「竜馬伝」のお龍さんがいた神奈川宿と三ツ沢公園 ウォーキングストーリー

 こんばんは。
 
 季節は、晩秋。

 なのに、今日アップするネタは、なんとお花見~♪

 本来はスルーすべきなのでしょうけど、今年の春に、今佳境の大河ドラマ「竜馬伝」ゆかりの場所へ行ったのですね~。

あらためて写真を眺めてみると、ご紹介したい優れものの場所ばかり。

 今回の横浜周辺も、都会だというのに、名所あり、旧跡あり、自然あり、絶景スポットありで、なかなかいいところでした。ここはやはり、スルーするわけには参りませぬ。

 …ということで、4月のある晴れた日に、オイラは横浜へやってきました。

 完璧に季節感、滅茶苦茶っす。

 それはともかくウォーキングのスタートは、横浜駅西口。

 駅の周辺は大きなビルや広い地下街があるのですが、少し歩くと、道路もビルも東京と比べてゆったりとした雰囲気に感じられるのはオイラだけでしょうか。

 ゴチャゴチャした感じではなく、どことなくハイソなのは、さすが江戸時代から続く国際都市の老舗だと感じました。

 環状一号線の大通りをわたり、横道にはいる坂をのぼれば、そこは旧東海道。

旧東海道
 

 上台橋のたもとにはかつての東海道神奈川宿のガイドパネルがあり、本陣や旅籠などの位置が何気にイメージできます。

 今は閑静な住宅街といった雰囲気のこの場所が、江戸時代の第一級の幹線道路だとはなかなか信じられませぬ。

 それでも歩いていくうちに、古い井戸があったり、石碑があったりして、これは只者の道ではないと感じました。

 神奈川台関門跡の石碑もそのひとつ。

神奈川台関門跡の石碑


 解説板を読んでみると、この場所に神奈川宿の関門があって番所が設けられていたのですな。

 横浜開港後、相次いで外国人が殺傷される事件が起き、警備の必要があったらしい。

 確かに大河ドラマの「竜馬伝」でも、「攘夷じゃ~~~」と叫んでいる武士を常時見かけますからね。

 さらに行くと、右手に料亭が…。

神奈川宿の田中屋


 ここにも解説板があったので何気に読むと、なんと「竜馬伝」のヒロイン、お龍さんゆかりの料亭だというでは、あ~りませんか。

 「竜馬伝」では、気が強くて人見知りする感じの女性を真木よう子が演じています。

 当時の竜馬の手紙によると、お龍さんを面白い女だと書いているそうですね。

 真木よう子演じる女性のタイプは嫌いではないけれど、面白いというイメージではないような。

 彼女のさまざまなエピソードを聞くと、一本気という性格だけは合っているかも。

 ドラマの中での竜馬さんの命は、あと二ヶ月もないのでしょうか。

 リアルのお龍さんは、明治維新を迎えてしばらくしてから、家族とも死別して孤独な身となってしまったそうなのです。

 そんなときに仲居として働いていたのが、ここ神奈川宿の田中屋だったのですね。

 当時彼女は、三十七歳位だったそうで、かなりの大酒飲みだったとか。

 でも、とても頭が良く、客あしらいもうまく、なおかつ英語も勉強して話せたらしい。

 当時、英語が話せる庶民はどれくらいいたのでしょうか。

 その後、この料亭のお客さんと所帯を持ったと聞きました。

 お龍さんだと伝えられる写真も残っているようですね。

 それは、こちら

 確かに、知的でスリムな美人。ハイカラな感じがして、竜馬が面白い女といった理由がよくわかりました。

 大塚寧々に顔が似ているという意見もありますが、性格を含めた全体のイメージは菊川怜みたいな感じですかね。

 当時の料亭の写真も解説板に載っていましたが、今と雰囲気はあまり変わらないみたい。

 大河ドラマを見ているから、あれっ?京都にいたんじゃなかったの?と知り合いに会ったような気分になりました。

 かつて、前に一里塚があったという大網金刀比羅神社にお参りし、第二京浜国道に出ると、左手の丘の上にある本覚寺が目に飛び込んできます。

本覚寺


 このお寺は、横浜開港当時、アメリカ領事館として使用されたそうですね。

 領事館の跡を示す石碑がありましたが、もっとリアルに感じるのが、山門に残る白ペンキの跡でしょうか。

 ホワイトハウスじゃないですが、当時の外国人は、みんな白ペンキを塗っちゃうんですね。

 お寺の庭にあった松も、枝を落として上に星条旗を掲げたらしい。

 そういえば、星条旗って、白い背景によく映えるかも。

 本覚寺を出て、近くの丘をひたすら登ってゆくと高島山公園がありました。

 ここからは、高島台の街並みを見渡すことができます。意外と横浜って、アップダウンがあるのですね。

 丘を降り、東海道線や京浜急行の線路を越えると、かつての神奈川宿の中心地が近いのだとか。

 商店街をテクテク歩いていたら、左手の丘の上に満開の桜が咲き誇っているのが見えました。

 よし!昼食は、お花見とコラボにするのじゃ~。

 近くのコンビニで、ちょこっとリッチな弁当を買い、丘の上の公園に向かいます。

幸ヶ谷公園


 おお~、すごい頭上360度、満開の桜。

 ちなみにこの公園は、幸ヶ谷公園と言って、知る人ぞ知る桜の名所なのだとか。

 木の下で弁当をパクついていたら、桜の花びらが弁当に入ってきて食べるのに難渋しましたが。

 お花見と弁当で、こころも体もすっかり満足して次にむかったのが、宗興寺。

宗興寺


 今の建物は近代的なデザインですけど、このお寺は、横浜開港まもない1861年、ヘボン博士が、無料で多くの患者の治療にあたった施療所を開いた場所として有名らしい。

 博士は、ヘボン式ローマ字、我が国初の和英辞典の編さんなどで知られていますが、明治学院の創設者でもあるのですね。

 そして、宗興寺の裏手にあるのが神奈川の大井戸。

 大井戸というから、直径数メートルもある巨大な穴を連想したのですが、思ったより小振りな井戸でした。

 でもかつては、神奈川御殿に宿泊した徳川将軍家のお茶の水にも使われたそうな。当時の井戸はどんな感じだったのでしょうね。

 ちなみに、ヘボン博士が、宗興寺に開いた施療所もこの水を利用していたらしい。

 近くにある滝の川を越え、しばらく歩くと神奈川宿当時の復元された高札場がありました。

 高札場とは、幕府の法度や掟を庶民に徹底させるための施設。ネットはもちろん、テレビやラジオのなかった時代、お上はここに法度を掲げるだけで、庶民は拒否することはできなかったのでしょう。

 江戸時代の人たちはどんな思いで、これを眺めたのだろうと思ったりして。

 さて、ここで一つ目のウォーキングコースは終了っす。今日はウォーキングコースのダブルヘッダーですから、休まずに次のコースのスタート地点へ向かいます。

 …ということで、再び京浜急行と東海道線の線路を越え、やって来たのが反町公園。

反町公園


 ビルに囲まれた都会のオアシス的な公園ですが、ここはかつて1949年に開催された日本貿易博覧会の第二会場だった場所とか。

 行った日はここでも満開の桜を眺めることができました。現代彫刻みたいな噴水があったりして、なかなかお洒落な公園ですな。

 反町公園からオフィス街、商店街をテクテク歩き、島田橋のところで左折すると閑静な住宅街があります。

 崖沿いの清流に沿って作られているのが、その名の通り、三ツ沢せせらぎ緑道なのですね~。

 ところどころに自然豊かなふれあい広場、水生動物の観察ができる場所などがあって、気持ちよく歩くことができました。

三ツ沢せせらぎ緑道


 やがて豊かな緑に包まれた豊顕寺に到着。

 このお寺は小田原北条氏の家臣多米氏が創建し、戦国時代にこの場所に移設したそうですね。

 境内には大イチョウや多米氏一族の墓などがあり、歴史を感じました。

 お寺の裏山が豊顕寺市民の森となっていて、こちらも古くから桜の名所として有名らしい。

 起伏のある土の上を歩くと、散り落ちた桜の花びらが絨毯のように広がっていて、これもまた綺麗でした。

豊顕寺市民の森


 まさに、ヒッキーの名曲「SAKURAドロップス」のイメージそのままの景色かも。

 石段を上って裏山の頂上にあがると、眼前には瀟洒な家々がつらなる住宅街を見下ろすことができます。芝生の緑と桜がアクセントになって、とてもいい雰囲気ですな。

 最後の目的地、三ツ沢公園は隣接しているのですね。

 足を踏み入れると、巨大な日本のコンクリートの塔が眼前に迫ってきます。

 低いほうの塔のお腹の部分に昭和二十年の文字がありました。

横浜市戦没者慰霊塔


 これは、横浜市戦没者慰霊塔。高いほうの塔の高さは18メートルもあるらしい。

 西南戦争から太平洋戦争までに犠牲になった2万人の横浜市民の冥福を祈るモニュメントなのですね。

 昭和20年までは、庶民の生活のなかに戦争の影はつねにあったわけで、その意味でも戦争がない時代に生まれて来れただけでも、感謝すべきだと感じました。

 横浜市戦没者慰霊塔を左手に眺めながら、広大な三ツ沢公園の中へ。

 野球場はもちろんサッカーやラグビーの行われる球技場、陸上競技場など、ここは横浜市民のスポーツのメッカともいえる存在。

三ツ沢公園


 ここも、桜の名所として有名らしいですね。

 なんか、5年分の桜を一気に見たような一日でした。

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横浜の涼感スポット、帷子川親水緑道、白根不動、白糸の滝 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 またしても、更新を怠けてしまいました。

