三浦半島・金沢文庫、称名寺、野島 ウォーキングストーリー

   こんばんは。

 最近は三浦半島を中心に歩いていますが、今回行ったのは金沢文庫。

 確か、日本史の教科書にも登場する有名な場所で、当然、オイラも若い頃から何度も行ったことがあります。

 でも、よく考えてみれば、「文庫」ですよ。

 広辞苑で調べてみると、一般に、図書館が公衆の閲読を目的とするのに対し、文庫は書籍の蒐集を目的とするもの…なのだとか。

 なんか、オイラ的には「学級文庫」をイメージしてしまいます。

 口の両端に指を突っ込み、横に口を開いた状態で、「がっきゅうぶんこ」って言ってごらん。…というフレーズを、小学校時代何度口にしたことか。

 当然、「がっきゅうぷんこ」とは言えず、「がっきゅううん○」になってしまうのでした。

 それはともかく、個人的な蔵書、コレクション、手文庫など、わりとプライベートな意味の言葉が、街の名前や駅名になってしまうなんてすごいですよね。

 今回はそのあたりの謎の解明も含め、久しぶりに訪れてみることにしたのです。

 ウォーキングのスタートは、京急線の「金沢文庫」駅から。

 個人的な蔵書が、特急停車駅の駅名になってしまうなんて、何度考えてもすごいっす。

 オイラは、貧乏なわりに本は多少持っていると思いますが、間違ってもブックオフや図書カードを使って買った本からなる蔵書によって、「ビジベン文庫」という駅はできないでしょうね。

 行った日は真夏の猛暑でしたが、汗を拭きつつ、駅前から長く続く坂道を登っていきます。

 やがて左手に赤い門が見えてきました。これが称名寺の惣門なのですね。

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 称名寺は、鎌倉幕府の執権として有名な北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時が開基した寺院。

 解説板によると、1258年に、実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂がその起源とされているそうですね。

 金沢北条氏の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備されたとのこと。

 しかし、鎌倉幕府の滅亡とともに金沢の北条氏も滅んで、その後衰退してしまったのですか。

 解説板を読みつつ、3代金沢貞顕という名前を目にして、なぜか児玉清の顔がフラッシュバックしたのですよ。

 そういえば、いつかドラマで見たような。

 …と考え、それはNHKの大河ドラマの「太平記」だったことを思い出しました。

 確か、真田広之が足利尊氏、武田鉄矢が楠木正成、片岡鶴太郎が北条高時という配役だった記憶があります。

 オイラの好きな楠木正成が武田鉄矢というのは若干異論があったのですが、主役が足利尊氏ですからね。

 金沢貞顕の児玉清がなぜ、これほど覚えているかというと、北条高時役の片岡鶴太郎の怪演との対比といいますか。

 北条高時があまりの変人として描かれているため、そのあとを継いで執権になった金沢貞顕がすごく良識のある素晴らしい人物に見えてくるのです。

 金沢貞顕は、金沢文庫の蔵書の充実に力を尽くしたらしい。読書家として有名な児玉清が演じたのはまさにぴったりの配役なのだと思いました。

 それにしても、昔の大河ドラマは、日本史の勉強にもなりましたけど、最近の大河は突っ込みを入れたくなるシーンが多すぎて…。

 「天地人」をまともに見て、歴史のテストを受けたらかなりやばいことになりそう。

 真田幸村を「幸村!」なんて言ってるし…。

 当時は、真田幸村という名前では呼ばれなかったはず。

 同じNHKのドラマ「真田太平記」で、丹波哲郎演じる父の真田昌幸が息子の幸村を「左衛門佐(さえもんのすけ)」と読んでいました。

 上杉120万石の御殿のセットは、どうみても、2~3万石の小大名クラスの御殿にしか見えないのですが…。

 もっとも、昔とは予算のかけ方も違うのでしょうけど。


 それはともかく、金沢文庫の話。

 称名寺の仁王門は、さすがに鎌倉時代のものではなく、江戸時代後期に再建されたものだとか。でも、金剛力士像はかなり古いものだぞ、と思ったら1323年に製作されたらしい。

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 鎌倉幕府の滅亡が1333年ですから、その10年前に作られたのですね。

 この金剛力士は、鎌倉幕府の滅亡を見ていたのか~と感慨深く見上げました。

 仁王門の横を通ると、見事な庭園が…。

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 この庭園の形は、どこかで見たことがあると思ったら、浄土式庭園なのですね。

 まだ行ったことはないけれど、金沢貞顕が平泉の毛越寺をモデルに作ったらしい。

 毛越寺の庭園は、何度もテレビで紹介されましたからね。

 特徴は、境内の真ん中に橋が架かる大きな池がある点でしょうか。

 浄土式庭園というだけあって、荒々しい部分がなく、いたって穏やかな眺め。いつまでもベンチに腰掛け、浄土の世界をゆっくり堪能しました。

 でも、蚊に刺されてすぐ現世に戻されてしまったのですが。

 でも、昭和の中ごろまではこんな美しい庭園ではなかったそうです。昭和47年からの大がかりな調査を経て、昭和56年に整備されたそうな。

 鎌倉時代末期に描かれた「称名寺絵図並結界記」など、当時の景観を伝える文書があったから再現できたのですね。

 鮮やかな赤の太鼓橋を渡り、金堂と釈迦堂にお参りします。

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  金堂は江戸時代はじめ頃、釈迦堂は江戸時代後期に建立されたらしい。

 広々とした池に赤い太鼓橋、古色蒼然とした建築物も素晴らしいですが、称名寺の景観を卓抜したものにしているのは、背景に広がる緑豊かな山々でしょうね。

 実はこの山は、ハイキングコースになっていて登れるのですね~。

 今から10年以上前に来たときも登ったことがあり、今回もチャレンジすることにしました。

 仁王門を出て、民家の近くの小道へ入り、称名寺市民の森の看板を見ながら山道を登っていきます。

 称名寺の裏手にまわると、北条実時の墓がありました。実時は、金沢北条氏の祖といわれる人物。

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 そのわりに素朴なのは、質素倹約を旨とする鎌倉武士の深い精神性によるものでしょうか。

 尾根道を歩き、一番高所にあるという八角堂広場へやってきました。

 ここからは、緑豊かな称名寺の境内や八景島、これから向かう海の公園や野島などがよく見えました。

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 急な階段を下り、再び称名寺の境内にもどっていよいよ金沢文庫を目指します。

 金沢文庫は、ひと言で言えば北条実時が自分の邸宅内に造った武家の文庫。政治や文学、歴史など多岐に渡り、実時の後も顕時・貞顕・貞将の三代にわたって収集は受け継がれて蔵書の充実がはかられたらしい。

 ところが、その場所が詳しく特定できないみたいなのです。

 さきほど述べた称名寺の絵図に、「當寺檀那」と記された金沢顕時と、その子貞顕の墓所左手にトンネルの入り口らしき絵が描かれているとか。

 そのトンネルとは、これではないかと…。

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 トンネルは崩落の危険があるとかで封鎖されていました。

 金沢北条家の侍がこのトンネルを通って、文庫へ通っていたかと思うとロマンが膨らみますね。

 トンネルの向こう側には、文庫があったことを思わせる地名も残っていたそうです。

 現在、その左に作られた新しいトンネルを抜けると、「神奈川県立金沢文庫」の近代的なビルが建っていました。


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 オイラはこのビルよりも昭和初期に作られた重厚な建築物が印象に残っているのです。現在のビルは平成2年に作られたそうなので、そんなに新しいものではないのですが。

 中に入ると、称名寺の創建当時の仏像や建物内部の絵を再現した展示がありました。

 仏像というと、黒っぽかったり、金箔がまだらに残っていたりと歴史を感じさせる色合いがイメージされますが、作られた当時はピカピカ光輝いていたのですものね。

 もちろん、文庫というくらいですから古文書もたくさん展示してありました。

 歴史は好きだけど、古文書の文字はまったくわかりませぬ。

 大学の歴史学科にでも入学していたら絶対挫折したでしょうね。

 ところで、金沢文庫の古文書はかなり持ち出されたのだとか。

 足利学校へ寄贈されたのはいいとして、武田、上杉、徳川家まで貴重な文書を外へ運び出したと解説文にありました。

 とくに、家康は江戸城の富士見文庫に多くの資料を移したらしい。運び出された古文書で散逸してしまったのはかなりあるのでしょうね。

 当時、ブックオフはなかったでしょうから、重要な書籍を多く持つことは文化人としてのステイタスでもあったのではないか、と。

 金沢文庫からテクテク歩き、次に向かったのは「海の公園」。

 ここは横浜市内で唯一、海水浴場のある公園だそうですね。

 行った日は、1キロにも及ぶ白い浜辺でビーチバレーをしたり、日向ぼっこをしたりしている人を多く見かけました。

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 ちなみに、この砂浜は人工のもので、砂は千葉から運んだそうですね。 

 そして最後に向かったのは、野島。

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 野島はかつて独立した孤島であったらしい。海抜57メートルの頂上には立派な展望台が。

 そこからは八景島シーパラダイスが手に取るように眺めることができました。

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古都鎌倉・長谷寺 ウォーキングストーリー

 こんにちは、ご無沙汰です。

 かなり間があいてしまいましたが、今日は前回の鎌倉お散歩ネタの続きです。

 インターナショナルな観光地、高徳院を出て、ふたたび喧騒の街へ。

 大仏様へ通じる大仏通りは観光客でごった返していたのですが、そこから一本通りを入ると、閑静な鎌倉の雰囲気が味わえました。

 混沌と静寂のコントラストが鎌倉の魅力かもしれませぬ。

 住宅街をテクテク歩き、次に向かったのはそこからほど近い場所にある光則寺。

 このお寺は、緑あふれる丘に囲まれたような場所にあるのですな。

 入り口には誰もいなかったのですが、拝観料100円という札があったので料金箱に入れて門をくぐります。

 実はこの土地。もともとは鎌倉幕府5代執権であり、元寇で名高い北条時宗の父として名高い時頼の家臣だった人の屋敷だったらしい。

 その人物とは、宿谷光則。

 だから光則寺なのですか。

 と言っても、オイラははじめて聞いた名前なのですが、彼は日蓮上人が書いた『立正安国論』を北条時頼に渡した人物だったそうなんですよ。

 これが原因で日蓮は流罪になったとか。

 彼は、日朗を屋敷の裏山の土牢に幽閉したそうな。

 今でもその土牢が残っているというので、行ってみることにしました。

 寺の本堂から少し登り、裏山へ続く石畳の小道を歩きます。ひっそりとしてなかなか風情のある道ですが、向かっているは土牢ですからね。

 土牢といえば、有岡城に長く幽閉され、足が不自由になってしまった黒田如水。そして日朗と同じく鎌倉に幽閉され殺されてしまった南北朝時代の護良親王が思い浮かびます。

 鎌倉には、ほかでも土牢を見たような。

 山に囲まれているので、崖を掘ればすぐ牢が作れるからでしょうか。

 土牢なんかに幽閉されたら、夏は暑いし、冬は寒いし、閉所恐怖症になりそうだし、たまりませんね。

 …と考えつつ、土牢の前に到着しました。

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 でも、ここの土牢は思ったより天井が高くて、都心のワンルームマンションより広そう。他の土牢に比べたらグレードが高いような感じがしました。

 といっても、もちろん、ここに住む気にはなりませんが…。

 薄暗くて、ジメジメしていますし。

 この中に、お坊様が幽閉されていたのだと思うと、感慨がこみあげてきます。

 でも、ここに日朗を幽閉した宿谷光則は、やがて彼に感化され、自らの不運を嘆くことなく、弟子の日朗を案ずる日蓮に心打たれたそうです。

 そして後に、日蓮が赦免されたあと、彼自身が日蓮宗に帰依し、自宅を寺にしたのですね。

 境内は、カイドウの銘木や四季の花々で埋め尽くされ、当時の人たちの真摯な心を称えるように光り輝いておりました。


 そしていよいよウォーキング後半戦のハイライト、長谷寺へと向かいます。

 お寺なのですが、迫力ある仏像、絶景ポイント、洞窟探検、グルメスポット、しっとりした日本庭園、そしてかわいらしい石像と見所満載なのですね~。

 楽しむのはいいけれど、お参りは忘れないようにしようと肝に銘じつつ、拝観料300円を支払い、境内に入ります。

 石段を上り、まず観音堂へと向かいました。やはりこちらのお寺も外人さんが多いですね~。

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 こちらのご本尊は、十一面観世音菩薩像でございまする。

 もちろん前にもお参りに来たことがあるのですが、20年前と比べてさらに崇高な雰囲気が増しているように感じました。

 薄暗い中、ライトに照らされて浮かび上がっているかのよう。

 しかも、9.18メートルの巨像で、木造の仏像としては日本有数のものらしい。

 思わず、引き込まれてしまうのか、いつも陽気な外人さんたちも厳粛な顔で手を合わせておりました。

 いつ頃作られたか定かではないそうですが、室町時代頃の作と推定されているそうですな。

 お参りして心が洗われたオイラが次に向かったのは、境内の端にある見晴台。

 ここにはたくさんベンチが並べられていて、鎌倉の市街地や由比ガ浜を見下ろすことができます。

 起伏のある境内なのは、もともと観音山の裾野に広がる土地に作られたからなのですね。

 さらに高いところから由比ガ浜を見渡すことができる「眺望散策路」があるということで、足に自信のあるオイラは行ってみることにしました。

 整備された石段を上ると、山に囲まれ、一方だけ海に面している鎌倉の地形がよくわかります。城塞都市としての機能も頷けますな。

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 遠くに見える海水浴場から、若者たちの嬌声が風に乗って聞こえてくるのがわかりました。

 オイラの耳には、稲村ガ崎から鎌倉を攻める新田義貞の軍勢の馬の嘶きの声に聞こえるのですが…。

 再び境内へ降りて、経堂、大黒堂、阿弥陀堂などの建物を見学します。

 長谷寺の境内は、今眺めてきた観音山の中腹に切り開かれた上境内と裾野に広がる下境内の二つに分かれているそうですね。

 石段を降り、下境内の日本庭園を見学します。妙智池と放生池の2つの池が配され、その周囲を散策できるのですな。

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 四季折々の花木に彩られた庭園は、「鎌倉の極楽西方浄土」とも呼ばれているそうな。

 の片隅に、なんともかわいらしいお地蔵様が立っておりました。

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 若い女性に人気があるのか、皆集まってケータイのカメラでさかんに写真を撮っています。

 女性に人気があってうらやましいとジェラシーにかられながら、オイラも写真を撮らせてもらいました。

 そしてオイラが注目したスポットは、弁天窟。

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 崖を掘って洞窟みたいにし、中の壁面に、弁財天や十六童子が刻出されているのですね。

 中は思ったより広いけれど、薄暗い。お化け屋敷みたいと入り口で尻込みする子供たちも見かけました。

 わりと真っ暗な洞窟は好きなので、わくわくしながら入ります。

 ろうそくの光にぽうっと仏像が浮き出る光景は神秘的で、テレビで見た中国の寺院をイメージしてしまいました。

 天井が低い場所も何箇所かあり、頭をぶつけてしまいましたが…。

 長谷寺を堪能したあと、向かったのは御霊神社。

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 ネーミングからも、雰囲気からも由緒ありそうな神社ですね。

 それもそのはずで、この社は、鎌倉始祖の鎌倉権五郎景政を祀った神社だそうな。

 解説板によると、鎌倉権五郎景政公は、剛勇で知られた武将で、後三年の役には16歳で出陣し、源義家に従って活躍したらしい。

 なんか、霊気を感じる佇まいで、この場所にいたら、タイムスリップしても不思議ではなさそう。

 御霊神社の境内のすぐ近くに、江ノ電の踏切がありましたが、平安時代と昭和を思わせる江ノ電がなんの違和感もなく溶け込んでいるのが印象的でした。

 踏み切りを越え、突き当りの通りを右折して成就院へと歩きます。

 小高い丘の上にある成就院は、弘法大師修行の地に執権北条泰時が開基したお寺。

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 この下を通る道は、極楽寺坂切通しと言い、1333年、鎌倉攻めの新田義貞の侵入をふせぐため、幕府方の軍勢が集結して激しい戦いが行われたらしい。

 そのとき、このお寺も焼失し、江戸時代になってから再建されたのだそうな。

 お寺の前からは、由比ガ浜を一望することができました。

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 両側が山に囲まれた切り通しの道に、かつて数万の軍勢が満ち、激しい戦闘が行われたなんて信じられませぬ。

 そんなことを考えながら歩きつつ、最後の目的地・極楽寺へ。

 かつてここでも合戦が行われ、多くの伽藍が失われたそうですね。境内は入場無料なのですが、写真撮影は駄目だとかで残念。

 その代わり、極楽寺駅のそばに鎌倉時代の武将の墓があるというので行ってみることにしました。

 アパートに入っていくような感じのわかりにくい場所にありましたが…。

 苔むして、いかにも歴史を感じさせるこの墓の主は、関東管領で、山内上杉氏の始祖である上杉憲方と伝承されているそうな。

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 関東管領は、上杉謙信で有名ですが、上杉憲方という武将は知りませんでした。

 質実で無骨さを感じさせる墓石は、やはり鎌倉武士を連想しますね。

 帰りは、江ノ電を使って再び鎌倉に戻ります。

 ホームでは何人も江ノ電の車両を写真におさめている人を見かけました。

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 やはり江ノ電は鉄道ファンにとって格別の魅力があるのでしょうね。

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古都鎌倉、鎌倉文学館、長谷大仏 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 東京のオリンピック招致は残念でしたね。

 人生で二回も自分の住む町でオリンピックが開かれたら、すごく幸せだと思っていたのだけれど…。

 …といっても、前回、東京で開催されたとき、オイラは幼稚園児だったのでほとんど記憶にありませぬ。

 東洋の魔女も、円谷の銅メダルも、オランダの赤鬼と呼ばれたヘーシンクも、リアルでの記憶にないのでした。

 覚えていることといったら、幼稚園で先生から白い紙を渡され、真ん中にクレヨンで赤い丸を描くように言われたことくらい。

 その紙を棒につけて、みんなで向かったのが原宿です。

 駅前に出ると、すごい人ごみで全然前が見えませんでした。先生が、日の丸を振って、という掛け声にあわせて、自分が何をしているのかよくわからないまま手を動かしていると、大人の肩越しにスーッと煙が右から左へ流れました。

 そのとき、どっと歓声があがったのはよく覚えています。

 大人の背中と煙を見ただけで帰ったのですが、当時は、一体何しに来たのじゃ~と…。

 大人になってから考えると、あれは聖火リレーの応援に行ったのだとわかりました。

 あれからおそらく百回以上は原宿へ行ったと思いますが、あんなに盛り上がった原宿は見たことがありませぬ。

 やっぱり、オリンピックだけは別物ですよ。

 今度こそ、聖火リレーをこの目で見たかったのに。

 オイラの目が黒いうちには、東京でオリンピックが開かれれば最高っす。

 是非またチャレンジして欲しいですね~。


 さて、お散歩ネタ。 

 今回行ったのは、古都・鎌倉です。

 鎌倉といえば、日本史の聖地のひとつですね。

 しかし、歴史好きのくせに、鎌倉へはそれほど行ったことがないのです。

 関東屈指の観光地ということで、いつ行っても結構混んでいるし、小町通りの原宿とみまがうようなお洒落なショップは、オヤジの琴線をあまり刺激しなかったりで…。

 でも、鎌倉は文士の街でもあるのだとか。オイラの好きな作家の川端康成も住んでいたらしい。

 加賀百万石の旧前田侯爵の別邸を利用した鎌倉文学館へはまだ行ったことがなかったので、久しぶりに訪れてみようと思ったのです。

 およそ20年ぶりに、鎌倉の大仏や長谷寺の十一面観世音菩薩にもお会いしてみたくなりましたし…。

 おそらく、大仏様と長谷寺以外は、休日でも比較的すいているのではないか。

 …ということで、ある土曜日の早朝、鎌倉駅におりたちました。

 オイラの家から横浜まで、東急を使えば260円。横浜から鎌倉まで横須賀線で330円とリーズナブル。

 時間も1時間たらずで行けるのですね~。

 今回は、鎌倉のメインストリート若宮大路方面ではないので、いつもと反対側の西口の改札から外へ出ます。

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 こちらは江ノ電のターミナルでもあるのですね。

 江ノ電の線路を左手に見ながら、商店街をテクテク歩きます。

 大通りに出て、しばらく歩くと車が行き交う交差点にお地蔵様が並んで立っておりました。

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 六体のお地蔵様は六地蔵と呼ばれ、今でも地元の人たちから敬われているらしい。

 なんでも、鎌倉時代、この近くに刑場があったそうな。その後刑場が竜口に移されたあとも、このあたりは荒地だったとか。やがて六地蔵を立てて使者の霊を弔ったのですね。

 そういえば、東京にも六地蔵があった記憶がありますが、人間の持つ六つの苦しみから救ってくれるそうなのです。

 今は当時の寂しい面影はまったくありませんが、近所の人たちのお参りする心は今も引き継がれているのだと感じました。

 大通りから入ったところに、吉屋信子記念館があります。

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 吉屋信子は、大正・昭和の時代に活躍した作家。この人の作品はひとつも読んでいないのですが、名前はいろいろなところで見て知っていました。復刻版も出版されているそうなので、根強いファンは多いのでしょう。

 この立派な塀の中にある家に当時住み、その後、土地・建物などが鎌倉市に寄贈されたそうな。

 記念館というからいつでも入れるかと思ったのですが、常設展示はしていないみたい。

 古い日本家屋が好きなので、入ってみたかったっす。

 そこから程近い場所にあるのが鎌倉文学館。

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 鎌倉文学館というくらいだから、鎌倉ゆかりの文学、特に鎌倉文士をテーマにした資料館なのですな。

 たんなる資料館というだけでなく、ここの魅力はなんと言ってもその建物。

 もともとは、1890年頃に侯爵 前田利嗣の鎌倉別邸として作られたとのこと。ところが、明治の終わりに火事により失われ、現在の建物は昭和11年に洋風に全面改築されたのですね。

 3階建てですが、3階は木造で非公開なのだそうな。

 ゆるい坂道を登ると、やがて石組みの立派なトンネルが。

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 三島由紀夫の作品にも登場する有名なトンネルだそうですね。

 トンネルをくぐると左手にモダンなたたずまいの洋館が現れます。この洋館は、戦後の一時期、デンマーク公使や内閣総理大臣 佐藤栄作の別荘として使用されたのだとか。

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 このゴージャスな佇まいは、政界の団十郎と呼ばれた佐藤栄作のイメージにぴったりかも。

 その後、前田家から鎌倉市に寄贈され、外観をそのままに内部の補修・収蔵庫の新築を行い、鎌倉文学館として蘇ったのですね~。

 中に入り、夏目漱石や川端康成の自筆原稿の展示などを眺めていると、作家の息遣いが感じられそう。

 洋館の豪華な内装と窓からの広々とした芝生も眺められて得した気分になりました。

 行った日は、木村裕一著作の人気絵本シリーズ『あらしのよるに』の特別展が開かれておりました。

 絵本のタイトルは知っていましたが、子供たちの情操教育にもなる内容なのですな。

 文学館の前の芝生広場からは、由比ガ浜とその先に広がる相模湾を見下ろすことができました。

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 次に向かったのは、甘縄神明神社。

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 この神社が創建されたのは、710年というから、なんと奈良の平城京が作られたのと同じ年なのですか。

 鎌倉最古の神社といわれ、鬱蒼とした森に抱かれた境内はさすがに歴史を感じさせます。

 この神社は代表作のひとつ、「山の音」のなかで主人公・信吾の家の裏山の神社として描かれているそうですね。

 ウィキペディアには、鎌倉の長谷に住む、62歳になり老いを自覚するようになった尾形信吾が息子・修一の嫁・菊子に対して抱く情愛を、鎌倉の美しい風物とともに描いた作品だとありました。

 確か、主人公が夏の寝苦しい夜に、山のほうから、恐ろしい音を耳にするシーンからはじまったような。この地の底から響いてくるような音に、主人公は死の予告を受けたように感じた…?

