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三浦半島の海軍遺産と安針塚 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 新年早々ご無沙汰いたしております。

 せっかく「私の健康に役立ったウォーキングコース」というタイトルにしたのだから、2009年度の年間ウォーキングコースベスト5のネタでもやってみようかと考える今日この頃です。

 しかし、そのためには去年のお散歩ネタをすべてアップしなければなりませぬ。

 …ということで、今回はふたたび三浦半島。

 京浜急行の駅でゲッツした「きままに散歩」のウォーキングマップを使って、お散歩したのですね~。

 三浦半島のさまざまなウォーキングコースを紹介したマップですが、観光ボランティアガイドが足で調べたと銘打つだけあって、面白い切り口で楽しめます。

 たとえば今回紹介する三浦半島の海軍遺産。

 京急田浦という小さな駅から歩くのですが、普通の観光ガイドブックではスルーされている場所です。

 地図で見ても、大きな公園があるわけでもなく、白い砂浜が広がる海水浴場が近くにあるわけでもない。

 それでも、少し視点を変えて歩けば、なかなか味のあるウォーキングができるのですな。

 ただ、あるテーマに沿って歩かないと、たんに古い工場が並んでいるだけと首を傾げることになるかもしれませんが…。

 …ということで、出発は京浜急行田浦駅。

 昭和を感じさせる商店街をテクテク歩き、地図のルートに沿って海を目指します。

 長浦湾と呼ばれる入り江に立つと、近くに自衛隊の艦船が停泊しているのが見えました。

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 地図で調べると、海上自衛隊自衛艦隊司令部とあります。

 このあたりは、旧日本海軍の施設があった場所らしいですから、自衛隊の施設にも引き継がれたのでしょうか。

 海に面して、古い建物が並ぶ工場がありました。

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 マップの解説によると、現在、東芝の関連会社の工場のあるこの周辺は、明治19年から昭和20年まで、旧海軍工廠造兵部が置かれていたらしい。

 昭和10年代には、三万人を超える職工さんが働いていたそうですね。

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 残念ながら工場の中には入れませんでしたが、塀の外から重厚な建物群を眺めることができました。

 たとえばこの建物は、旧海軍工廠造兵部本館。

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 大正2年に竣工し、関東大震災にも倒壊しなかったのだとか。

 ほかにも、機銃工場や発電工場など、旧海軍の建造物が数多く残されています。それにしても、現在も工場の施設として利用されているのはすごいですね。

 この巨大な鉄骨の建造物は、ガントリークレーンというらしい。

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 よくわかりませんが、海に面しているから艦船に水雷でも積み込むために使用したのでしょうか。

 国道16号に出て船越トンネルを抜け、横道をJR田浦駅方面に歩くと、左手に海上自衛隊第二術科学校がありました。

 堀に囲まれた校内も、きっと旧海軍の施設だったのかなと思ったら、やっぱしここはかつて、海軍の水雷学校があったところだそうですね。

 水雷学校という学校があったことをはじめて知りましたが、機雷や魚雷、通信技術を身につけるための軍事教育学校らしい。

 道の脇に 「海軍通信教育発祥記念碑」が立っていました。

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 当時は、水雷の通信講座があるのかと思ったら、これは明治34年に、無線通信術の教育を初めて行ったのを記念したものだそうですね。

 そこから道なりに歩いてゆくと、現在、左手に病院や倉庫が立ち並んでいるあたりは、海軍の軍需部があったらしい。

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 海軍の軍需部は、砲弾や魚雷など軍艦に使う兵器や燃料、食料、被服といった一切の軍需物資を集めて保管し、軍艦などに補給する役目を担っていた、とお散歩マップには書かれていました。

 この長浦港の岸壁に沿った倉庫群は長浦倉庫と呼ばれ、当時、主に兵器庫があったとか。

 そのままの形で現在も残っているのは、今も自衛隊及び民間企業によって今も倉庫として利用されているからでしょうね。

 ちなみに、この古いレンガ造りの倉庫は食料庫だったそうな。

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 終戦後の古い日本映画には、GIさんたちがこのような建物の前にたむろしているシーンがあったような記憶があります。