 今回ご紹介するのは、横浜市旭区。

 緑豊かな水辺と歴史をめぐるウォーキングコースが整備された地域です。

 ただ、行ったのは今年の三月。今は、もっと強烈な日差しが照りつけているはずですが。

 更新を怠けているうちに、どんどん写真の季節感がずれ込んでいく今日この頃。

 でも、涼しい頃の写真のほうが涼感を呼ぶのではないか、と…。

 それはともかく、ウォーキングのスタートは、横浜から相模鉄道に乗り換え、快速だと12分足らずの鶴ヶ峰駅です。

 駅から少し歩くだけで大自然の景観が味わえる穴場スポットがあるのですよ。

 …と、知ったかぶりをしたくなるのは、今から10年ほど前に訪れたことがあるからなのですね~。

 当時は、田園風景の広がるのどかな場所といったイメージでした。

 森の中の古いお堂と渓谷、水量の豊かな滝もあったりして、ハイキング気分で楽しめたのです。でも、あれから横浜の郊外も急速に開発が進みましたからね。

 どれくらい町が変わっているだろうかという点も、最近のウォーキングの醍醐味のひとつ。

 鶴が峰駅前は、あまり記憶に残っていないのですが、超高層のマンションやショッピングセンターがありました。

 当然、10年前はなかったような。

 駅前には、いまやどこでも見かける飲食店のチェーン店が軒を並べています。

 まあ、駅前は変わっても、遠いエリアは10年間でそれほど変わるわけはないでしょうね。

 5年前に出版されたガイドブックにも、コース上に食事や喫茶を楽しめる店が少ないと書かれていますし…。

 ということで、駅前のスーパーでおにぎりをしこたま購入します。

 姫おにぎりの詰め合わせ弁当と巨大おにぎりと普通のサイズのおにぎり。

 なぜおにぎりばっかり購入したかというと、パンよりカロリーが少ないから。

しかし幾らなんでも買い過ぎたと、あとで後悔する羽目になるのでした。

 曇って雨もパラついていましたが、それにめげることなくまず向かったのが、帷子川親水緑道。

帷子川親水緑道


 ほんの5分ちょっと歩くだけで、駅前の繁華街から住宅街、そして緑あふれる公園の三つのおいしさが味わえるのですね~。まるで、三色パンっす。

 親水緑道の近くを流れる帷子川は、かつてこの地域に多くの水害をもたらしたのだとか。

 それを防ぐためにバイパスの河川を作ったのですか。そして親水公園として生まれ変わったのですな。

 親水緑道を歩くと、最初は整備された公園の雰囲気だったのですが、次第に自然の渓谷の雰囲気に変わってゆきます。

 小さなつり橋やバードウォッチングの施設などがあると、プチ里山ハイクの気分。

 この水辺の景色は、どこぞの美術館の油絵に、構図が似ているような気も。

水辺の景色


 親水緑道を堪能したあと、帷子川を渡り、住宅街をテクテク歩いて白根不動尊へと向かいます。

白根不動尊


 小さなお堂ですが、ご本尊も小さく約5センチの不動明王の座像らしい。

 しかし、この座像は、前九年の役のとき、源義家が兜に収めて大勝した由来があるとのこと。

 平安時代に作られたお堂は、建武の中興の際、新田義貞の兵火によって焼失したそうです。

 でも、江戸時代になってから、不動明王のご本尊が近くの畑から出土し、その後再建されたのですか。

 お堂の中にあったら燃えていたでしょうから、その前に誰かが埋めたのですかね。

 当時の様子をイメージするといろいろな歴史のロマンが生まれそう。

 お堂の裏は、中堀川という小さな川になっていて、崖のところには、今でも行者修行に使われている白糸の滝の小滝や龍神を祀った岩の祠などがありました。

 崖の上へと通じる石段は危険とのことで閉鎖されていたので、別ルートから丘を登ります。

 その上にあるのが白根神社。

白根神社


 同じ境内にお寺と神社がある形式は、明治の神仏分離によるものだそうですね。

 この場所には、もともとお寺があったそうですが。

 お参りしようとすると、正面の階段で昼寝をしていたニャンコが大儀そうに脇へどいてくれました。

 人懐っこい猫で、建物のまわりを歩き回っているとオイラの後ろについて移動します。

 人懐っこいというより、不審人物として監視していたのかもしれませんが…。

 白根神社の丘をくだると、滝の音がしてきます。

 これが白糸の滝の大滝。

白糸の滝の大滝


 大滝といっても、幅7メートル、高さ3.5メートル。滝の近くまで行けるので、頭から水しぶきをあびて、そこそこ滝の迫力を感じることができました。

 かなり忘れた部分もありますけど、前回来たときは、深い森のなかに滝があったような気が…。

 今回は、広い公園が目の前に広がり、滝が公園の施設の一部にも感じられます。

 巨大なスロープの歩道橋や体育館、図書館は確か当時はなかったですね~。

 住みやすそうだけれど、昔ながらの自然が失われて多少寂しい気持ちも。

 公園でプチおにぎりのセットを食べ、白根通りを北北西に進路をとって進みます。

 それにしても、一番変わったのは、お店がすごく増えていること。

 食事や喫茶のできる店が少ないから、おにぎりをしこたま買い込んだのに、スーパーやコンビニも結構あるじゃないですか。

 食事ができる店も少なくない。

 こんなにたくさんおにぎりを買い込まなければよかったっす。

 自動車学校を超えたところで、中堀川を渡って折り返し点へ。

 ここから別の道を歩いて、鶴ヶ峰駅へと戻ります。

 小高い丘の上の稲荷社の境内にあるのが、内藤鳴雪の句碑。

内藤鳴雪の句碑


 俳人には疎いので、内藤鳴雪という人は知らなかったのですが、元武士であり、文部省のお役人でもあったのですね。

 こんな立派な石碑が後世に残るのは、やはり有名な俳人だからでしょうね。

 文部省のお役人としてではなく、創造的なクリエイターのほうが歴史に名前を刻めるということでしょうか。

 右手に巨大なマンション群を眺めながら広い坂道をのぼります。坂の頂上は公園になっていて、今まで歩いてきた地域を見渡すことができました。

 ここから、ふるさと尾根道緑道という名前が付けられているように、尾根沿いに整備された遊歩道を歩きます。

 桜の木が植えられ、満開の頃には多くの人たちの目を楽しませてくれるのでしょうね。

 快適な緑道をテクテク歩いてゆくと、右手に深い森に抱かれた公園が…。

今宿東公園


 看板には、今宿東公園とありました。

 アスレチック施設はあるけれど、自然の森をそのまま生かした公園ですな。起伏もかなりあり、郊外の山にハイキングに行ったような気分が味わえます。

 行った日は、広い公園にほとんど人影もなく、プチ深山幽谷気分を満喫できました。

 再び緑道に戻り、鶴ヶ峰中学校の横を通るとき、気になる鉄橋が目につきます。

 電車や車はもちろん、人が通る鉄橋でもなさそう。

 地図を見ると、鶴ヶ峰沈殿池から浄水場へと向かう水路上にある。

いわゆる水道橋


 これはもしかして、いわゆる水道橋ですかね。古代ローマの水道橋よりはかなり小さいですが、何となく似ていなくもない。

 確かめることができず、スルーしたまま先へ進むと、鶴ヶ峰浄水場の脇に、小さな塚がありました。

駕籠塚


 立て札には駕籠塚とあります。

 何でも、鎌倉幕府の重臣だった畠山重忠の奥様のお墓らしい。

 もっとも、埋葬の地は何度も変わり、ここに塚が作られたのは1974年らしいのですが。

 畠山重忠は謹直な人物として評判が高かったものの、北条氏の謀略によって殺されてしまったのですな。

 彼の終焉の地がここ、鶴ヶ峰なのですな。

 何でも、埼玉県の嵐山町にある菅谷館で、鎌倉一大事の知らせを受け、一族郎党130騎をひきつれて、いざ鎌倉!と急行しているとき、突然目の前に北条の大軍が現れたものの、名を惜しんで逃げずに奮戦、討ち死にしたのですか。

 重忠の奥さんは、夫の死を知って自害。駕籠ごと葬られたそうですね。

 それにしても、いざ鎌倉!と、鎌倉に異変があったということで、参上するべしと呼びつけておいて討伐するとは…。

 たとえ成功しても、なんとも後味が悪い結末ですな。

 歴史をいろいろ勉強していると、ホントに正直者が馬鹿を見るということが日常茶飯事だったと気づかされます。

 それは現代も変わらないことですが、まさか命まで取られることはあまりないですからね。

 以前、畠山重忠の本拠地だった埼玉県の嵐山町へ行ったことがありますが、今でも彼の清廉潔白な生き様が多くの人たちに慕われていました。

 後世まで高潔な人物評を残したという点では、報われたといってもいいかもしれませぬ。

 鶴ヶ峰は、畠山重忠終焉の地として、ほかにもいくつか史跡が残っておりまする。

 駕籠塚から近くに、重忠麾下の六騎の塚と伝えられる六ツ塚、帷子川と二俣川が交差するところに「畠山重忠公碑」もそうですね。

 鶴ヶ峰駅周辺の繁華街、旭区役所の裏手の住宅街のアパートの横にあるのが首塚。

首塚


 現在は、土が盛られた小さな塚の上に、小さな地蔵尊と石塔が建っていました。ここが、重忠の首が祀られた場所なのですか。

 しっかりお参りしたのですが、鶴ヶ峰周辺のここ数年の変化に一番驚いておられるのではないかと思いました。

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東京スカイツリー、お化け地蔵、隅田川沿いの名所 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今話題の観光スポット、東京スカイツリーへ行ってきましたぁぁぁぁぁ~

 スカイツリーがあるのは、東京の下町・墨田区。

 オイラの家からは都心を挟んで反対側になるので、なかなか行ってみる機会はありませんでした。

 でも、工事の途中が見られる機会なんて、そうないですからね。

 東京タワーを作る現場を見たという人は、まわりに少なくないのです。そういう方たちが、あのときはすごかった、といろいろ自慢するわけですよ。

 オイラも、今行かなければ、東京人として、建設中のスカイツリーを見たと、将来、若い人たちに話ができないのではないか。

 …ということで、追い立てられるように行ってみることにしたのです。

 行ったのは、先月末。ちょうど高さが398メートルに達した頃でした。

 オイラの場合、都営浅草線を使うと、家からスカイツリーまで乗り換えなし、片道310円で行けるのですね~。

 地下鉄の押上駅の階段を上がって外に出て、東京スカイツリーはどこじゃと探します。

 あれっ、どこにもないよ。

 …と思って、上を見上げると、おお~巨大なマッチ棒が天に向かって延びているではあ~りませんか。

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 下から見上げると、マッチ棒というより、先が黒くなった綿棒のようにも見えますが…。

 もう少し近くで見ようと、北十間川をわたり、対岸からスカイツリーを見上げます。

 天を突き刺すほど高いのに、その足元は信じられないくらいコンパクトなのに驚きました。

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 東京タワーは四本の足で地面をがっしり鷲づかみするようなイメージ。実際、東京タワーの真下へ行くと、真上から投網を投げられたような迫力がある。

 思わず、捕まえられた魚のような気分になるのはオイラだけでしょうか。

 東京タワーのまわりは芝公園ですし、わりとゆったりとした敷地に立っているから、ホントの真下へ行くことはさほど多くないのですが…。
 

 それに対して、スカイツリーは、地面から竹がすーっと天に向かって伸びていているような感じ。

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 それにしても、こんな近くに民家や商店が建ち並んでいるとは思いませんでした。

 東京スカイツリーがお隣さんみたいな感じなのですね。

 それでも、あまり圧迫感を感じないのは、基礎部分のコンパクトさによるのかも。

 いずれは、大阪の通天閣みたいに商店街や住宅街と共存して発展していくように感じました。

 コンパクトに見えても、基礎部分は、一辺約68メートルもある巨大な三角形なのですな。

 そういえば、スカイツリーの下を輪切りにすると三角形で、上に行くに従って丸になるという構造を思い出します。

 古来日本建築の五重塔の耐震構造を参考にしたと聞きました。この塔も、法隆寺の五重塔みたいに千年以上もこの場所に立ち続けるのでしょうか。
 
 それはともかく、完成したら、高さは634メートルになるそうですね。

 自立式電波塔としては世界一の高さだとか。

現在の398メートルでも、想像を絶する高さを実感しているのですから、完成したらどうなっちゃうんでしょうかね。

 ちなみにこの高さは、東京や埼玉、神奈川の一部の旧国名である「むさし」の語呂合わせも考慮したらしい。

 武蔵国はおろか、後北条氏のように関東の覇者として君臨してもらいたいものですな。

 この場合、東京タワーが敵対するか、同盟するかがカギになると思いますが…。

 今から、来年末の完成が楽しみです。

 とはいえ、混むのが嫌いだから、完成してたぶん半年以上たってから行くんだろうなと思いつつ、東武伊勢崎線の業平橋駅へと向かいます。

 せっかく来たのだから、この近くの観光スポットを歩いてみようと思ったのですね~。

 東武線に乗り、荒川のほとり、堀切駅で下車しました。

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 さきほどまで、平成の最先端の近代建築物を眺めていたオイラとしては、こんな昭和の香りを漂わせるひなびた駅舎をみると心がなごみます。

 改札を出て、階段をのぼり放水路を超えると、東京スカイツリーが小さく見えました。

 住宅街をテクテク歩くと、隅田川七福神のひとつ、多聞寺があります。

 見どころの多いお寺でしたけど、まず注目したのはこの山門。

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 なんと茅葺ですよ。

 江戸時代中期に建てられたもので、なんと区内最古の建造物らしい。

 ほかにも、大タヌキの妖怪伝説が残る狸塚、六地蔵、映画人の墓碑などがありました。

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 この辺りは昔、大きな池があり、まわりに樹木が生い茂り、狸や狐たちの楽園だったそうですね。現在の下町風景からは信じられませぬ。