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 もう随分前に読んだので、詳しい内容は忘れてしまいましたけど。神社の参道の近くには、川端康成が暮らしていた邸宅があるらしい。

 すると、主人公・尾形信吾は川端康成の分身なのかも。

 オイラも、「山の音」を聴こうと耳をそばだてましたが、聴こえるのは蝉の鳴き声ばかり。

 ノーベル賞作家とは感性が違うのだから、これは仕方ないっす。


 そして、いよいよ鎌倉の大仏さまへ。

 大仏さまのおわす高徳院へ向かう道は、まさに観光ストリート。

 さまざまな土産物店やお洒落な飲食店が建ち並んでおります。

 拝観料の200円を支払い、高徳院の境内に入って、20年以上ぶりに大仏さまに再会しましたぁぁぁぁぁ~!!

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 オイラは結構年をとっちゃったけれど、大仏さまは昔と全然変わりませんな。

 むしろ若返ったみたいで…。

 それもそのはず、完成してから750年以上もこの地に座り続けておられるのだから、20年という月日はないも同じなのでしょうね。

 土曜日だったので、境内はすごい人ごみでした。

 でもよく見ると、日本人より外人さんのほうが多いみたい。

 人口比率からすると、6;4で外人観光客のほうが多いのではないか。いろんなところで外国語が飛び交い、一瞬、日本にいることを忘れるような雰囲気でした。

 そういえば、奈良の東大寺の開眼のときも、世界の国々から大勢の人たちが集まったそうですな。大仏さまは、外国人をも魅了するのでしょうね。

 ところで、奈良の大仏さまとの大きな違いは、建物の中にいらっしゃるのではなく、露座の大仏となっている点。

 もともとは、東大寺の大仏と同じように、立派な大仏殿があったそうなんですよ。

 しかし、何度か建て直されたものの、台風で倒壊したり、津波で押し流されたりして、結局、露座という現在形になってしまったのですね。

 建物の中もいいけれど、緑の木々をバックにした大仏さまも、最初から計画して作られたようにピッタリ景観にはまっています。

 よく見ると、結構イケメンだったりして。

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 ちなみに、この大仏は阿弥陀如来で、高さは12.38m、総重量は121トンもあるとのこと。

 20円支払えば、大仏の体内も見学できるのですが、外国人が長蛇の列を作っていたのでまたの機会にしました。

 今度訪れるのはいつになるかわからないですが…。

 後ろにまわると、背中には窓があります。

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 なんか、天使の羽みたいでかわいく感じるのはオイラだけでしょうか。

 それにしても、外国の人たちからカメラを渡され、シャッターを押してくれとさかんに頼まれます。

 お安い御用じゃと、何度も応じたのですが、当然の顔をして英語で話しかけられるのにはさすがに閉口しました。

 まさか、オイラは、外人には見えないと思うのですけどね。

 一見すると、外国語を話しそうに見えるけれど、オイラはまったくしゃべれないのじゃ~。

 昔は、英単語も多少は知っていたし、翻訳のバイトもしたことがあったのです。

 読めるけれど、書けない、話せない、という戦後の英語教育の問題点を実証している自分に改めて気づくのでした。

 このままここにいると、また英語教育の失敗例として落ち込みそうになったので、逃げるように大仏さまをあとにしました。

 ここから長谷寺や極楽寺へ向かうのですが、それはまた次回。

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こち亀の亀有と葛西城址 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今日は前回の続きの上千葉砂原公園からでしたね。

 この公園は住宅街の中にあって、それほど広くはありませんが、子供が喜びそうなアイテムがてんこ盛りの公園でした。

 まず、オイラが目についたのは交通公園。

 実際のハイウェイみたいなガードレールや高低差もあるから、この道を自転車で駆け抜けたら気持ち良さそう。

 浅いプールもあって、親子連れの歓声が公園の中を満たしておりました。

 小高い展望広場や芝生広場もありましたが、なんと言っても、うさぎやモルモット、ワラビー、ヤギなどと子供たちが自由にふれあえるスペースがあるのはうれしい。

 しかも、ポニーも飼われていて、無料で乗馬体験もできるのですね~。

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 大人は乗れませんので念のため。

 それから実物のSLが展示されていて、こちらも自由にふれあえるのを忘れてはなりませぬ。

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 子供の頃、うちの近所にもこんな公園があったら楽しかったでしょうね。

 オイラの子供の頃は、ホントに遊び場がなかったんですよ。

 現在は、近くに日比谷公園クラスの広さを持つ都立公園ができましたけど、当時は狭い道路が子供たちの遊び場でした。

 それも、騒がしいと近所のおっさんによく怒鳴られ…。

 仕方なく、空き地みたいになっていた近所の大学のグランドに友達と忍び込んでは、野球をしていたのです。

 そこの警備員のおっさんがまた怖くて、子供たちが遊んでいると大きな犬を放つのです。

 犬に追いかけられて、金網に引っかかり、体中血だらけになったこともありました。

 今だったら、子供に怪我を負わせたということで新聞に載っていたかも。

 もっとも、当時は子供の数が多かったですからね。

 こんなところにも、経済の需要と供給の関係が作用しているのだろうかと考えつつ、ふたたび曳舟川親水公園へと戻ります。

 そこには、当時の船着場を再現した小屋があり、地元のお年寄りが集まって茶飲み話に花が咲いておりました。

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  江戸時代の駅やバス停みたいなものですな。

 親水公園をさかのぼって歩きます。

 暑い日は、水辺を歩くのが最高の贅沢。ここでも、子供たちが水と戯れている光景を目にしました。

 信号のところで親水公園を後にし、よく手入れされた庭が美しい蓮光寺にお参りしたあと、亀有さくら通りに出ました。

 読んで字のごとく、風情のある道沿いには桜並木が続き、春には素晴らしい桜のトンネルが堪能できそうだと感じます。

 地図を眺めながら住宅街をテクテク歩き、環七通りの近くにある宝待院に到着しました。

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 ここには、この近くの領主であった松浦河内守信正の墓碑がありました。江戸時代の旗本だと思うのですが、長崎奉行を務めたそうなので、おそらく仕事のできる人だったのでしょうね。

 ということで、いよいよ環状七号線に出て、葛西城址へと向かいます。

 本丸が、環七によって真っ二つに分断されたのですが、どちらも現在は小さな公園になっているそうな。

 写真の手前が御殿山公園で、道路の向こう側の木がたくさんある場所が葛西城址公園っす。

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 まずは近くの御殿山公園へと向かいます。

 御殿山というくらいだから、葛西城の本丸御殿のあったところですか。しかし、後北条氏が滅びたあと、ここは徳川氏の「青戸御殿」として修理再興されたそうですな。そして、将軍の鷹狩りの折などに休憩所として使用されたらしい。

 そちらの御殿が由来なのかと思いました。

 その青砥御殿も、江戸時代のわりと早い時期に取り壊されたのですね。

 幕府としても、一国一城令など、謀反の拠点となるような城が各地にあったのでは不安だったのでしょうし、なんといっても、ここは将軍のお膝元。

 青砥御殿の存在していた頃は、おそらく土塁や堀も多少残っていたのでしょうけど、御殿の取り壊しにあわせて、徹底的に痕跡すらなくされてしまったのではないか。

 城があったことを思わせる地名は最近まで残っていたそうですが、土地を見る限り、城跡とおぼしき痕跡は見つけられませんでした。

 もっとも、「青砥藤綱城跡」と書かれた石碑や最近できた石碑はありました。

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 でも、城好きとしては後世の石碑が大量にあるより、土塁を思わせる土の盛り上がりや堀を思わせる窪みがあったほうが何百倍もうれしい。

 狭い公園なので、ものの3~4分で一周できてしまいます。近くの住宅街を歩き回ったのですが、城跡を思わせる何の痕跡も見つけられませんでした。

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 もともと葛西城は、室町時代の初期に関東管領上杉氏がこの地に築いたのがはじまりだそうな。

 当初は、大石石見守という武将が城を守っていたらしい。

 その後、戦国時代に小田原の後北条氏が攻め落とし、家臣の遠山氏が城主として在城。秀吉の小田原征伐まで、この地域の拠点として栄えたのですな。

 この城が重視されたのは、武蔵と下総との国境に近い場所にあり、今の千葉県北部に当たる下総国に対する重要拠点でもあったから。

 北条方の前線基地として、国府大合戦では安房の里見軍からさかんに攻撃をうけたのだそうな。

 当時はかなり防御能力が高い城だったのでしょうね。

 さきほど見学した郷土と天文の博物館では、近くにある中川を天然の要害として外堀に見立て、反対側は湿地帯となっていたと解説がありました。

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 水量の豊富な中川から水を引いて内堀を作り、その幅は20メートルほどもあったとか。

 うぬぬ、イメージできませぬ。

 標高1メートルほどの低地にあって地下水位が高いので、埋もれた木製品などがいい状態で保存されるというメリットもあるそうなのですよ。

 そういえば博物館では、ほかの城跡ではあまりお目にかかれない木製のお椀の出土品が目につきました。

 環七を渡り、葛西城址公園へと向かいます。ここは、本丸の端っこの部分ですな。

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 城址公園とは言うけれど、こちらは児童公園といったいどこが違うのじゃ~という感じでした。

 でも、さきほど博物館で眺めた縄張り図と公園の外側の輪郭線のカーブが微妙にマッチングするような。

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 公園の外側を低い石垣で囲むのも何となく意味深だったりして。

 土地の区画は、もしかして、現在までその影響が残っているのかもしれない。

 と思って、公園のまわりの道路を、バシバシ写真に撮りました。

 家に帰り、ネットで葛西城の縄張りと現在の道路の位置を重ね合わせると、かなり一致しているような。

 埋めた堀を道路として利用していたのかも。

 しかし、それにしては現在の道路の幅が狭い感じもするのですが…。

 公園のそばにある青砥神社にお参りし、中川の土手に出てみました。今もゆったり流れる中川は、当時の葛西城の難攻不落を証明するかのようでした。

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 水戸街道をわたり延命寺、川をわたった中川大橋のたもとにある日枝神社と、次々とお参りしてまわります。

 このあたりは古い神社仏閣が多いと思ったら、江戸時代、このあたりは宿場町として大いに栄えたそうですね。

 再び中川を渡ると、そこは亀有駅のすぐそば。

 駅のすぐそばのスーパーで、88円の生茶と「がりがりくん」をゲッツし、駅へ入ろうとすると、面白い形をした像がありました。

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 おお、両さんじゃないっすか。

 そういえば、亀有は、「こち亀」の舞台なのでした。

 オイラより横幅はかなりあるものの、意外と背が低いのは原作を忠実に再現したためでしょうか。

 あとで、ネットで調べてみると、両津勘吉巡査長の身長は、161センチ、体重71キロだそうな。頭が大きいから、90キロくらいありそうに見えるのですが…。

 それはともかく、「こち亀」はすごいですね。

 今年、連載1600回を突破したのはすごいですが、30年以上にわたる連載で一度も休載したことがないのだそうな。

 少年誌の最長連載記録として、ギネスブックに載り、コミックスは累計1億5000万部以上の売り上げなのですか。

 最初にジャンプに登場したのは、確か、オイラが高校生だったと記憶しています。その頃から、一度も休まず、今まで続いているのですね。

 よくネタが尽きないな、と思いますが、これだけ長く連載していて、作者があきないで書き続けられるという点がもっとすごいと思いました。

 そういえば、初めの頃は、「秋本治」という名前ではなく、「山止たつひこ」というペンネームで連載していましたね。

 当時は、山上たつひこの「がきデカ」が一世を風靡していた時期。

 がきデカファンとしては、また二番煎じの作品が登場したな、というくらいのイメージしかなかったのですけど、まさか、こんなに長く日本人から支持される作品になろうとは思いませんでした。

 その後、本家の山上たつひこからクレームがついて、秋本治に変更したと聞きました。

 がきデカがオイラのアイデンティティ、あるいは人格形成に与えた影響ははかりしれない。

 成人後のこまわり君の大ブレイクで、捲土重来を期してほしい山上たつひこですが、ここはひとつ、「夏本治」とかのペンネームに変更して、昔の敵をとるのも一興かと…。

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葛飾、お花茶屋、曳舟川親水公園、葛飾区郷土と天文の博物館 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 「火天の城」が全国ロードショーっすか。

 オイラは、あまりロードショーへは行かない人なのですが、なんと言っても城が主役の映画。

 しかも、安土城築城にまつわる話ですからね。原作も、もちろん読んで面白かったし…。

 城好きとしては、スルーできないなと感じる今日この頃です。
 
 福田沙紀ちゃんも出ているらしいし…。

 実はオイラの高校時代の日本史の研究テーマは「安土城」なのでした。

 発表の30分間、黒板にチョークで安土城の外観と内部の図面を描きながら解説したのです。

 外観と内部構造は頭に入っていたので、何も見ずに、黒板一杯のワイド画面に「安土城」を描いたのですよ。

 日本史の教師やクラスメートは驚きましたけど、城ヲタクですからね~。別に驚くほどのこともないのではないか、と…。

 でも、当時は安土城の内部は「吹き抜け構造説」が主流でした。「火天の城」では、吹き抜け構造説には否定的な見解なのですか。

 確かに、当時の人たちが吹き抜け構造を明言している文献がないのはおかしいですよね。

 吹き抜け構造のメリットも、それほどないような気もしました。何しろ、その前後の城を見ても、同じ構造を持っている城が皆無なのはおかしい。

 …が、しかし。そうは思っても、安土城へ実際行ってみると、他の城とは一目で違いがわかります。

 「日本初の本格的天守閣を持った城」という点を除いても。

 現地を見ると、織田信長という人物の独創性にはホント、驚かされます。

 城には、築城主の個性が完璧に表れますな。

 その話を書くと長くなりそうなので、それはまた次回に書くことに致しまする。

 
 さて、お散歩ネタ。

 今回行ったのは、かつて武蔵国で葛西と呼ばれた地域の中心地。現在の葛飾区青戸周辺。

 なんでも、戦国時代に、葛西にかなり立派な城があったそうなんですよ。

 安土城ほどではありませんが…。

 もちろん城好きとして年季が入っているオイラですから、当然訪れたことはあります。

 でも、そのときは、城跡とおぼしき痕跡はまったく発見できなかった記憶があります。

 あれから十年近く経っているし、その後、ブログの記事とともに、かなりの城跡を見てきたオイラ。

 もしかして、当時より城を見る目が進化しているのではないか。

 新たな城跡の痕跡を発見できるのではないか、という自らの成長を確かめるためにも、再度訪れることにしました。

 成長度をテストするためにも、ウォーキングコースは前回と同じでなければなりませぬ。

 …ということで、ある土曜日の朝、京成線のお花茶屋駅へやってきました。

 お花茶屋とは、なんとも、心浮き立つネーミングですな。

 思わず、御茶屋が一軒、季節の花々に囲まれているのどかな風景をイメージしてしまいます。

 ところが、駅前は、商店が建ち並ぶ何の変哲もない景色。

 清潔感はあるけれど、あまり花に囲まれた御茶屋という雰囲気ではないような。
 
 …と思って、ガイドブックを読んでみると、お花茶屋のお花は、植物ではなく、「お花さん」という茶屋の娘の名前が由来らしい。

 駅名になるくらいだから、よっぽど美人で、日本全国からファンがサインをもらうために集まったのかと思いますよね。

 実は、八大将軍吉宗が、この近くで鷹狩りを行った際、急に腹痛を起こしたそうなんですよ。

 そのとき、御茶屋の娘、お花の献身的な看病で治ったため、吉宗は、茶屋の名前に「お花茶屋」を与えたのだとか。

 最近、歳のせいか疑り深くなっているオイラは、天下の将軍様が、いくら急に腹痛を起こしたからといって、茶屋の娘に看病させるかニャーと思ってしまいます。

 江戸城からそう遠くないし、平地だし、お供の人たちは大勢いたのではないか。

 しかも、もともと茶屋の娘だから、お花茶屋なんてネーミングは、自然発生的に生まれたような気もするのですが…。

 自分の名前の一字をとって、「お宗茶屋」とか「よっし~茶屋」とか、名づけたら多少信用しますけど。

 それはともかく、いつ「お花茶屋」のネーミングが生まれたかわかりませんが、吉宗の「暴れん坊将軍」的なエピソードが当時からあったとしたら興味深いですね。

 松平健を介抱するお花さん役は、どんな女優さんがいいかなと考えながら、最初の目的地、お花茶屋公園に着きました。

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 この公園は、お花さんとは直接関係ないのでしょうけど、どうしても御茶屋をイメージしてしまう。

 茶屋はありませんでしたが、地元のおじさんたちが缶ビールを飲みながら談笑していたので、「やるき茶屋」のイメージはしましたが…。

 お花茶屋商店街をテクテク歩き、私立高校の掲示板にあった大学進学実績などを眺めながら、次の目的地、普賢寺を目指します。

 住宅街の中にある普賢寺は、鎌倉幕府設立に貢献した葛西清重が創建したお寺。

 境内に宝篋印塔は、葛西氏の墓と推定され、鎌倉後期の様式のものだそうですね。

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 なんと、都内最古のものだそうで、都の文化財なのだとか。

 もと来た道を戻り、上千葉公園の中を通り、左手に都営アパートを見ながら進むと、親水公園に出ました。

 ここが曳舟川親水公園なのですな。

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 行った日は暑かったので、子供たちが涼しそうに水遊びをしています。オイラも、飛び込みたかったけれど、ここは理性を働かせて、親水公園のそばにある博物館へと向かいました。

 暑いときは水遊びもいいけれど、やっぱしクーラーの効いた屋内が最高~。

 この博物館は、葛飾区郷土と天文の博物館。

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 ちなみに入館料は大人100円で、プラネタリウムをトッピングすると、プラス350円なのですな。

 2階の『郷土史のフロア』をたっぷり見学したかったので、100円だけ支払い、中に入ります。

 展示物を眺めると、船や洪水のときの映像など、葛飾区がいい意味でも悪い意味でも、水とのかかわりが深かったのだなと実感できました。

 江戸時代は、糞尿が肥料として貴重だったそうですが、それを運ぶ船の模型もありました。

 昭和の水洗トイレのない頃にも、バキュームカーという車が都内を走っていて、すごい臭いだったのを覚えています。

 船の模型を見ながら、視覚と嗅覚でイメージできる人は、これから少なくなっていくのだろうなと考えたり…。

 古墳時代から、室町、戦国、江戸時代の葛飾の歴史に興味津々で展示物を眺めました。

 しかし、なんと言っても、その展示物から一歩も動けなくなったのが、葛西城にまつわる出土品でした。

 前回来たときは、こんなに充実してなかった記憶があるので、最近の戦国ブームの中でパワーアップしたのでしょうか。

 葛西城の本丸のあった場所は、昭和40年代に環状七号線が開通したとき、分断されてしまったらしい。

 そのとき、発掘調査が行われ、そのあとも引き続き調査が続けられたのですね。

 発掘や紹介ビデオを全部見ましたが、思っていたよりずっと大規模な城郭だと感じました。

 もしかして、当時は館程度と言われた江戸城より大きかったのではないか。

 古河公方も、一時期、在城していたらしいですし…。

 当時は、戦国時代の真っ只中。後北条氏や上杉氏、千葉氏、里見氏など関東の看板役者たちが大活劇を演じていたのです。

 ビデオを見ていたら、葛西城の堀の跡から発見された、若い女性の頭蓋骨の映像に目が留まりました。

 頭蓋骨には、刀で斬られた傷があります。

 打ち首のあと、堀へ投げ落とされたのでしょうか。

 歴史小説では、首をいくつ取ったとか、取られたとかいう表現をあまり意識しないで読み飛ばしてしまいますが、やはりホントにスパッと切られた頭蓋骨を見ると鳥肌が立ちます。

 しかも若い女性の惨殺死体の衝撃映像。

 大学時代は、法医学の授業を選択し、一年間みっちり変死体のスライドを見続けましたから、普通の人よりは大丈夫なのですが…。

 どんな女性が、どんなシチュエーションで首をはねられたのか、いろいろ考えてしまいました。

 博物館には、そのほかにも、昭和30年代の民家の暮らしが再現されていました。

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 ちゃぶ台に白黒テレビ、どれもよく覚えているなと思ったら、オイラの暮らしは多少の電化製品が新しいほかは、当時とあまり変わっていないのでした。

 いや、むしろ、昭和30年代の暮らしのほうが裕福だったりして…。
 
 それにしても、ミゼットが懐かしい。

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 30歳代の人たちは、サザンの桑田さんの映画「稲村ジェーン」でご存知かもしれませんね。

 ただ、オイラの子供の頃、家にこのミゼットがあったんですよ。

 家の人に乗せてもらったのをおぼろげに覚えています。

 2階の『郷土史のフロア』から3階の『天文展示室』も覗いてみました。

 歴史には多少詳しいくせに、天文学など理科系の部屋に一歩足を踏み入れただけで、急にそわそわ落ち着かなくなります。

 うぬぬ、わかりませぬ。

 月の満ち欠けのしくみくらいはわかるけれど、少し数式が出てきただけで鳥肌がぞわ~と立つオイラ。

 熱心に展示を眺める小学生を尊敬の目で眺めつつ、早めに退散することにしました。

 博物館を出ると、紫外線満載の直射日光の攻撃を受け、目の前がくらくらするのがわかります。

 なるべく日陰を探して歩こうと思ったのですが、曳舟川親水公園はほとんど日陰がないっす。

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 それでも子供たちが元気に水と遊ぶ姿に元気をもらいつつ、前に進みます。

