リズムのいい文章の研究

 こんにちは。

 あれから、体重が1キロも減りました~♪

 ダイエットのためにウォーキングで汗を流しながら、それ以上のカロリーを摂取していたと気づいた今日この頃。

 ダイエット効果を、その日のうちに相殺していたのですね~。

 まさに、「食べ歩き」なのでした。

 でも、やせたのは、それを反省したからではありませぬ。

 またしても、口内炎が…。

 それも、口の中の粘膜ではなく、ベロ、すなわちタンにできてしまったのです。

 これでは、薬の付けようがない。

 もう喋るのはおろか、息を吸うのも億劫。

 まして、口の中に食べ物が入っただけで、激痛が脳天を突き抜ける。

 今が旬のカキフライを食べたんですよ。

 ソースが沁みるから、何もかけずに食べれば大丈夫だろうと思った。

 しかし、カキフライの表面のギザギザが口内炎を直撃。

 ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~!!!

 定食屋のオヤジが、ギョッとして振り向きましたね。

 カキフライの中に、五寸釘でも入っていたのではないかと思って。

 …ということで、おとといから今日にかけて、沁みなくてやわらかいものしか食べられない。

 冷奴を人肌にして食べるとか。

 それでも、相変わらず歩き回っていたのです。

 おかげで、やせることができたのですけど。

 オイラは、今回のことで一つの教訓を得ました。

「食べずに歩けば、やせる」と…。

 それはともかく、文章ネタ。
 

 前回、ブログの第一回目から、こだわりをもって取り組んでいることがあるのだと書きました。

 オイラが一度書き上げてから、もっとも重視して推敲するポイント。

 そして、そのヒントは文章のリズムだと…。

 それをご説明する前に次の文章をお読みいただければ幸いです。

『 きのうは、ぼくの学校の運動会でした。ぼくはそれで早起きしました。学校へ行くと、みんなが集まっていました。最初はラジオたいそうをしました。校長先生の話が長いでした。ぼくは徒競走で、ビリから二番目でした。もう少しがんばればよかったと思いました。お昼にはみんなでお弁当を食べました…』

 上記の文章は、文章ネタの第一回にご紹介したものでした。

 確か、わかりやすい文章にとって重要なのは、センテンスを短く切って、テンポをよくする。

 そして、主語と述語を近づけ、明確にすると書いた記憶があります。

 しかし終始それだと、上記の例のように子供っぽい文章になってしまう、と…。

 でも、上の文章を声に出して読んでみると、リズムは悪くない。

 だけど、なぜか子供っぽい、あまり考えずに書いているような印象を受けてしまう。

 それはなぜか。

 結論を言いますと、文末が全部一緒なのですね~。

 同じ調子の文章は、非常に子供っぽい印象を読者に与えてしまう。

 これは、文章作法の基本ですが、文学賞の応募作品の中にも、かなりの確率で同じ文末を続ける文章があるそうな。

 ときたま、選考委員が、この点について苦言を呈している選評を目にすることがあります。

 ところが、しかし…。

 同じ文末を続けていても、名文と言われるものもあるのでやす。

 しかも、近代日本文学史上、名文中の名文と言われるものが…。

 たとえば、志賀直哉の「暗夜行路」、「城崎にて」。

 ノーベル賞作家の川端康成の「伊豆の踊り子」などなど。

 これらの作品の文末は、「~た」が際限なく並ぶ。

 なぜ同じ文末を続けているのに、子供っぽい文章になったり、ノーベル賞作家の名文になったりするのか。

 井上ひさし氏の「自家製 文章読本」には、その理由が説明されているのですが、それはまた次の機会に。

 話題は元に戻って、さきほどの子供っぽい文章の例について。 

 さて、上記の文章を手直しするのは、ちょっと難しい。

 それでも、意味を変えずに語尾のバリエーションと言い回しだけを、少し変えてみると…。

『 きのうは、ぼくの学校の運動会。だから、いつもと違って早起きしなくちゃいけないんですね~。学校へ行くと、もうみんなが集まっている。最初はラジオたいそうからです。そのあとの校長先生の話が長くて始める前から少し疲れました。それが理由ではないですが、ぼくは徒競走で、ビリから二番目。もう少しがんばればよかったかも。お昼にはみんなでお弁当を食べましたが、…』