 妖怪伝説が残るくらいだから、かなりの秘境だったと思われる住宅街を歩き、墨提通りを越えると、東白鬚公園。

 隅田川と墨提通りに囲まれた広大な公園で、巨大な団地の建物が通り沿いに並んでいます。

 公園のなかをしばらく歩き、墨提通りに面した場所に出ると、梅若公園の名づけられた小さな公園がありました。

 団地のそばに、多少違和感を漂わせながら、巨大な銅像が建っていました。

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 この銅像の人物は、明治維新のスターの一人とも言うべき、榎本武揚。

 函館五稜郭で、ひざかたさんたちと戦った彼は、ここ向島で晩年を過ごしたのですね。

 この辺りは、さまざまな要人が晩年を静かに過ごしたと聞きます。昔は、今みたいに無粋な高速道路や堤防もなく、風光明媚な場所だったのでしょうね。

 ちなみに、梅若公園のネーミングですが、悲しい伝説があるそうなんですよ。

 平安時代、京の都で貴族の子梅若が、人買いにさらわれて奥州へ連れ行かれる途中、この地で病にかかって捨てられ、死んでしまったそうな。

 子を探し求めてこの地へやってきた母親は、里人から梅若の死を知らされ、子の墓のそばに庵をつくり、髪をおろして妙亀尼と称して、念仏三昧の生活を続けたとのこと。

 しかし、その後発狂して自殺してしまったのですか。

 平安時代にも、拉致事件があったのですね。

 白鬚公園を歩くと、そばに木母寺というお寺があるのですが、ここがその梅若伝説発祥の地と言われているそうです。

 そこには、ガラス張りの堂内にある梅若塚や初代と二代の三遊亭円生を顕彰した三遊塚もありました。

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 近くにある隅田川の総鎮守で水神の森と親しまれた隅田川神社にお参りし、白鬚橋をわたって台東区に入ります。

 橋を渡って右手にあるのが、石浜神社。

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 創建は724年まで遡るという由緒ある神社で、境内には富士塚もありました。

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 解説板を読むと、このあたりは武蔵千葉氏の石浜城があったところという言い伝えもあるらしい。

 城と聞いては黙って通り過ぎるわけには参りませぬ。

 確かに隅田川を要害とみなせば、ここに城があっても不思議ではない。

 …と思って、近くをぐるぐる歩き回ってみたけれども、城の痕跡はまったく残っておりませんでした。

 川の近くだし、もう少し高台にあるような気もするのですが…。

 明治通りに出て、路地に入ってしばらく行くと、古い塀に囲まれ、鉄門に閉ざされた一画が目に入ります。

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 門の前の解説板を読むと、なんと「平賀源内の墓」だというではあ~りませんか。

 源内先生は、昔、NHKのドラマ「天下御免」でファンになりましたね~。

 山口崇が、若くて飄々として自由で、かつ知的な源内さんのイメージにぴったりでした。

 エレキテル(摩擦起電機)という奇妙な器械を作った学者として有名ですが、ほかにも物産会を主催したり、鉱山開発したり、陶器の製造をしたり、毛織物の製造もしたりしたのですな。

 一方で、滑稽本や浄瑠璃などの作品を残した元祖マルチ人間ともいうべき人。

 理科系と文科系でその時代の最先端を行くのは、すごいですね。東大の理学部、工学部と文学部に加えて、東京藝術大学を卒業しちゃう、みたいな。

 それにしても、どうしてこんな住宅街の真ん中にポツンと、国の指定史跡があるのだろうと思いました。

 なんでもこの辺りに昔、総泉寺というお寺があったらしい。昭和3年に板橋区小豆沢へ移転したが、源内先生の墓だけ当地に保存されたようです。

 確かに、「天下御免」のドラマの源内先生のイメージは、下町のイメージにぴったりですな。

 なにせ、ドラマでは橋の下に勝手に小屋を立てて住んでいましたから。

 門の中に入れるそうなので、お参りして行く事にします。

 約30坪の敷地の中央に源内さんの墓、その横に従卒福助の墓がありました。

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 そこから歩いてすぐのところにあるのが、お化け地蔵。

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 ネーミングから、ホラー的なシーンをイメージしてしまいました。

 しかし、かつて大きな笠がかぶせられていて、それの向きがいつの間にか変わっていたり、取られていたりしてので、いつの間にかお化け地蔵尊と呼ぶようになったというらしい。

 もっとストレートに、並外れて大きいから呼ばれたという説もあるようで…。

 いずれにしても、ゲゲゲの鬼太郎的な伝説はないみたい。

 確かに、3メートルという、見上げるような高さのお地蔵様はオイラの記憶にはないような。

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横浜市・市ヶ尾の古墳~川崎市・王禅寺 ウォーキングストーリー

こんにちは。

 今日は久々のお散歩ネタ。

 ブログをかなりの長期間にわたってさぼっていたため、お散歩ネタがだぶついておりまする。今回のネタも、三ヶ月前に行ったときのものですが…。

 記事をサボっていたくせに、お散歩だけは従来のペースで行っていましたからね。

 かなり忘れている部分があるのですが、知る人ぞ知るウォーキングコースなので、ご紹介せねばと思いました。

 さて、今回行ったのは、横浜市の市ヶ尾から川崎市の新百合ヶ丘にかけて。

 東京のベッドタウンとして発展している地域ですが、古墳や由緒あるお寺など古い歴史もあるところなのですね~。

 緑豊かな丘陵地帯もあり、オイラの家からなんと片道の電車賃が240円で行けるのですよ。

 いつもはウォーキングのガイドブックを参考に歩くのですが、今回は、以前行った古墳とネットで何気に見ているうちに行きたくなった公園やお寺を一筆書きのように結んで歩くことにしたのです。

 ウォーキングガイドに載っていないコースなので、地図は図書館へ行って大きなロードマップをコピーして利用しました。

 歩きながらA3のコピー用紙4枚を持って歩いたのですが、これがなかなか優れもの。

 いつもは割とアバウトな地図を利用しているので、たまに迷うこともあるのです。

 でもさすがに今回は、100メートルが1センチの大きさですからね。自分の今いる場所がピンポイントでわかるだけではなく、歩いていて面白い建物が目に止まったら、それが何の建物かわかるのです。

 等高線やそれに伴う街のレイアウト、コンセプトなどいろいろ考え、キョロキョロまわりを見回しながら歩くことができました。

 ホントは、名所旧跡、見どころなどを詳しく表示してくれれば良いのだけれど…。

 …ということで、ウォーキングのスタートは、東急田園都市線の市ヶ尾駅。

 市ヶ尾(いちがお)とは珍しい地名だと思って調べてみたんですよ。

 戦国時代の小田原北条氏の頃、この辺りは「市郷」と呼ばれていたらしい。

 それがなまって、市ヶ尾になったのですか。

 でも、「いちがお」より「いちごう」の方が呼びやすい気もするのですが…。漢字をイメージして発音したら、こういう変化はしないかもしれませぬ。

 漢字の読めない人たちが、伝言ゲームで伝えた結果なのかなと、勝手に推測してしまいました。

 ちなみに、どうして「市郷」と呼ばれていたかはわかりませぬ。

 晴れてはいたものの風の強い日だったので、あまり深くは考えず、前に進むことだけに集中して歩きます。

 商店街から住宅街に入り、市ヶ尾小学校の横の坂を登ってゆくと、右手に市ヶ尾遺跡公園がありました。

 ここに来たのは2回目。

 前回は、確か10年ほど前に来たのですが、たまたま「市ヶ尾古墳群」という表示板を見かけて足を運んだのです。

 来てみて、かなり立派な横穴古墳が並んでいたのにびっくり。当時の歴史ウォーキングのガイドブックには取り上げられていなかったですから。

 園内に入り、小高い丘に作られた階段を登ってゆきます。

 中腹まで登り、丘を取り巻く遊歩道を少し歩くと、モルタルで固められた横穴がボコボコと並んでいるのが目に入ります。

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 横穴古墳群は、二つのエリアに分かれていて、全部で12基あるそうな。

 ちなみに、横穴古墳は、丘などの斜面に高さ2メートル前後の穴を掘り、人を埋葬した施設。

 以前行った、埼玉県の吉見百穴は丘いっぱいに穴がボコボコ開いている景色が有名ですね。

 こちらは、それほど穴は多くはありませんが、中に石が敷き詰められていたり、二段に分かれた段差も確認できたりして、当時の雰囲気をイメージすることができました。

 この古墳群は、昭和8年に発見されたらしい。古墳時代末期の6世紀後半から7世紀後半の古墳時代末期に造られた有力な農民の墓と考えられているそうな。

 巨大な古墳が造られた後に、だんだん小さく質素になってゆくのは、当時のエコの発想でしょうか。

 横穴の中に入れる古墳もいくつかあるので、中に入ってみることにしました。

 入口は、屈まないと入れない大きさ。這うようにして羨道(せんどう)と呼ばれる部分を進むと、立ちあがれるスペースがあります。

 ここが、埋葬用の空間である玄室(げんしつ)ですな。

 下に敷き石があり、これは復元されたものらしいのですが、壁に残されたノミの跡は当時のものだと解説板に書かれていました。

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 ホントですかね~と、壁の起伏を指でなぞりながら、古墳を作った人たちの思いを肌で味わいます。

 中はそれほど広くはないですが、外とは満たされた空気や時間まで違って感じられました。

 玄室の奥から外を眺めるのは、古墳フリークのオイラでも、そうない経験でしたね~。

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 再び狭い羨道を通って外へ出たときは、生き返ったミイラ男になったような気分でした。

 古墳群の奥へゆくと、それらの前にちょっとしたスペースがあり、そこから刀や土器などが発見されたそうです。

 解説板には、おそらく死者を悼み、祖先の霊を祀る儀式が執り行われていたのではないかと書かれていました。

 いわゆるお葬式ですね。現在のお葬式のスタイルとどう違うのか、興味をそそられます。

 公園の広場の端に立つと、住宅街を見渡す眺望が見事でした。

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 ここに葬られた人たちの家族は、ここから眺められる地域に暮らしていたのですかね。

 いつも、丘の上からご先祖に見守られて暮らしているのは、どんな気持ちなのかとインタビューしてみたくなりましたが。

 遺跡公園を出て、住宅街をテクテク歩いて向かったのは、稲荷前古墳。

 こちらも前回来て、こんな立派な古墳が近くにあったのかと驚いた記憶があるのでした。

 稲荷前古墳群は、昭和42年に住宅造成中に発見されたらしい。

 なんと、前方後円墳や前方後方墳、円墳、方墳など計10基の古墳と横穴墓9基があったとのこと。

 これだけバリエーションに富んだ古墳が一か所にあるなんて、まさに古墳のデパートの趣がありますな。

 …と、バス通りに面した緑あふれる小高い丘をまたしても登ります。

 こちらも、高くて見晴らしのよい場所に古墳を作ったのですな。

 見つかった古墳は、住宅地となって消滅したものも多いのですが、前方後方墳1基と方墳2基が保存されているのですね~。

 それにしても前方後方墳とは珍しい。何でも神奈川県ではじめて発見されたそうですね。

 かなり急な階段を登り、頂上の開けた場所に出たら、目の前に芝生に覆われた巨大な丘が現れました。全長は37.5メートルですか。

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 興味のない人から見たら、何の変哲もない土のかたまりですが、その上に登ってみると、確かに四角を二つ繋ぎ合せたような前方後方墳の形状が確認できました。

 自然な丘の上に、人工的な丘を作り上げたわけですから、見晴らしがいい。

 この古墳が造られたときは、360度の眺望が広がっていたのかもしれませぬ。

 それにしても、残り二つの方墳が、前方後方墳に寄り添うような形であるのはどういう趣向ですかね。

 これらの古墳は、この地域を治めた歴代の権力者や一族の墓だそうですが。

 現在、この地域は、東京や横浜のベッドタウンとして発展していますが、当時は、今の東京都心や横浜よりずっと先進地帯だったのかも。

 稲荷前古墳を後に、黒須田川に沿って北上を開始します。

 すすき野団地から虹ヶ丘団地といった巨大団地を経て、虹ヶ丘公園で小休止し、少年野球を観戦しました。

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 小学生ですが、最近の少年野球はレベルが上がっているのですね。