 ちなみに、この川はもともと飲料水用の水路として作られたらしい。江戸時代後期になると縄をかけた小舟を曳いたことで「曳舟川」と呼ばれるようになったのだとか。

 思ったより、子供と一緒になって水遊びをしたり、ザリガニを釣ったりしている大人が多いのですね。

 まさに、都会の中を流れるオアシスですな。

 うちの近所にも川はありますが、ほとんど暗渠になっているし、親水公園にしてもらうとありがたいのですが…。

 毎日、海パンはいて水と戯れていたりして。

 そんなシーンを想像して、笑いながら到着したのが、上千葉砂原公園。

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 ここは小さいながら、見所のいろいろある公園でした。

 これから、当日のメインデッィシュ、葛西城址へ行くのですが、果たしてビジベンは、葛西城の痕跡を発見できるのか。

 それは次回。

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絶景!三浦半島・鷹取山 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 三浦半島・追浜シリーズ、第二回目の今日は、鷹取山ハイキング。

 垂直に切り立った断崖絶壁の岩肌で、「湘南妙義」とも言われておるそうな。

 何十年も、東京周辺をほっつき歩き続けているのに、なぜ今まで行ったことがなかったのだろうと不思議になるくらい面白い場所でした。

 …ということで、追浜駅から京急線の線路をわたり、今度は半島の内陸部を目指して歩きます。

 まず向かったのは、首斬観音。

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 なんとも、恐ろしげなネーミングの観音様ですなと思ったのですが、お地蔵様も観音様もなく、ただ石碑があるだけでした。

 解説板には、江戸時代、追浜を領地とした各大名家の陣屋があり、このあたりはその処刑場であったと書かれています。

 昭和初期、近くを走る国道建設の際、骨が出てきてここに祭られたとか。

 いわくありげな場所ですので、しっかりお参りしてウォーキングの安全を祈願します。

 そこから住宅街の中をひたすら歩くのですが、この辺りの道は、ホントに山に向かっているの? というくらい普通の住宅地。

 それでも、少しずつ上り坂になっているので、迷っているという気はしないのですが。

 突然、きつい上り坂になり、そこを越えると、緑豊かな公園が広がっていました。

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 ここが、「湘南鷹取2丁目第3公園」っすか。

 それにしても、長いネーミング。

 この辺りに住んでいる子供たちは遊びに行くとき、絶対、「湘南鷹取2丁目第3公園へ遊びに行こう~♪」とは言わないでしょうね。

 さあ、いよいよ山か、と思ったら、また住宅街。かなり大きな豪邸が並んでいます。

 あれっ、ホントに鷹取山はここでよかったのかしらん。マップの写真を見ると、断崖絶壁の岩山があるはずなのに。

 それでも、急坂が続いているので、とりあえず上ってみようと尾根まで行き着くと、なんと広いバス通りが…。

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 しかも、小学校やショッピングセンターまであり、さっきより都会に来てしまった感じがしました。

 迷ったのかニャー、と犬のおまわりさんと迷子の子猫ちゃんのメロディーが頭をかけめぐります。

 すると、鷹取山への表示板を発見。

 近くに、コンクリートでできた細い階段、上には水道局の貯水池が見え隠れしています。

 階段を上りながら後ろを振り返ると、瀟洒な住宅の屋根がどこまでも続いている。

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 見晴らしはいいけれど、岩山はいったいどこなのじゃ~と叫びながら、丘の頂上を歩いていくと、おおお~、突然巨大な岩が視界をさえぎりました。

 その場面転換の鮮やかなこと。

 まるで「オペラ座の怪人」で、ファントムに連れられたクリスティーヌが地下の大迷宮に迷い込んだみたい。

 さっきまで、頭の中で鳴り響いていた「犬のおまわりさん」の旋律が「オペラ座の怪人」のテーマ音楽に切り替わるのがわかりました。

 あの衝撃的なパイプオルガンの音色が大脳を駆け巡ります。

 つい5分前には、都会にいたのに。

 周囲360度岩の回廊の中に紛れ込むと、昼尚暗い別世界。

 上を見ると、夏の日差しが緑一杯の樹木を包んでいる。その数メートル下の岩の迷宮に佇むオイラは、仮面で顔をかくしたファントムなのじゃ~。

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 ワハハハハハハ~

 …と笑いながら、岩に反響する自分の声を楽しんでいたら、恐怖の顔をうかべながら、オイラを見ているおばさんグループと目が合ってしまいました。


 また、やってしまった…。


 そそくさと逃げるように立ち去るオイラ。

 おばさんたちが、今日の晩、悪夢にうなされないように祈りつつ、尾根道を走って逃げました。

 もう大丈夫かも、とまわりを見渡すと、ここも巨大な岩壁がそびえている。

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 岩肌にポツポツ開いたこの穴は何なのでしょうね。

 マップを取り出して調べてみると、この無数の穴は、人間が開けたみたい。

 ロッククライミングをするとき、打ち込まれるハーケンの跡なのですか。

 それにしてもすごい高さ、と上を見上げたら、一人の老人が10メートルはあろうかという崖の上に腰をおろして居眠りをしているのが目に入りました。

 あんなやばいとこに腰掛けたら落ちるじゃん!!

 声をかけて脅かしたら落ちそうだし、とりあえずオイラも上に上って助けねば。

 あわてて、巨大な岩の周りを歩き回ったのですが、どこにも登る場所がない。

 いったいどこからあんなところに上ったのだろう。

 もう一度さっきの場所に戻ったら、老人の姿は消えていたのです。

 何分かそこにいたのですが、人の気配がないので、先に進むことにしました。

 あの老人は、いったい誰なのだろうと思うのですが、いまだに謎が解明できません。

 さらに歩くと、岩山に巨大な弥勒菩薩像が彫られている場所がありました。

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 岩に彫られた仏像はいくつか見ましたが、こちらはそれほど古くはなく昭和35年から約1年かけて製作されたらしい。

 仏像の高さは8メートル、幅4メートルもあるのだとか。

 自然と仏像が見事にマッチして、思わず手を合わせてしまいました。

 そこから岩に囲まれたハイキングコースを歩きます。

 どこの岩も例外なく穴が開いている。こんな垂直の壁を登ったのですね。

 登るところを見てみたいと思ったら、その先の岩山にチャレンジしている人たちが大勢いました。

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 みなさん、命綱はつけていますが、手と足だけでこの垂直の壁を上まで登るのですね。

 下から眺めているだけでも、スリル満点。

 ロッククライミングは、体のバランスが大事なのだとわかります。

 こちらのグループは若い人たちばかりでしたが、50~60歳くらいと思える中高年のグループも同じように岩山にチャレンジしていました。

 中高年ばかりではなく、なんと、わんこも。
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 わんこは、途中でグロッキーみたいでしたが…。

 近くに360度、見渡せる絶景ポイントがあるというので行ってみることにしました。

 再び岩山の階段をのぼると展望台が。

 そこからの眺めは最高でした。

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 東京湾が見渡せ、内陸部は横浜横須賀道路がミニチュア模型のように見渡せます。

 ここが、鷹取山の頂上で、標高139メートルなのですか。

 もっと高いと思ったのですが、東京タワーよりかなり低いのですね。

 高さ600メートルの東京スカイツリーができたら、その高さは別次元かも。今から、完成が楽しみです。

 鷹取山公園を後にし、最後の目的地、神武寺へ向かって歩きます。

 途中、鎖場など、わりと難所っぽいところもありました。

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 しかも、反対側からくるのが外国人。

 オイラが鎖を伝って歩きながら、「こんにちは」と言うと、いきなり、「ちかれたびー」と返され、思わず鎖から手を離して転落しそうになりました。


 「ちかれたびー」なんて、いつ流行った言葉じゃ。

 きっと、彼に日本語を教えたのは、オイラの世代の人間でしょうね。


 死亡事故が発生したら、どう責任を追及したらいいのか、と…。

 それでも、どうにか生きて神武寺へたどりつくことができました。

 神武寺は、聖武天皇の夢のお告げから、724年に行基によって創建されたお寺らしい。

 聖武天皇といえば、奈良東大寺や全国に国分寺を建立したことで知られる有名な天皇。奈良時代から続いている古刹なのですか。

 鎌倉時代にも、源氏から信仰され、「吾妻鏡」にも記されているそうな。

 この本堂である薬師堂は、江戸時代の初め頃の再建らしい。ちょっと室町時代っぽい雰囲気も醸し出していると感じました。

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 古いお寺だけあって、境内には由緒がありそうなアイテムが満載です。

 たとえば、これは樹齢400年といわれる「なんじゃもんじゃの木」。

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  そして、神武寺の晩鐘として名高い鐘楼。

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 ちょっと屋根が不釣合いなほど大きくて、思わず目を見張ってしまいました。

 神武寺の境内から京急線の神武寺駅へと続く道も、古道の雰囲気が十二分に味わえます。

 ぬかるんだ道に何度も足をとられて転びましたが…。

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三浦半島・追浜 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今回、ウォーキングに行ったのは、ましたても三浦半島。

 最近、三浦半島のマイブームが起きているようで…。

 もっとも、自然にあふれた海と山が手っ取り早く堪能できる場所は、東京近辺にはそうないはず。

 東京から1時間もかからずに、海と山のコラボが味わえるのですからね~。

 でも、三浦半島のマイブームは、昔もあったのでした。

 自然にふれあい、ストレスを解消しようと、オイラは二十代の頃からよくこの半島を訪れました。

 十分日帰りできるのに、横須賀のホテルに泊まって、地元の人たちしか行かないような場所を歩き回ったこともあります。

 何十年にもわたって行き続けてきた三浦半島ですが、今回行ったのはまだ行ったことのないエリア。

 しかも、何で今までこんな素晴らしいところ知らなかったの?というくらいお得感のある場所でした。

 それは、横須賀市の追浜。 「おいはま」ではなく、「おっぱま」と呼ぶのですな。

でも、その由来はわかりませぬ。「浜」というくらいだから、海がそばにあるというのはわかるのですが…。

 追浜は、有名な観光スポット、金沢文庫と横須賀に挟まれたところ。

 当然、金沢文庫や横須賀は何度も訪れているのですが、この追浜駅周辺は、これまで素通りするだけでした。

 行ってみようと思ったのは、以前、このブログでもご紹介した無料の「お散歩マップ」を駅で手に入れたからなのですね~。

 何気に、そこに載っている風景写真を眺めていたら、断崖絶壁の岩山と風光明媚な岩山のコラボが…。

 三浦半島に、こんな雄大な景色の場所があったのですか。

 マップには、追浜の歴史スポットを巡る海のそばのAコース、そして「湘南妙義」と呼ばれた鷹取山のハイキングがメインのBコースがありました。

 それぞれ、6キロと7キロの決して短くないコースですが、二日に分けて行くのも交通費がもったいないからと一日で踏破することにしたのです。

 交通費といっても、私鉄だし、それほど高いわけではないのですが…。

 それはさておき、スタートは追浜駅から。

 急行の停車駅ではないのですが、駅前の国道は交通量が激しいし、わりと垢抜けた商店が多く、さすが湘南だと思いました。

 マップを見ながら、最初の目的地、傍示堂(ぼうじどう)を目指します。

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 コンクリートで作られたお堂の中には、庚申塔やお地蔵様。

 解説板を読むと、江戸時代まではこの辺りが武蔵国と相模国の国境だったそうですね。また江戸から浦賀へ通じる浦賀道の相模国の起点でもあったらしい。

 そういう重要な場所に、このようなお地蔵さんをおまつりして、国境の監視をお願いしたのでしょうか。

 悪い病気が入ってみないよう、宗教的な意味合いもあったのかもしれませぬ。

 そんなことを考えつつ、次のスポット、雷神社にお参りします。

 かみなり神社?と読むのかと思ったら、いかづち神社なのでした。

 名は体を表すと言いますが、雷にちなんだ縁起があるそうですね。

 この近くに、築島と呼ばれる場所があって、12人の乙女たちがおこもりを続けていたそうな。

 そこへ突然、鷹取山の方角からものすごい稲妻と雷鳴が起こり、ビャクシンの木に雷が落ちて木は黒焦げになったとのこと。

 でも、近くにいた彼女たちはかすり傷ひとつなかったらしい。

 それで、築島に雷神社が祭られ、そして豊臣秀吉の時代に、現在の場所に移されたのですか。

 神社の由来には、荒唐無稽な伝説が少なくないですが、これはリアルな話で、現実にあったのだろうと思いました。

 本殿の前にある丸い輪。これは、茅の輪といって、これをくぐることによって、身を祓い清めるのだそうな。

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 本殿の赤と茅の輪の緑が鮮やかですね。

 再び駅前に戻り、さきほど聞いた築島と呼ばれる場所へ行ってみることにしました。

 すると、ありましたよ、例の木が…。

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 なんとなく、黒ずんでいるし、落雷にあったと思われるような節も。でも、もちろん当時の木ではないでしょう。

 それでは、12人の乙女は? と、まわりを探したのですが、残念ながら出会うことはできませんでした。

 そこから駅前の大通りに出て右折し、ひなびた商店街をテクテク歩きます。

 急な細い坂道を登り、住宅が建ち並ぶ小道をさらに行くと、観音寺。

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 このお寺は、地元の人でなければ知らないような丘の上の奥まった場所にありました。

 丘の名は、見漁台というらしい。一発で、昔ここでどんなことが行われていたのかわかるネーミングですな。

 ここからの眺めは、江戸時代は「浦郷八景」と呼ばれるほど美しかったそうですね。

 住宅の屋根が建ち並ぶ風景でしたけど、お寺の境内は山寺の鄙びた感じがあって癒されました。

 あとで調べたら、この台地は、かつてこの辺りの領主だった朝倉氏の城があったらしい。

 それならもう少し、城跡ウォッチングをすればよかった、と…。

 しかも、この台地には埋蔵金伝説もあるそうなですよ。

 噂によると、なんと、漆千杯、銭十億万両の宝物っすか。

 それだけのお金があったら、仕事しないで毎日、お散歩できるのに、と思いました。

 お金があってもなくても、あまりライフスタイルは変わらないようで。

 …と、突然ですが、コマーシャル。

 前回ご紹介しました「図解入門 よくわかる最新『病』の基本としくみ」、好評発売中です。

 書店へいらした方は、是非、探してみてください。

 図解のイラストとわかりやすい文章がよいといろいろな人たちからお褒めの言葉をいただいております。

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 「図解入門 よくわかる最新『病』の基本としくみ」 永嶋信晴著

 民放みたいですが、ウォーキングを続けます。

 台地の反対側へ降り、バス通りをしばらく行くと、能永寺。

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 時宗のお寺だそうで、なんと開祖一遍上人自身が開基されたのですか。歴史の感じられる古い山門がいい味を出しています。

 そして能永寺の隣にあるのが、正観寺。

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 こちらも、小高い丘の上にあって、深浦湾を見下ろす、境内からの眺めが素晴らしい。

 それもそのはず、この場所は戦国時代の後北条氏の頃、船の見張り所があったと伝えられるそうですね。

 穏やかな港の風景で、ここなら当時の船も安全に航行できそう。

 丘を降り、深浦湾のヨットハーバーへ向かいます。

 かつては、榎戸湊と呼ばれ、鎌倉時代には、金沢、浦賀と並ぶ鎌倉の外港だったとか。

 当時は、能永寺の門前のあたりまで海だったそうですね。

 海岸沿いにウッドデッキの遊歩道が延び、湊の風景が堪能できました。

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 それにしても、海水がきれいで透き通っています。オイラの子供の頃は、東京近郊の海はどこも汚かったので、海の底が見えるというだけでも感動です。

 快適な遊歩道を歩いてゆくと、漁船もたくさんつながれていました。

 ふたたびバス通りに戻り、追浜トンネルの手前の階段を上ります。緑あふれる小道をしばらく行くと、古い墓地がありました。

 ここが、官修墓地。

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 なんでも、明治10年の西南戦争の政府軍兵士の墓だそうですね。

 でも、西南戦争は、九州が舞台。

 どうして三浦半島に、こんなにたくさんのお墓があるの?と思ったら、戦争が終わって東京へ戻る途中、船の中でコレラが発生したらしい。

 それで、多くの病死者が出てしまったのですね。

 戦争で生き残ったものの、帰りの船の中で、しかも病気で死んだのでは、さぞ無念だったろうと思いました。

 ただ、これだけ立派な史跡になっていると、多くの人たちが訪れて冥福を祈るのでしょう。もしかして、今現在では、普通に亡くなった人たちよりも、天国では幸せなのかも、と思ったりしました。

 官修墓地から続く小道は尾根道に続き、やがて視界に、金沢八景方面が見渡せます。

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 遠くには、八景島シーパラダイス、近くに見える小山のような丘は野島でしょうか。

 晴れた日には、富士山がよく見えるそうですね。

 晴れていたので富士山を探したのですが、靄がかかっていてよく見えませんでした。

 正面の公園の中にあるスタジアムからは、大きな歓声が…。

 耳をすませてみると、プロ野球の二軍の試合が行われているようでした。そういえば、横須賀スタジアムがフランチャイズの湘南シーレックスってチームがありましたね。

 わりと立派なスタジアムで、大洋ホエールズ時代の川崎球場より広いかも。

 そこから大通りを歩き、追浜駅に戻ります。

 これでようやく、ひとつめのAコースが終了。

 時間はまだ午後1時。

 これから、ウォーキングダブルヘッダーの第二戦、Bコースの鷹取山ハイキングへ向かいます。

 東京の近場で、こんな絶景が…と、驚くのですが、それはまた次回。

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三浦半島・浦賀 ウォーキングストーリー2

 こんにちは。

 今日は先週の「浦賀をゆく」の続きです。

 浦賀水道を渡し舟で渡ったオイラは、西浦賀の町に降り立ちました。

 まず向かったのは、西叶神社。

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 さきほど行った東叶神社と浦賀水道を挟んで、どちらも叶神社というのが正式名称とのこと。

 区別するために、東叶神社、西叶神社というらしいのですが、どちらも同じルーツの神社なのですね。

 1692年の元禄年間に、浦賀村が東と西に分かれたとき、入江を隔てた東側の叶神社を若宮、西側の叶神社を本宮としたのですか。

 どちらも、歴史を感じさせる立派な社ですが、東叶神社が背面に小高い丘を背負っているのに対し、西叶神社は街中にある印象を受けました。

 西叶神社の見所は、江戸時代後期に建造されたという社殿。

 まわりに230を超える彫刻があり、当時の日本には渡来していないとされる花や鳥も彫られているそうな。

 西叶神社の近くにも小高い丘があって、公園にもなっているらしいので行ってみることにしました。

 木々に囲まれた急坂を上ると、港に面した木立の間から、浦賀水道が一望できます。

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 漁船や浚渫船などがたくさん停泊していて、今も浦賀港は重要な役割を果たしているのですね。

 かなり大きい船もあり、狭い浦賀水道ですがかなり水深があるのだろうと思いました。

 向こう岸に半島のように見える小高い丘は、さきほど登った明神山、もとい浦賀城址。

 房総からの敵に備えるには打ってつけの地形だと理解できますね。

 この公園は、愛宕山公園というらしいのですが、かつては浦賀園とも呼ばれ、横須賀で一番古い公園なのだとか。

 丘の上には、咸臨丸出港記念碑が立っていました。

 碑の裏には、咸臨丸の乗組員の名前が彫られており、勝海舟はもちろん、慶応の創立者の福沢諭吉の名前もあります。

 江戸時代にアメリカへ行ったのですから、さすがインターナショナルの慶応ですな。

 丘から降り、海の近くへ行ってみることにしました。

 この桟橋は、通称「陸軍桟橋」というらしい。

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 この曰くありげなネーミングがなければ気づかず通り過ぎてしまうような桟橋かも。

 ところがこの桟橋。太平洋戦争終了後、南方や中国大陸から引き上げてきた人たちが、懐かしい日本への第一歩をしるした場所なのですか。

 その数は56万人とも言われているらしい。

 大変な思いをして帰国した人たちが、この浦賀の風景をどんな思いをして眺めたのでしょうか。

 小さく、お世辞にも立派とはいえない桟橋ですが、当時の人たちの思いが染み込んでいるような気がしました。

 お散歩マップを見ながら、源為朝ゆかりの為朝神社にお参りして、住宅地を小高い山のほうに向かって歩いてゆくと、団地というか企業の社宅になっている一画があります。

 これもどこにでもある普通の団地に見えるのですが、よく見ると、堀と石垣で囲まれているのがわかります。

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 堀と石垣といえば城跡?と条件反射してしまうのですけど、堀も狭いし、石垣も低いっす。

 なんとここは、浦賀奉行所の跡なのですね~。

 海よりではなく、かなり内陸の多少不便な山の近くにあるというのは、異国船による砲撃を意識したからでしょうか。

 それにしても、当時の建物はすべて失われていましたが、奉行所の約2000坪の区画がそっくりそのまま団地の跡地になっているのですな。

 結果的に当時の堀や石垣が残ったのでしょう。

 ここに奉行所が置かれたのが、1720年。下田から浦賀へ奉行所が移されたのですね。

 海難救助や地方役所としての機能があったそうですが、なんといっても異国船から江戸を防備するための海防の拠点として、重要な役割があったらしい。

 ここには、与力10騎、同心50人の役人たちが勤めていたそうで、幕末にペリーが来たときは、天地がひっくり返ったような大騒ぎがここで行われたのでしょうね。

 今の静けさからすると、信じられないような気がしました。

 ここから再び海へ向かって歩きます。

 お散歩マップのコースではありませんが、せっかく海へ来たら砂浜も見たいじゃありませんか。

 …ということで、ヨットハーバーやお洒落なレストランを横目に燈明崎と呼ばれる場所に向かいます。

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 ここは江戸時代には浦賀港の入り口に当たるところ。

 燈明というネーミングからも解るとおり、江戸時代、岬の突端には「浦賀燈明堂」があったそうな。

 燈明堂は、今で言えば灯台。当時は一日も休まず、航路の安全を守ってきたそうですから、多くの船が浦賀港を出入りしていたのですね。

 岬の高台には、当時の燈明堂が復元されていました。

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 灯台のような建物を想像していたのですが、なんとも変わった建物ですな。

 強風に対処するためか、四方につっかい棒があるようで、こんな建物見たことない。

 上の障子で囲まれた部分の中に、菜種油で光を灯し、その光は約7.4キロの海上四海里まで届いたそうな。

 まわりは公園になっていて、小さな砂浜や岩礁などもあって磯遊びが楽しめそう。

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 この景色は、ペリーがやってきた当時とあまり変わらないのでしょうか。

 だとすれば、この先に巨大な黒船が4隻も浮かんでいたのですね。

 燈明崎から海岸線を歩いて西叶神社の近くまで戻り、内陸部を歩いて久里浜駅を目指して歩きます。

 途中、古い家や店、蔵などが残っていて、当時の面影が偲ばれました。

 バス通りに別れを告げ、高坂小学校の下の細い道をテクテク登ります。そこから住宅街を過ぎ、やがて樹木に囲まれた切通しの道に入ります。

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 緑あふれる公園というより、昼尚暗い原生林みたいだなと思ったのですが、このあたりは江戸時代、「御林」といって、浦賀奉行所が支配した幕府の御用林だったらしい。