 終戦直後の占領下の日本の風景をイメージしながら、近くにあるJR田浦駅へ寄り道してみました。

 首都圏のすぐ近くにある駅とは思えないほどひなびた駅なのですが、歴史は古く、開設は明治37年だそうですね。

 この駅が珍しいのは、駅のホームが二つのトンネルに挟まれていること。

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 何でも、11両編成の電車ではホームに止まりきれないため、ドアが開かない車両があるそうな。

 横須賀方面に見える七釜トンネルは、明治・大正・昭和にそれぞれ建造されたトンネルが三つ並んでいます。

 中央のトンネルが一番古くて、横須賀線開通にともない明治22年に完成し、その後複線化によって大正13年に増設。

 そして一番大きいトンネルが、昭和18年に軍需輸送の引き込み線用として造られたのだとか。

 明治、大正、昭和ときたら、平成は地下鉄化して技術力の進歩を誇示すべきなのかなと考えつつ、駅を離れ再び倉庫群の道へ戻ります。

 しばらく行くと、道の左側に線路が走っているのが目に留まります。

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  なるへそ、これがさきほどJR田浦駅から延びる引き込み線の一部なのですな。

 マップによると、引き込み線は、当時、旧海軍軍需部倉庫から港まで網の目のように覆っていたらしい。

 言われてみればなるへそ、と思いますが、知らなければ何で道の横に線路が走ってるの? 危ないじゃん、と思ったかも。

 昭和50年代までは貨車が走っていたそうですが、今は廃線になっているのでその心配はないのですが…。

 それにしても、どんな貨車が走っていたのでしょうね。

 線路を追って行くと、十時に交差したり、スイッチバックしたり、当時はいろいろ面白い風景が見られたのだろうと想像が膨らみました。

 さらに道をゆくと、古いトンネルが…。

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 これは、比与宇(ひよう)トンネルといって、当時は、このトンネル内で貨車はスイッチバックして方向転換をしたらしい。

 戦時中は安全のためにこのトンネル内で弾薬の積み下ろしが行われたそうですね。

 歩いてみて、うしろから生暖かい風が吹いたり、人の話し声が聞こえる気がしたり、なんか曰くありげなトンネルだと感じました。

 家に戻ってネットで検索してみると、やはり心霊スポットの一つとして有名な場所らしい。

 旧日本軍の施設の近くという先入観もあるのかもしれませんが…。

 トンネルを抜けて少し歩くと、立派な野球場がありました。

 看板には、「横浜ベイスターズ総合練習場」の文字があり、誰でも見学できるようなので入ってみることにします。

 選手が練習しているのかと思いきや、グラウンドはがら~ん。

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 こんなことでは、来期の成績もやばいよ、と選手たちに気合を入れようと思ったら、時刻は午後0時40分なのでした。

 お昼休みでは仕方がありませぬ。

 横浜は嫌いなチームではないので、来期はせめてAクラス入りを果たしてもらいたいっす。

 横須賀線の踏切を越え、すぐ左折して急な坂道を登ります。

 坂道を登りきったところにあるのが 安針台公園。

 安針という公園のネーミングは、江戸時代初期にこの近くの土地を与えられた三浦按針にちなむのでしょうか。

 ただ、按と安の字が違うのが気になりますけど…。

 ここからは、横須賀本港が間近に眺めることができます。

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 海上自衛隊横須賀基地や米国海軍横須賀ベースに停泊している艦船がよく見えました。南極観測船しらせは、ここを母港にしているそうですね

 あまり自衛隊のイージス艦を近くに眺める機会がないので、とても興味深かったです。

 公園を出て、三浦半島の内陸部へ向かいました。ここから先は、ハイキングといってもいいルートですな。

 京浜急行の安針塚駅を越え、住宅街の坂道をひたすら登ります。

 駅からゆっくり歩き、およそ30分で県立塚山公園へ到着。

 この公園は、「かながわ景勝50選」にも選ばれ、横須賀市街はもちろん猿島、房総半島まで眺望が開けているのですね~。

 見晴らし台からは、青い海をバックに、小泉家の城下町、横須賀の市街を眺めることができました。

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 ところで、この塚山公園というネーミングですが、やはり塚があるからつけられたのでしょうね。

