少ないかも。

 しかも、こちらは人口池なのだとか。元々は江戸時代の干害対策として周辺の村を救う為に作られたものだそうな。

 この広大さは、こちらのほうが、モノホンの湖に見えるのだけれど。

 ウォーキングガイドブックでは、この池を見るだけで終わっていたのですが、せっかくだから一周してみることにしました。

 池のまわりは約4キロもあるらしい。

 さきほどの八鶴湖は、確か800メートルでしたけどね。

 池のまわりは遊歩道になっていて、アップダウンもそこそこあって、池の景観の変化が楽しめました。

 この池は、近年はバスフィッシングの名所としても有名だそうで、ボートを浮かべて釣りを楽しむ人たちを大勢見かけました。

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 ネットで調べてみると、雄蛇ヶ池は心霊スポットとしても有名だそうですね。

 女性のすすり泣く声がどこからともなく聞こえてきたり、笑い声が聞こえてきたり…。


 ワハハハハハハハハハハハハ~!!!

 ブロロロロロロロロロロ~ ドォ~ルゲェェェェ~!!!


 オイラが、一人で遊歩道を歩きながら、誰もいないとよくやる癖は、黄金バットの真似とか、超人バロムワンの悪役ドルゲの真似。

 実は、ここでもやってしまいました。

 心霊スポットだと知っていれば、こんな恐れ多いことはやらなかったのですが。

 知らない人がたまたま聴いて、都市伝説のひとつに組み込まれてしまったかも。

 ちなみに、あの押尾学氏もここを肝試しで訪れ、女性の霊を見たと告白しているそうです。

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三浦半島・金沢文庫、称名寺、野島 ウォーキングストーリー

   こんばんは。

 最近は三浦半島を中心に歩いていますが、今回行ったのは金沢文庫。

 確か、日本史の教科書にも登場する有名な場所で、当然、オイラも若い頃から何度も行ったことがあります。

 でも、よく考えてみれば、「文庫」ですよ。

 広辞苑で調べてみると、一般に、図書館が公衆の閲読を目的とするのに対し、文庫は書籍の蒐集を目的とするもの…なのだとか。

 なんか、オイラ的には「学級文庫」をイメージしてしまいます。

 口の両端に指を突っ込み、横に口を開いた状態で、「がっきゅうぶんこ」って言ってごらん。…というフレーズを、小学校時代何度口にしたことか。

 当然、「がっきゅうぷんこ」とは言えず、「がっきゅううん○」になってしまうのでした。

 それはともかく、個人的な蔵書、コレクション、手文庫など、わりとプライベートな意味の言葉が、街の名前や駅名になってしまうなんてすごいですよね。

 今回はそのあたりの謎の解明も含め、久しぶりに訪れてみることにしたのです。

 ウォーキングのスタートは、京急線の「金沢文庫」駅から。

 個人的な蔵書が、特急停車駅の駅名になってしまうなんて、何度考えてもすごいっす。

 オイラは、貧乏なわりに本は多少持っていると思いますが、間違ってもブックオフや図書カードを使って買った本からなる蔵書によって、「ビジベン文庫」という駅はできないでしょうね。

 行った日は真夏の猛暑でしたが、汗を拭きつつ、駅前から長く続く坂道を登っていきます。

 やがて左手に赤い門が見えてきました。これが称名寺の惣門なのですね。

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 称名寺は、鎌倉幕府の執権として有名な北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時が開基した寺院。

 解説板によると、1258年に、実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂がその起源とされているそうですね。

 金沢北条氏の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備されたとのこと。

 しかし、鎌倉幕府の滅亡とともに金沢の北条氏も滅んで、その後衰退してしまったのですか。

 解説板を読みつつ、3代金沢貞顕という名前を目にして、なぜか児玉清の顔がフラッシュバックしたのですよ。

 そういえば、いつかドラマで見たような。

 …と考え、それはNHKの大河ドラマの「太平記」だったことを思い出しました。

 確か、真田広之が足利尊氏、武田鉄矢が楠木正成、片岡鶴太郎が北条高時という配役だった記憶があります。

 オイラの好きな楠木正成が武田鉄矢というのは若干異論があったのですが、主役が足利尊氏ですからね。

 金沢貞顕の児玉清がなぜ、これほど覚えているかというと、北条高時役の片岡鶴太郎の怪演との対比といいますか。

 北条高時があまりの変人として描かれているため、そのあとを継いで執権になった金沢貞顕がすごく良識のある素晴らしい人物に見えてくるのです。

 金沢貞顕は、金沢文庫の蔵書の充実に力を尽くしたらしい。読書家として有名な児玉清が演じたのはまさにぴったりの配役なのだと思いました。

 それにしても、昔の大河ドラマは、日本史の勉強にもなりましたけど、最近の大河は突っ込みを入れたくなるシーンが多すぎて…。

 「天地人」をまともに見て、歴史のテストを受けたらかなりやばいことになりそう。

 真田幸村を「幸村!」なんて言ってるし…。

 当時は、真田幸村という名前では呼ばれなかったはず。

 同じNHKのドラマ「真田太平記」で、丹波哲郎演じる父の真田昌幸が息子の幸村を「左衛門佐(さえもんのすけ)」と読んでいました。

 上杉120万石の御殿のセットは、どうみても、2~3万石の小大名クラスの御殿にしか見えないのですが…。

 もっとも、昔とは予算のかけ方も違うのでしょうけど。


 それはともかく、金沢文庫の話。

 称名寺の仁王門は、さすがに鎌倉時代のものではなく、江戸時代後期に再建されたものだとか。でも、金剛力士像はかなり古いものだぞ、と思ったら1323年に製作されたらしい。