 江戸城は何度か火災に見舞われましたが、復興にはここからも大木が切り出され、江戸へ運ばれたそうなんですよ。

 椎の樹木帯が陽光を遮り、江戸と浦賀を結ぶ浦賀道の面影をよく残していました。

 幕末、ペリーが来航したとき、急を告げる知らせが何度もこの道を往復したのでしょうか。 
 真福寺というお寺の前を回り込むように続く道を歩き、オイラが最後に向かったのは、怒田城址。

 いや~、今日二つめの城ですか。

 しかも、はじめて訪れる城ということで胸がときめきます。

 それにしても、怒田城は「ぬたじょう」と読むそうですな。パンフにふりがながなければ、「おこったじょ~」と読み間違えそう。

 「ちゃんと城跡が残ってないと、怒ったじょ~」と叫びつつ、自分の秀逸なジョークにうけてしまってゲラゲラ笑いながら前に進みました。

 怒田城は、源平盛衰記にも登場する城だそうですが、すると平安末期から鎌倉時代に栄えたのですな。

 なれば、きっと丘の上にあるはずと、目をつけた緑あふれる丘陵へ一直線。

 急な山道をあがると、解説板があって、やはりドンピシャ、ここが怒田城址なのでした。

 この時代の城はほとんど山城だからですが、さっきの浦賀城に比べるとずいぶん内陸へ入ったところにあるなと思いました。

 あとで調べてみると、当時の久里浜湾はこの辺りまで深く入り込んだ入江になっていたのですね。

 ここに城を築いた三浦一族は、ここからもう少し奥まった場所にあった衣笠城を本城に、今より深く入り込んだ湾を取り囲むそれぞれの山に城を築いたみたい。 

 すぐ近くまで迫った海に、三浦水軍の軍船がつなぎ止められていて、そこは今も舟倉という地名になっているそうですね。

 パンフには、源頼朝が石橋山の合戦で敗北したとき、三浦一族も平家方に追いまくられて、衣笠城に立てこもったと書かれていました。そのとき、三浦義明の孫である和田義盛が「怒田城のほうが要害堅固だから、そちらで籠城して戦いましょう」と進言したと伝えられています。

 以前、衣笠城のある山へ登りましたが、急勾配にかなりの守備力があると感じました。多少息も上がりましたが、こちらの怒田城は一気に駆け上がって来ましたが…。

 当時は、今とは違って海に囲まれ、難攻不落と考えられていたのでしょうね。

 確かに、本城の衣笠城が落城するとき、その後安房に逃れた頼朝と合流する三浦一族は、この怒田城から船で逃れたと考えられるそうな。

 そんなにすごい城だったのですね、この城は…。

 今は、空堀や土塁、土橋の跡などが残っていますが、当時の城の面影を伝えるものは少ないです。

 それにしても、城を作ったとき、縄文時代の貝塚を掘り返しちゃったのですね。

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 縄文時代の貝塚と中世の城跡の解説板がコラボであるのは珍しいかも。

 やっぱりどの時代の人も、目をつける一等地は同じかもしれませぬ。

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三浦半島・浦賀 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 暑いですね~。謹んで暑中お見舞い申し上げます。

 さて、今回行ったのは、神奈川県三浦半島の浦賀です。

 浦賀といえば、日本史の好きな人は幕末を思い浮かべるかも。

 江戸時代末期、アメリカの海軍提督ペリー率いる四隻の黒船が来航したのが浦賀沖なのでした。

 それによって、泰平の眠りから叩き起こされた日本は、幕末の動乱を経て近代国家へと歩み始めるのですね~。

 「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで、夜も眠れず」と狂歌にうたわれたのは有名の話。

 恥ずかしながら、今までその意味がわからなかったんですよ。

 今回浦賀へ行って、ようやく秀逸なジョークが理解できました。

 なるへそ~。笑点でそれを答えたら、座布団二枚は確実にもらえそう。

 そのココロはのちほど…。

 ところで、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号は、全長78.3メートル、排水量2450トン、乗組員300名くらいだったとか。

 今でも、そこそこの大きさの船ですが、当時の人たちから見たらガミラスの遊星爆弾や未知との遭遇の巨大なUFOが飛来したくらいの衝撃だったのでしょうね。

 当時の日本の巨大船といえば千石船。 

 大きさは20メートル前後で、重さは100トンくらいでしょうか。

 当時の人から見たら、「島が動き出したような船」という表現も誇張ではないような気がしました。

 ところで、黒船が黒いのは、防腐・防水のためにタールを塗っていたかららしい。

 マグマ大使に出てくるゴアの宇宙船も黒だし、宇宙戦艦ヤマトに登場する超巨大戦艦も黒。鉄人28号のブラックオックスも黒ですよ。

 黒い巨大なものがいきなり現れたら、民衆がパニックを起こすのは必然のような気がしました。

 そんな当時の風雲急を告げる状況をイメージしながら、浦賀を旅してみようか、と…。

 ウォーキングのスタートは、京浜急行の浦賀駅です。ここはターミナル駅でもあるのですな。

 駅を出ると、巨大な倉庫のような建築物が続いています。

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 これらの建物は、100年以上にわたって船を建造してきた浦賀ドックの跡なのだとか。

 京急の駅でもらったお散歩マップによると、浦賀ドックは平成15年に閉鎖されたみたい。

 日本丸などの帆船や青函連絡船、大型タンカー、自衛隊の艦船などもここで作られたのですね~。

 入り口は質素ですが、歴史と威厳を感じました。

 中は見学できないので、敷地の外の通りをずっと歩いてゆくと、やがてレンガ塀越しにドライドックが見えてきました。

 お散歩ガイドによれば、「背が高い人は、背伸びをすれば塀の向こうのドックが見えます」と書いてある。

 おお~、オイラも背伸びをすれば中がよく見えまする。

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 176センチということで、背が高いという基準が最近、適用されなくなってきたと感じていたので、すこぶる気を良くして眺めました。

 歴史を感じさせるドックですが、それもそのはずで明治32年に作られたのだとか。隣に見えるクレーンは、昭和18年に作られ、一つだけ解体されずに残っているクレーンとのこと。

 最盛期は、こんなクレーンが建ち並んで、巨大な艦船を作っていたのですね。

 少し山のほうへ歩き、浦賀コミュニティセンターの分館へ寄ってみました。

 浦賀の歴史を紹介する小さな博物館なのですが、浦賀奉行所やペリー艦隊、勝海舟で有名な咸臨丸の模型などがあって興味深かったです。

 奉行所の与力だった中島三郎助という人をはじめて知りました。幕末の船の建造や函館の五稜郭で幕府方として戦って戦死するなど、波乱に満ちた生涯を送ったのですね。

 ところで、先ほどの「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで、夜も眠れず」という狂歌。

 この狂歌にでてくる上喜撰とは、上質のお茶のことだとか。お茶にはコーヒーと同じカフェインが含まれていて、飲みすぎると夜眠れなくなりますよね。

 そこで、上喜撰と蒸気船をかけ、黒船が現れたことによって、日本人が夜に眠れなくなるほどの衝撃を受けたということを表現したのですね~。

 それを知って、思わず、パチパチパチと拍手したオイラなのでした。

 浦賀コミュニティセンター分館を出て、再び浦賀駅のほうへ戻り、対岸の東浦賀と呼ばれる地域へ向かいます。

 浦賀水道を右手に眺めながらテクテク歩き、着いたのが東叶神社。

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 東叶神社というからには、西叶神社もあるのだろうかと思ったのですが、その通りで、浦賀の港を挟んで東西の叶神社が向かい合っているのだそうな。

 叶神社とは珍しいネーミングだと思いました。

 社伝によると、平家物語にも登場する文覚上人が、源氏の再興を願って房総半島の鹿野山に修行し、 もし自分の大きな願いが叶えられるなら、よい土地を選んで神社をたてることを誓ったそうな。

 結果は見事、源氏の再興どころか、天下を取ってしまったのですね~。

 そして文治2年(1186)には源頼朝公が源家再興願意成就の意を込めて神号を改め、叶大明神と尊称されたと伝えられているとのこと。

 夢が叶うから叶神社とは、実に人々のニーズを的確につかんだネーミングですな。

 これはしっかりお参りしなければ、と鳥居をくぐります。

 社務所の裏に洞窟のような場所があったので行ってみると、ここは勝海舟が咸臨丸での太平洋横断の前に、この井戸で水垢離をしたのだとか。

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 そのあと、この神社の裏山となっている明神山山頂で断食をしたらしい。

 お寺や神社のこういう因縁話は、多少眉につばをつけて聞かないといけない部分もありますが、時代が近いからこれはホントだろうと思いました。

 石段をあがり、しっかりお参りをしたあと、振り向くと青い海が見えます。

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 海に面して立つ神社も趣があっていい。

 境内の左手には、裏山へと続く急な階段があります。

 上ろうかどうしようか迷っていると、神社のおじさんに声をかけられました。

 頂上にのぼると海が見られるよ、とのこと。

 う~ん、海は上らなくても見られるし、どうしようかなと思ったら、なんとこの丘は城跡だと仰るではあ~りませんか。

 それを早く言うてくだされ~、上ります、上ります、とお礼を言い、脱兎のごとく石段を目指します。

 言われてみれば、海に向かって山が半島のごとく突き出した地形ですから城跡だと疑わないオイラがどうかしていました。

 20年以上も前にもこの神社に来たことがあるのですが、当時のガイドブックには城跡という記載がなかったような。

 あとで調べると、ここは浦賀城といって、小田原北条氏における水軍の海賊城だったらしい。

 北条氏と激しい戦闘を繰り広げた三浦道寸の築城らしいですね。

 確か、司馬遼太郎の「箱根の坂」で読んだことがあったなと思いつつ、急な石段を上りました。

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 さすがに戦国時代の城跡だけあって、難攻不落さが実感できます。

 もっとも当時は、頂上まで続く石段なんてなかったから、もっと大変だったと思いますが…。

 ようやく、頂上にたどりつくとそこには石垣に囲まれた社がありました。

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 その近くには、勝海舟が断食をしたといわれる場所に解説板が。

 海が見えるという崖の近くに行くと、広い東京湾を挟んで房総の山並みが見渡せます。

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 当時は、房総の里見氏との争いの拠点として、この城が重要な役割を果たしたというのも頷けます。

 この見晴らしは、三浦半島へ侵入する里見水軍の前線基地として打ってつけでしょうから。

 頂上付近の本丸から、尾根を歩いたり、崖を下りたりしてみました。

 空堀なども発見して、城の縄張りをイメージし、家に帰ってからネットで検索して、当時の縄張り図と比べるのが、オイラの城歩きの醍醐味のひとつ。

 思っていたより、大規模な城だったようですね。

 城跡歩きを堪能したあと、東浦賀から対岸の西浦賀へと向かうことにしました。

 直線距離はさほどでもないのですが、海岸線をまわると結構な距離を歩かねばならない。

 でも、ここには渡し舟があるのですね~。

 渡し舟に乗る前に、吉田松陰や桂小五郎が泊まった旅館という徳田屋の跡を探してみたのですが、解説板を発見できませんでした。

 だいたいあの辺りかなという場所はわかったのですが…。

 さて、渡し舟。

 渡し舟といっても、矢切の渡しのような木造船ではなく、こちらの船は江戸時代の御座船をイメージしたという強化プラスチック製の船なのですね~。

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 川ではなく、こちらは一応海ですからね。

 料金は150円で、3分ほどで対岸まで運んでくれます。

 行った日は、わりと風が強く、結構揺れたので料金以上の迫力を満喫できました。

 浦賀ドックや浦賀水道を取り巻く山なども、海から眺めると別の景色のように感じられます。

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 さて、これから西浦賀の町を歩くのですが、それはまた次回。

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埼玉県・加須 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 街を歩くと、マイケル・ジャクソンのポスターや在りし日のプロモーションビデオをよく目にしますね~。

 同い年ということもあって、オイラの青春時代はすごく気になる存在でした。

 …というか、当時、オイラの唯一の自慢は、全盛時代のマイケル・ジャクソンと同じ身長と体重ということでしたから。

 そういえば、トシちゃん(田原俊彦氏ですので、念のため)も、「日本のマイケル・ジャクソン」を目指すといつも言っていたのを覚えています。

 スリラーやBADのビデオを見てしまったら、誰でもその類まれなダンスに心が浮き立つはず。

 オイラも、身長・体重が同じというだけでは満足できず、マイケルの動きまで真似してみたいと思ったのです。

 当時はビデオなんてなかったから、テレビを見ながら頑張って真似して踊ってみるのですが、常人では、とてもあの素早い動きに対応できない。

 トシちゃんの「哀愁でいと」や「原宿キッス」は、バク転も含め、かなり忠実にコピーできたと自他ともに認めているのに…。

 マイケルの兆速のダンスには、一歩たりとも近づけなかったですね~。

 ムーンウォークなんて、いくら普通の人間が努力しても、絶対あの水準には到達できないのではないか。

 でも今、マイケル・ジャクソンの当時のプロモーションビデオを見て気づいたことがあるのですよ。


 身長・体重は同じでも、足の長さが倍ほども違っていた…。


 そんな簡単なことに気づかず、マイケル・ジャクソンにあこがれていたなんて…。

 天国のマイケルに謝りたい。

 やっぱり、若いのは怖い、と感じる今日この頃です。


 …ということで、またしてもお散歩ネタ。

 今回行ったのは、埼玉県の東北部にある加須。

 かつて、奥州街道の脇往還沿いの宿場町として栄えたらしい。

 ここへ行ったのは、まだ行ったことのない町ということもあるのですが、当日は天気予報で、午後3時頃から雨が降ると言われていたから。

 朝早くに家を出て、3時頃までに観光スポットをまわれるウォーキングコースだと踏んだからなのですね~。

 雨が降るとわかっていて、山歩きはかなりハードですし…。

 それはともかく、加須という地名は珍しいですよね。

 地元の人でないと、読めないかも。

 加須は、「かぞ」と読むそうな。

 地名の由来をネットで調べてみると、いろいろな説があるそうですね。

 たとえば、この地方の古刹を創建した人の名前に由来するとか、有力なお寺の別名に由来するとか、あるいは江戸時代の新田開発に由来するとか。

 新田を開発すれば、石高が加増しますから、加増がなまって加須…。

 どれもありそうな理由ですが、立派なお寺があって、広い田んぼが広がる土地だったのは想像できます。

 それから加須は、「鯉のぼりのまち」としても有名らしい。 

 なんと、鯉のぼりの生産量日本一を誇るそうな。

 それは知りませんでしたね~。

 行った日は、五月の初旬でしたが、やけにたくさん街中に鯉のぼりを見かけると思ったらそういうわけだったのですな。

 …ということで、ウォーキングのスタートは、東武伊勢崎線の加須駅。

 どんよりと曇った空で、今にも雨が降り出しそう。

 天気予報どおり、午後3時までは雨が降らないでくりぃ~と祈りつつ、歩きはじめました。

 まず向かったのは、駅から程近い場所にある千方神社。

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 「せんぽう神社」や「せんかた神社」ではなく、「ちかた神社」と呼ぶらしい。

 「千方」という社名は、平将門を討伐したことで有名な藤原秀郷の六男藤原千方が由来らしい。

 ということは、かなりの歴史がある神社ということですな。

 お祭などイベントがあるときは、露店なども出て賑やからしいのですが、静かな雰囲気が漂っていました。

 千方神社から古い家が建ち並ぶ道を通って向かったのが光明寺。

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 このお寺は、戦国時代の1571年に開山されたとのこと。本堂前には浄土宗の宗祖法然上人の銅像があります。

 清潔感漂う境内に足を踏み入れると、背筋がピーンと伸びますね。

 光明寺の裏手にあるのが、会の川。

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 この川の風景は、家の近所にあって今は暗渠になっている昭和時代の立会川の景観によく似ているんですよ。

 もちろん、こんなに川幅や道幅は広くなかったですが。

 川沿いを歩いてゆくと、やはりこの川も暗渠になっている部分があって、会の川親水公園となっていました。

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 この公園は、平成6年に完成したのですか。

 水遊びのできるせせらぎや花壇、ベンチなどが設けられています。

 噴水の水だまりでは、かなりの大きさの鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。

 さすが、鯉のぼりの街だけあって、鯉のぼりのモニュメントもありましたね~。

 しばらく親水公園を歩くと、再び川の流れが顔を覗かせます。

 やっぱりオイラは、こっちの景観のほうがノスタルジックな気分に浸れるような。

 昭和の時代には、うちの近所にもこんなレトロな石の橋もまだ残っていましたね。

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 しかも、まわりの商店を含めた景観が当時にタイムスリップしたかのよう。

 そんな懐かしい街並みを歩き、次の目的地の龍蔵寺に到着しました。

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 寺の門前で、絵を描いている人がいましたが、絵に残したくなるくらい見事な朱色の門です。

 この寺は、南北朝時代の1355年に開山されたとのこと。

 解説板には、この寺にちなんだ伝説が書かれていました。

 なんでも、このあたりは昔、鬼島といわれ、邪悪な白龍が棲んでおったそうな。

 教蔵上人という偉いお坊様が、これを退治し、この龍蔵寺を創建したのですね。

 白龍の飲料水であったという龍水井戸や退治した白龍の亡骸の頭のところに植えたという大イチョウが境内にあります。

 その大イチョウは、樹齢約650年、幹回りが4.3メートルもありました。

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 オイラが持っているガイドブックでは高さ50メートルとあったので、こりゃまさにスカイツリーを連想したのですが、どうやらミスプリで、実際は高さ約20メートルみたい。

 江戸時代には、徳川幕府から寺領を保護され、3代将軍家光から14代家茂にかけての9通の朱印状が当寺に保存されているのですな。

 1835年から9年間の歳月をかけて完成した本堂は荘厳で、将軍家からも厚く保護された風格が伝わってきました。

 ゆっくりしたいところですが、いよいよ厚く雲がたちこめ、いつ雨が降ってもおかしくない天候。

 先を急ごうと、大通りを渡り、住宅地をテクテク歩き、加須パイパスを越えて前進します。

 そして着いたのが、市民運動公園。

 ここはその名の通り、野球場やテニスコート、陸上競技場、プール、体育館を備えた加須市民のための運動公園なのですね~。

 行った日は、少年野球大会が開催されていたようで、多くの子供や保護者が野球場に集まっていました。

 これから雨が降るというのに、その熱意に脱帽です。

 この程度のコンディションで中止していたら、将来のハンカチ王子やマー君は現れないのかも。

 市民公園の中央広場に、平和の鐘と呼ばれる時計塔があります。

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 高台からは、公園が一望できました。

 藤棚もあったりして、一休みするには最適かも。

 しかし、雨雲に追われているオイラは、休憩もそこそこに次の目的地へ向かいます。

 田んぼの中の車道沿いにあるのが首なし地蔵。

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 首なし地蔵というからには、ミステリアスな伝説があるのかと思いきや、解説板には、「地元では、願い事がかなう地蔵尊として信仰され、願いが叶うと前掛けを奉納する習わしがある」と記載されていました。

 首があるように見えるのですが、どうやら普通の石を乗せているみたい。

 この地蔵は、江戸時代まで、付近にあった喜福寺という寺院の境内にあったもののようで、喜福寺が明治の廃仏毀釈によって廃寺になったため現在地にうつされたそうですね。

 願いをかけようと思ったのですが、願いが叶うと前掛けを奉納しに来なければならないので…。

 そして最後に向かったのが、関東三大不動尊の一つとして江戸時代から信仰を集める總願寺。

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 このお寺は、江戸時代の初期に總願上人によって開山されたそうですから、いままで参拝した神社仏閣より歴史は新しいのですね。

 急速に発展したのは、館林城主の庇護を受けたところが大きかったそうな。

 ちなみに、関東三大不動尊とは、このお寺のほかに成田山新勝寺と高幡不動なのだとか。

 どちらも、地元の人たちばかりではなく、多くの地域から信仰を集める大寺院です。

 オイラのブログでも、ご紹介しましたね~。


 …ということは、このお寺をお参りすれば、関東三大不動尊を全部お参りしたことになるのですか。

 これは、ご利益が期待できそう。

 境内の広さや門前町の大きさは一番小さいものの、趣のある建物が並び、さすが由緒あるお寺の風格を感じました。

 まずは、金色の山門。

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 百年ぶりの大改修の一環として、山門の改修が行われたみたい。以前朱色から金色に生まれ変わったのですか。

 金色とは珍しいかも。

 本堂は、幕末近くの1844年に建立されたらしい。解説板を読むと、本尊の不動尊像は、1039年に古利根川の大洪水でこの付近に漂着したという伝説があるそうですね。

 本堂の脇には、鎌倉時代末期に作られたという散蓮華模様青石塔婆という板碑がありました。

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 珍しい模様なのだそうですが、素人にはよくわかりませぬ。

 そして注目すべは、境内の西側にあるこの黒門。

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 なんと、1842年に作られた忍城の城門だったとか。

 それを明治6年に移築したそうですね。

 お寺に来て、城の遺構を見られるなんて得した気分。

 …と思ったら、ポツポツとお約束の雨が頭上から降ってきました。

 時計を見ると、午後2時半。

 雨に追われたウォーキングも、どうやら逃げ切ったようですね。

 でも、加須駅まで土砂降りの中をトボトボ歩く時間は計算に入れてなかったのでした。

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蔵の町・雨の川越 ウォーキングストーリー2

 こんにちは。

 今日は、川越シリーズの2回目。

 前回は、大雨の中、喜多院を見学したのでした。

 これからいよいよ、川越のメインストリートを歩くぞ、と意気込んで、蔵の町エリアへやってきました。

 でも、喜多院をじっくり見学したので、昼時をかなり過ぎている。

 腹が減ってはウォーキングができぬと、少し遅めの昼食にすることにしました。

 洗練された観光地のいいところは、飲食店の情報が充実していることですよね。

 朝、バスに乗る前にもらったパンフに書いてある飲食店を探します。

 オイラが選んだのは、札の辻という蔵の町の中心地から程近いところにある和食レストラン。

 芋釜めし、とはちょっと珍しいかも。

 そういえば、川越はイモを使ったお菓子や料理が名物なのでした。

 千円とちょっとなので、さっそくそれを注文です。

 これが芋釜めし。

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 若干、食いかけですが…。

 オイラが、お散歩先でグルメ写真をアップするのは極めて珍しいですな。
 
 いつも、ファストフードばっかりだし。

 どこへ行っても、名物店は混んでいて、とても並んで入る気が起きないのですが、雨の日はどこへ行ってもすいているのがいいですね~。

 芋釜めしを食べ、外へ出ると相変わらずの雨。

 しかも、完璧にさっきより雨脚が強くなったのがわかります。

 でも、驚いたことに、決して少なくない観光客が傘をさして歩いているんですよ。

 この悪天候の中ですから、晴天だったらすごい人ごみになっていたかも。

 ポジティブに考えるようにして、まず川越のランドマークタワー「時の鐘」へ。

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 高いものを見ると昇りたくなるオイラの琴線に触れる塔ですな。

 高さ、16メートルというからそれほど高くはありませんが、まわりに高い建物がないのと、何と言っても木造板張りのタワーって珍しい。

 そんじょそこらのビルとインパクトが違います。

 地上600メートルを誇る東京スカイツリーも、ツリーと言うだけあって、ホントに木造で作ったらすごいでしょうね。

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 怖くて誰も昇らないでしょうけど…。
 

 それはともかく、この「時の鐘」。

 初代は、江戸時代初期に川越城主の酒井忠勝が、こことは別の場所に建てたものが最初らしい。

 現在の鐘は四代目だそうで、明治半ばの再建だとか。 中は3層になっているそうですね。

 時の鐘というくらいだから、江戸時代から約350年間も、川越の町に「時」を告げてきたのですな。

 現在は、毎日、午前6時・正午・午後3時・午後6時の4回、鐘の音が鳴り響くのだとか。

 誰が一日4回もここに昇って鐘を撞くのだろうと思ったら、今は機械仕掛けなのですか。

 でも昔は、ここに昇って鐘を撞く人がいたのでしょうね。

 高いところと、鐘を撞くのが好きなオイラは、物欲しそうに見上げます。

 時の鐘の周辺は、ご存知、蔵造りの店が並んでいます。

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 重厚な黒い壁、そして堅牢な瓦屋根。今でも地方の古い町へ行くと、たびたび土蔵造りの店蔵を見ることができますけど、これだけ一そろい蔵が並ぶ景観は珍しい。

 さすが「小江戸・川越」と思ったのですが、これらの蔵のすべてが江戸時代からのものではないそうですね。

 なんでも、明治26年の川越大火があったとき、江戸時代から続く蔵造り建物が無事だったそうなんですよ。

 それで火事に強い建物ということで、これだけ多くの蔵造りの建物が作られたとのこと。

 現在、この周辺は、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、つい最近には「美しい日本の歴史的風土100選」にも選定されたらしい。

 きっと、江戸時代の日本橋とか、当時の繁華街はこんな感じだったのかもしれませんね。

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 昔に思いをはせ、ボーッと美しい街並みを眺めていたかったのですが、どんどん雨が強くなってきて、このままではやばい状況に立たされそうだったので、雨宿りすることにしました。

 おかげさまで川越には、雨宿りする場所には事欠かないのですね~。

 まず向かったのは、すぐ近くにある川越市蔵造り資料館。

 入館料100円なのもうれしい。

 ここは、かつて川越大火の直後に、当時、タバコの卸商を営んでいた小山文造氏が建てたものだとか。

 つまり、明治時代の中頃に建てられたのですな。

 でも、江戸時代の雰囲気もよく残しているのではないかと思いました。

 通りに面していて、間口はそれほどないものの、奥行きがすごくあるところ、とか。

 通りに面している部分は、店蔵や住居部分、そして奥に行くに従って、文庫蔵や煙草蔵、そして文庫蔵の順に並んでいます。

 小さな庭もあって、通りの喧騒とは別に静かな雰囲気が漂っていました。

 この庭からも「時の鐘」が見えます。

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 当時ここに住んでいた人は、東京人が東京タワーを眺めるイメージだったのかも。

 店の二階から、広い通りを覗けるのですが、鉄格子越しに外を眺めるのは不思議な気分。

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 二階へ上がる階段は狭くて急だし、しかも出入り口は一つだけ?