 ヒットエンドランはもちろん、ワンアウト一、三塁で、小学校低学年がスクイズを決めるなんて。

 しかも、ピッチャーがストライクを投げられるのがすごいっす。

 もっとも、オイラの草野球と将来の大リーガーを比較するのは迷惑な話なのでした。

 そこから少し歩くと、広大な緑に囲まれた王禅寺ふるさと公園があります。

 広さが10ヘクタールもあり、その半分は雑木林、また芝生広場や池や小川などもあってよく整備されています。

 行った日はまだ3月の初めでしたが、見事な桜が咲いていました。

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 梅かなと思ったのですが、これはどこから見ても桜ですよね。

 王禅寺ふるさと公園の隣にあるのが、王禅寺。

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 関東の高野山とも呼ばれる由緒あるお寺で、開山は平安時代の921年。

 建武の中興のとき、新田義貞に焼きつくされたそうですが、室町時代に再興された歴史があるそうですね。

 確かに関東の高野山と言われるだけあって、東京のすぐ近くにありながら、深山幽谷の趣が感じられるお寺でした。

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 このお寺は、日本最古の甘柿の品種と言われている「禅寺丸」が発見されたお寺として有名らしい。

 この近くに「柿生」という土地がありますが、このお寺の柿にちなんだものだとは初めて知りました。

 ここから新百合ヶ丘の駅に向かって歩くのですが、その途中にあるのが「むじなが池公園」。

 近くにゴルフ練習場やスーパー、マンション、住宅が立ち並ぶ一角にぽっかり欝蒼とした森が。

 公園の中にある「むじなが池」とその周辺は、まさに小泉八雲の世界が広がっているような。

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 きっとここにも、都市伝説があるのかも。

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曽我兄弟の里、曽我梅林 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今日は、前々回の「曽我の里ウォーキング」の続きです。

 前回は、ちょっとした不注意から、全力疾走をせざるを得ない状況になってしまったのでした。

 春になると毎年、頭がぼーっとして失敗するのはやはり花粉のせいですな。

 今年は花粉の飛散量が少ないようで、現在は、ほとんど症状はございませぬ。でもまた、毎年恒例の花粉症の失敗談が…。

 先日、都心を歩いていて道を聞かれ、また間違った方向を教えてしまったのですよ。

 会社訪問の学生さんみたいで、急いでいるらしく、オイラが指差したほうへ走り去って行ったのでした。

 そのすぐあと、脳の回線がつながって自分の間違いに気づいたのです。

 オイラのせいで時間に遅れ、不採用になったら大変!!!

 …と、全力疾走で学生さんの後を走って追いかけました。

 すると、前方からさっきの学生さんがこちらへダッシュしてくるのが見えました。

 わっ、早くもオイラにリベンジか…。と身構えたら、横をそのまま全速力で駆け抜けて行ったのです。

 どうやら、道を教えたとき、オイラの目の焦点が合っていなかったようで、不審に思って別の人に聞いたのでしょうね。

 当然、その日は一日、自己嫌悪に陥ったのでした。

 外を歩いていると、結構、オイラは道を聞かれることがあるのです。

 傍から見ると、わりと道を知っているオヤジに見えるのかも。

 ところが、今は花粉の影響もあるのでしょうけど、もともと頭のなかに地図がインプットされていないのですね~。

 都心で道に迷うことは滅多にないのですが、それは動物的な感覚でつかんでいるといいますか。

 サバンナの動物は恐らく、地図を頭の中で思い描いていないはず。自分の生まれた川へ戻ってくる鮭だってたぶん同じだと思います。

 そんなオイラに道を聞いても、わかりませんよ。

 今度から『オイラは道に詳しくありません』という標識をぶら下げて歩こうかと思う今日この頃です。

 自己弁護はともかく、お散歩ネタでした。


 のどかな景色を見ながら歩き、丘の上にある天津神社にお参りしてから、かつて曽我郷六か村の総鎮守だった宗我神社へ向かいます。

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 境内の雰囲気から、さすがに歴史がありそうだと思ったら、創建は平安時代の1028年ですと。大和国からこの土地に移住した、宗我播磨守保慶が故郷にある氏神である蘇我明神を祀って建立したそうですね。
 
 戦国時代には、小田原城主だった大森氏によって小田原城の鬼門を守る神社として崇敬されたのだとか。

 大森氏といえば、北条早雲が小田原城を攻略したときの城主。相模を歩いていると、さすがに北条氏の噂はよく耳にします。でも、その圧倒的なスター性の前に、北条氏以前の大名がかすんでいるような。

 勝ち組といわれる大名よりも、負け組みといわれる大名のほうに親近感がわく今日この頃。

 藤原時代の木彫薬師三尊があるという法輪寺にお参りし、仇討ちで有名な曽我兄弟ゆかりの城前寺へとやって来ました。

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 このお寺は、曽我兄弟の菩提寺だそうですね。

 「曽我物語」を調べてみると、源頼朝が鎌倉幕府をひらいた1193年に事件が起きたそうな。

 頼朝をはじめ幕府の御家人が集った富士の裾野の巻狩りの際、曾我十郎祐成・五郎時到兄弟が、父河津祐泰の仇である工藤祐経を襲撃し討ち果たしたそうなんですよ。

 何でも、河津祐泰と工藤祐経との所領争いがあり、祐経が祐泰を暗殺したという発端があったみたい。

 これだけ有名な物語になったのは、仇討ちに成功してめでたし、めでたしにならなかったからかもしれませぬ。

 なんと曽我兄弟は、工藤祐経を討ち取った後、源頼朝の襲撃を企てたとか。

 当然といいますか、兄弟は頼朝の護衛の武士たちによって殺されてしまった。ちなみに、兄は22歳、弟は20歳だったそうです。

 なぜ、仇討ちに成功したのに頼朝を襲ったかということですが、詳しいことは定かではありませぬ。

 一般には父が暗殺されたときの頼朝のお裁きが喧嘩両成敗ではなかったからと言われているようですが…。

 そういえば、忠臣蔵も喧嘩両成敗の原則が適用されなかったのが、仇討ちの理由のひとつでしたね。

 でも、頼朝がいなくなって喜ぶ人たちも、幕府にいたのではないかという意見もあるようで。

 何と言っても、北条政子という、とかく噂のある奥さんもいましたし…。

 その真相究明は、歴史の先生たちにお任せして、オイラが気になったのは、お寺の名前のほうでした。

 城前寺って、城の前にあるお寺という意味ですかね。

 …とイメージしたら、まさにどんぴしゃりのネーミングなのでした。

 曽我城という城が、このお寺の近くの台地上にあったそうです。

 もちろん、鎌倉時代以前の城跡ですから、城館といったほうがいいと思いますが。

 お寺のまわりを歩いてみると、そう思って眺めるとちょっとした窪みが空堀の跡のようにも見えるのですが、正直よくわかりませんでした。

 ただ、お寺の裏に曽我兄弟の供養塔があり、解説板によると供養塔の前の土が盛られている部 分は、曽我城の土塁のあとだとありました。

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 この部分だけ盛り土が残っているだけなので、残念ながら当時の縄張りはわかりませぬ。

 ここから先はハイキングコースになっていて、かなりの急坂が続きます。

 道は広くて歩きやすいのですが、急勾配のためにつづら折になっておりまする。

 朝の全力疾走で体力を使い果たしたオヤジには、相当こたえる上り坂でした。しかも、あきらかにオイラより年上と思われる中高年のグループも、元気に登っている。

 さすがに、いくら元気といっても60歳代の方たちに抜かれるわけには参りませぬ。

 一息入れるときは、見栄を張って、写真を撮る振りをしたり…。

 でも、実際、眼下に広がる美しい景色は、そんなオイラの演技が嘘でないことを証明してくれました。

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 遠くは霞がかかっていますが、ところどころ白とピンクの梅の花が田園地帯に彩を添えます。

 ひたすら坂道を登り、もう休まないとヤバイと思った頃、左手に曽我祐信宝篋印塔が見えました。曽我兄弟の義父である祐信の供養塔と伝えられていますが、実際はわからないらしい。

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  でも鎌倉時代の様式で作られていて、市の重要文化財にも指定されているのですな。

 フムフムと、塔を眺めていたら、先ほどのグループがもう登ってきて、オイラを追い越していきました。

 全然、休まないのですか。ひょっとして、運動不足の若者たちより健脚かも。

 ウサギと亀の気分でふたたび、ハイキングコースに戻り、先を目指します。

 ガイドブックによれば、ここから六本松と呼ばれる峠道はすぐなのですが、今まで以上の急坂が待っていたのです。

 ずっと先まで続く山道に、何じゃこりゃ~と、松田優作のまねをして叫んでも、キキキとうけるのは野鳥ばかり…。

 あとで調べたら、通常のウォーキングコースが工事中で、迂回路を通ったのですね。

 距離的には3倍近くありましたが、距離よりも高低差がきつかった。

 それでも、道の途中から眺めた相模湾や輪郭がぼんやり浮かぶ富士山の景色は圧巻でした。

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 行った日は、遠くに靄がかかってあまり視界がきかなかったのですが、霧がなければ富士山と伊豆半島、相模湾のコラボを満喫できたでしょうね。

 ヒーヒーいいながらもようやく目的地の六本松に到着。

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 六本松は、曾我山の峠道で、かつて六本の松があるからこの名がついたとのこと。ここは鎌倉時代、近くの豪族の館と鎌倉を結ぶさまざまな街道が交わる重要な場所だったそうですね。

 …といわれても、これだけ苦労して、石碑と新しく植えられた松だけっすか、という気になりましたが。

 でも、ここから先は、急な下り坂。走ったら、止まらなくなりそう。

 こんな高低差を登ってきたのだと感慨に浸りながら降り、平地に差し掛かった頃、左手に有名な銅像が見えてきました。

 なんで学校もないのに二宮金次郎の銅像が、と思ったら、この近くに金次郎の母方の実家があったらしい。

 その後、二宮尊徳となり、実家の復興にも貢献したそうな。尊徳に仕えていた実家の三兄弟の次男が遺髪をもちかえり、その遺言によって昭和13年に塚が築かれたと解説板にありました。

 そういえば昨年、小田原へ行ったとき、さかんに二宮尊徳のお話を耳にしたのでした。一応ここも、小田原市内ですからね。

 そこから県道に出て、曽我兄弟の母とされるお墓のある法蓮寺にお参りした後、また曽我梅林へ。

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 ここ別所梅林は、3つからなる曽我梅林のなかで一番広いのですか。

 さすがに、車で来る人のために駐車場も完備されていて、平日でもかなりの賑わいでした。

 広々としていて、山の緑をバックにすると白い可憐な花はよく似合いますね。

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 こういう、しだれ桜みたいなゴージャスな雰囲気の梅もあるのですな。

 梅干とかも売っていて、梅を見ながら条件反射でつばが出てくるのでした。

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曽我梅林 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今や春たけなわですね。昔は、春というと暖かくなって花が咲き、また新年度で心機一転、心浮き立つ季節でした。

 そういう気持で春を迎えたいと思いつつ、涙目やくしゃみ、鼻水でゆーうつな季節となってしまったのが残念っす。

 でも、舞い落ちる桜の花びらの中を歩くと、そういったネガティブな部分を一時忘れるような幸せな気分になったりします。

 桜をテーマにした歌が昔はもちろん現在のヒット曲としていくつも思い浮かぶのは、日本人のDNAの中に桜を愛でる心がインプットされているからでしょうね。

 しかし、春といえば桜だけではありませぬ。ショッキングピンクの洪水のごとく咲き誇る桜はインパクトがあって好きですが、少し地味に慎ましやかに咲き誇る梅もまた春の醍醐味のひとつかと…。