 その塚とは、按針塚。

 さきほども書きましたが、公園の中に三浦按針夫妻の墓があるのですな。

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 三浦按針は、日本史の教科書にも載っていますが、英国人で本名は、ウイリアム・アダムス。

 難破船に乗っていて助けられ、やがて徳川家康の信任を得て、ここ三浦半島に250石の領地を与えられ、幕府の外交顧問として活躍した人物。

 日本に、砲術や造船術、航海術などの西洋文明を伝えたらしい。

 オイラがよく行く、日本橋の近くに「史蹟三浦按針屋敷跡」の石碑があった記憶があります。

 そういえば昔、「SHOGUN」という映画が流行りましたが、そのモデルになった人物でもありましたね。

 島田陽子が国際女優と呼ばれたり…。

 神奈川といえば、国際都市の老舗である横浜がありますが、当時から外国人と因縁のある土地だったのですね。

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世界文化遺産・比叡山延暦寺 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 さて、今日は「ビジベン滋賀をゆく」シリーズの最終回。いよいよ今回の旅のハイライト、比叡山延暦寺です。

 延暦寺は、滋賀県大津市にあって、標高848メートルの比叡山全体を境内とするお寺。これまでも述べてきましたが、平安時代初期に、伝教大師最澄により開かれた日本天台宗の本山なのですね~。

 空海の開いた高野山金剛峯寺と並び、平安仏教の中心であったそうな。とくに、密教による加持祈祷は平安時代には皇室や貴族の支持を集めて大きな力を持ったらしい。

 そういえば、源氏物語や枕草子にも、加持祈祷のネタがいくつも出てきた記憶があります。貴人が重い病気になると、お坊さんに病気退散のお祈りをしてもらうのですな。当時は、最先端の医療であったのかも。

 比叡山について注目すべきは、日本仏教史ばかりか日本思想史に燦然と輝く偉いお坊様たちを数多く輩出してきたことですね。

 比叡山興隆の基礎を築いた円仁・円珍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮さんもですか。

 日本史の教科書では太字で示される重要人物ばかり。

 これらのお坊様の多くが若い日に比叡山で修行されたそうなんですよ。比叡山は「日本仏教の母山」とも称されているとのこと。

 また、比叡山はユネスコが登録する世界文化遺産でもあるのですね~。

 当然、国宝もたくさんあるらしいですよ。

 でも、高い山の上だし、雨がザーザー降っているし、で行くのは大変なのではないか。

 …と思ったら、そんな心配はないのですね~。

 ケーブルやバスがあって、延暦寺は楽に参拝できるらしい。さすが世界文化遺産。

 しかも、ケーブルの長さは、なんと日本一なのだとか。距離は約2キロ、所要時間は11分っすか。

 …ということで、日本一のケーブルを体感しようと、滋賀院門跡と慈眼堂から程近いところにあるケーブル坂本駅へやってきました。

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 ケーブル坂本駅の駅舎はモダンで素敵だと思ったら、国の登録有形文化財でもあるのですな。

 作られたのは、なんと大正14年。洋風木造二階建てで、縦長の窓、庇を支える金具などレトロな雰囲気がグー。

 中に入ると、さらに大正を感じるアイテムが構内にたくさんあり、大正ロマンをかきたてられます。

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 平成5年にリニューアルされたというケーブルカーの車体は、窓を大きくとったヨーロッパ調のデザインなのだとか。確かに、日本語の看板がなければ、これからアルプスへ登ると言っても違和感がないですな。

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 毎時、0分と30分の発車だそうですが、オイラが行ったのは12月の平日。しかも、雨が降り続いている悪天候なので、これまた広い車内にお客はオイラ一人でした。

 貸切のVIP待遇のまま、ケーブルカーは発車です。ゴーという音ともに、ぐんぐん坂道を登り、坂本駅が小さくなっていきます。

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 トンネルを抜け、杉林のなかを快調に走り、やがて山の上から降りてくるケーブルカーとすれ違う。すれ違うために、そこだけ線路が二つに分かれている場所は「ターンアウト」と呼ばれているのですか。

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 レンガで囲まれた長いトンネルは歴史を感じました。一瞬、遊園地のスリラーカーに乗っているような感覚にもなりましたが。