 窓には鉄格子がはまっているし、火事のときはどこから逃げようかと避難路を考えてしまいました。

 防火性が高いから、窓を閉めて篭城してしまえば大丈夫なのでしょうか。

 店蔵には、レンガ造りの地下貯蔵庫も設けられていて、城好きとしては抜け穴などいろいろイメージが膨らみます。

 もうひとつ別の蔵も見学しようと、次に向かったのは大沢家住宅。

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 なんと、この建物は重要文化財なのですね~。

 作られたのは、江戸時代中期の寛政年間とのこと。

 当時は、呉服太物を商っていた店蔵らしい。呉服はわかるけど、太物って何?と思い、この前買った電子辞書で調べてみました。

 何でも、絹織物を呉服というのに対し、綿織物・麻織物を総称した語らしい。

 載っていたのはさすが広辞苑ですが、説明が難しくてよくわかりませぬ。

 要するに、着物関係を扱っていたお店なのですな。

 この建物は、明治の川越大火の際も焼け残り、川越商人に蔵造りを建てさせるきっかけとなった建物の一つなのだとか。

 蔵の町・川越のルーツともなった建物なのですね。

 一階は、今でも川越観光のおみやげ物を売っていましたが、二階は見学できるそうなので入館料を払って入ります。

 話好きなおじさんが一生懸命解説してくれて、独特の建築様式がよくわかりました。

 太い大黒柱が二本もあり、二階は、16畳の広間のほかにも四部屋もあるのですね。

 お城や古民家を見慣れているオイラでも驚いたのは、箱階段の幅が狭くて急なところ。

 ここを日常、平気で上り下りしていたのだから、当時の人たちのバランス感覚はすごいと思いました。

 「いや、あんなものじゃないよ、こっちを見てご覧よ」とおじさんに言われて、今は使われていない裏の階段を見せてもらいました。


 おおおお~、すごい!! ほぼ垂直の階段。

 上から覗き込むと、階段と言うより、切り立った崖を上から見下ろすような感じです。

 しかも、手すりがない。

 現代人の会社や住宅にこんな急な階段があったら、日に何人かは転げ落ちる人が出るのは間違いない。

 打ち所が悪ければ、天国へ行く人も出るのではないか。

 でも、当時の人は平気で荷物を持って上り下りしていたのだとか。

 おじさんに聞いてみると、爪先立ちで上ったり下りたりしていたそうですね。

 かかとは使わなかったそうな。

 もっとも、かかとを置くほど階段の奥行きがありませんが。

 江戸時代や明治時代の人たちが小さくてやせているのはわかりますが、軽業師のような身のこなしができていたのは意外でした。

 大沢家住宅を出て、最後に向かったのは菓子屋横丁。

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 観光のために作られたのなら、昭和ブームのいいところに目をつけたなと考えていました。でも、ここはもともと、明治の初めから菓子を製造していました地域なのですね。

 なんでも、関東大震災で被害を受けた東京に代わって駄菓子を製造供給するようになったとか。

 現在も十数軒の店舗が集まっているのですね~。

 昭和の街並みと昔食べた駄菓子を楽しみにしていたのに、大雨で閑散とした雰囲気。

 前回来たときは、すごい混雑していて、駄菓子をゆっくり買う気がおきなかったのですが、すいていると逆に店に入りづらかったりして…。

 イモのアイスクリームを食べたいと思っていたのですが、行った日は寒いくらいだったのでパスせざるをえませんでした。

 もっとも、昭和の下町も大雨の日はこんな感じだったなとノスタルジックな気分に浸りながらバスに乗り込んで駅へ向かったのです。


 …が、しかし。

 川越の駅についたとき、またも大失態を演じたことに気づきました。

 ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~また、七福神めぐりの最後のお寺をお参りするの、忘れたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~


 また、いつか川越へ行かねばなりませぬ。

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雨の川越 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 去年の年末から粛々と続けてまいりました出版作業。

 ようやく、オイラの仕事は完了し、あとは印刷所での入稿、校了、印刷作業を待つばかりという段階に到達しました。

 ブログが滞りがちだったのに、温かく見守っていただきまして、どうもありがとうございました。

 村上春樹氏の「1Q84」を真似して、出版まで何の情報も…。

 …というほど、オイラは大物ではありませんので、さらっと紹介させていただきますと、今回も病気の本です。

 頭や胸、おなかなど病気が起きる場所ごとに章が分かれておりまして、見開きの左側にカラーの図版や解説、用語解説などがありまする。

 図解入門シリーズで有名な出版社さんだけあって、イラストは、いい仕事していますね~。

 そして右側には病気の解説文やポイントなどがコンパクトにまとめられておりまする。

 本も、A5版で前回の本より若干大きいっす。

 校正原稿を見せてもらいましたが、読みやすいし、見やすいし、これってホント、オイラが書いたの? というくらいの出来栄えに仕上がっていました。

 コラムも、トリビア感がなかなか。

 …と、自己満足、ポジティブ思考にどっぷり浸かっている今日この頃なのでした。

 いろいろお世話になっているので、なんか、ご恩返しなぞしたいと考えてはいるのですが…。

 出版までもう少し時間があるので、それは宿題ということで。


 さて、お散歩ネタ。

 今回行ったのは、埼玉県の川越です。

 以前、オイラのブログでもお散歩ネタとして取り上げた場所ですね。

 前回は、川越七福神めぐりにチャレンジして、最後のお寺のお参りを忘れるという大失態を演じたのでした。

 あれから、最後に残ったお寺のお参りをしなければと思いつつも、かなりの時間が過ぎてしまったのですね~。

 それはともかく、川越は現在、NHKの朝の連続テレビ小説の舞台として脚光を浴びているらしい。

 今回は、前回スルー気味だった、蔵造りの街並みや喜多院、菓子屋横丁という観光スポットに絞って行ってみることにしました。

 それからもちろん、七福神めぐりの成就も。

 かなりのタイムラグで、ご利益は期待できるのだろうかと若干不安なのですが…。

 しかし、行こうと思っていた日は、なんと朝から雨…。

 しかも、大雨ばかりではなく、風や雷にもご注意と天気予報のおねーたんが話しているのでした。

 うぬぬ、どうしよう…。

 しかし、こんな雨の中、観光に行く人は少ないだろうとポジティブに考え、決行することにしたのです。

 天気のいい土曜日だったら、テレビ小説の効果でとてもゆっくり観光できないでしょうからね。

 防水のウインドブレーカーに防水シューズで固めたオイラは、東武東上線の川越駅に降り立ちました。

 駅ではやはり、『つばさ』のポスターやパンフが並んでいます。パンフを手に取ると、裏にはこれもお約束の「受信料のお支払い」のお願いが…。

 うちは口座振替にしているのですが、衛星契約にすると結構な金額になるのですね。

 元を取るくらいNHKを見なければ、と思いつつ、何気に駅の広いコンコースを見回すと、市内のバスが乗り放題で300円というポスターが目に留まりました。

 これは、安いと早速チケットを買い求め、バスの乗り場に向かいます。

 まず向かうのは、川越大師喜多院。

 前回も来たのですが、観光の目玉でもある三大将軍「徳川家光誕生の間」や「春日局化粧の間」は、スルーしてしまったのでした。 

 昔、入ったことがあると言っても、20年前ですからね。今日は、じっくり見学してみようと思いました。

 バス停を降り、雨の中、小走りに喜多院の山門へ向かいます。

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 この山門は、寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたそうですね。

 その後起こった川越の大火からも焼失を免れ、喜多院では現存する最古の建物なのだとか。

 広い境内は、桜の名所としても有名で、テレビで見たときはものすごい混雑振りでした。

 ところが今日は、静かな雰囲気が漂っている。ゆったりした風情を感じるのは、雨の日ならではの醍醐味かも。

 雨に煙る多宝塔がいい味を出しています。

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 この塔は、バランスがよくて美しいと評判らしいですね。

 今日はすいているから、ゆっくり中を鑑賞できるだろうと喜多院の客殿と書院に向かいました。

 入り口で拝観料を払おうとすると、OH!NO~、今日は千円ですか。

 いつもは400円なのに…。

 特別展をやっているから、別料金みたい。常設展と特別展と分ければいいのに、と思いつつ、庫裏から中に入ります。

 着物や絵画、鎧兜に刀剣類など貴重な寺宝の数々が、客殿や書院に所狭しと展示してあります。

 千円の元を取ろうと、目を皿のようにして眺めましたが、頭のハードディスクの容量が最近落ちているので、あまり記憶に残りませぬ。

 写真は撮ってはいけないそうだし…。

 でも、警備員のおじさんに聞いたら、庭は好きなだけ撮ってもいいそうなので、お言葉に甘えてパチパチ撮影しました。

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 雨に濡れているためか、新緑がとても鮮やか。

 土砂降りの中、傘を差して日本庭園を歩くのは大変ですが、広い縁側から眺めると、雨のまた庭園の美しさを際立たせる演出にも思えてきますな。

 そして、いよいよ「家光誕生の間」へ。

 どうして、川越に家光の生まれた場所があるの?という疑問も湧きますが、もちろん家光が川越で生まれたわけではないのですね~。

 家光が生まれたと言われる御殿が、川越に運ばれたらしい。

 現在、喜多院の客殿や書院、庫裏となっている建物は、江戸城紅葉山にあった別殿を移築したものなのですな。

 何でも、寛永15年の大火によって、当時の喜多院の建物のほとんどが焼失してしまったとき、三代将軍家光が移築を命じたとのこと。

 結果的に、江戸城唯一の遺構として残されたのですね~。

 さて、「家光誕生の間」の広さは、12畳半だというのですが、部屋中に特別展ということで鎧兜が並んでいるので、むしろ狭い印象でした。写真に撮りたいところですが、年季が入っているから当時の豪華絢爛という風情はないような。

 「オイラは生まれながらの将軍なのじゃ~」と外様大名に大見得を切った三大将軍がここで生まれたとは不思議な感じです。

 興味深かったのは、近くに湯殿と厠、つまりバスとトイレが設けられている点。

 いわゆる当時の住居だから、トイレとバスがあるのは当然ですが、将来の将軍が生まれた建物なのに、思っていたよりずっと質素なのには驚きました。

 トイレとバスが隣同士にあるのは、ユニットバスみたいだし…。

 徳川の初期だし、家光が生まれた頃って、まだ大奥はできてなかったと記憶しています。

 まだ、戦国時代の気風が残っていたのかも、と考えたのですが、こればっかりはオイラはよくわかりませんので念のため。

 次に向かったのは、「春日局化粧の間」。

 ここも思ったより質素な造りですが、二階にあがることもできるそうなので、急な階段を上って見学します。

 それにしても、手すりのない急な階段。当時、着物を着た女性たちがホントに、上がり降りしたのですよね。

 かなりのバランス感覚と運動神経が必要だと思うのですが…。

 中二階といわれる部屋は、天井の高い屋根裏部屋という雰囲気。

 当時は倉庫のような役割があったらしいのですが、ここで、折檻なんかも行われていたかもしれませんと、音声解説がありました。

 確かに、見上げてみると縄をかけて吊るすのにお手ごろな梁もあったりして。

 昔見た、大奥を舞台にした映画のワンシーンがフラッシュバックします。

 昇るときは大変でしたが、さらに降りるときはもっと大変で、上り下りだけでも折檻になったのではないか、と…。

 特別展の展示も見ながら客殿を後にし、喜多院の本堂になっている慈眼堂に向かいます。

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 雨の中、外へ出なくても渡り廊下でつながっているのがうれしい。

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 それにしても風情のある廊下で、自分がお坊さんになったみたいですね。

 しかも、廊下の途中に休憩できるスペースがあって、そこからの庭の眺めも素晴らしかったです。


 本堂の畳の上に座り、しっかりお参りをしました。

 建物を出て、境内からも本堂にお参りしたあと、最後に向かったのが五百羅漢。

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 こちらも境内にあって、日本三大羅漢の一つに数えられるそうですね。

 傘を差しながら写真を撮ったら、ブレブレに…。

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 手振れ防止のケータイカメラが欲しいっす。

 それはともかく、これらの羅漢さまは、江戸時代の後期に、約50年間にわたって建立されたそうな。

 よく見ると、笑ったり、泣いたり、怒ったり、表情を一つひとつ眺めているだけでも楽しいのですが、雨が強くなってきて…。

 これはたまらんと、次の目的地へ向かうことにしました。

 さすがにこの大雨の中、観光客が少なくてゆっくり眺められるのはいいのだけれど、ゆっくり眺めているとびしょ濡れになってしまう。

 テクテク歩き、ようやく川越観光のメインストリート、蔵の町エリアへ。

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 さて、これから雨の川越のメインストリートを歩くのですが、それは次回。

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青梅の三古城 ウォーキングストーリー with 出版にまつわるエトセトラ

 こんばんは、ご無沙汰いたしておりまする。

 ちょー、忙しくて、なかなか更新できませぬ。

 でも、ここで途切れたら、一生更新ができなさそうなので、頑張ります。

 忙しいのは、懸案となっております、出版の件。それと、お役所から依頼された委員会の議案、その他モロモロ。

 出版もようやく、本文の原稿を書き上げたと思ったら、そこからがまた長かった。

 今回の本は、見開き半ページがイラスト満載の図版になるのですよ。

 イラストの解説文、重要用語の解説文、各章ごとの扉の文章まで書き上げてようやくほっとしたら、文字数を間違えて、全部文字を削らなければならなくなってしまいましたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~

 それでも、なんとか目処が立ったと思ったら、各章の終わりにコラムを9本も書かないといけなくて…。

 でも、ようやくゴールが見えてきたので、ロス五輪のマラソンで感動のゴールを果たしたアンデルセン選手を見習って頑張ろうと思いました。

 …ということで、お散歩ネタ。

 なぜ、忙しいのにこんなに長く書けるのかと疑われそうですが、以前、書いてあった文章があったのですね~。

 

 何気に図書館の本を物色していて、また面白い本を見つけました。

 それは…。

城巡礼 諸行無常東京48カ所めぐり
出版社:東京地図出版 (株)



 面白いといっても、城好きでなかったらたぶん、手に取る人はいないだろうと思いますが…。

 最近の本は、書店で目立つように、赤とか、黄色とか、ピンクとか、けばい色が多いような気がします。

 なのに、この本の表紙は黒が基調。

 本の内容のわりに薄い本なので、図書館の「お散歩の本」コーナーに埋没してほとんど目立たなかったのです。

 しかも、「城巡礼 諸行無常東京48カ所めぐり」のいうタイトルが、なんとも鄙びた地味なイメージがしました。

 内容は素晴らしいのだから、たとえば…。

「女子高生の聖地・渋谷に城があったってホント?」とか、「女子大生混浴露天プロ連続城跡殺人事件」みたいなネーミングにすれば、もっと注目を集めるのではないか。

 もっとも、内容が城跡ですから、やっぱり城好きだけが手に取ればいいわけで…。

 タイトルはともかく、東京の城跡にしぼって、専門的な解説を加えているところがグー。

 見る人が見れば、東京にもかなり城があったのですね~。

 たとえば、港区虎ノ門は起伏のある土地ですが、やはり城があったらしい。

 世田谷城や渋谷城は知っていましたが、この本で読んではじめてその存在に気づいた城も少なからずありました。

 この本を読んでいて、青梅のあたりに、まだ訪れていない城がいくつかあることに気づいたんですよ。

 しかも、写真で見る限り、かなり遺構がしっかり残っているみたい。

 青梅といえば、何度か訪れた場所。地図で見る限り、その100メートル近くまで接近していながらスルーしてしまった城跡があったのでした。

 これはリベンジを果たさなければならない、と、花粉が飛び交っていた2月末、まだ見ぬ東京の古城探検に出かけたのです。(← 古いネタですいません…)

 スタートは八高線の金子駅ですな。

 立川から八高線に乗って駅で降りたら、なんと小宮駅でしたぁぁぁぁ~

 一度も来たことがない駅なのに、なんか前に来たことがある駅だと思ったら

 なんと、立川で逆方向へ向かってしまったのでした。しかも、降りて駅前を歩き出すまで気がつかないとは…トホホ

 せっかく、立川まで最安ルートで入ったのに。

 花粉症で頭の中が相当いかれていたのですな。

 再度、金子駅に向かい、今度は地図にそって霞川沿いの道を歩きます。

 「城巡礼 諸行無常東京48カ所めぐり」を見ると、行き方についての詳しい記述があるので、今度は迷わず、最初の目的地「今井城」へと到着しました。

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 住宅地の中に、忽然と土塁が現れるのはおお~と思いますね。

 もっとも、今井城からしたら、勝手に周りに住宅が建ち並んだ、ということなのでしょうけど。

 城跡の広さは、約8,500平方メートルというからそれほど広くはない。城というより館のイメージでしょうか。

 今井城は鎌倉時代の武将、今井四郎左衛門経家の子孫が代々居城としていたそうな。

 発掘調査の結果からも、室町から戦国時代の中世城郭のあとだと解説板には書かれていました。

 館と書きましたが、その縄張りや高くて広い幅を持つ空堀は、十分城ファンをうならせる規模です。

 土塁の一番高い部分に上ると、当時の城の様子がイメージできます。どこにどんな建物があって、どんな人たちが住んでいたのだろうと考えるのが城跡ウォッチングの醍醐味のひとつ。

 郭と郭をつなぐ土橋の跡なんかもあったりして、住宅地のなかにこれだけの城跡が残っているのは驚きでした。

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 しかも、草刈りが頻繁に行われているようで、くまなく歩き回ることができるのもグッドですな。

 ただ、入口がわかりづらいことや解説板も古いものしかなかったので、そちらも整備してほしいと思いました。

 近くの民家の犬にワンワン吠えられて、逃げるように今井城を後にし、次の目的地藤橋城へ向かいます。

 台地をくだって、ふたたび霞川のほとりを歩きます。

 このあたりは田んぼが広がり、奥多摩の稜線がかすんで見えました。

 その田園風景の中に、島のように樹木の茂る高台が藤橋城。

 今井城から20分くらい歩いただけで、別の城にたどりつけるのだから驚きです。

 青梅は、城銀座とも呼べるのではないか。

 もっとも、興味のない人だったら、藤橋城址は何の変哲もない普通の公園ですが…。

 公園化されていて、樹木や遊具などもありますが、よく見ると植え込みの下に立派な土塁も確認できました。

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 藤橋城は、築城の時期や作った人が誰だかわからないらしい。ただ、平山重吉という武将が城主だったそうですね。

 そういえば八王子のほうには、京王線の駅に平山城址公園という駅もありました。

 平山重吉の藤橋城も、滝山城主であった北条氏照の攻撃を受けて落城したそうです。

 当時の城がどの程度の規模だったのかわかりませんが、滝山城址の壮大な規模に比べたら、この城の規模はあまりにも小さい。

 攻められたらひとたまりもなかったのでしょうね。

 田んぼの中の道を通って、次の目的地へ向かったのですが、後ろを振り返ると、土塁がいい感じで周囲の景色にマッチしています。

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 何度も後ろを振り返りながら、歩きました。

 次はいよいよ、本日のメインディッシュの勝沼城へ向かうのですが、その前に以前訪れたことのある塩船観音寺にふたたびお参りすることにします。

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 このお寺は、なんと大化の改新で有名な大化年間にはじまるのだとか。

 仁王門は、寿永三年(1187)の建立で重要文化財なのですね~。

 茅葺の本堂も重要文化財。こちらは室町時代に作られたのですか。

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 屋根の曲線が美しい。

 ところで、塩船観音寺といえば有名なのは、つつじ。

 行った日は二月の終りだったのでつつじの時期ではなかったですが、本堂から祈願堂へ向かうと、境内の周囲がぐるりとすり鉢状の斜面に囲まれているのがわかります。

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 なんと、この広大な斜面につつじが植えられているのですね~。現在、境内には約1万7千株のつつじが植えられているのだとか。