 そこで、花粉の大量飛散が始まる寸前の二月下旬、久しぶりに観梅へ行くことにしたのです。

 去年は、近くの池上梅園へ行ったら、ほとんど終わっていたのでしっかりリベンジの意味を込めて。

 せっかく行くなら、梅の名所と呼ばれる場所へ行こうと考えたのでした。

 関東で梅の名所といえば、まず水戸の偕楽園を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

 確かに、日本三名園の一つと言われるだけあって見事な景色ですが、せっかくならまだ行ったことのないところへ行ってみようか、と…。

 と思って、思いついたのが曽我梅林。

 知る人ぞ知る、関東の梅の名所なのですね~。

 行ったのは、オイラの誕生日。平日だったのですが、土日にも仕事をしていたので、自分への誕生日プレセントにしようと考えたのです。

 まず、例によってネットで検索した最安ルートで現地に向かいます。

 できるだけ私鉄を利用しようと、東急線から小田急に乗り継ぎ、新松田駅に降り立ちました。

 すぐ近くのJR松田駅から御殿場線に乗り換え、目的地の下曽我駅へ行こうと考えたのですよ。

 新松田駅を降りたら、平日なのに思ったより混んでいました。中高年の方たちもやはり観梅に行かれるみたい。

 バスに乗る人たちが多いけれど、電車があるのに…と思ったら、御殿場線は次の電車が来るまで40分も待つ必要があるのでした。

 一応、都会育ちとしては、そんなに長い時間電車を待つことがほとんどないのでギョッとします。だから皆さん、バスに乗ったのですね。

 それじゃ、オイラも、とパスに乗ろうとしたら、ちょうどバスが走り去ってゆくところでした。

 うぬぬ、せっかくネットで乗り換え案内を調べたのなら、料金だけではなく接続も調べておけばよかったと悔やんでも後の祭り。仕方ないから、次の電車までそのあたりをブラブラ歩いて時間をつぶそうと考えました。

 でも、バスや電車に乗らない多くの観光客は、片手に曽我梅林のパンフを持って商店街を同じ方向に歩いて行くのですよ。

 もしかして、曽我梅林まで歩いてゆけるのかしらん、とあまり考えもせずについて行ったのです。

 そしたら、はるかかなたに先ほど乗り損ねたバスが国道を右折しているのが目に入りました。

 あそこを右折するのですな、と曽我梅林へ向かうと思われるグループを追い越し、国道を同じ方向へ向かってぐんぐん歩きました。

 右手に線路が切れ切れに見えているので、線路に沿って歩けば迷わないだろうと…。

 しかし、歩いても歩いても、次の駅が見えない。都心と地方とでは、駅の間隔が相当違うのだと改めて思い知らされました。

 30分ほど早足で歩き、どこまで来たのか不安になった頃、近くを電車が走り抜けて行きます。

 行き先は…、え~!? 小田原行き?

 御殿場線ではなく、小田急の線路に沿ってひたすら歩いていたのでした。

 戻らねば。しかし、時計を見ると、御殿場線の次の電車まであと10分。

 その次の電車はずっと後になるでしょうし、ここは走って松田駅まで戻るしかない。

 決断の早さは、信長が浅井の裏切りにあって、朝倉攻めの途中に京都へ逃げるときと同じだったかもしれませぬ。

 そこから、秀吉の中国大返しのごとき急行軍が始まったのでした。

 国道246号を、「走れメロス」の心境でひたすら走ります。車道が渋滞していたので、路線バスを2台も追い抜き、老人がゆっくりこぐ自転車を追い越し、疲れて早足になったりもしたのですが、それでも止まって休むことはありませんでした。

 東名高速の高架の下をくぐり、ようやく松田駅入り口の看板が見えたときは電車が来るまであと3分。

 もう無理だからあきらめようか、と一瞬思ったのですが、とにかくベストを尽くすべきではないか。だめもとでチャレンジしてみよう。

 そこから約200メートルを最後の力を振り絞ってロングスパートをかけ、商店街を疾走します。

 前を走る2台の自転車は、周りの人から見たら、ランナーを先導する白バイに見えたかもしれませぬ。

 駅前の人たちの間を縫うように駆け抜け、自販機で切符を買うとあと1分。切符にスタンプを押してもらっているオヤジがいて、オイラと同じ電車に乗るらしく駅員さんから「もう電車が来てますよ。急いでください」と言われているのが耳に入りました。

 前を全力疾走で走るオヤジのあとを追い、オイラもホームの階段を駆け上がります。ホームに上ったら、電車がホームの50メートル以上も先に停車しているではありませんか。

 何でこんな長いホーム作るんだよう、もっと手前に停まれよう、と心の中で悪態をついて走りました。

 いつもなら、前を走るオヤジをゴール手前で抜くのですが、ロングスパートで体力を使い果たしていたオイラは、そんな余力は残っていなかったですね~。

 殊勲のオヤジ二人が電車に入るのを待っていたようにドアが閉まりました。

 さすがにへとへとになり、席に腰かけると体中から汗がドバッと吹き出します。周りの人たちは、この寒いのに何でそんなに汗かいてるの?と奇異の目を向けます。

 注目を集めつつも、何で誕生日なのに、こんなに苦しまなきゃいかんのじゃ~と考えました。もっとも、考えようによっては、この年でロングスパートができる体力があることが、一番のプレゼントかもしれないと思いましたが…。

 でも、またこんなことをやったら確実に寿命は縮まりますね。

 それはともかく、ウォーキングの前に完璧に体力を消耗したまま、目的地の下曽我駅に到着しました。

 駅前の商店に無人販売所があって、缶コーヒー2本150円の表示が。

 野菜とかはたまに見かけますけど、缶コーヒーの無人販売は珍しい。そのリーズナブルさに惹かれて、さっそく購入しました。

 ヨタヨタしながらも、ガイドブックを見つつ、最初の観光スポット中河原梅林へと向かいます。

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 一口に曽我梅林といっても、三か所に分かれているのですか。

 曽我といえば、日本三大仇討ちの一つ「曽我物語」の主人公、曽我兄弟の故郷として有名だそうです。

 子供向きに書かれた「曽我兄弟」という小説を読んだことがありますけど、日本史のなかではあまり取り上げられていないのでかなり忘れた部分が…。ここは曽我兄弟にちなんだ史跡もあるそうですね。

 それはあとでお話するとして、曽我の梅は、そのずっと後、今から600年以上も前の北条氏の時代にはじまるらしい。

 なんでも、梅の実を兵糧用にするため、城下に多くの梅の木が植えられたのだとか。

 江戸時代になると、小田原藩主によって梅の栽培が奨励されたみたい。名産の梅干しは、宿場町でも重宝されたのですね。

 曽我梅林は、そうした食用の梅を観賞用に開放しているのだそうです。

 確かに、水戸の偕楽園と違って、観賞用だけではなく果樹園のなかにいるような気分にもなりました。

 行ったのは2月の終わりでしたから、少し見ごろは過ぎているような気もしましたけど、かわいらしい花と梅のいい香りを堪能することができました。

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 桜とちがってパッとゴージャスな気分にはならないですけど、梅の花は何となくやさしい気持ちになって癒されます。

 …と安らかな気分で梅を眺めていたら、突然、目のかゆみとくしゃみ、鼻水の発作が。行った日は、暖かく、風が強かったので、まさに花粉日和の一日でしたね。 

 来年の観梅は、マスクを持って行くべきだと気づかされました。

 多少、靄もかかっていて、本来は梅と富士という日本人の琴線に触れる絶景を堪能できなかったのは少し残念。

 梅と富士ではなく、桜と富士のほうがベストマッチングかもしれませんけど。

 次に向かったのは、中河原梅林のすぐ近くにある瑞雲寺。

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 このお寺は、小田原北条氏の家臣が創建したのですか。

 境内にも梅が咲いていて、お寺の建物と梅の花もまた美しい景観を醸し出しています。

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 同じく境内には、曽我自修学校発祥の地の石碑もありました。

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 ここは、明治時代に、このあたりで唯一の私学として開設された「自修学校校舎」の跡地だそうですね。

 当時、小学校制度は全国的に普及したものの、一般の人たちはそれより上級の学校への進学は不可能に近かったそうです。そこで当時の住職が、寺の本堂で高等教育を行い、やがて校舎の建設を行ったとのこと。

 その学校は現在、別の場所に移り、今も高等学校として大きく発展しているそうです。

 多くの石仏があったり、裏山からは市街地の展望が広がっていたりでみどころが多いお寺でした。

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 今回は、本来のウォーキングコースの前にアクシデントがありましたので、全部は書ききれませんでした。

 このあと、またしても悪戦苦闘の行軍になるのですが、続きは次回。

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佐倉惣五郎・佐倉義民伝のふるさと ウォーキングストーリー

 おはようございます。

 突然ですが、佐倉惣五郎という人物をご存知でしょうか。

 今回の記事を書くために、ヤフーとグーグルで「佐倉惣五郎」を検索してみたんですよ。オイラが調べた日では、ヤフーが約28000、グーグルでは約1万件の検索結果でした。

 思っていたより少ないのにびっくりです。何百万件とはいかないまでも、当然、何十万件の検索結果はあると思っていましたから。

 オイラが子供の頃、何で知ったかということは忘れましたが、いろいろな媒体から「佐倉惣五郎」という名前が耳に入ってきました。

 そういえば、何気に最近はあまり聞かなくなったような。あまり話題には上らなくなったのでしょうかね。

 ちなみに、佐倉惣五郎は「義民」と呼ばれた人物。義民とは、正義・人道のために一身をささげる民だと広辞苑には載っております。惣五郎は、江戸時代前期、下総国印旛郡公津村の名主を務めていたとか。公津村は現在でいうと、千葉県の成田市にあたるらしい。

 佐倉惣五郎なのに佐倉市ではなく、成田市にお住いだったのですか。

 伝説によると、公津村は当時、佐倉藩領で、藩主の堀田氏が悪政をしていたそうな。名主であった惣五郎は、藩や江戸のお役人、幕府の老中にも対策を訴えたが聞き入れられず、なんと将軍徳川家綱に直訴したと伝えられておりまする。

 その結果、悪政は改められたものの、惣五郎夫妻は磔。そればかりか子供たちも死罪となってしまった。

 今で言ったら、県知事をはじめとする県のお役人の悪政を総理大臣に直訴したら、一家すべて死刑になるということですかね。

 現代も、いろいろな問題点はありますが、江戸時代に生まれなくてよかったと感じる今日この頃です。

 もっとも、上記の話を証明する資料は見つかっていないそうなのですが…。

 でも、民衆の声を政治に生かすという発想自体、当時としては画期的なことだったのでしょう。

 先日、お役所の会議に出席して、現場のことは何も知らないくせに口ばっかり達者なお役人に言い負かされたオイラとしては、偉大な佐倉惣五郎を見習うためにも、彼の足跡をたどることにしたのでした。

 ウォーキングのスタートは、京成電鉄の宗吾参道駅。

 宗吾というネーミングは、佐倉惣五郎に由来しているらしい。私鉄の駅名にもなっている人物なのに、グーグルの検索結果が1万件なのは合点が行きませぬ。

 …と思って、駅を出ると、駅前にはコンビニどころか、一軒のお店もないのでした。

 昼食は、コンビニで弁当でも買ってすませようと考えていたので、急に不安になります。

 それでもさすが参道というだけあって、灯篭や立派な門が出迎えてくれました。缶コーヒーを自販機で買い、それを飲みつつ長い坂道を登ります。

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 駅から10分と少し歩いて見えてきたのは、由緒ありそうなお寺と土産物店がならぶ境内。ここが宗吾霊堂っすね。