 かなり、オイラの独断と偏見の軽~い文体になってしまいましたが、多少とも子供っぽいイメージは脱却できたでしょうか。

 多少、変なおじさんが入っていますが。

 ひとつの文章のなかで、さまざまな文末のバリエーションを使い分けるのは、ある程度の経験が必要かも。

 小学校の低学年だと、文章の基本を教わった段階ですからね。

 文章のリズムまで頭を回すには荷が重い。

 ところで前回のブログで、オイラが最初からこだわりをもって取り組んでいる文章作法があると書きましたね~。

 それは文末の表現だと、玲小姐さんに一発で当てられてしまいました。

 体言止め、疑問形、丁寧語と何種類かを使い分けている、と…。

 ありがとうございます。さすがだと感服いたしました。ただ、オイラは日本語の文法に関してはほとんど知識がないので、そこまでテクニシャンではござりませぬ。

 オイラがこだわりをもって取り組んでいる文章作法は、同じ文末を3回以上続けないこと。

 それだけっす。

 あとで書いた文章を読み直してみて、ちょっとおかしいかなと思ったら、その場のフィーリングで手直しする。

 回数に関しては、どの文章作法の本にも書いてなかったと思いますが、経験上、3回同じ語尾が続くと、「ちょっと、変」というシグナルが点滅するのです。

 たとえば…

 『 きのうは、ぼくの学校の運動会でした。ぼくはそれで早起きしました。学校へ行くと、みんなが集まっていました 』

「~した」という同じ語尾が3回続くだけで、なんとなく文章のリズムがおかしく感じられる。

 ところが…

 『 きのうは、ぼくの学校の運動会でした。ぼくはそれで早起きしました。学校へ行くと、みんなが集まっている 』

 3つ目のセンテンスの文末を「~いる」と変えることによって、文章のリズムがうまく流れるように感じるのは、オイラだけでしょうか。

 文末のバリエーションをたくさん持っていると、多彩な表現ができるような気がします。

 だから、いろんな人の文章を読んでいると、なぜか文末に注目してしまう。

 この使い方は面白いな~、真似して使ってみようとか。

 最近は、小説だけではなく、漫画とか、いろんなジャンルの本を読んでいる人が多いから、さまざまな語尾を使って面白い表現法をあみだしている若い人が多いですね~。

 オイラが学校で習った文章作法より、今はかなり表現の仕方が多様になっているかも。

 昔はといえば、実用文の文体は、「です・ます調」か「だ・である調」のどちらか。

 その両者を混同して使ってはならないと強く言われました。

 これからの文体は、企画書や報告書などのフォーマルなビジネス文書では今も健在ですね。

 この場合でも、同じ調子で使うと、幼稚な印象を相手に与えてしまう。

 語尾の統一に気をつけろ、語尾の乱れは理論の乱れに通じ、読者の信頼感を減少させてしまう結果になる、と…。

 文末に関する話題は、まだ続きます。

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次が読みたくなる文章の研究

 こんにちは。

 しつこいようですが、先日の体組成計にまつわる話題から。

 最近3日間、一日平均26,309歩も歩いています。

 とくに昨日の消費カロリーは、999.99カロリー以上。

 持っている万歩計では計測不能となるくらい歩いているんですよ。

 …なのに、痩せませぬ。

 うぬぬ、オイラの体はいったいどうなっとるんじゃ。

 立ち食いそばか、サンドイッチ、カロリーメイトくらいしか食べていないのに…。

 この驚くべきエネルギー効率を研究することにより、リッター100キロ走れる車を開発できるのではないか、と考える今日この頃。

 でも、体重は変わらないものの体脂肪率が減少しているから、まったく無駄な抵抗をしているわけではないと思うのですが…。

 それはともかく、文章ネタの続きです。

 こちらもまた前回同様、センテンスの長さの話題から。

 オイラの場合、自分の書いた文章を読み直してみると、大抵、センテンスが長い場合が多い。

 推敲作業のほとんどは、文章を途中で切って、二つにすることですね。

 ちなみに、ひとつの文章の長さは、息切れせずに読める長さがよいと言われています。

 それでは、海女さんや水泳選手の書く文章は長いのかという突っ込みは、もうすでにオイラか考えてしまいましたので念のため。

 ちなみに、一文の文字量にすると、30~40字くらい。

 上記の「それでは~」から始まるセンテンスは60字近いので、少し長すぎますな。