 ちなみに、新東京百景にも選定されているそうですね。

 塩船というネーミングは、周囲の地形が小丘に囲まれ、あたかも小船のような形状であることから名づけられたらしい。

 天平年間に僧、行基が『塩舟』と名づけたそうな。

 つつじは咲いていませんでしたが、緑の斜面だけでも絶景です。

 丘の上に上ると、広い境内を見渡すことができました。

 ここにつつじが咲き乱れたらすごいでしょうね。

 塩船観音寺を後にし、勝沼城を目指します。

 数年前に青梅を訪れたとき、この近くにも来ているのですが、この近くにこんなにたくさん城があるとは気づきませんでした。
 
 そういえば、前回青梅の塩船観音寺へ来たときはこの城の真下を通ったのでした。


 ガイドブックに載っていなかったのですが、当時はこんな見ごたえのある城を見落としていたのですからね。

 こんな優れものの城跡があったのに、天下の有名出版社のガイドブックがスルーするなんて…信じられない…。

 それはともかく勝沼城も、築城の時期やだれが作ったか不明らしい。しかし、鎌倉時代の末期以降は幕府の御家人だった三田氏が城主を務めていたそうな。

 今井城同様、ここも入口がよくわかりませぬ。

 今は、妙光院と光明寺というお寺の裏山にあると言うことを聞いていたので、妙光院の左手の小道から登ります。

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 今は広い墓地になっている土地は、形状から見ると当時の郭の跡みたい。

 死んだあと、城跡に葬られたら城ヲタクとしては本望だと思いながら、道を歩きます。

 土塁や空堀もしっかり残っているし、本丸とおぼしき場所からの眺めもまずまず。

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 それにしても、これだけの城跡がそっくり残っていながら、あまり整備されていないのは仕方ないとしても、解説板もほとんどないのはいただけませぬ。

 城は、当時の人たちのアイデンティティーを象徴するものであったはずですし、今も地域の財産として、心の拠り所であってもしかるべきだと思うのですが…。

 その理由を知るためには、やはり城跡の登記簿謄本をとってもみないとわからなかったりして…。

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日本桜の名所100選・茂原 ウォーキングストーリー

 こんばんは。

 さて、、今回行ったのは千葉県の茂原市。

 太平洋に近く、温暖で自然がいっぱいのところなのだとか。

 茂原へ行こうと思ったのは、まだ一度も訪れていない町だからというのが一番の理由です。

 でも、行くんだったら春がいいみたいですよ。

 …というのは、日本桜の名所100選にも選ばれた茂原公園があるからなのですね~。

 ネットで調べたら、ちょうど、「桜まつり」も開催されているそうなので一か月ぶりにお散歩に行くことにしました。

 ついでに桜の名所100選について、ネットで調べてみたんですよ。

 さすがに、弘前公園や吉野の桜など、日本が世界に誇る桜の名所がランクインしていました。

 ちなみに、東京都内の桜の名所は、以下の五つ。

東京上野公園
新宿御苑
隅田公園
小金井公園
井の頭公園

 わりと人生を長く生きているから、これらの公園全部、桜が満開の時期に行ったことがあります。いずれ劣らぬ、ゴージャスな桜の名所であることは間違いありませぬ。

 これらと同じ土俵に選出された、茂原公園とはどんなところか、期待が膨らみます。

 JR茂原駅の南口を出て、地図に従って茂原公園を目指して歩きます。駅から徒歩で30分ほどかかるのですね。

 歩きながら、そういえば茂原って、オイラの学生時代の知り合いに関係している場所だったと思いだしました。

 大学生になったとき、一年間ほどアパートを借りて住んだことがあったのですよ。

 隣の部屋に入ったのが、同じ大学の同級生。

 だけど、三浪の人だったので、みんなは「先輩」と呼んでいました。

 その人がすごいプレイボーイ(今や死語?)で、毎月、彼女を変えているのです。毎晩遊び歩いているのだから、夜も遅くならないと帰ってこない。

 アパートの部屋の前で、いつも「先輩」の帰りを毎晩待っている女性がいました。冷たい板敷の廊下に座り込んで、文庫本を読んでいるのです。

 「先輩」は、彼女とは別れたと言っていたのに、彼女のほうでは別れたという認識はないみたい。

 一週間も毎日通ってくるので、気の毒になったオイラは、やっぱり同じアパートに住んでいた別の同級生と一緒に、廊下に座り込んで身の上話をいろいろ聞きました。

 聞いてみたら、100パーセント「先輩」が悪いので、同級生と二人で腹を立てたのです。実はその女性が住んでいたのが茂原でした。

 こんな遠いところから、毎日通っていたのですな。

 当時の彼女の苦労を思い出し、少し重たい気分で商店街を歩きます。

 ある商店の店頭を何気に見ると、おお、これはクワっすか。

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 まわりに畑がないのに、クワや竹かごを売っている店があるのですね。

 通り沿いには、古い家もところどころにあってうれしくなります。

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 しばらく歩くと川にぶつかりました。市内の中央を流れる豊田川らしい。

 水辺の緑と近代的な建物がいい味を出していますな。

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 東京は、ビルには不自由していませんが、こういう緑あふれる川は意外と少ないかも。

 ただ一つ目立つ高層ビルは、市役所の庁舎でした。市内のどこからでも見られるのはいい目印ではあるのですが、いつもお役人に見下ろされているのもどうか、と…。

 市役所の近くにあるのが、藻原寺。

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 藻原寺は、そうげんじと読み、「茂原市」の市名の由来にもなったお寺らしい。さすがに、「そうげんし」とはならなかったのですな。

 日蓮聖人が、お題目初唱をした霊場として知られる日蓮宗の名刹なのですね。

 このお寺のシンボルとなっているのが、山門。

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 竜宮城を思わせる多宝塔式の山門で、高さが24メートルもあるのだとか。

 境内にも桜が植えられて、思わず足を止めて見とれてしまいます。

 古い木造建築と桜のコラボは、日本人のDNAを刺激して郷愁をそそられますな。

 藻原寺の境内では骨董市が開かれ、古い彫刻やら、古い時計やら、着物や洋服やら、ゆっくり眺めました。

 歴史好きだけど、骨董にはそれほど興味がないオイラが注目したのは、古い雑誌。

 おお、30年くらい前のプロレス雑誌じゃ~!!!

 ドリーファンク・ジュニア、バーン・ガニア、ジン・キニスキー、ペドロ・モラレスなどそうそうたるプロレスラーが表紙を飾っている。

 今日訪れた人たちで、これらのレスラーの名前を全部言えるのはオイラだけかも。

 よっぽど買おうかと思ったのですが、うちの押入れを探せばあるかも、と思って眺めるだけにしました。

 目指す茂原公園は、藻原寺の裏に広がっているみたい。楽しみはあとでと、先に鷲山寺にお参りします。

 藻原寺と違って、こちらのお寺は訪れる人もなく静かな佇まいでした。

 境内で目に付いたのは、「元禄津波供養塔」。

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 徳川綱吉の元禄時代に、地震による大津波によって太平洋に面する九十九里や白子の人たちが津波によって大勢亡くなったらしい。その供養塔なのですな。

 現代も、首都直下型の地震は来るのでしょうね。

 そのときは、家に押しつぶされて危ういだろうと思いつつ、それなら、今のうちに桜を眺めておこうと足を速め、茂原公園へ向かいました。

 茂原公園は、昭和初期に開設され、さくらはソメイヨシノなど約2,850本が植えられているとか。

 行った日は、六分から七分咲き程度でしょうか。

 満開の一歩手前で、園内が桜であふれかえっているという雰囲気ではなかったです。でも休日だったので、桜を見に大勢の人たちが集まっていました。

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 この公園の特徴的な風景は、池と赤い弁財天の建物と橋、そして桜のコラボでしょうか。

 この池は、弁天池といって、もともとは用水池として作られたらしい。約16万平方メートルの敷地内には、桜のほか、ツツジやシダ等も植えられているそうですね。

 池と赤い歴史のある建物、そして桜のピンクは色彩的にも相性は抜群。

 それほど桜の本数は多くないようですが、その見事なコラボが桜の名所100選の理由なのではないか、と…。

 ホントは、もう少し満開の桜が見たかったのだけれど…。

 それでも芝生の広がる野外ステージでは、バンドや太鼓演奏、踊りなどのイベントが開催され盛り上がっていました。

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 そして、茂原公園の奥にあるのが、茂原市立美術館・郷土資料館

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 平成6年10月に開館したそうですが、ここは「美術館」と「郷土資料館」がコラボで見られるのがうれしい。公園で桜を眺めながら、気軽に芸術と文化の両方に親しめるのですね。

 まさに、一粒で二度おいしい状態。

 しかも、無料っす。

 行った日は、美術館では、郷土ゆかりの作家を中心とした作品。郷土資料館では、茂原市のおもに稲作における歴史資料が展示されていました。

 もう少し、茂原市の歴史背景が知りたいと思いましたが、無料ですから注文はあまりつけられませぬ。

 美術館と郷土資料館を堪能したあとは、茂原公園内を、桜を眺めながらそぞろ歩きします。

 茂原公園の展望台に上ると、公園内はおろか市内も一望できました。

Ca3a0821

 この見晴らしと丘の急斜面、そして広い池、城好きとしては、ここに城を築きたくなりますな。

 …と思って帰ってからネットで検索してみたんですよ。

 そしたらなんと、ここは藻原城の城跡でもあるらしい。公園内には何も表示がなかったのですけどね。

 戦国時代の城ではなく、鎌倉時代の居館みたいですが、現在、藻原寺の建つところに建物があったそうな。

 オイラが土塁かと思った部分も、その可能性があるとのこと。現在の弁天池も水掘の名残かも、と…。

 今も昔も、城好きにとって、城を築きたくなる土地は同じなのかも。

 時間があったので、桜がきれいだという豊田川のほとりを歩き、船着神社というところへ行ってみることにしました。

Ca3a0826

 日差しが強く、紫外線の攻撃をモロに受けつつ、川沿いの遊歩道をひたすら歩きます。

 地図を見ながら歩いたのですが、行けども行けども、目的地に到着しない。

 もう限界っす、とあきらめて撤退を余儀なくされる羽目になったのです。

 オイラが、ウォーキングマップのコースを予定通り歩けないなんて…。

 気づかないうちに、足腰が弱くなっているのだろうか。

 とうとう、老いがオイラにも訪れたのかな、とブルーな気分になってトボトボ国道沿いの帰り道を歩きました。

 かなり歩いたと思ったとき、行く予定だった船着神社が目の前に。

 ものすごいスピードで歩いていたから、気づかないで通り過ぎてしまったのですね。

 こんな小さな社だとは思わず…。

Ca3a0828

 あとで調べたら、正規のコースより4キロも余分に歩いていたのでした。

 足腰が弱っていたわけではなかったのですね~。

 それにしても、注意力が散漫なのは花粉症のせい?

 足腰より、脳みそのほうが心配な、今日この頃でした。

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出版決定しました~! with 八王子・多摩御陵 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 大変ご無沙汰致してしまいました。

 一ヶ月以上も更新しなかったのは、ブログ始まって以来の最長無更新記録。

 3月は、ちょっと半端じゃないくらい忙しかったのです。

 いつもは昼間に仕事をして、その合間や夜にネットアンケートなどの副業をしていたのですが、先月は、これに出版の原稿執筆作業が加わってしまったのですね~

 原稿の締め切りがあったので、3月は一日も休めずに、土日はずっと仕事状態。毎日原稿を書きまくっていて、さすがにブログを書く精神的なゆとりがなかったといいますか。

 でも、おかげさまで4月になってようやく、執筆作業に一区切りをつけることができました。 

 これから、リハビリをかねて、少しずつプログも復活していきたいのだけれど…さて、どうなりますか。

 今度出版される本に関しては、またブログの中で少しずつご報告させていただければ、と思います。

 …ということで、約二ヶ月ぶりのお散歩ネタ。


 突然ですが、昭和天皇のお墓がどこにあるか、ご存知でしょうか。

 この質問を渋谷か新宿の路上でしたら、どういう答えが返ってくるでしょうね。

 ちゃんと答えられる人はそれほど多くはないかも。

 …というのは、オイラの周りの人たちに聞いてみたら、答えられる人が半分もいなかったのですよ。

 京都ではないかという人がいたり、皇居だという人がいたり、明治神宮の中にあるという人もいたり…。

 もっとも、オイラも、以前お参りに行ったことがあるから知っているだけで、テレビや新聞、雑誌で見た記憶はないのですが。

 答えは、東京八王子。正式には武蔵陵墓地というらしい。

 父の葬儀や納骨をしているうちに、なぜか昭和天皇の墓にもお参りをしたくなったので、八王子近くのお散歩をかねて伺うことにしたのです。

 最寄の駅は、高尾駅。

 JRと京王電鉄が乗り入れているのですが、料金が安いので例によって京王線を利用します。 

 高尾駅を出て、まず向かったのは、多摩森林学園。

 ネーミングを見ると、林業科の学校というイメージですが、いわゆる学校ではないみたい。独立行政法人森林研究所の研究施設なのですね。

 明治時代は宮内省の林業試験場だったそうですな。近くに、大正天皇の陵墓が築かれたのはその関連もあったのかもしれません。

 ここの目玉は、園内の桜保存林だとか。

 なんでも、日本全国各地からさまざまな桜が集められ、その遺伝子を保存するための「クローン」を植えているのだとか。

 行った日は、冬でしたから当然桜の花は見られません。でも、整備された園内をめぐり、桜の咲いている頃をイメージしようか、と…。

 ところが入口近くまで行ってみると、以下の張り紙が…。
 
『 2008年8月末の豪雨により園内各所に土砂崩れが発生したため、ただいま休園しております。
 皆様には大変ご迷惑をおかけし、お詫び申し上げます。
 2009年3月24日(火)には再開することを目指して復旧工事に取り組んでいるところです。』

 がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~ん、休園っすか。

 ガックリきたと同時に、これで入園料300円が浮いたというせこいことを考えるオイラがいたのでした。


 実際行ったのは去年だったので、現在はもう開園していると思いますよ。

 でも、近くの杉林からの花粉の密度を考えると、とても、今また改めて出かける気になりませぬ。
 
 ところでこの辺りは、400年以上前に、武田信玄の武将・小山田信茂と滝山城主・北條氏照の重臣・横地監物らとが一大血戦を行なったところだそうですね。

 近くに、廿里古戦場(とどりこせんじょう)の解説板がありました。

 廿里山に陣を張って待ち伏せた小山田勢とそこへ押し寄せた北條氏照の重臣・横地監物らが現在の長房町付近の平地で激闘を演じたとか。

 確かに、丘陵を背負った平地はいかにも戦場になりそうな場所。

 この戦いで北条方は散々に敗れ散ったらしい。

 この敗戦を契機に、滝山城からより奥深い山の中の八王子城が築かれることになったそうですね。

 今まで行った場所が頭の中でフラッシュバックし、ストーリーを伴ってつながる瞬間がお散歩の醍醐味っす。

 南浅川まで戻り、下流に向かって歩くと陵南公園に着きました。

Ca3a0580

 ここは、東京オリンピックのときに自転車競技場として使用された場所だそうな。

 今は野球場や日本庭園、林の広場になっていますが、オリンピック当時はどうなっていたのでしょうね。

Ca3a0582

 ちょっと想像ができませぬ。

 公園のエントランス部分は、甲州街道から南浅川橋を渡って伸びる武蔵野陵墓地の参道に接しているのですな。

 オイラはその参道を歩いて、武蔵野陵墓地へ参拝します。

 ケヤキ並木の広い通りですが、車の通行もほとんどなく深閑とした雰囲気。

 やがて、広い広場が現れ、北山杉の並木が続く参道を望むことができました。

 オイラはおごそかな気分で、玉砂利を踏みながら進みます。

Ca3a0556

 参道はよく整備されていて、塵一つ落ちていない。

 歩いているうちに、だんだん背筋が伸びてゆくような感じですね。

 周囲は、昔、伊勢神宮をお参りしたときの風景によく似ています。

 武蔵野陵墓地には、大正天皇と皇后さま、そして昭和天皇と皇后さまの4人のお墓があるのですね。

 まず向かったのは、大正天皇の多摩陵。

Ca3a0559

 大きな鳥居があって、その向こうには石段。石段の上には、石で葺かれたドームが垣間見えます。まわりの木々の緑とよく溶け合っていますね。

 ドームの下は石垣の段がありました。

 上円は直径15メートルで高さは10.5メートルあり、一番下部の段は一辺27メートルの正方形なのだとか。

 これは上円下方墳という形態なのですね。

 この形式は、明治天皇の伏見桃山陵が参考にされたらしい。明治天皇の御陵が京都にあるとは、今回の記事を書くまで知りませんでした。

 明治神宮に明治天皇のお墓があるものとばかり思っていまして…。

 それにしても、上円下方墳のお墓を下から仰ぎ見ながら拝んでいると、古代の人たちの感覚を共有しているような感覚になりました。

 隣にある大正天皇のお后であった貞明皇后の多摩東陵にお参りしたあと、昭和天皇の武蔵野陵にお参りします。

Ca3a0567

 陵の形式は、大正天皇のお墓と同じなのですね。

 ただ少し、イメージ的にやさしい感じがしたんですよ。

 家に帰ってネットで調べてみたら、その理由がわかりました。

 大正天皇のお墓より上円部の丸みがなだらかになり、石段の高さが低くなっていて、威圧感を減らす試みがなされているのですね。

 昭和天皇のお后であった香淳皇后の武藏野東陵も同じで、あのやさしそうだった皇后さまの顔が目に浮かびました。

Ca3a0569

 それにしても、上円下方墳とは古墳の歴史から言っても珍しい形式だと思うのですが、その経緯について知りたいと思いました。

 まさか、仁徳天皇陵みたいな巨大な前方後円墳は作れないと思いますが。

 武蔵陵墓地を出て、住宅街をテクテク歩き、次に向かったのは東照寺と長泉寺。

Ca3a0576

 この二つのお寺は、もともとは今訪れた武蔵陵墓地の敷地内にあったのを墓地建設にともなって現在地に移転したらしい。

 どちらも室町時代に創建された古刹なのですね。

 長泉寺には、徳川家康の兵として関ケ原や大坂で戦功をあげた後、出家して諸国を回り、やがてこの地に庵を結んだ石平道人の墓がありました。

 この人の名前は知りませんでしたが、一流の官公庁や企業を中途退職して、自分のやりたいことをやろうとした人は当時もいたのだと驚きます。

 再び南浅川の河原沿いの道を下流に向かって歩きます。

Ca3a0589


 東横山橋で川を離れ、住宅街を歩くと左手の丘陵の上に吉祥院がありました。

 丘陵の上にはたくさんのお墓が建ち並び、そこからは市内や高尾山をはじめとした山の稜線を眺めることもできます。

 お墓参りをするのは大変だけれど、眺めのいい景色を望めるお墓っていいですね。

 吉祥院から次に向かったのは、龍泉寺。

Ca3a0588

 ここは八王子城の城主だった北条氏照を開基として創建されたらしい。

 北条氏照といえば、去年小田原へ行ったときお墓参りをしたばかり。一人の武将の足跡に、いろんな場所を旅するたびに出会えるのは楽しいっす。

 そして最後に向かったのは、西八王子駅からほど近い場所にある宗格院。

 この人もオイラは知らなかったのですが、幕末の開国論者、松本斗機蔵の墓がありました。
松本斗機蔵は、千人同心頭の長男で寛政5年(1795年)の生まれだそうですね。

Ca3a0591


 江戸の昌平坂学問所で天文 地理 兵制を学び江川太郎左衛門や渡辺崋山らとも交流があったとか。

 海外事情に精通して、日本開港を主張したということからも先見性がうかがえますね。
やはり激動の時代は、バイタリティのある人が生まれます。

 今も、激動の時代と言っていいと思うのですが…。

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正月恒例? 高水三山駅伝 ウォーキングストーリー 

こんにちは、ご無沙汰です。

 この時期、突然、更新がストップすると、夜逃げしたのではないかと憶測を呼ぶ今日この頃。

 今までの仕事に加え、某官庁の委員やら、某医療系大学の授業のお手伝いやら、知り合いの夜逃げ引越しのお手伝いやらで多忙な日々が続いておりまする。

 しかも、今までブログを更新していた土日に集中して仕事が入っているんですよ。

 しばらくブログの更新が停滞気味になりますが、当分夜逃げする予定はありませんので念のため。 

 さて、今日は約一年ぶりの山歩きネタ。

 なんと、一ヶ月以上前の正月の話題なのですね~。 
 
 前にも書きましたが、正月は、博物館や美術館の休館が多いので山へハイキングに行くことが多いのです。

 山が正月休みで休業しているのはあまり聞きませんからね。

 お正月といえば初詣。

 だけど混んでいるので、毎年すいてからお参りすることにしています。

 だから、毎年ご利益のおこぼれにあずかれないのか、と…。

 神社仏閣のご利益は、先着何名様と定員が決まっているからあんなにいつも混んでいるのかなと考えたりして。

 それはさておき、一月二日の朝、オイラはJR青梅線軍畑駅に降り立ちました。

 新宿から特別快速の電車が出でいるので、オイラの自宅から2時間かからないで行けるのですね~。

 それにしても、軍畑駅というネーミング。

 戦国時代好きのオイラはそそられまする。

 …と思って調べてみたら、やっぱりここで大きな戦があったそうですね。

 永禄6年(1563)、多摩川上流域を支配する三田綱秀と、八王子付近一帯を支配する滝山城主北条氏照が、この近くで激戦を展開したとか。

 結局、戦いは北条軍の圧勝に終わったのですが、その合戦での両軍の戦死者や具足を集めて葬った鎧塚があるとのこと。

 ハイキングコースには入っていませんでしたが、せっかくなので行ってみることにしました。

 青梅線のガードの下にある欝蒼とした森で、結構大きい。

鎧塚


 高さが約8.8mで、直径が約30mもあるのですか。

 これは、古墳時代の円墳といわれても納得してしまいそう。

 これだけ巨大な塚が今も残っているのですから、その激闘のほどがしのばれました。

 ハイキングコースに戻り、平溝川を右手に見ながら広い車道を登って行きます。

 さすがに正月なので、車はもちろんハイカーもほとんど見かけませぬ。

 このハイキングコースは、奥多摩の入門コースと言われるくらい人気があるらしいのですけどね。

 いつも騒然とした都会に暮らしていると静かすぎるのも落ち着かないっす。

 …と、ラジオのスイッチを入れると箱根駅伝の実況中継が。

 聴きながら歩いていると、自分も駅伝に参加しているような気分になります。

 ラジオ中継の沿道の歓声に励まされつつ、大きなストライドで第1中継所の高源寺へ到着しました。

高源寺


 初詣の人たちが一人もいない深閑としたたたずまいは、まさに山里のお寺というイメージ。

 競争率が低そうなので、ご利益の当選確率が高まるかも。

 しっかりお参りしたあと、左手の坂道を登ります。

 空気がピーンと張り詰めて肌寒いのですが、直射日光がすごいっす。

 例によって、ユニクロのエアテックコートを着ていたので、10分も歩くと汗びっしょりに。

 コートを脱ぎ、シャツを腕まくりして真冬とは思えない姿で山を登りました。

 やがてコンクリートのダムが目の前に現れます。

コンクリートのダム


 脇の急な階段を、息を切らして登り、いよいよここからが欝蒼とした木々に囲まれた本格的な登山道。

 大きな石がゴロゴロ転がっていたり、古木の根っこが蛇のようにうねっていて、行く手をさえぎります。

 くくく、きつい。汗が目に入って前が見えないっす。

 ここで、耳にさしたイヤホンから、アナウンサーの「さあ、ここからが箱根駅伝2区の難所、権太坂にさしかかります」との声が。

 う~、オイラも頑張って登らねば…。

 足場が悪く、昼なお薄暗い沢沿いの道を転びそうになりながらも前進。

大きな石が転がる登山道


 花の2区を走る各大学のエースランナーに負けじと、急な斜面に作られたジグザグな登山道を登ります。

 立ち止まって休みたいけれど、母校のタスキを必死でつなぐ後輩たちに、先輩が負けるわけにはいかないっす。

 悪戦苦闘を続けるうちに、周囲が明るくなり尾根が近づくのがわかりました。

 ようやく尾根道に出て、勾配がややゆるやかに。

 でもまだ、六合目ですか。

 箱根駅伝の中継は、日大がダニエル君の快走で順位をグングン上げているらしい。

 …と、前を見ると、先行するハイカーを発見!