 食べ物を売っていたのでほっとして境内に足を踏み入れると、右側に立派なお墓がありました。

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 これが佐倉惣五郎親子のお墓なのですか。

 …とお参りして、お墓のまわりをぐるっと回ってみると、まわりの石塀の壁に寄付した人たちの名前が刻まれておりました。

 でも、東京の亀戸や深川の商人の方たちはわかるとして、明治時代? つまりお墓は、ずっとあとになって整備されたみたい。

 仁王門をくぐり、まず本堂にお参りします。

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 一般に宗吾霊堂と呼ばれていますが、義民佐倉惣五郎を祀る霊堂があるからで、本来は、東勝寺という真言宗のお寺らしい。寺伝によれば桓武天皇の勅命により、坂上田村麻呂が創建したのだとか。

 佐倉惣五郎の死罪ののち、佐倉藩藩主の子孫が、宗吾道閑居士の法号を与えて冥福を祈ったことから、宗吾様と呼ばれるようになったのですね。

 境内にはほかにも、宝物館である霊宝殿や惣五郎の生涯を66体の人形と13の場面で再現したという御一代記念館がありました。

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 さきほど、資料では惣五郎が一揆や直訴を行ったという記録はないと書きましたが、霊宝殿には、「惣五郎」という有力農民がいたことを示す「公津村名寄帳」があるそうですよ。

 これらの施設は、二十年以上前に来た時、見学したのでパスしましたが…。

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 佐倉惣五郎が死罪になったのは江戸時代初期ですが、江戸時代晩期から明治時代にかけて義民・佐倉惣五郎が大ブレイクしたのですか。

 それは、歌舞伎の影響があったようですね。1851年に上演された新しい演目「東山桜荘子」の主人公は、佐倉惣五郎をモデルにした浅倉当吾。

 百姓一揆をテーマにしたこの作品は、予想をはるかに超える大ヒットとなり、またたく間に日本中に広まったらしい。

 そういえば忠臣蔵が現代にも広く人気を集めているのは、歌舞伎の貢献度が高かったと聞いたことがあります。

 当時は、江戸幕府から同じ時代の武家社会の事件を上演することは禁じられていたため、幕府をはばかり、別の時代の人物を登場させていたとか。

 ガチガチの封建社会で、庶民の不平不満の捌け口にもなっていたのでしょうか。

 明治以降も、惣五郎を主人公にした歌舞伎の人気は衰えず、頻繁に上演されて、佐倉義民伝として不動の地位を確立したのですな。

 境内には、福沢諭吉の発意による宗吾顕彰碑など多数の石碑もありました。

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 福沢諭吉など明治の自由民権活動家は、彼らの主張の先駆者として惣五郎をとりあげたらしい。

 キリストの受難もそうですが、やはり民衆のために自らの命をささげるというシチュエーションは、長く人々の心に残ります。

 惣五郎の同時代の人たちで、幸せに余生をおくった名主さんたちも大勢いたはず。

 そういう人たちも今では惣五郎と同じ天国に行ってしまったわけですが、今となってみると、果たしてどちらが幸せだったのだろうか、と…。

 亡くなってから350年たった今でも、お墓に手を合わせに参拝に来る人は引きもきらず、今でも歌舞伎でその徳を湛えられているのですからね。

 なんだかうらやましいニャーと思いつつ、とは言え磔になるのも嫌だし…。

 でも、人類の歴史から考えたら、少しくらい長く生きるか、早く死ぬか、なんて無きに等しいものだし…

 …と、究極の選択に迷いつつ、次の目的地を目指します。

 広い田んぼがあったり、深い木々に囲まれた森があったりと、近くに新東京国際空港があるとは思えない景観ですね。

 そして麻賀多神社に到着。

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 鬱蒼とした森に抱かれた境内に足を踏み入れると、霊気を肌で感じました。

 この神社は由緒がありそうだと思ったら、なんと今から1700年前、応神天皇の時代に創始したと言われているそうな。その後、推古天皇の時代に、現在の稷山に新たに宮殿を建て麻賀多大宮殿と称されたらしい。

 どの神社の由緒にも、古いというキーワードの言い伝えは残されているものですが、こちらの神社にはその生き証人ともいうべき、樹齢1000年とも、1400年ともいわれる大杉が聳え立っているのでした。

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解説板によると、当時植えられた大杉は、現在、その太さ約八メートル、高さ四十メートル余り。最近では特に、不老長寿祈願の御神木として崇拝されているらしい。昔から多くの祈願が行なわれ、大願成就前には梢より霊光が輝き、神のお告げがあるそうなんですよ。

 やはり、不老長寿と聞いては、黙って見過ごして帰るわけにはまいりませぬ。

 しっかり、大杉さまに祈願したのでした。ただ、残念ながら、梢より霊光が輝くことはなかったのですが。

 麻賀多神社の近くにある室町時代に開山されたという超林寺にお参りし、いよいよ宗吾旧宅へと向かいます。

 なんと、佐倉惣五郎の生家が残っているそうなんですよ。しかも、現在も子孫の方たちが住んでいらっしゃるそうです。

 細い道をおりてゆくと、左手に「宗吾旧宅」の看板が…。道の傍らには満々と水を湛えた井戸。

 この井戸は、惣五郎が直訴の前に、親子で別れの水盃を行ったときに使用した水を汲んだそうな。

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 そして、近くには屋敷森に抱かれるように古い旧家が建っておりました。

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 おお、これが義民佐倉惣五郎さまの住んでいらっしゃったお宅なのですね~。

 同じ敷地に、子孫の方たちの家が建っていたので、中に入るのは遠慮したのですが、名主さまのお宅としては多少慎ましやかな気がしました。

 古民家を見て歩くのも趣味の一つですが、お城の御殿のような名主様の豪邸を見たこともありますので。

 やはり、日頃から慎ましやかに暮らしていて、当時の農民たちの苦しみを自分のことのように感じていたのでしょうか。

 惣五郎の旧宅の前には、広い田んぼが広がっていました。

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 そこから、次の目的地、薬師寺までは見渡す限りの田んぼの中の道を歩いて行きます。

 直射日光がすごいのに、日陰がまったくないっす。

 紫外線は活性酸素を発生させ、老化を促進するんだったよな、と去年出版した本の中のフレーズが頭をよぎります。

 実際、家に帰って鏡を見たら、顔が日に焼けて真っ赤になっていたのですね~。

 道に迷いつつもようやく薬師寺に到着。小さなお寺でしたけど、朱塗りの仁王門の中には鎌倉時代の仁王像と金剛力士像がありました。

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 思ったより小さくて、怖いというよりかわいい印象でしけど。

 薬師寺から、六地蔵の前を通り、小高い丘のうえの勝福寺からの展望を楽しみ、根山神社にお参りして、最後に向かったのは甚兵衛渡公園。

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 今では何の変哲もない公園ですが、ここはかつて水神の森といって、渡し船の船着き場があったそうなんですよ。

 この渡し場から、佐倉惣五郎は、江戸へ直訴するために舟に乗ったのですか。禁を破って印旛沼の対岸まで送りとどけた渡し守の甚兵衛は、その後、印旛沼に身を投じたといわれています。

 悲劇の名シーンですが、伝説だとも言われているらしい。

 NHKの「おしん」や最近の「坂の上の雲」にも、小船と別れのシーンがありましたね。やはり水と船には、人の琴線に触れる何かがあるようで。

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法華経寺、中山競馬場、行田公園 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今週は、お散歩ネタです。

 さて、今回歩いたのは、千葉県市川市から船橋市にかけて。

 立派なお寺や全国屈指の競馬場、そして緑あふれる公園を一度に満喫できるコースでした。

 ホントは、桜の名所がコース沿いに一杯あるので、春に行くのがお勧めなのですが…。

 実は、正月に初詣に行ったところなのです。今年こそは、ブログの記事と季節感をマッチされることが課題かもしれませぬ。

 それはともかく、去年の正月はハイキングへ行き、山登りの5区でオヤジと激しいデッドヒートを演じたのでしたね。

 今年もやろうかと思ったのですが、去年は正月早々足を挫いてしまうというアクシデントに見舞われたので、今回はまずお参りに行ってからにしようか、と…。

 正月なのにおせち料理には見向きもせず、てんやで500円の天丼を食べたあと向かったのは、京成中山駅。

 駅を出ると、そこは法華経寺の門前町の中心でした。道は、初詣の参拝客でごったがえしています。

 法華経寺(ほけきょうじ)は、千葉県市川市にある日蓮宗の五大本山の一つのお寺。創立は、鎌倉時代の文応元年なのですね。

 開祖の日蓮上人は鎌倉時代、布教活動を行っているとき、さまざまな迫害を受けたそうな。

 ところが、この土地の領主だった富木常忍と太田乗明は日蓮上人を温かく向かいいれ、お寺を寄進したそうなんですよ。

 のちに、富木常忍は出家して、日蓮宗のお坊様になったそうですから、その意志は半端じゃない。

 日蓮聖人が最初に教えを説いたお寺ということで、日蓮宗の草創期に、もっとも重要な役割を果たした場所のひとつだということ。

 今でも、由緒あるお寺の門前町として賑やかなのも頷けました。

 駅を出て、下総中山商店街とコラボになった参道を歩きます。

 道の両側には、茶店、和菓子屋、寿司屋、そば屋が並び、正月ならではの露店も数多く見かけました。

 てんやでお昼ごはんを済ましてしまってもったいないと思いましたが、結構どこもいいお値段なのですな。

 それでも寒かったので、一杯250円の甘酒を買い、チビチビ飲みながら前に進みます。

 やがて見えてきたのは、風格のある山門。

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 山門をくぐり、さあお参りしようとすると、本堂へ続く長蛇の列が目に入りました。初詣に来て、お参りするのに並んだ経験がないので戸惑いますね。

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 明治神宮や浅草寺など参拝客数全国ベストテンの神社仏閣には、正月三が日にはお参りしたことがないですし…。

 お参りの順番がまわってくるのに30分近くもかかってしまいました。

 本堂にあたる祖師堂は、日蓮聖人をお祀りするお堂。現在のお堂は江戸時代中期に上棟されたものらしい。

 前から見ると普通のお堂なのですが、横から見ると屋根を二つ並べた特徴的な概観ですな。

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 こんなお堂は珍しいと思って調べてみると、なんと似たような形のお堂は、日本でも岡山県にある国宝の吉備津神社本殿の本殿だけだそうですね。

 20年以上前に一度行ったことのある神社ですが、その形までは記憶にございませぬ。レンタサイクルやランニングで神社仏閣や古墳をめぐるというトライアスロンみたいな旅だったことを思い出しました。

 しっかりお参りをして、後ろを振り向くと朱色が目にまぶしい五重塔。

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  やはり五重塔があると、境内の雰囲気が引き締まりますね。ブランド価値をあげるアイテムとしても重要な役割があるような気がしました。

 それにしても、この形と色はどこかで見たことがあるニャー。

 …と思って考えてみたら、池上本門寺の五重塔にクリソツかも。

 そういえば、あちらも日蓮宗の大本山のひとつなのでした。

 解説板によると、法華経寺の五重塔は元和8年(1622)に、本阿弥光室が加賀藩主前田利光の援助を受けて建てたものらしい。

 高さは、31.6メートル。千葉県では、江戸時代初期の様式をとどめる唯一の五重塔だとか。

 本門寺五重塔は、慶長十二年(1607)に創建され、地震による修復のあと、元禄十五年(1701)に現在地に移築されたのですか。こちらは、関東最古の五重塔らしい。高さは29.5メートル。

 ちなみに、池上本門寺の五重塔はこちらです。

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 これだけ似ているのは、当時の流行ですかね。それとも、あえて兄弟みたいに似させて作ったのか。

 やはり、後から作られたほうが若干高いのですね~。

 東京スカイツリーを作る人たちも、東京タワーの高さは当然意識したでしょうからね。江戸時代の初期のひとたちも、少しでも高いものを建てようという気があったら面白いと思いました。

 境内の奥にある法華堂の創建は、室町時代と推定されるらしい。日蓮宗の本堂として建立された中では最も古いものだそうな。

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 お寺の建築様式は詳しくないですが、前面にこれだけ柱が並んでいるのは珍しいような気がしました。