 ワードで文章を作る人は、一行40字の設定にしている人が多いようですね。

 すると、一行で終わるような文章を書くことがわかりやすさの第一歩なのですか。

 ところで、文章のリズムって、読みやすい文章には大切だと思うんですよ。

 でも、リズムなんて、あまりに抽象的。

 いいリズムを会得する方法として昔からよく言われてきたのが、名文といわれる文章をじっくり読むこと。

 前回も少し触れましたが、かの文豪、谷崎潤一郎も次のように書いていますよ。

 文章に対する感覚を研くには、昔の寺子屋式の教授法がもっとも適している。(略) 講釈をせずに、繰り返し繰り返し音読せしめる。(略)古来の名文と言われるものを、できるだけ多く、そうして繰り返し読むことです。(略)
そうするうちには次第に感覚が研かれてきて、名文の味が会得できるようになり、それと同時に、意味の不明であった箇所も、夜がほのぼのと明けるように釈然としてくる。すなわち感覚に導かれて、文章道の奥義に悟入するのであります。

          (「感覚を研くこと」より)
           
 そういえば、ある本に、いい文章を書くためのもっとも効率的な練習法が載っていたのを思い出します。

 それは、世に名文と言われ、かつ自分の好きな文章を、実際に原稿用紙に写すことだそうな。

 好きな作家の文章を書き写すことにより、その文章のリズムを体得しようとする試みかもしれませんね。

 ところでわかりやすい文章は、難解な言葉を避けて、読点でリズムをつけ、そしてできるだけ一文を短くするのがいいみたいです。

 ちょっと、上級者コースになりそうですが、プロの作家は短い文章と長い文章を使い分けてメリハリを出していますよ。

 たとえば、先日亡くなった推理作家の土屋隆夫氏。

 氏は、文章の出だしは、できるだけ短い文章を重ねていくほうがいいと言っています。

 なぜなら、長い文章の書き出しだと、印象が希薄になるから。

 そして内容が不鮮明にもなってしまう。

 エンタテイメントは、読者に興味をもって読んでもらってナンボの世界ですからね。

 最初に読みにくい、わかりにくいというイメージを持たれたら、それでおしまい。

 冒頭に興味あるテーマと読みやすい文章を持ってくるのがベストなのですね。

 前述の三田誠広氏も、読みやすい文章とテンポのいい展開で読者の興味をひき、ここぞというところで読者に立ち止まって考えてもらうのだとか。

 小説の場合、原稿用紙換算で最初の5枚が大事だそうです。

 ホームページやブログなど、ネットの文章はとくに書き出しが重要かも。

 ネットの場合、知らない人の文章を読むケースだと、最初の10行くらいで読むか止めるか判断するような気がします。

 私事で恐縮ですが、オイラも書き出しはわりと気を使っていますよ。

 出だしで興味を持ってもらう工夫とか。

 たとえば、以前のオイラのブログを例にとりますと…。

「 こんにちは。

 ご無沙汰です。

 突然ですが、う~、のどが痛い。

 今朝、鏡で見たら、のどが真っ赤っか。

 …とくれば、風邪をひいて扁桃腺が腫れているのか、と思いますよね。

 実は、そうじゃないのです。

 なぜかというと、先週、昼食に定食屋に入ったのですよ。

 その定食屋は山手線のターミナル駅の近くにあり、何度か訪れたことがあるチェーン店です。

 500円で、日替わりのおかずのほか、ごはんと味噌汁がお替りし放題。そしてテーブルの上に並べられた、生卵、つけもの、ふりかけ、のりが食べ放題。

 東京に詳しい人なら、どのチェーン店か、察しのつく方も多いはず。

 このようなシチューエーションの店だと、どうしてもオヤジが集まる傾向がある。

 当然、オイラもその看板を見て、吸い寄せられるようにその店に入りました。

  (以下略)   」

 ずっと読んでいくと、魚の骨がのどに刺さって、耳鼻咽喉科へ行ったというくだらないお話しだということがわかります。

 でも、最初がこんな書き出しだとあまり興味を引いてもらえないかも。

「こんにちは。ご無沙汰です。
 先週、定食屋へ行ったら、ブリの骨がのどに刺さってしまったので、仕方なく近くの耳鼻科へ行って取ってもらう羽目になりました。
 取ってもらったあとの傷口が、赤く腫れてとても痛いです。
 その定食屋は山手線のターミナル駅の近くにあり、何度か訪れたことがあるチェーン店です。500円で、日替わりのおかずのほか…(以下略) 」

 最初の文章は、のどが腫れていることだけ書いてその理由を明らかにしていません。

 風邪かと思ったら、風邪じゃない?