 やがてケーブル延暦寺駅へ到着。

 こちらの駅舎も、下の駅舎と同じく大正14年の建設。外観は、こちらのほうが当時の面影をとどめているみたい。

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 それはともかく、駅舎を出ると、まわりに霧がかかって100メートル先は真っ白で何も見えないっす。

 絶景と言われる展望台からの眺めも、こ~んな感じ。

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 ケーブルの駅から延暦寺まで数百メートル歩くのですが、一人も歩いていなくて幻想的な気分になりました。

 このままタイムトラベルして、霧の中から古の比叡山の僧兵が現れるのではないかと思ったり…。

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 小説だったら、織田信長の比叡山焼き討ちの直前にタイムスリップしたらドラマチックなのでしょうけど、それだけは勘弁しちくり~と願いつつ歩きます。

 「JIN -仁-」みたいに医療のスキルとかあれば、どの時代でも生きられるでしょうけど、オイラにはそんなものないし。

 ようやく、現代のものらしい延暦寺の拝観受付が霧のなかに見えてきたときはほっとしました。

 比叡山は大きく、東塔、西塔、横川の三つの地域に分けられるのですか。これらを総称して比叡山延暦寺と言うらしい。これらの地域はシャトルバスで結ばれていて、本来はとても交通の便がいいのだそうな。

 ところが今は12月なので、バスはすべて運休でした。しかも、雨と霧と悪コンディションにより、楽しみにしていた国宝殿も本日は休館とのこと。

 こんな日は、参拝の人もほとんどいないでしょうから仕方ないけれど…。

 それでも、ここまで来てしまったら引き返す訳には行きませぬ。不退転の決意を持って、すぐ近くの東塔から拝観することにします。

 東塔には、延暦寺の総本堂である根本中堂、文殊楼、大講堂などの重要な堂塔が集まっているそうです。

 とくに根本中堂は国宝で、織田信長の焼き討ちの後、寛永19年に徳川家光によって再建されたものらしい。最澄が最初に建立した一乗止観院は、この場所にあったそうですね。

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 さすがに巨大な建築物ですが、内部は内陣と外陣に分かれていて、見学者が入れるのは外陣まで。内陣が土間になっていて、外陣より3メートルも低い場所にあるという構造は珍しい。

 内陣の中央には、最澄の自作と言われる秘仏・薬師如来立像が安置された本尊厨子。そして、その前の灯篭に灯るのが、最澄の時代から1200年間続くという「不滅の法灯」ですか。

 まわりが暗い中、これらは明かりに照らされてぼうっと浮かび上がっています。外陣の観客席から舞台を見下ろすように眺めることができるのは不思議な感覚でした。

 根本中堂を見学し、文殊楼という二階建ての門の階上にある文殊菩薩にお参りします。階段というより、垂直のはしごを上るような感じでした。

 東塔には古い建物がたくさんありますが、新しい建物もあるのですね。

 法華総持院東塔はそのひとつで、1980年に再建されたらしい。霧と塔のコラボは、そう見られないのかもしれませぬ。

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 そして次に向かうのは、東塔から北へ約1キロ離れた杉木立の中に広がる西塔。ここは、最澄の弟子の円澄が開いたそうですね。

 比叡山延暦寺といえば、厳しい修行が行われることでも有名なのでした。山内の院や坊の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならないそうな。

 中でも、90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるという修行もあると聞きました。

 オイラには絶対無理ということしか言えませぬ。

 テレビで以前見た、千日回峰行はさらにすごい荒行ですな。

 深夜二時に出発し、真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所で礼拝しながら、約30キロを平均6時間で巡拝するのですか。それを雨の日も風の日も毎日続けながら七年間。

 そのあと、足かけ九日間にわたる断食・断水・断眠・断臥をされるのですか。

 東塔から西塔へと向かうこの石の階段を、千日回峰行の行者は使うのでしょうね。

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 階段を下りながら、深夜、笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋履きといういでたちで、飛ぶように進む行者の姿をイメージしました。