 さらに奥へ歩くと、仏教の本場、インドへ来たのかと思われるような建築物が…。

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 お寺を歩いていると、わりとこういう建築物は珍しくないような気もしますが、さすがにこの大きさは半端じゃないっす。

 この建物は聖教殿といって、この中に、「観心本尊抄」や「立正安国論」など、日蓮聖人に関する貴重な文書などが納められているとのこと。

 日蓮上人直筆の文書とはすごいと思ったら、やはり国宝ですか。

 見どころ満載の法華経寺の境内を抜け、住宅街へと足を踏み入れます。

 そこにあるのは、「中山文化村」という看板がかかった旧片桐邸。

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 このお屋敷を建てた方はどんな人?と思って、門前の解説板を読むと、『昭和13年、電気業界で成功を収めた片桐勝蔵氏が建てた家屋で、木造2階建て瓦葺の日本家屋』だとありました。

 何でも、ランプを見て「これからは必ず電気の時代が来る」と考え、明治41年に片桐勝蔵商店を創設。以来、関東の電気問屋として東京芝浦電気(現東芝)と取引したり、松下電気の代理店となって東京進出に力を貸したりなど、日本の電気業界草創期に活躍されたのですか。また、ヤマギワ電気創設者も氏の片腕となって活躍されたとのこと。

 やはり、偉くなる人は違うと感じました。

 私事で恐縮ですが、オイラがはじめてランプを見たら、明るくなって夜更かしできるぞ、とか、下から明かりを当てたら怖い顔になるぞとかしか思いつかないだろうし…。

 もっとも、理科系オンチだから、電気を仕事にしたら感電死の危険もあったのでした。

 昭和初期のお宅訪問~♪と思ったら、正月なのでお休みでしたぁぁぁぁぁぁぁ~

 当時としては大変モダンな、純和風の間取りに洋風な趣向を凝らした造りの家屋なのだそう。

 正月は、初詣以外はどこもすいているからいいのですが、施設がほとんどお休みになるのが玉に瑕ですね。

 次に向かったのが、法華経寺の奥の院。

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 住宅街や商店街によって隔てられた若宮と呼ばれる場所にあるのですか。同じお寺なのだから法華経寺の境内にあるべきではないか、と…。

 実は法華経寺は、室町時代に、この若宮の地にあった法華寺とさきほど訪れた場所にあった本妙寺が合併してできたお寺らしい。

 どちらも、前は武士の居館だったそうですね。

 とくにこの若宮の居館の主であった富木常忍は、北条氏や他宗から弾圧を受けた日蓮をかくまい、のちに出家して日常を名乗り、自邸を寺院にしたそうな。

 確かに、この奥の院の周りは、鎌倉武士の居館の面影を残している。それほど広くはないのだけれど、まわりをぐるっと取り囲む土塁が残されています。

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 この土塁に囲まれた一画に、かつて日蓮さんがいたのですか。当時の鎌倉武士の館をイメージしながらまわりを歩きました。

 再び若宮商店街に出て、ひたすら歩くと、巨大な建築物が目の前に広がります。

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 ここが、売上高世界一を誇るという年末のビッグレース「有馬記念(GI)」で有名な中山競馬場。

 行った日は、お休みでしたので中には入れませんでした。その威容に、レースの興奮が伝わってきます。

 ちなみに中山競馬の起源は1907年、現在の千葉県松戸市につくられた松戸競馬倶楽部だとか。

 その後、1919年(大正8年)に、現在の市川市若宮へ移転したらしい。

 競馬場へは一回しか入ったことがないけれど、緑の芝生を背景に疾走する馬の美しさを実感したことはあります。

 そのとき一緒に行った社長は、馬券を握り締めながら、それとは別なことを感じていたみたいでしたが…。

 中山競馬場の近くを走る市道沿いは桜並木が見事でした。きっと春になると、近くの競馬場の大歓声で、桜の花びらが舞い上がるのかも。

 JR武蔵野線の高架の下をくぐって最後に向かったのは、行田公園。

 この近くを地図で見ると、直径1キロ近くある円形の土地になっているのですよ。周回道路に囲まれたこの一帯は、大正の初めに旧海軍の無線基地がおかれていたとか。

 よくわからないけれど、中心に巨大なレーダーでも置かれていたのでしょうか。

 戦後は米軍の管理地となり、昭和41年に返還されましたらしい。

 行田公園は、その跡地の一部に、昭和47年から整備を進め、昭和54年度に全域開園したとのこと。

 公園の中心を貫く道によって東西に分かれており、それぞれ扇形の形をした東西の公園は歩道橋によって結ばれている。

 こんな広々とした芝生の広場が近くにあったら最高ですね。オイラの好きなアスレチックの器具がいたるところにありました。

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 運動をする中高年の人たちも多く、かなりのアスリート揃いなのには驚きましたね。

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醤油の町・野田 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今回行ったのは、千葉県野田市。

 以前、ブログでも紹介した関宿町と2003年に合併して、千葉県最北端の自治体になったらしいですね。

 野田市は、醤油の町としても有名なのはご存知でしょうか。

 なんと、明石家さんまの「 幸せって 何だっけ 何だっけ~ ♪」のコマーシャルで有名なキッコーマン発祥の地なのですね~。

 20数年以上前に訪れたことがあるのですが、なぜか城下町でもないのに城の櫓があったのを記憶しています。

 明石家さんまのキッコーマンのCMが23年ぶりだそうなので、オイラも20数年ぶりに訪れてみようか、と…。

 早速、ネットで最安ルートを検索すると、つくばエクスプレスを利用するのがお得だそうではあ~りませんか。

 …ということで、北千住から流山おおたかの森までつくばエクスプレスを利用しました。

 さすが、エクスプレスというだけあって、びゅんびゅん飛ばすのですね。なんと最高時速130キロだそうな。一般の車両だから、体感的には普通のセダンに乗り、高速道路を130キロで飛ばすような感じ。

 スピード感を満喫し、そのあと乗り換えた東武野田線のゆったり感との対比が面白かったです。

 市内観光なら、野田市駅で降りたほうがいいのですが、ウォーキングコースの都合上、清水公園駅で下車します。

 清水公園は27万平方メートルもあるという広大な公園。なんと民営だというから驚きです。

 しかも、歴史を遡るとキッコーマンとも関係があるらしい。

 …というのは、明治27年にキッコーマンの創業者一族の茂木家が、この地にあるお寺の一部を借りて公園を建設したそうな。そして町の人たちに開放したのですね。

 駅から公園までの道の両側には桜が植えられていて、開花時期は見事だろうと思いました。

 入り口近くにある野田貝塚の記念碑を過ぎ、公園に隣接する旧花野井家住宅を見学します。

 この住宅は、流山市にあったものを移築したのですな。

 左甚五郎が一日で作った?という伝説の薬医門を抜けると、目の前に茅葺の建物が建っておりました。

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 一見して、これはかなり古いぞ、と感じたのですが、なんと17世紀後半に建てられたものらしい。江戸時代初期の古民家ということで、国指定の重要文化財になっているらしい。

 武士の家に見える反面、富農の家にも見えるというあいまいなイメージは、江戸時代の花野井家のシチュエーションによるものでしょうか。

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 元々は武士だったそうですが、江戸時代は、代々幕府直轄の小金牧の牧士を任され、名字帯刀を許された家柄だったとか。

 牧士とは、野馬奉行の配下で、牧の管理、野馬の捕獲を指揮する役目があったそうです。

 武士のお屋敷みたいな排他的な雰囲気はなく、誰でも気軽に入れそうなのは、野馬の捕獲に多くの農民の力を必要としたからかも、と考えました。

 公園にもどり、金乗院から見学します。このお寺は、室町時代の創建だとか。

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 入り口にある仁王門は、約300年前に建立されたらしい。 最近、全面修復されたようで創建当初の姿を眺めることができました。

 そして、清水公園で忘れてならないのが国内最大級を誇ると言われるフィールドアスレチックの存在。

 自慢入っちゃいますけど、オイラは若い頃、フィールドアスレチックで鳴らしたのですよ。

 体が軽くて、腕の力がそこそこあったから、ロープを登ったり、鉄棒にぶらさがってそのまま逆上がりしたりするのも難なくできました。

 ここのアスレチックは、テレビのサスケで見るような水上コースがあるのですか。池も結構深そうで、落ちると洒落にならないかも。

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 しかも、ここには世界初の噴水迷路もあるそうですね。中に入らなかったから、どんなものかわかりませんけど…。

 チャレンジしてみたいと思いましたが、パンツまで濡れると帰りの電車で恥をかくので今回はやめておきました。

 年間を通じて花を楽しめる花ファンタジアや小動物と触れあえるポニー牧場、キャンプ場、立体迷路、ジャイアント・スロープなども興味あるアイテムもたくさんありました。でも、先を急ぐので外から見るだけ~。

 本気で遊ぶなら、一日でも足りないかもしれませぬ。と思いつつ、次の目的地、江戸川土手へと向かいます。

 かなり歩き、迷っちゃったかな~と不安になった頃、ようやく土手が見えてきてほっとします。
 
 そこは、総延長40キロにもおよぶサイクリングロード。見渡す限り、一人も見かけない。

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 このあたりの川は、江戸時代、幕府によって開削されたそうな。その河川改修によって、野田に醤油生産の輸送経路をもたらしたらしい。

 江戸川が、醤油の町・野田発展の要因のひとつになったのですね。

 すがすがしい土手の遊歩道を2キロ以上も歩き、右手に野田橋を見ながらさらに行くと、左手に城の櫓が見えてきました。よく見ると、ちゃんと掘もあるっす。

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 これが20年以上前に見て、今も記憶に残っている風景ですな。

 この櫓のような建物は、キッコーマンの御用蔵。この中で、宮内庁御用達の醤油が醸造されているらしい。

 ちなみにこの景観は、江戸川百景にも選ばれているとのこと。こういう建物を見ると、誰でも中に入りたくなるのでしょうけど、残念ながら見学はできないのでした。

 蔵の脇を通り、報恩寺の境内を抜けると、道を挟んでキッコーマン野田工場の製造第三部の施設が目に飛び込んできます。

 辺りは醤油の匂いが立ち込め、まさに醤油の街が実感できました。こういう建物群を眺めると近未来のSFをイメージしてしまうのですが…。

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 ターミネーターが現れたら似合いそう。

 キッコーマンの野球場の脇を通ってさらに行くと、上花輪歴史館があります。

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 ここは、キッコーマン創業者一族で、上花輪村の名主もあった高梨氏の江戸時代から昭和初期までの建造物、庭園、保管されてきた生活用具・醸造用具などが見られるそうなんですよ。

 古建築大好きオヤジとしては、是非見学したかったのですが、なんと休館中でしたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~!!!