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 鎌倉幕府の滅亡が1333年ですから、その10年前に作られたのですね。

 この金剛力士は、鎌倉幕府の滅亡を見ていたのか~と感慨深く見上げました。

 仁王門の横を通ると、見事な庭園が…。

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 この庭園の形は、どこかで見たことがあると思ったら、浄土式庭園なのですね。

 まだ行ったことはないけれど、金沢貞顕が平泉の毛越寺をモデルに作ったらしい。

 毛越寺の庭園は、何度もテレビで紹介されましたからね。

 特徴は、境内の真ん中に橋が架かる大きな池がある点でしょうか。

 浄土式庭園というだけあって、荒々しい部分がなく、いたって穏やかな眺め。いつまでもベンチに腰掛け、浄土の世界をゆっくり堪能しました。

 でも、蚊に刺されてすぐ現世に戻されてしまったのですが。

 でも、昭和の中ごろまではこんな美しい庭園ではなかったそうです。昭和47年からの大がかりな調査を経て、昭和56年に整備されたそうな。

 鎌倉時代末期に描かれた「称名寺絵図並結界記」など、当時の景観を伝える文書があったから再現できたのですね。

 鮮やかな赤の太鼓橋を渡り、金堂と釈迦堂にお参りします。

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  金堂は江戸時代はじめ頃、釈迦堂は江戸時代後期に建立されたらしい。

 広々とした池に赤い太鼓橋、古色蒼然とした建築物も素晴らしいですが、称名寺の景観を卓抜したものにしているのは、背景に広がる緑豊かな山々でしょうね。

 実はこの山は、ハイキングコースになっていて登れるのですね~。

 今から10年以上前に来たときも登ったことがあり、今回もチャレンジすることにしました。

 仁王門を出て、民家の近くの小道へ入り、称名寺市民の森の看板を見ながら山道を登っていきます。

 称名寺の裏手にまわると、北条実時の墓がありました。実時は、金沢北条氏の祖といわれる人物。

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 そのわりに素朴なのは、質素倹約を旨とする鎌倉武士の深い精神性によるものでしょうか。

 尾根道を歩き、一番高所にあるという八角堂広場へやってきました。

 ここからは、緑豊かな称名寺の境内や八景島、これから向かう海の公園や野島などがよく見えました。

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 急な階段を下り、再び称名寺の境内にもどっていよいよ金沢文庫を目指します。

 金沢文庫は、ひと言で言えば北条実時が自分の邸宅内に造った武家の文庫。政治や文学、歴史など多岐に渡り、実時の後も顕時・貞顕・貞将の三代にわたって収集は受け継がれて蔵書の充実がはかられたらしい。

 ところが、その場所が詳しく特定できないみたいなのです。

 さきほど述べた称名寺の絵図に、「當寺檀那」と記された金沢顕時と、その子貞顕の墓所左手にトンネルの入り口らしき絵が描かれているとか。

 そのトンネルとは、これではないかと…。

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 トンネルは崩落の危険があるとかで封鎖されていました。

 金沢北条家の侍がこのトンネルを通って、文庫へ通っていたかと思うとロマンが膨らみますね。

 トンネルの向こう側には、文庫があったことを思わせる地名も残っていたそうです。

 現在、その左に作られた新しいトンネルを抜けると、「神奈川県立金沢文庫」の近代的なビルが建っていました。


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 オイラはこのビルよりも昭和初期に作られた重厚な建築物が印象に残っているのです。現在のビルは平成2年に作られたそうなので、そんなに新しいものではないのですが。

 中に入ると、称名寺の創建当時の仏像や建物内部の絵を再現した展示がありました。

 仏像というと、黒っぽかったり、金箔がまだらに残っていたりと歴史を感じさせる色合いがイメージされますが、作られた当時はピカピカ光輝いていたのですものね。

 もちろん、文庫というくらいですから古文書もたくさん展示してありました。

 歴史は好きだけど、古文書の文字はまったくわかりませぬ。

 大学の歴史学科にでも入学していたら絶対挫折したでしょうね。

 ところで、金沢文庫の古文書はかなり持ち出されたのだとか。

 足利学校へ寄贈されたのはいいとして、武田、上杉、徳川家まで貴重な文書を外へ運び出したと解説文にありました。

 とくに、家康は江戸城の富士見文庫に多くの資料を移したらしい。運び出された古文書で散逸してしまったのはかなりあるのでしょうね。

 当時、ブックオフはなかったでしょうから、重要な書籍を多く持つことは文化人としてのステイタスでもあったのではないか、と。

 金沢文庫からテクテク歩き、次に向かったのは「海の公園」。

 ここは横浜市内で唯一、海水浴場のある公園だそうですね。

 行った日は、1キロにも及ぶ白い浜辺でビーチバレーをしたり、日向ぼっこをしたりしている人を多く見かけました。

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 ちなみに、この砂浜は人工のもので、砂は千葉から運んだそうですね。 

 そして最後に向かったのは、野島。

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 野島はかつて独立した孤島であったらしい。海抜57メートルの頂上には立派な展望台が。

 そこからは八景島シーパラダイスが手に取るように眺めることができました。

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