 それになんで、のどの痛みと定食屋がむすびつくの?

 ???という疑問を牽引車にして、ひっぱって、ひっぱって、最後まで読んでいただこうという、せこいことを考えたのですね~。

 最初の文章の書き出しのコンセプトは、「何で?」という疑問。

 二番目のように、先に種明かしをしてしまうと、次への関心が薄れてしまうのではないか。  

 それに最初の数行は、なるべく短いセンテンスを積み重ねて、すんなり本文へ入っていただきたいと考えました。

 小説作法の本を読むと、最初の一行の出だしが大事だと書いてありますね。

 出だしの一行で、一気に読者の心をつかむような工夫をしろ、と…。

 でも、オイラは、最初の一行は、「こんにちは」か「おはようございます」か「こんばんは」という在り来たりのあいさつから。

 それもちょっと自分なりのこだわりみたいなものがあるのですが、それはまた次回。

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ネットの文章にまつわるエトセトラ

 こんにちは。

 う~、疲れますた。

 自業自得なんすけど…。

 最近、いろんな場所へ出かけて行って仕事したり、座談会へ出席したりしていると前回のブログに書きました。

 そして、そのついでにプチウォーキングを楽しんでいる、と…。

 そのプチ、がだんだんハードなものに変わってきているんですね~。

 たとえば土曜日、信濃町へ行ったときは、神宮外苑をぐるっとまわったあと、代々木へ出て、明治神宮のなかをぐるぐる歩き回り、次に原宿へ出て、ここまで来たのなら渋谷へ行こうと道玄坂をくだり、ついでに恵比寿へ寄り、なおかつそのあと自宅まで2時間かけて歩いてしまうみたいな。