 行者に比べれば、雨の中、傘をさして山道をゆくなんて屁の河童ですな。

 …と甘く見たら、滑って尾てい骨を石段に強打してしまいました。激痛が脳天を駆け抜けます。

 それにしても、東塔では数人の観光客を見かけましたが、さすがに西塔へと向かう道の途中では一人もすれ違いませんでしたね~。

 そして、ようやく西塔へ到着。

 西塔の入り口付近では、「親鸞聖人ご修行の地」という石碑が出迎えてくれました。こんな山奥で辛い修行をされたのですな。

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 さらに行くと、美しい杉木立と静謐な空気のなか、二つのお堂が寄り添うように建っていました。

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 おお、これが通称「弁慶の担い堂」ですか。

 常行堂と法華堂の二つのお堂が渡り廊下で結ばれていて、その天秤のような姿から「にない堂」と呼ばれているのですな。

 渡り廊下の下をくぐり、長い階段をおりると、眼下に巨大な建築物が見えてきます。

 これが西塔の中心、釈迦堂ですか。

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 比叡山の焼き討ちのあと、豊臣秀吉が琵琶湖のほとりの三井寺より移築させたものだそうです。

 延暦寺でもっとも古い建物だそうですが、これだけ巨大な建築物を山の上に運び上げたのはすごいかも。

 ここからさらに北へ4キロ歩くと、最澄の弟子の円仁が開いた横川という地区へ行くことができるそうです。

 鮮やかな朱塗りで、京都の清水寺のような懸崖造りの横川中堂があるらしいのですが、雨もまた強くなってきたし、霧もますます濃くなってきたのでここで勇気ある撤退をすることにしました。

 このまま強行して、ホントにタイムスリップしたら困るし…。

 来た道を引き返して、東塔へと戻ります。

 大講堂の近くにある鐘楼が霧の中で霞んで見えました。

 近くへ寄ると、ひと撞き50円とリーズナブルなお値段が目に留まります。鐘突きフリークとしてはこのお誘いを断るわけには参りませぬ。

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 さっそく50円を賽銭箱に入れ、鐘突き棒に結び付けられたロープを握り締めます。

 思いっきり振りかぶり、野茂のトルネード投法のフォームでガツゥゥゥゥゥゥゥ~ンと…。

 
 ゴォォォォォォォォォォォォォ~ン


 静まりかえった全山に轟くような音響で、打った本人までびっくりしました。

 今年はいいことがあるといいですね。

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滋賀県・滋賀院門跡と慈眼堂 ウォーキングストーリー

  明けましておめでとうございます。

 昨年はお世話になり、どうもありがとうございました。本年もよろしくお願いいたします。

 さて、元旦は、「ビジベン滋賀をゆく」シリーズの三回目。

 旅行二日目の朝。ボツ、ボツ、ポツ、と、窓を叩く雨音に目を覚ましました。

 窓の障子を開けると、かなりの雨。遠くの山に霧がかかってぼんやり霞んで見えます。

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やはり、天気予報は外れなかったのですね~。なんたって、降水確率100パーセントですから、予報が外れたらクレームが殺到するでしょうけど。

 あ~、よく寝たと、寝床から起き上がり、時計を見ると、午前7時。

 血液型A型なので、布団や枕が替わるといつもは寝つきが悪くなるのです。でも、こちらのホテルは落ち着いた雰囲気で、快適な睡眠環境でした。

 今日はまず、昨日訪れることのできなかった坂本の観光地をまわり、そのあと比叡山延暦寺をお参りする予定。

 街歩きはいいとしても、雨の中の山歩きは大変かも、と少しブルーになりました。

 しかし、織田信長が桶狭間で今川義元の大軍に勝てたのも、暴風雨があったからこそ。オイラも、雨を味方にして戦況を有利に持って行こうと、ポジティブに考えることにしました。