 休まず、ぐんぐん登って来たから追いついたのですね。

 距離は、約100メートル。

 ラジオでは、ダニエル君が20人をゴボウ抜きと言っています。

 よし!オイラも先行するハイカーを追い抜くのじゃ~!

 近くにあったベンチを横目に、追撃態勢に入るオイラ。

 差が50メートルほどに詰まってくると、先行するハイカーは、頭の登山帽から足の登山靴までびっしりブランド物で固めたオヤジだというのがわかりました。

 トップをゆくオヤジ学院大学をビジベン大学が急追。しかし、急な斜面に足を取られ、思ったように前に進まない。

 先行するオヤジがオイラの存在に気づき、ピッチを上げます。

 高い杉が見下ろす九合目で、ようやくオヤジ学院大学をとらえ、後方にピタリとつきました。

 そのまま両校は並走状態に。

 急な上り坂が終わり、頂上に続く尾根道に出たところでビジベン大学がラストスパート。

 ぐんぐんその差を引き離し、トップで第2中継所の常福院にゴールすることができました。

 ハイペースで飛ばし過ぎたので、さすがにゴールしたあとは石段にすわりこんでしまいましたが…。

 高水山常福院は、いかにも山奥の古刹といった風格が感じられるお寺。

高水山常福院


 ここは何でも、鎌倉時代の有名な御家人であった畠山重忠にもちなんでいるらしい。焼失する何代か前の不動堂は、重忠が再建したそうですね。

 境内で小休止をしたあと、高水山向けて歩き、ようやく山頂へ。

高水山山頂


 この山の標高は、759メートルですか。

 軍畑駅からの標高差は約500メートル。自分の足で、東京タワーの1.5倍の高さを登ってきたのですね。

 さすがに山頂だけあって、雪はないものの地面が凍結している。

地面が凍結


 3つの山のうち、一つの山をクリアし、次の岩茸石山を目指します。

 木の根が露出した急な斜面を下ります。気をつけないと滑り落ちそう。

木の根が露出した急な斜面


 それにしても、山の頂上付近は風が強いのですね。生木が裂けて転がっているのを何度か目にしました。

生木が裂けて転がっている


 こんな強風に見舞われたら、人間はひとたまりもないかも。

 ゆるやかな尾根道をしばらく行くと、また急な坂が。

 岩の角や木の根っこにつかまりながら登ります。

 そして、第3中継所の岩茸石山山頂へ到着。

 この山の標高は、高水三山で一番高い793メートル。

 そのせいか、360度の眺望が素晴らしい。

岩茸石山山頂


 見渡す限り、山、山、山…。

 正月で空気が澄んでいるためか、奥多摩の大パノラマを満喫することができました。

 再び、急な岩場を降り、第4中継所の惣岳山を目指します。

 下界に、すすきの原が広がる風景やどこまでも続く杉林の尾根道は、一見の価値がありましたね。

すすきの原が広がる風景


 快適なウォーキングを続け、最後の難所・惣岳山の岩場登りにチャレンジです。

ロープを使って岩場を登る


 久しぶりにロープを使って岩場を登ることができて楽しかったっす。

 惣岳山の山頂は、杉の大木が囲まれて眺望はよくないですが、古い社殿があって荘厳な雰囲気。

 これは青渭神社の奥宮なのですね。

 惣岳山からの下りは、また木の根や岩が行く手をはばむ難所でした。

 登りは息が苦しいけれど、下りは息が楽な分膝や腰に負担がかかりますな。

 これだけの急坂を延々と下ったのは、筑波山を下ったとき以来ではないか。

 …と思って、後ろを振り返ると、ハイカーがオイラを急追している。

 今度は、茶髪スポーツ刈りのおにーさんじゃ。大学のウインドブレーカーを着ている体育会系っすね。

 う~、ものすごいスピードでオイラを猛追しているっす。

 別にオイラを追っているわけじゃないけれど…。

 ああ、このままではトップが奪われてしまう。

 足を速めるオイラ。

 いくら日頃からウォーキングをしていても、体育会系のおにーさんにオヤジがかなうはずはない。

 すんなり追い抜かれてしまったのです。

 でも、ここからが勝負じゃ~とスピードを上げようとしたとき…。

 グキッと足をひねって転倒。

 骨は折れなかったものの、ゴール寸前で涙の途中棄権となってしまったのでした。

 来年は予選会からの出場っすか。

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江戸時代のワンダーランド? 成田山新勝寺 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 亡くなった父が生前書いた文章を、最近読んだのですよ。

 それは、「ビジベン家の史記」。

 父が昔、うちのルーツといわれる愛知県まで出かけて調査した報告書ですな。
 
 うちのご先祖様でわかっているのは、江戸時代の後期から明治にかけて愛知県のお寺の住職をしていたお坊様まで。

 それほど由緒ある家柄だとは思えないので、鎌倉や室町時代までは遡れないだろうとあきらめていました。

 でも、読み進めるうちに驚愕の事実が…。

 オイラが子供の頃かわいがってくれた祖母が、実は血がつながっていなかったみたい。

 「ビジベン家の史記」にはあからさまには書かれていないのですが、本当の祖母は戦前に亡くなっていると思える節が。

 血のつながった孫よりも可愛がってくれたので、親戚一同が話さなかったのも、わかる気がしました。

 ほかにも、先祖といわれるお坊様と現在のうちの家系も直接血のつながりはないみたいなんですよ。

 では、うちの血のつながったご先祖様はどこに?

 祖父が尋常小学校を卒業した12歳のとき、一人で台湾へわたり仏教の修行したのも驚きでした。そのあと、日本に戻って還俗し、事業をはじめるのですが、相当の苦労談があったとか。

 祖父とは子供時代、いろいろ話をしたことがありますが、自分の苦労したことを一切言わない人でした。

 また、オイラのひいおばあさんにあたる人は生まれながら目が不自由だったというのも初耳です。周りの人たちから慕われたというエピソードもたくさん書かれていました。

 それにしても、オイラの知らないことが多すぎ。

 今まで聞いたことのない話ばかりだったので驚きました。

 父の文章にも、わからない部分が多々あると書かれています。

 これらの謎を解明することは、邪馬台国の場所より、オイラにとって重要かも。

 この謎に包まれた「ビジベン家の史記」を完成させることがオイラの役目ではないかと考える今日この頃です。
 

 さて今日は、前回の続きです。

 新勝寺の表参道を歩いてきたオイラは、豪壮な総門と歴史のある仁王門をくぐり、大本堂へ向かいます。

 急な階段を上りきると、いきなり視界がパッと開けました。

Ca3a0292

 青空にむかって毅然と建つ大本堂が目にまぶしい。

 本尊の不動明王像を安置しているのですね。

 これは最近できたものかな、と思ったら、1968年建立の鉄筋コンクリート造とか。

 間口は、95.4m、奥行が59.9m、棟高は32.6mもあるのですね。

 前回、子供の頃に来たときと建立の時期が一致するから、きっと『新本堂ができあがったよツアー』にオイラは参加したのかもしれませぬ。

 大本堂の御本尊不動明王像は、平安時代に、瑳峨天皇の勅願により、弘法大師が祈りを込めて敬刻開眼されたらしい。

 ところで、新勝寺開山には、やはりあの平将門の乱が影響しているそうですね。

 開山された寛朝大僧正は、宇多天皇の皇孫だったそうですが、朱雀天皇より、平将門の乱平定の密勅を受け、不動明王像を持って海路から房総半島に上陸。

 そこから陸路をとって成田の地まで来られたそうな。

 そして、平将門の乱平定祈願のため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行う。

 ときに、西暦でいうと940年。

 将門の乱が鎮圧されたあと、不動明王像とともに都へ帰ろうとしたところ、なぜか像はビクとも動かなくなってしまった。

 この地にとどまって、多くの人たちにご利益をもたらそうとされているのではないか。

 これを聞いた天皇は深く感動し、国司に命じてお堂を建立。

 「新勝寺」と名づけ、ここに東国鎮護の霊場としての「成田山」が開山されたとのこと。

 新勝寺の名前の由来は、「また新たに勝つ」という語句に因んでいるらしい。

 将門の乱は今から1000年以上も前の事件ですが、今なお関東にさまざまな形で根を下ろしているのは驚きです。

 鎌倉や戦国時代にもそれに匹敵するような大きな戦が行われていると思いますけど、歴史におけるインパクトという点では計り知れない影響力があったのですね。

 そんなことを考えつつ、大本堂の右手を見るとゴージャスな外観の三重塔。

Ca3a0293

 ピカピカでサイケデリックな装飾から、再建されたのだろうかと思いました。

 しかし、1712年建立の重要文化財だと知ってびっくり。

 普通、重要文化財って言ったら、黒ずんだ古木によるシックな外観、というのがオイラの中のイメージでしたから。

 でも、できた当時はどの塔も、こんな極彩色で彩られていたのですね。

Ca3a0294

 こんな色鮮やかな建物があちこち境内にあったのでしょうか。

 ディズニーランドみたいなファンタジックな空間を作ろうとしたのかな、と…。

 江戸庶民が泊りがけで成田詣でをしたのはもちろん宗教的な意味合いが大きかったのでしょうけど、泊りがけでディズニーランドへ遊びに行くといった雰囲気もあったのではないかと感じました。

 三重塔は、小さいなという印象でしたが、それでも高さは25メートルもあるのだとか。

 大本堂が巨大だからそう見えるのかもしれませんが、以前の本堂はもっと小振りだったそうですから、本堂と三重塔のバランスが取れていたのでしょうね。

 数十年ぶりに、新勝寺の本堂にお参りします。

 これで成田山に対するトラウマも解消~。どういうトラウマなのかは、前回の記事をご覧ください。

 さすがに関東屈指の寺院だけあって、参拝客がひきも切らないですな。

 本堂の中では、多くのお坊様たちがお経を唱えています。

 それが一段落すると、後ろでお参りしていた人たちが前へゾロゾロと集まっていきます。

 そして自分のバッグを若いお坊さんに手渡す。するとお坊さんたちは、ご本尊の前で燃えている火に預かったバッグをかざすのですよ。

 もちろん火にくべたりせず、かざすだけなのですが…。

 どういうご利益があるのでしょうね。

 大本堂の左手の広場に建つのが釈迦堂。

Ca3a0298

 これも重要文化財なのですな。安政5年(1858年)の建立で、こちらも旧本堂。

 堂の周囲に施された二十四孝と五百羅漢の彫刻が見事っす。

 釈迦堂の奥の階段を上ると額堂がありました。

Ca3a0301

 これは、他の寺にもよくある絵馬を掲げるための建物ですが、規模や歴史が一味違いますね。

 これも重要文化財ですが、いちいち書くのが面倒なので、以後割愛させていただきます。

 額堂の脇をどんどん歩いてゆくと、奥の院へ向かう道がありました。

 途中にあるのが、光明堂。

Ca3a0304

 元禄14年(1701年)建立で、釈迦堂が本堂になる前の旧本堂なのですか。

 新勝寺の境内の広さは半端じゃないですから、旧本堂を移築してどんどん大きな新しい本堂を建てることができるみたい。

 いずれ、今の大本堂を新築するときは、高層建築になるのだろうかとイメージしてしまいました。

 さらに、新勝寺の境内の一番奥へと向かいます。

 境内でひときわ高く、そしてひときわ大きな建物が、平和大塔。

Ca3a0306

 鉄筋コンクリート造で高さ58.1mの仏塔ですな。

 1984年の建立だから、今回はじめてお目にかかる建物なのでした。

 二重の塔に見えますが、内部は5階建て。

 中に入れるそうなので、喜び勇んで見学させてもらうことにします。

 さすがにエレベータはないみたいですけど、中はカーペットが敷き詰められていて快適な空間。

 1階には写経道場や絵馬などの文化財が展示していてありました。

 2階は、巨大な不動明王像を中心とする五大明王の巨像が安置。

 3階と4階には、信徒が奉納した不動明王の小像が多数置かれていました。

 財界や政界の有名人、一般信徒の人たちの寄付でこれだけの巨大な塔が建ったのですね。

 最上階にも、5体の仏像が安置されていました。

 塔の中を巡るだけでも結構時間がかりますね。

 時計を見るともう3時半。

 10時前に成田駅へやってきたから、昼食の時間を除いてもかれこれ5時間近く新勝寺とその周りで過ごしたことになる。

 一つのお寺の周辺だけで、こんなに長い時間過ごすことは滅多にないですから、その規模がわかります。

 門前町も個性的で、時間をかけてまわりたい店がたくさんありました。

 江戸時代の庶民が何日かかけても、足を運ぶだけの魅力の理由がわかったような気がしましたね。

 平和大塔の下には、広大な成田山公園が広がっています。

 Ca3a0320

 昭和3年の完成で、面積は16万5000平方メートルもあるのだとか。

 丘陵地の起伏を利用して、中央部の谷に三つの池が縦に並ぶらしい。
 
 急な階段を下り、まず池を目指します。池の周囲には梅、桜、モミジ、藤などの樹木が植えられ、季節ごとに変化に富んだ景観が楽しめるのですな。

 池のほとりに、書道博物館の建物が景色に溶け込んでありました。

Ca3a0317

 江戸後期以降の書道の名作が多数展示、収蔵されているそうですが、去年の今頃、ぐるっとパスでさんざ絵画や書、彫刻を見て回ったので今回はパス。

 芸術を見る楽しさに目覚めたのですが、同時に、ただか、リーズナブルな入場料でなければ見る気力を無くしてしまったのはマイナスだったかも。

 それはともかく、絶景スポットがいくつかあったので、写真をパチパチ撮りました。

Ca3a0323

 行った日は、紅葉はまだ先でしたけど、木々の葉が赤く色づくとなおその魅力が増したでしょうね。

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成田山新勝寺・門前町 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 遅ればせながら、昨年は大変お世話になりどうもありがとうございました。

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 オイラのお正月の楽しみは山登りとウォーキング。

 年末年始にかけては、神社仏閣はどこも混んでいるし、博物館や美術館も開いていないし、で、ここ数年は山へ行くことが多いのです。

 ガイドブックには初級者コースと書いてあったのですが、岩場をロープでよじ登ったり、凍結した路面で足を滑らしたり、かなりの難コースでした。

 でも、後になって考えるとラジオを聞き、ワンセグを見ながら登ったからかも。

 登りの5区から山下りの6区にかけて、他の登山者との激しいデードヒートの模様は、またいずれ。

 
 さて、新年ということで、今回最初のお散歩ネタは成田山新勝寺です。

 新年にお参りしたのではなく、行ったのは去年の10月ですので念のため。

 従って、ゆっくりお寺の中外を観光することができました。

 成田山といえば、正月三が日の初詣人出ランキングでは堂々、全国第二位のお寺ですね。

 ちなみにトップは明治神宮。

 三位は、川崎大師。

 毎年、こちらも川崎大師と激しい二位争いを演じているのですな。

 でも、交通の便からいったら、首都圏にある川崎大師に軍配があがります。

 それでも、例年二位を保ち続けているのですから、根強い人気があるのですな。

 ご利益はもちろん、お寺としての魅力的な要素を備えているのでしょうか。


 これだけ有名なお寺なのに、実はあまり訪れたことがないのですよ。
   
 よく考えてみると小学校低学年のときに一度行ったきりなのでした。体感的には、毎年参拝しているような気分でしたが…。

 おそらく、年末年始のNHK番組、「行く年、来る年」を見て、お参りしているような気分になっていたのかもしれませんね。

 交通安全・家内安全の守り神としては、日本有数の寺院。これは久しぶりに訪れるしかない。と…。

 それにしても、お寺好き、神社好き、のオイラがなぜ、ここまでご無沙汰してしまったのでしょうか。

 それはおそらく、年少時代に訪れた成田山参拝で、大変な目にあったからかも。


 悲劇が起ったのは、町内会の日帰り旅行でした。

 近所の人たちがバスを1台借り切って、東京から一路成田を目指したのですよ。

 ところが、小学校当時のオイラは虚弱で、バスに酔っ払ってしまった。

 近所の人たちの目の前で、ゲ●ゲ●ゲ●ゲ●ゲロ…。

 それからと言うもの、近所を歩くと、ゲ○を吐いた少年としてみんなから後ろ指をさされ、辛く哀しい少年時代を送らざるを得なくなったのでした。

 それから、成田がオイラのトラウマになったのかも。

 でも、体力と精神力を鍛え、その後、オイラは一度も乗り物に酔って吐いたことはありませぬ。

 そのトラウマを払拭するためにも、成田山を訪れる必要があるのでした。

 …ということで、肉体的にも、精神的にも成長したオイラは、リベンジのために京成線京成成田駅へやって来ました。

 リベンジだったらバスを使うべきだったと、あとで後悔しましたが。


 成田山新勝寺へ向かう表参道は、JR成田駅と京成成田駅からほぼ同じ距離にあるのですな。

 参道をテクテク歩くと、道の左右には、古いみやげ物店、飲食店、旅館が軒を連ね、歴史のある門前町の風情が感じられます。

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  ようかん一筋で創業110年を誇る米屋という和菓子屋さんの裏に「成田羊羹資料館」なるものがあると聞いたので、行ってみることにしました。

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  中には、大正時代の番頭台や創業者のプロフィール、羊羹の歴史、昔の羊羹作りの道具が展示してありまする。

 昔の羊羹のパッケージなど興味深い展示品がありましたが、なんと言っても目を引いたのが岩下志麻の若い頃のポスター。

 当時の米屋のようかんのイメージキャラクターは岩下志麻だったのですか。

 現在は、極道の妻とか、北条政子みたいな強面のキャラですけど、清純路線の写真が目を引きました。

 米屋から程近いところにある建物が、薬師堂。

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  それほど大きくないし、よくあるお寺の本堂だと思ったら、なんとこの建物は、前の前の成田山新勝寺の旧本堂だったらしい。

 新勝寺建物としては、現存する中で最も古いのだとか。

 1655年に建立され、1855年に現在地に移転したのですね。

 新勝寺がすごいのは、現在の本堂はもちろん、前の本堂も境内に残っていること。

 お寺の発展とともに本堂も大きく立派に成長してゆくのですな。

 ビルのワンルームから高層ビルのテナント、そして自社ビルの建設へと成長するベンチャー企業を想像してしまいました。

 創業以来、全然成長しないオイラの会社をイメージして少し暗くもなりましたが…。

 なおも表参道を歩き続けると、道は徐々に下り坂に。

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 晴れた青空の向こうに、巨大な伽藍と三重塔が望めます。この辺りは、京都の古刹といった雰囲気が漂っています。

 道の左手に見える巨大な木造建築に思わず足が止まりました。

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 これが、あの大野屋旅館なのですか。

 木造四階建てで、最上階は望楼になっている。昭和12年の建築というから、築70年になるのですね。

 三階の大広間には能舞台もあると聞きました。城とか、巨大な木造建築には目がないので、長い時間見とれていました。

 望楼に登れば、城の天守閣気分が味わえるかも。

 うう、泊まりたいっす。

 大勢の観光客がこの建物を見上げていましたが、道の先のほうでも人だかりができている。

 なんじゃ~とオイラも向かいます。

 多くの観光客が眺めて、写真を撮っている先は、店頭でうなぎをさばいている風景でした。

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 うなぎが熟練の職人さんの手に掛かると、あっという間にさばかれて蒲焼の状態に…。

 よく見ていると、目打ちをする直前に、首筋を包丁で少し切るとか、骨を身からはがすときの独特の包丁の動かし方とか、長年培った工夫があるのでしょうね。見ていて興味はつきませんでした。

 外国の観光客は珍しいのか、瞬きするのも忘れて見入っていたのが印象的でしたね。

 すぐ近くにあるのが、成田観光情報館。

 例によって「無料」という二文字に吸い寄せられるように入っていきます。

 ここは、パンフレットが置いてあるだけの観光情報コーナーかと思ったら、博物館のような展示もあってなかなかでしたよ。

 江戸時代から成田参詣は盛んだったようですね。

 それというのも江戸時代、江戸でたびたび成田不動の「出開帳」が行われたのだとか。

 今で言えば、「法隆寺展」や「東大寺展」が東京で行われるみたいなものだったのでしょうか。

 当時、それが大きな評判を呼んだのは、歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗ったということからもわかります。

 展示コーナーには、庶民が成田参詣をするために街道や川を使って移動している様子が絵や人形で表されていました。

 ほかにも、成田祇園祭で実際に引き回される山車も展示されていて、お得感抜群。

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 多くの観光客が素通りしてしまうのはもったいないっす。

 さて、いよいよ新勝寺へお参りと思いましたが、その前に、行ってみたい場所があるのでした。

 それは、小野忠明、忠常の墓。

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 どちらかというとあまり有名ではない歴史上の人物かもしれませんけど、知る人ぞ知る小野派一刀流の開祖の墓がこの近くにあるとのこと。

 新勝寺の門前を過ぎ、成田高校の横の坂を上って行くと、小高い丘に二人の墓はひっそりと佇んでいました。

 二人は親子で、徳川家の「剣術指南役」として活躍したのですな。

 柳生但馬守宗矩や柳生十兵衛みたいに、あまり時代劇には登場しないようですが、昔読んだ剣道の本には、かなりのページを割いて「小野派一刀流」が紹介されていたのを覚えています。