 全面改装とかで、今後もかなりの期間休館になるとのこと。

 屋敷の中に構掘を開削し、船着場を設けているそうで、それも見たかったのですが、仕方ないっす。また、いつか来る日もあるでしょう。

 上花輪歴史館の真向かいにあるれんが蔵は、やはりキッコーマン野田工場のもの。

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 こちらは、昔ながらの杉桶仕込みの伝統的な醤油醸造が見学できるそうなのですが、残念ながらこちらも休館。

 でも、庭園の緑と赤レンガの建物のコラボは、いつまでも記憶に残りそうでした。

 そこから野田市駅に向けてひたすら町の中を歩きます。そして、駅のすぐそばにもキッコーマンの工場が…。

 駅前の景色は、町の中に工場があるというより、工場のなかに町があるような感じです。

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 工場の門には、「もの知りしょうゆ館入り口」の看板がかけられている。400年の醤油の歴史と現在の製造工程などを映像やパネルを使って解説してくれるらしい。

 見学は無料ですが、予約制だと聞きましたし、時間がなかったので今回はパスしました。あとで、ネットで検索すると、アポなしでも見学させてくれるらしいのですが。

 次に向かったのは、キッコーマンの研究本部の近くにある野田市郷土博物館。

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 郷土博物館ですが、やはり醤油に関する資料がほとんどですな。

 大正6年に茂木・高梨など野田と流山の醸造家8家が合同して、野田醤油株式会社、現在のキッコーマン株式会社が誕生したのですか。何でも、キッコーマンの商標は、経営者の一人が信仰する千葉県の香取神社の山号「亀甲山」と「亀は万年」をかけ、「亀甲萬」となったそうな。

 博物館が建つこの場所は、キッコーマン創業者一族である茂木佐平治の邸宅の跡だったとか。

 このお屋敷は、大正13年に築かれたその邸宅で、現在、市民会館として利用されているのですな。

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 こちらも見学できるそうなので、中に入ると、広々とした屋敷の和室の襖が閉じられ、中から詩吟やカラオケの音が聞こえてきます。

 お年寄りのサークル活動に活躍しているのですか。庭園も保存公開されておりました。

 これにて本日のウォーキングコースは終了なのですが、野田市は近代化産業遺産の町としても知られているらしいのですよ。

 つまり、市内には明治から大正・昭和初期にかけての古い建物がたくさん残っているのですか。

 …ということで、街中をそぞろ歩きです。

 まずこの古い建物は、興風会館。

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 昭和4年の建設当時は、千葉県庁に次ぐ大建築であったといわれ、平成9年に国の登録有形文化財に登録されたのですか。こちらも醤油醸造家の寄付によって誕生したらしい。

 こちらは、大正15年に建てられた茂木七左衛門邸およびレンガ塀。

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 なんとキッコーマン創業の茂木家の本家にあたるのですか。豪壮な平屋建ての近代和風建築だそうです。

 そして、この屋根に青いビニールシートがかけられた建物。町を歩いていて、このような建物があっても、壊れそうな建物だな、くらいしか思わないかも。

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 しかし、この建物はなんと、今や世界にはばたくキッコーマンの本社の建物だったそうなんですよ。

 大正6年から本社として使用され、昭和3年からは「春風館道場」として、社員の福利厚生施設や地域の柔剣道愛好家の交流の拠点として使われてきたのですか。

 キッコーマンのルーツの建物ということで、現在改装中でしたが、こんな小さな木造の建物から現在の大企業に発展したのですね。

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関東七名城・唐沢山城 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 なんと、今年もすでに花粉症の症状が…。

 流行に後れることにかけては人後に落ちない自信があるのですが、花粉症だけは毎年、流行の最先端をいっているような。

 今年は果たして生還できるのかと恐怖心に慄く今日この頃です。

 さて、今回行ったのは栃木県の唐沢山。

 以前、同じ栃木県の佐野市へ行ったとき、市内の佐野城址を訪ねたのですよ。そのとき城主の佐野氏が、その前は近くの唐沢山に巨大な山城を構えていたのを知りました。

 佐野城は比較的小さな城ですが、唐沢山城は関東七名城のひとつに数えられるのだとか。戦国時代には上杉謙信の十度にわたる攻城をことごとく退けたそうですね。

 ちなみに、関東七名城とは、太田城、宇都宮城、唐沢山城、金山城、前橋城、忍城、川越城のこと。

 唐沢山城へ行けば、あと行ってない城は常陸の国、今の茨城県の太田城だけなのですね~。

 唐沢山城は関東地方の古城には珍しく、高い石垣が築かれているそうな。城好きとしては、是非一度攻め入るしかない、と…。

 …ということで、オイラは唐沢山からほど近い、東武佐野線田沼駅にやってきました。

 田沼といえば、田んぼと沼が多い土地だったのかなとイメージしますが、歴史好きが思い浮かぶのは、江戸時代の老中、田沼意次。

 この土地は田沼意次の領地ではなかったそうですが、田沼家発祥の地だそうですね。

 オイラが学んだ歴史の教科書や授業では、賄賂政治が横行し、どちらかといえば田沼意次は悪人だというイメージでした。

 賄賂はもらったかもしれませんが、商業資本を重視した経済政策を行って、結構活況を呈した時代でもあったらしい。

 自由な気風のなか、貿易や蘭学を奨励して、有名な「解体新書」や北海道の探検なども積極的に行われたのですな。

 ところが田沼が失脚すると、老中に就いた松平定信が寛政の改革を行う。

 この改革は、庶民の着物の柄まで制限するほどの質素倹約な方針だったそうですね。

 今だったら、庶民は地味な色の服しか着ちゃダメ!みたいな。

 制限されれば、本来は地味好みな人でも派手な服を着たくなるのが人情。

 江戸時代の着物を見ると、表は地味なのに裏地は恥ずかしくなるくらい派手な柄があったりしますけど、やっぱしこの反動なのでしょうか。

 当時の庶民気持を表した有名な狂歌がありましたね。

白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき

 田沼意次は、むしろ現代人の感覚に近い開明的な人物であったのかも。

 
 それはともかく、日本史に大きな足跡を残した人物ゆかりの土地なのに、駅前に「田沼意次」の「た」の字もありませぬ。

 本来なら、「意次まんじゅう」とか「意次Tシャツ」とか、売っていても良さそうなのに…。

 やはり、田沼意次=賄賂というネガティブなイメージがあるからなのでしょうか。

 それを逆手に取って、「取引先や上司への付け届けに最適・意次まんじゅう」なんて商品を作ったら話題にのぼるかも。

 二重底になっていて、小判を収納できるスペースがあったりして…。

 冗談はさておき、田沼意次への非難は、江戸時代の保守派が作り上げたもので、実際は、幕府の改革へ信念をもって取り組んだ政治家なのだと思います。

 小泉元首相の改革が、後世にどのように伝わってゆくか興味がありますね。


 そんなことを考えつつ、駅前から踏切を渡り、唐沢山へ向かって歩きます。

 車が行き交う車道を横目に歩き、国道を越え十五分ほど歩くと、大きな川が見えてきました。

 河原の右手にひろがる小高い山が唐沢山。つまり唐沢山城址なのですな。

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 木が山を覆い尽くしているから、言われなければ城跡とは気づかないでしょう。

 むしろ山の形状としては左に聳え立つ山のほうが山城みたいだったりして…。

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 さあ~、いよいよ唐沢山城を攻略するぞ!と意気込んだのですが、左手に新しい公園ができているようなのでとりあえず行ってみることにしました。

 そこは広い芝生広場になっていて、微妙に盛り上がった場所があります。

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 おお、これは土塁じゃないですか。

 どうしても山城は、山の頂上に注目してしまいがちですが、当然山麓にも遺構はあるはず。

 土塁があるということは、城主の平時の御殿があった場所でしょうか。

 山城といえば八王子城も有名ですが、山麓に広い御殿の跡が今でも残っていますね。

 芝生広場の奥に立つと、はるかに田沼の町並みを見下ろすことができました。

 寄り道してよかったと喜び、唐沢山神社の石の鳥居を左に見ながら、車道を登ります。

 カーブ2という標識のところで舗装道路から離れ、岩と落ち葉の山道に入ります。

 ここから先は、つづら折りの急な山道。

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 つづら折りになっているということは急斜面なわけで、上杉軍をはじめとする攻城方は登るだけでも苦労したでしょうね。

 しかも、当時は、上から敵が矢を射かけてきますから。

 なんとか襲撃を受けずに登り切ると、広い駐車場があり、その先にレストハウスがありました。

 のどが渇いたから、自販機で缶コーヒーを買ったのですよ。取り出した瞬間、缶の横からコーヒーがシューッと勢いよく吹き出したのです。

 すわっ、敵の奇襲か、とまわりをキョロキョロ眺めて臨戦態勢に。

 オイラのただならぬ様子に、親切そうなレストハウスの人が出てきて、缶コーヒーのお金を返してくれました。

 そのお金で、別の缶コーヒーを買ったのですが、何で缶に穴が開いていたのでしょうね。標高が高いから気圧の関係で、ということはないはずですが…。

 レストハウスの前は、唐沢山城の虎口(入口)になっていて、小ぶりではありますが桝形の配置が確認できます。

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 近くに物見台跡と標示があったので、高いところが好きなオイラとしては条件反射で足が向かいました。

 天狗岩とも言われる場所だけあって、足もとは岩場。

 そこに立つと、まさに物見の絶景が広がっておりました。晴れた日には、ここから東京の高層ビル群が眺められるそうですね。

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 城があった当時には、江戸の火事がここからでも確認できたそうな。

 行った日は、晴れてはいたのですが靄がかかっていて、はるか彼方を見通すことはできませんでした。

 下に降り、城跡案内図を確認して、攻城の計画を練ります。
 
 唐沢山城は、標高247メートルの山頂を本丸とし、一帯に曲輪が配された連郭式の山城。

 当時の縄張りがかなり残っているのは、山頂に神社があるからでしょうか。

 ただ、神社が作られたのは明治時代だそうですね。祭神は、平将門を討った武将として有名な藤原秀郷。

 …というのも、この城の城主であった佐野氏の祖先は藤原秀郷で、彼が平安時代にこの山に城を築いたのが始まりなのだとか。

 その後、秀郷は、従四位下の官位に進み、下野守、武蔵守、鎮守府将軍となったそうですから、この地は関東の中心としても栄えたのでしょうね。

 鳥居をくぐり、いよいよ城の中心部へと足を進めます。

 オイラがまず注目したのは、左手にあるでかい池、と思ったらこれは井戸ですな。

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 直径8メートルもある井戸で、満々と水をたたえており、当時から水が枯れたことはないのだそうな。

 山城の弱点は水が不足することですが、これだけの水の量ならかなりの兵がこの城に籠城しても賄うことができるでしょうね。

 ただ、本丸や二の丸、三の丸の外にあるので、敵に井戸が渡ったらと言う不安はありますが…。

 さらに行くと、空堀があって石橋がかかっています。

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 この堀は四つ目掘と言い、主郭である三の丸以上の曲輪と外曲輪を隔てるものですな。

 防御上もっとも重要な堀なので、当時はもっと深くて広かったはず。

 三の丸は、左手の土塁上に広がっています。

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 解説板には、来客をもてなす場所と書いてありましたが、やはりここにも御殿のような建築物があり、さまざまな用途に用いられたのでしょう。

 三の丸もかなり急な土塁上にありましたが、三の丸のうえの二の丸も急峻な土塁の上にあるのですよ。

 戦国のスーパースター上杉謙信の猛攻に持ちこたえた理由も納得できました。

 ここから二の丸へは上がらず、いったん参道へもどり、本丸へと向かいます。

 一般の人は神社へ参拝するのですが、城ヲタクにとっては当時の城の姿しか頭にありませぬ。

 参道は、桜の馬場といって、当時は馬を調練する場所だったとか。

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 どの山城にも、馬場と呼ばれる場所が残っていますから、戦と馬、城と馬は現代人が考えるよりもっと密接な関係にあったのかもしれませぬ。

 参道の左手は急峻な土塁や石垣が聳え、右手は垂直に切り立った崖。上から矢を射掛けられたら逃れる場所がにゃ~い。

 オイラの体に矢がブスブスと突き刺さる情景がフラッシュバックし、思わず額から冷や汗が流れます。

 神社へお参りするお年寄りたちは、そんなオイラを眺め、まだ若いのにこんな山道で息が上がっているのかと気の毒そうな顔をして追い抜いて行きました。

 そしていよいよ本丸に建つ、唐沢山神社に到着。

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 高石垣に囲まれた本丸は、関東七名城の名に恥じない威厳が感じられました。

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 ただ、明治時代に神社が作られたとき作られた石垣もあるそうなのですが…。

 城跡マップを見ながら、当時の縄張りをイメージするのが城跡散歩の醍醐味のひとつ。

 ただ、神社へお参りすることを忘れてしまい、あとで引き返してお参りすることに。

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