 そのためには、まずは腹ごしらえ。と、顔を洗ってから朝食に向かいます。

 朝食はバイキング形式なのですね~。

 昨日の大浴場など、かなりすいている印象だったのですが、朝のバイキング会場は思ったより大勢のお客さんがいました。

 …といっても、混んでいるというほどではなく、ちょうどいいくらいでしたが。

 テーブルの上には、和食、洋食の料理が並び、飲み物もバラエティーに富んでいて、何を食べようか迷ってしまいます。

 意外と外国の方たちも少なくないっす。

 日本人がパンやコーヒーで食事している横で、外国の人たちがごはんに納豆、味噌汁を食べているのは不思議な気がしました。

 外国の人は必ずといっていいほど、牛乳を飲まれるみたい。和食に牛乳はちょっと、と考えるのですが、この辺りにも食文化の違いがあるのでしょうか。

 オイラはといえば、まず日本食から入って、次に洋食ですかね。ここでも、最初にガバッと料理を取りすぎてしまい、あとでほかの料理に行こうとするとき、満腹で苦労したのでした。

 まわりを見渡すと、同じように、満腹なのにガッツで食べているオヤジが多くて親近感を覚えます。

 がっちり朝食を食べ、栄養を補給し、いよいよ滋賀の旅二日目へ。

 ホテルの玄関を出ると、また雨が強くなったみたい。駅へと向かうマイクロバスの乗客は、またもオイラ一人です。結果的に広い車内を一人で占領してしまう形で恐縮しました。

 程なく駅に着き、お世話になった宿の人にお礼を言い、湖西線に乗って再び比叡山坂本駅へと向かいます。

 昨日歩き回った坂本の町は、しっとりした雨に覆われて別の表情を見せてくれました。

 雨に濡れるのはうざいけれど、晴れた日には素顔の風景は見られないかも。

 昨日そばを食べた本家鶴喜そばさんの前の通りは、こんなに風情のある道だったのですね。

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その「作り道」と呼ばれる通りから、御殿馬場という通りに入り、滋賀院門跡を目指して歩きます。

 左右に石垣が配置された石畳の道は、まさにオイラ好みといいますか。まさに「石積みの町坂本」を表していますね。

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 道の突き当りにある滋賀院門跡の石垣はお見事に尽きまする。もう少し高ければ、お城ですよね。

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 それもそのはずで、この穴太衆積みの石垣は、安土城を筆頭に全国各地の城跡でも見ることができるのですね~。

 その後、石をきれいにカットして積み上げる石垣もできるのですが、穴太衆積みは基本的に自然石を積み上げる野面積み。つまり、石と石の隙間を細かい石で埋めて積んであるのですな。

 オイラ的には、やはりきれいにカットされた墓石を積み上げるような石垣より、野面積みのほうが野趣にあふれて好きかも。

 これだけ立派な石垣のある滋賀院って何?と思って、ガイドブックを読むと、あの徳川三代に仕えた天海僧正が建立したお寺だそうじゃないですか。

 1615年に、後陽成上皇から京都御所の建物の一部を賜り、移築したことに始まるらしい。滋賀院の名は1655年、後水尾天皇から下賜されたのだとか。

 ところが、滋賀院御殿と呼ばれた壮麗な建物は、明治11年に火災により焼失してしまったとのこと。

 そこで明治13年に、比叡山延暦寺の建物三棟が移築して再建されたのですな。

 立派な玄関から入ると、係の人が現れて丁寧に解説してくれました。

 まずは玄関の正面に広がる大広間の掛け軸。

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 比叡山延暦寺の開祖伝教大師最澄のお言葉が書かれておりまする。

 詳しい意味は忘れましたけど、この掛け軸の中に「忘己利他」という文字がありますが、これは「もうこりた」と読むらしい。

 オイラの座右の銘である「もう懲りた」と考えたくなりますが、「悪事を己に向へ、好事を他に与へ、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と読むのですな。

 つまり、「他人からの見返りを求めないで、他人の喜ぶことをしてあげなさい」という意味でしょうか。

 これと同じ意味のことを言っている人がいましたっけ。「道は開ける」「人を動かす」という世界的な名著を残したデール・カーネギーです。

 オイラも、15年くらい前に読んで目からウロコでした。

 カーネギーが「人を動かす」を書いたのが、1937年。今から、約70年前でしょうか。いまなお、アマゾンの自己啓発書ランキングの上位をキープし続けているそうな。

 つまり書かれていることが、全然古びていないということですよ。人間関係の真理がそこにあると言いますか。

 もっと驚きなのは、最澄が同じことを自らの著書『山家学生式』で書いていること。

 こちらは今から1200年前の著書。

 1200年前の人間関係のノウハウが、現代もその真理として活用できるなんてすごいです。それが今も、目からウロコ状態で読まれているなんて。

 逆に考えると、人類は、人間関係という側面では全然進歩していないのではないかと考える今日この頃です。

 そして、もっと驚いたのがこの灯明の火。

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 比叡山延暦寺の総本堂は、国宝の根本中堂。そのご本尊の前に、灯明が三つ並んであるそうなのですよ。