 そしてその翌日の日曜。八王子まで用事があって行き、市内を歩き回ったあと、夜までハイキング。

 月曜日は、仕事で東京都心をテクテク、朝から晩まで歩き回る。

 さすがに火曜日、朝起きたらめまいが…。

 扇風機の羽根みたいに、視界がぐるぐる高速回転しているのです。

 気持ち悪くて、吐きそうになりました。

 おかげさまで、少し休んだらめまいと吐き気が改善してきたので、また外へ。

 この日は、いろいろ約束があったので結構大変でしたね~。

 午後からどしゃぶりだったし…。

 このままではやばいと思って、ここ数日は、さすがに自重しています。

 それなのに、少しも体重が減らない。

 もう、勘弁してほしいっす。

 
 それはともかく、ネタを書かねば…。 

 さて、前々回のブログに書いたわかりやすい文章を書くために気をつけたいこと。

 確か、

● 文章のセンテンスを短く切って、テンポをよくする。

● 主語と述語を明確にする。

● 見やすくするために、思い切って余白のスペースを設ける。

 …でしたね。

 今日は、もう少しこれを掘り下げてみようかと…。 

 というのも、ブログやメルマガの文章は、とくに上記の点が重要だと思うのですよ。

 なぜならパソコン画面の文章って、本やカタログ、レジュメに書かれた文章より読みづらい。

 重要なことが書かれたメールをもらったとき、パソコンの画面で読むより、いったんプリントアウトしてじっくり読む人は結構多いと聞きました。

 オイラもメールマガジンをたくさん登録していて、日に何通も送られてくるのですが、あまり記憶に残らないような。

 内容がどうというより、パソコンの画面だと読解力が鈍るような気がします。

 目も疲れますし…。

 それなのに、メールやブログ、ホームページなどが、画面中埋め尽くされた文字の大海原。

 読んでいて、おぼれそうな感覚になるのはオイラだけでしょうか。

 ネットの文章に関してはとくに、余白は必要かも。

 私事で恐縮ですが、オイラのブログも始めた当初は、わりとぎっしりめに書いていたんですよ。

 それがだんだんと、ワンセンテンスごとに余白を入れるスタイルに変わっていきました。

 実は、ココだけの話。読みやすくて面白いブログを参考にしたんですね~。

 それはあの有名な、ブログの女王といわれている「眞鍋かをりのココだけの話」です。

 自分のことを「オイラ」という表現も、実はここのまねっ子。

 ただ、内容までは真似していませんので念のため。

 このブログのコンセプトが、前から面白いな~と思っていたのですが、あとで彼女の書いた本を読むと、ちゃんと考えてやっているのですね。

 そのコツとは、読者に対する作者の立ち位置。

 最初、天然なのかと思っていました。

 実はそれが計算されたものであったとは…。

 本人も言っていますが、そのコンセプトが他の芸能人の書くブログとの差別化に大きく寄与しているのですね。

 さすが、ブログの女王。

 そのあたりのニュアンスを言葉で表現するのは難しいのですが、いずれうまく理論立てて書ければ、と思います。

 さて、次に文章のセンテンスを短く切って、テンポをよくするという点について。

 主語と述語を明確にした短い文章がわかりやすいのは当然です。

 ただ、わかりやすい文章のセオリーに文句をつけるわけではありませんが、終始それだと子供っぽい文章になってしまう。

 小学生の作文を例に取ると…

『きのうは、ぼくの学校の運動会でした。ぼくはそれで早起きしました。学校へ行くと、みんなが集まっていました。最初はラジオたいそうをしました。校長先生の話が長いでした。ぼくは徒競走で、ビリから二番目でした。もう少しがんばればよかったと思いました。お昼にはみんなでお弁当を食べました…』

 いくらセオリーに適っていると言っても、こういう文章を大人が書くと子供ぶりっ子(←いまや、死語?)してる~と思われるかも。

 もちろん、好意的に解釈しての話ですが。
 

 川の流れに棹差すわけじゃありませんが、芥川賞の受賞作なんかは目が飛び出るくらいの長文を使って書かれたものが多いですね~。

 たとえば、三田誠広の「僕って、何」。

 佳境の部分に差し掛かると、細かい字で書かれた文庫本の1ページ以上、句読点がまったくなし。

 ただ言っておきますが、前述の三田氏は、「おいしい文章を書くコツ」として、『なるべくシンプルな、短い文章を書く。意味のとりにくい代名詞は用いない』と言っていますから、芥川賞狙いの確信犯として長いセンテンスを使ったのだと思います。

 野坂昭如も、文章のセンテンスが長いという印象がある。

 先日ようやく読み終わった奥泉光の「鳥類学者のファンタジア」も。

 その中の一節を引用しますと…

「相手が誰であれ、内容がなんであれ、何かいわれると、とりあえずうなずいて同意をしてしまう悪い癖がわたしにはあって、そのせいで、これまで、あやうく結婚させられそうになるとか、小豆相場に手を染めさせられそうになるとか、ドーバー海峡を泳いで渡らされそうになるとかの、数々の面倒事(一度などは、やくざ関係の人の結婚披露宴でピアノを弾かされることになり、「傷だらけの人生」や「昭和ブルース」の伴奏をして、ネエちゃんのピアノはカラオケよりずっといいと褒められ、破格のご祝儀をもらった私は、ときどき話題になる芸能人の「黒い交際」というやつにどっぷりと手を染めた女である)に巻き込まれたのであるが、このときもまた、相手の言葉の意味をつかみかねたままに、ええ、とうなづいてみせると、あら、と黒い影がいままでとは色調の違う声をあげた」

 プロの作家って、センテンスが長くても、わかりやすく読ませてしまう筆力があるからすごいんですよ。

 逆にそれが個性となって、作者の文章の魅力にもなるのですね。

 個性的な新しい表現の作家を発掘するという趣旨の芥川賞で、その傾向が顕著なように。

 だらだらした長い文章と、きりっと個性的な長い文章との違いはどこにあるのかと思ってしまうのです。

 間違っているかもしれませんが、その理由についていろいろ考えてみました。

 また長くなりそうなので、それはまた次々回。

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