 それは最澄のともした灯火で、なんと1200年間一度も消えることなく輝き続けているそうな。
そしてこれが、有名な不滅の法灯のレプリカなのですね~。

 …と言っても、この燈籠は実際に、根本中堂で使われていたそうです。不滅の法灯もこんな小さな火の状態のまま、1200年間も燃え続けていたなんて、信仰の力は偉大だと思いました。

 そこまで考えて、ふと疑問に思ったことが。

 信長の比叡山焼き討ちのときもこの火は生き残ったのかしらんと、解説のおじさんに聞いてみたのです。

 一瞬、鋭いツッコミと、目を輝かせたおじさんは、「実はそのとき、消えてしまったのですよ」と答えました。

 そのとき、比叡山焼き討ちのときの残り火を、不滅の法灯と拡大解釈したのかと、疑惑のまなざしを向けるオイラ。

 実際はそうではなくて、芭蕉の俳句で有名な山形の立石寺(山寺)に分灯されていた火をこちらに持ってきたそうです。

 おお~、人間なら分家から本家に入るのは、天皇家をはじめ名家では珍しくないですからね。

 最澄の灯火のDNAはしっかりと、この火に受け継がれているのだと、改めて感動して眺めました。

 この火も分灯されたものかどうか、肝心なことを聞くのを忘れてしまったのですが…。

 それはともかく、由緒ある建物だけあって、ほかにも見所が満載です。

 天台座主がお乗りになった長棒かご、桃山時代から江戸時代にかけての襖絵。

 この襖絵は、明治時代の鈴木松年筆による「松の図」なのですけど、この絵の中に生き物が隠れているのがわかりますか?

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 答えは龍。襖の引き手の金具が目になっているのですな。

 それにしても、天海大僧正の甲冑が残っているのには驚きました。

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 お坊様が甲冑とは不思議ですけど、江戸時代の草創期はまだ戦国の雰囲気が残っていたからでしょうか。

 建物のなかを歩き回り、襖の破れている部分を見つけたのですが、その下張りに英語とは思えない外国語の古い文書が見えていたのですよ。

 当時の外国語といえば、オランダ語かニャーといろいろ妄想が膨らみました。

 それから、天台座主接見の間というのもあって興味深かったです。

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 当時の貴人との接見の雰囲気が伝わってきましたね。

 そして、滋賀院の魅力の重要なファクターである庭園。

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 それほど広くはないけれど、小堀遠州作と伝えられる見事な庭園でした。いい庭はいつまで見ていてもあきないですな。

 長細い池には亀の形をした島、そして橋、右手には深山幽谷を思わせる巨石と滝、二階から眺めると琵琶湖を借景としてそれは見事。

 自宅にこんな庭があったら雅な暮らしができるのに、とアホ面のまま、ボーッと眺めていました。

 あまり長居しても比叡山へ行く時間が遅くなると、雨の中、再び歩きはじめます。

 滋賀院門跡から程近いところにあるのが慈眼堂。写真は昨日撮ったものですが…。

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 ここは、さきほども書きました南光坊天海大僧正の御廟なのですな。

 境内には、桓武天皇、後陽成天皇、後水尾天皇、徳川家康、紫式部、和泉式部、新田義貞の供養塔、そして江戸以降の天台座主の御墓などがありました。

 天皇や家康の供養塔があるのはわかりますが、なぜ、紫式部、和泉式部、新田義貞なの?という疑問も浮かびましたが。

 あまり深く考えても時間がなくなるので、ここはスルーして比叡山への玄関口、ケーブル坂本駅へと向かいます。

 雨の中、比叡山山頂では何が待っているのか。

 次回はいよいよ、滋賀県シリーズの最終回、「世界文化遺産・比叡山延暦寺をゆく」です。

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