 しっかりお参りして剣豪のパワーをもらったあと、いよいよ成田山新勝寺へ。

 まず、出迎えてくれるのは巨大な総門。

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 やけに新しいなと思ったら、これは開基1070年記念事業として2006年に竣工したのだとか。総欅造りで、高さは15mもあるのですか。

 総門をくぐり、急な階段を上ると、次に出迎えてくれたのは、仁王門。

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  重要文化財っすか。江戸時代末期の建築なのですな。

 仁王門の奥に池があり、橋が架けられています。

 参拝客が皆、橋から池を覗いている。

 何々、と見ると、亀が何匹も泳いでいました。池の真ん中に岩でできた島があり、それも上から見ると亀の形をしています。

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 池の周りは崖になっていて、古い石碑がたくさん取り囲んでいる風景は、歴史を感じましたね。

 ここから本堂にお参りして、成田山公園へ向かうのですが、興味深い建築物がたくさんあって楽しかったです。

 続きは、また次回。

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航空の町・所沢 ウォーキングストーリー

 こんばんは。

 今年もあと一日ですか。

 いろいろあった一年でしたけど、来年はいい年にしたいですね。

 不況のときは、まず足元を固めねば

  

 …ということで、今回も足腰を鍛えるため行ったのは、所沢。

 今年日本一になった西武ライオンズの本拠地がある場所として全国的に有名ですが、ここは日本の航空発祥の地でもあるそうなんですよ。

 CAのおねーたんが一杯いる日本航空発祥の地ではありませんので念のため。

 信じられない話かもしれませんが、飛行機にまだ乗ったことがないオイラ。別に乗れないほど貧乏ではないのですけど、日本史が好きなのでわざわざ海外へ行く理由が思い当たりませぬ。

 でも、せめて航空発祥の地くらいは訪れてみようとか、と…。

 所沢へ来たことは何度かありますが、オイラがいつも行くのは狭山湖やトトロの森など緑の多い狭山丘陵のほう。

 市内を歩くという機会はそんなになかったような。

 駅前にある何の変哲もない商店街。

何の変哲もない商店街


 これは、プロぺ通りというのだそうな。プロぺとは、プロペラの略なのだとか。なぜ、「ラ」だけ省略したのかわかりませぬ。

 通りをゆくと、オイラの行きつけのファストフード店が見本市のように立ち並んでいる。

 思わず、条件反射で店に入ろうとしました。

 でも、わざわざウォーキングに来て、いつも食べているメニューもどうかと思いなおし、後ろ髪を引かれる思いで素通りします。

 商店街をぬけると、さすが東京のベッドタウンとして急成長している町だというのが実感できました。

 昭和の佇まいの店や商店が残っているなと思ったら、その隣には超高層のマンションが…。

 まさに、カオスの町というイメージですね。

 数十歩歩くごとに、過去と未来を行ったり来たりしているような気分っす。ノスタルジックな癒しとハイな気分とがごっちゃになって、慣れてないと疲れそう。

 精神的にどっちつかずの状態のまま、薬王寺へ到着。

薬王寺


 本堂は鉄筋コンクリートでしたが、このお寺は南北朝時代の武将・新田義宗の伝説が残るらしい。

 南北朝で新田とくれば、足利尊氏のライバルであった新田義貞が思い浮かびます。義宗は、義貞の三男だそうですね。

 南北朝が分裂したあとは、南朝に味方して、足利尊氏らの北朝と攻防を繰り広げたらしい。しかし、上野国(群馬県)で戦死してしまったとのこと。

 ところが、このお寺の解説板には、

『 新田義宗は戦に敗れた後、再起の時を待つために主な家臣に言い含めて、軍勢を群馬県に引き返らせ、それから「義宗は北国に落ちていった」と云いふらせ、自分はひそかに所沢に隠れ住んだ。ところがその後、足利氏の勢いは日増しに強くなり、ついに南北朝も統一され、戦乱もおさまったとの話が伝わってきた。そこで義宗は髪を落とし、衣を着て、今までの隠れ家をお堂に改めた。そして、一体の薬師如来を彫刻し、その腹の中に守本尊をまつりこみ、戦死した一族や部下の菩提を弔いながら毎日を送り、ついに応永20年(1413)この地で亡くなった。』

 …という伝説が書かれてありました。

 テレビ東京の「新説!?日本ミステリー」みたい。

 でも、義経は生きていて、ジンギスカンになったのだとか、土方歳三は箱館で戦死せずロシアへ渡ったとか、…という話よりは信憑性があるかも。

 近場の所沢だし、モンゴルやロシアへ渡ったわけではないですからね。

 でも、もしそうなら、室町幕府は見くびられたもの。

 鎌倉幕府を逃れてモンゴルへ渡った義経や明治新政府を逃れてロシアへ渡った歳さんの伝説に比べると、こんな近くに隠れていても気づかないのだから。

 所沢は、当時でも、平家の落人が暮らしたといわれる人里離れた山の中ではないですしね。

 そういう伝説が残ること自体、当時の室町幕府の体制は脆弱だったのかな、と思いつつ、境内を出て、市内を流れる東川のほとりを歩きます。

 この「飛行機新道」というネーミングの意味がわかないっす。

飛行機新道


 それはともかく、川の両岸、約3キロにわたって400本余りの桜が植えられていているのだとか。

 行った日は12月のはじめで、花はもちろん葉っぱも散ってしまった後でした。でも、趣のあるのどかな景色は見ごたえ十分。

東川のほとり


 京都の冬の風情をイメージしてしまいそう。

 桜の季節は、華やかな色で満たされるのでしょうね。

 でも、心は満たされても、さきほどファストフード店をスルーしてしまったのでお腹がすいてきました。

 …と、キョロキョロまわりを見回して、リンガーハットを発見。

 結局、吉野家、松屋、日高屋の延長線上の店に入ったのでした。当然、その3店舗が目に入ったら突撃しましたが…。

 ちゃんぽんを食べて元気を取り戻したオイラは、ふたたび東川沿いを歩きます。

 やがて到着したのが、長栄寺。

 本堂はそれほど古くない感じですが、ここのお寺には室町時代につくられた3体の阿弥陀仏像が安置されているらしい。

 珍しいと思ったのは、江戸時代の天明5年(1785)に製作されたという閻魔様が、境内の閻魔堂に鎮座していること。

閻魔堂


 ガラスの窓から、中を覗いてみるととても大きい。

 なんでも、「丈六仏」と呼ばれ、高さが2.9メートルもあるのだとか。

 昼間見たからユーモラスな形に見えましたけど、夜や暗い場所で見たら結構怖いかも。

 作られたのは天明年間なのですね。

 天明というと、教科書には大飢饉があったと書かれている年代。

 日本各地で悲惨な出来事があったらしいですが、それとこの閻魔様と関連はあるのでしょうか。

 この閻魔像を作った江戸時代の人たちの気持ちを想像しつつ、いよいよ最終目的地の所沢航空公園へ向かいます。

 向う途中の国道にあったのが、このケヤキ並木。

ケヤキ並木


 その距離は17キロにも及ぶとか。

 こういう並木道は、やはり冬以外のほうがいいですな。

 新緑も紅葉もなく、冬枯れの道をゆくと何となくこころ寂しい気分になってきたりして。

 ところが、到着した航空公園では見事に色づいた木々が出迎えてくれました。

南東部の池


 公園の南東部の池の辺りはよく整備されていて、美しい景色が堪能できます。

 ところで、なぜ「所沢航空記念公園」かというと、ここが明治44年にできた日本初の航空機専用飛行場の跡だからだそうですね。

 何でも、幅50メートル、長さ400メートルの滑走路があったらしい。

 同年の4月5日には、徳川好敏大尉の操縦する複葉機がはじめてこの飛行場を飛び立ったのですね。

 ただ飛行距離800メートルで、飛行時間は1分少々だったそうですが…。

 400メートルの滑走路から飛び立って、飛行距離800メートルだったら、一体どこへ着陸したのだろうと、またも偏屈なオイラは考えるのでした。

 それはともかく、当時の滑走路の面影は残っているのですかね。

 地形的に、おそらくこの辺りなのでしょうか。

滑走路の面影


 できたのは明治時代の終わりですから、まだ着物を着ていた人がほとんどだったはず。

 轟音をあげながら空を飛ぶ機械に驚いたでしょうね。

 公園の中を歩いていて見かけたのが、木村・徳田両中尉慰霊塔というモニュメント。

木村・徳田両中尉慰霊塔


 大正2年に、青山で行われた公開飛行から所沢飛行場へ帰る途中、突風にあって墜落死した二人の操縦士の慰霊塔なのですね。

 なんでも、日本初の航空犠牲者なのだとか。

 日本初の航空機専用飛行場という名誉とともに、初の犠牲者もこの土地に関係しているところが、フロンテアスピリットを感じました。

 公園の一画にあるのが所沢航空発祥記念館。

所沢航空発祥記念館


 ここは10年以上前に入ったことがあったのを思い出し、入館はパスしたのですが、古い飛行機やヘリコプターの本物が多数展示されています。

 飛行場ができた当初に飛んでいた飛行機の実物大模型は、玄関ロビー天井にあるので誰でも見学することができる。

 当時の機体は木製だったのですね。

 これで空を飛ぶには、かなりの勇気が必要だったろうと思いました。

 記念館の前にも飛行機が展示されています。

カーチスC-46輸送機


 これは、カーチスC-46輸送機といって、1955年から航空自衛隊の輸送機として活躍したらしい。

 アメリカ製とのことですが、この場所は太平洋戦争後、アメリカ軍に長く接収されていた歴史のモニュメントにもなっているのでしょうか。

 公園の中をテクテク歩き、帰りは航空公園駅から。

 駅前にも、航空機が展示されていました。

YS-11


 おお、これは有名なYS-11ですか。

 YS-11は、戦後初であるとともに、唯一の国産旅客機でした。

 最近、新たな国産旅客機ができたというニュースは聞きましたが、詳しいことは解りませぬ。

 名機・ゼロ戦を作った日本人技術者が当時の最先端の技術を結集した飛行機として有名ですね。

 最近まで、東京と大島の間を飛んでいたような記憶がありますけど、日本人が作っただけあってなんとなく親しみを感じるフォルムでした。

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多摩から町田の鎌倉古道 ウォーキングストーリー

 こんばんは。

 前回は写真がなくて失礼しました。

 やっぱり、お散歩ネタはビジュアルが大事だと、その重要性を再認識した次第です。

 実はもうフォトデータが一杯になっていて、前の画像を削除しないと新しい画像をアップできないんですけどね。

 100円払うと、フォト容量をアップできるとどこかで聞いたのですが…。

 でも、100円あれば100円ショップでペットボトルのお茶が買えるし、松屋で野菜サラダをオーダーできますからね。

 しばらく、古い画像を削除しながら、継続するしかないっす。


 さて、今回行ったのは、多摩ニュータウンのそばに今も残る鎌倉街道。

 今も鎌倉街道と呼ばれる道は残っていますが、古道としての鎌倉街道は、鎌倉時代、幕府の御家人が、何か一大事が起きたとき、「いざ鎌倉」と鎌倉へ馳せ参じた道ですね。

 歴史関係の雑誌に、現在の鎌倉古道の写真が載っていたんですよ。

 鎌倉へと向かう道は当時、何本もあったそうなのですが、今回オイラが行ったのは、鎌倉から武蔵国西部を抜けて、上州すなわち群馬県に向かう道。

 その中の多摩市から町田市の小野路・野津田・七国山周辺です。

 東京都なのに、鎌倉時代の武士が歩いてもおかしくないような雰囲気の箇所が残っていて、一気に興味を魅かれたのでした。

 森閑とした古道を歩いていると、タイムトラベルしてきた鎌倉武士に出会えるのではないか、と…。

 …ということで、まず向かったのが、京王線、小田急の二つの私鉄の駅がある永山駅。

 そこからテクテク歩いて、現在の鎌倉街道、都道18号線を越えると前方に見える貝取山緑地の小高い丘を登ります。

 貝取山というくらいだから、縄文時代の貝塚でもあるのかしらんと思いましたが、詳しいことはわかりませぬ。

 頂上にマンションがあったりして少し期待外れでしたが、そのまま尾根を南下します。

 そういえばここには以前来たことがあり、面白い形をした石があったことを思い出しました。

 すると、その巨石が遊歩道の傍らに存在感を持って現れます。

象石


 確か、象に見えるから象石とも呼ばれていた記憶がありますが、確かに色といい、つやと言い、小象が寝ころんでいるように見えなくもないですな。

 遊歩道を抜けると巨大団地多摩ニュータウンの真っただ中。

 ところどころ広い公園があって芝生の広場も完備しておりまする。

多摩ニュータウンの公園


 団地の建物といくつもある広い公園のコラボを満喫しながら歩いているうちに、迷ってしまいました。

 まわりを見回しても、360度、巨大な四角い建物がどこまでも続き、方向感覚を狂わせます。

 わぁ~、またラビリンスへ迷い込んでしまっただ、とあせって歩き回るうち、都立高校の建物が目に留まりました。

 そこを目印に地図で調べてみると、なんと目的地から2キロもずれている。

 ウォーキングで、オイラがこんなに間違った方向へ歩いたのは初めてかも。

 もっとも、仙台へ行ったとき、松島行きの電車に乗ったと思ったら、山形へ行ってしまったことはありましたが…。

 それはともかく、ルート修正のため余計な距離を歩く羽目に。

 そのおかげで、金メダリストのビッグマウス、石井慧選手の母校、国士舘大学の体育学部の前を通ることができました。

 石井選手のビッグマウスは、アメリカプロレスのショーマンシップを見るようで、個人的には好きなのですが。

 ようやく、次の目的地一本杉公園へたどり着くことができました。

一本杉公園


 ここは、池や芝生が広がる落ち着いた公園。となりにある女子大の緑あふれるキャンパスも眺めることができます。

 ここには、多摩市内から移築された古民家が二つ、屋外展示されていました。

 こちらの旧有山家住宅は市の指定有形文化財なのだとか。

旧有山家住宅


 座敷の床は竹を編んで並べてあるのですね。

床は竹


 歩くたびに竹踏みができて健康には良さそう。

 だけど、縁の下が透けて見えて、冬はかなり寒いだろうなと思いました。

 一本杉公園を出て、いよいよ古道の雰囲気が漂う旧鎌倉街道へ。

旧鎌倉街道へ


 思わず下の舗装道路を行きそうになりましたが、引き返して左の小道へと入ります。

 最初は、ハイキングコースと変わりないじゃんと思っていましたが、歩くにつれ、いかにも鎌倉時代の古道と思われる場所もありました。

 掘割みたいに凹状に見られる道は、鎌倉街道なのでしょうね。

凹状に見られる道


 …と思って、家に帰ってからネットで検索してみたんですよ。

 鎌倉街道の道幅の規格は6メートルなのだとか。

 これはどう見ても、3メートルもないような気が…。

 鎌倉街道ではなく、後世に作られた道ではないかという疑念もわいたりして。

 それはともかく、そのときは鎌倉街道と信じて疑わなかったので、鎌倉武士がタイムトラベルしてきたら、どう対応しようと考えつつ歩きました。

 ところどころ、視界が開ける場所があり、都内とは思えない山里の景観が望めます。

 馬頭観音、子育て地蔵など、道の歴史を感じさせるアイテムを眺めつつ、小野路へ。

子育て地蔵


 小野路は、古くから鎌倉街道の宿として知られるそうですね。近世に入っても大山道の宿場として賑わったらしい。

 通り沿いに、幕末、新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司さんたちが剣術の出稽古に通ったという小島家には、小野資料館がありました。

小野資料館


 何でも当時の当主は、近藤勇と義兄弟の間柄だったそうな。

 資料館は、毎月第一・第三日曜日の公開だそうで、行った日は休館日でしたが、古い門に歴史を感じました。

 小野資料館からすぐ近くにあるのが、小野神社。

小野神社


 平安時代の学者で、遣唐使の小野妹子の子孫であった小野篁(おののたかむら)を祭る神社なのですね。

 なんでも、平安時代に小野篁の子孫が武蔵国の国司として赴任した時、先祖を祭ったのだとか。

 国司も注目するくらいだから、この辺りは当時、交通の要衝として栄えていたのだろうと思いました。

 次は、小野路一里塚へ向かったのですが、またまた道を間違えて1キロ以上も余計に歩くことに…。

 実は、地図を図書館でコピーしたものを持って行ったのですよ。

 図書館のコピーが薄くて、道路がよくわかりませぬ。

 仕方なく、あとは感だけで歩いたのですけど、運よく一発で一里塚にたどり着くことができました。

 ここは、徳川家康の遺骨を静岡の久能山から日光東照宮へ移すときに道が整備されたのですね。

 そのとき、家康の遺骨を乗せた輿が壊れて、鍛冶屋を呼んで直すなど大騒ぎになったらしい。 

 それにしても、道だけではなく、一里塚まで作っていったわけですから、当時の大イベントだったのでしょうね。

 そのすぐ近くに広がるのが野津田公園。

 起伏を利用した広大な公園で、陸上競技場や湿生植物園、上の原広場など見どころが満載でした。

 まずオイラが向かったのは、バラ園。

バラ園


 さまざまな種類のバラの花が咲き乱れておりました。もう少し前に来れば、満開だったのでしょうけど。

 行った日は秋たけなわの頃でしたので、上の原広場には、すすきの穂が風に揺られていました。

上の原広場


 これだけ大量のすすきを見る機会は、東京では滅多にないので久しぶりに秋の景観を堪能できましたね。

 園内から、再び鎌倉古道を歩き、七国山を目指して歩きます。

 鶴見川まではよかったのですが、迷路のような住宅街に阻まれ、再び道がわからなくなってしまいました。

 そういえば、15年前に七国山という絶景が望めそうなネーミングに惹かれてやってきたのに迷ってしまい、結局目的地へ到着できず、すごすご引き返したことがあったのを思い出しました。

 今回も方向感覚までわからなくなって、再び鎌倉街道へ出るまで住宅街をぐるぐる歩き回りました。

 鎌倉井戸には行ってみたかったのですが…。

 そこからまた町田駅まで、延々と歩くのでした。

 うちに戻って迷っていた距離を計算すると、通常のルートより5キロは余分に歩いたような。

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思い出の板橋 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~ん。

 いつも通り、お散歩ネタを書いて、ケータイに入っている写真をパソコンに転送しようとしたのです。

 しかし…、そこで大失態を。

 ケータイに撮り貯めてあった写真を、間違えて全部削除しちゃいましたぁぁぁぁぁぁぁぁ~!!!

 ひぃぃぃぃぃぃ~、今回はよく撮れていると思ったのに。

 何よりショックだったのは、先週行った、横浜市の茅ヶ崎城址と大塚・歳勝土(おおつか・さいかちど)遺跡の画像が消滅してしまったこと。

 復元された「環壕集落」とか、弥生時代の村の雰囲気がよく出ていたんですけどね。

 まさに「覆水盆に返らず」「It's no use crying over spilt milk」状態。

 記事を書いてしまったので、今回は写真なしで行くしかないっす。

 あらためて読み返すと、写真なしのお散歩ネタは、コーヒーにクリープが入ってないみたいに味気ないですな。

 それが実感できたという点では、画像なしのお散歩ネタも一度アップする意義があるかもしれませぬ。


 さて、去年の秋から冬にかけては、「ぐるっとパス」を使って都内の美術館や博物館を徹底的に歩き回ったのでした。

 できれば今年もやってみたいですが、さすがに毎年やるわけにもいかず、今年は、パスを使ってプチお得旅をしてみることに…。

 それは、都営地下鉄「秋」のワンデーパス。

 ワンコイン(500円)で都営地下鉄が一日乗り放題になるのですね~。

 もっとも、使えるのは休日だけ。

 平日にビジネスに使えたら、営業マンの得意先回りの訪問件数が増えるかも。

 それはともかく、その優れもののパスを使って今回行ったのは、板橋区のあたり。

 オイラの自宅の最寄り駅から目的地の蓮根駅までは360円。

 その周辺をウォーキングして、高島平駅から帰ったとすると往復で720円。

 つまり、220円もお得になるのですね~♪

 何度でも改札を出たり入ったりできるから、その気になればもっとお得感は味わえるのですが…。

 地下鉄に乗るのが趣味という人にとっては、たまらないでしょうね。

 …ということで、都営三田線の蓮根駅へやってきました。

 地下鉄というのに、この辺りに来ると駅は皆、高架になっているのですな。

 駅前から住宅街を抜け、団地のそばを通って来たのが、城北交通公園。
入口に近くにあるのが、年代物のこの蒸気機関車。

 あまりに小さいので、昔の遊園地のアトラクションかと思ったら、なんと当時メジャーで活躍していたというからびっくり。

 1912(明治45)年にドイツのコッペル社で製造されたらしい。その名もかわゆく、ベビーロコ号。

 当初は和歌山県の有田鉄道で活躍し、1952(昭和27)年、東武鉄道の気動車と交換して、東武東上線の川越機関区に配置されたのだとか。

 ただ、最大時速は20キロで、燃料や水の積載量が少ないことから、実際はほとんどなかったようですね。

 引退してから保管場所を転々として、現在の場所に移されたらしい。

 それにしても、小さいニャーと思ったのですが、日本で最初に新橋と横浜の間に開通した鉄道も、陸蒸気(おかじょうき)と呼ばれ、これくらいの大きさだったのでしょうね。

 城北交通公園には、そのほかにもD51型蒸気機関車、通称デゴイチも保存展示されておりました。

 次に向かったのは、「植村冒険館」。

 ここに来たのは、15年ぶりですかね。

 実は、オイラの会社の創業当初、ある会社から営業を頼まれて、東京の城北部から埼玉県南部にかけて営業に回ったことがあるのでした。

 今では懐かしい思い出ですが、当時は喜びより苦しみのほうが10倍以上もあったような。

 でも、そのとき頑張ったおかげで、会社が今でも細々と続いているのですね~。

 その辛い時期、休み時間についふらふらと立ち寄ったのがこのミニ博物館です。

 植村冒険館とは、ご存知国民栄誉賞を受賞した冒険家植村直己の生涯と数々の冒険で使用したグッズなどを展示してあるのですな。

 当時はこれを見て、勇気をもらったことを思い出しました。

 いくら仕事が辛いと言っても、命までは取られませんからね。

 北極点到達やグリーンランド縦断など犬ぞりを使って、しかも単独で冒険を達成したところがすごい。

 狭いテント暮らしを何か月で、話し相手は犬だけ。

 冒険家としての植村直己のすごい点は、冒険の現地で長期間を過ごし、生活まで現地の人たちに溶け込んでしまうところにあったらしい。

 たとえば、グリーンランドを犬ぞりで横断したときは、エスキモーの家に寄宿し、犬ぞりの技術はもちろん、衣食住や狩・釣りに至るまで、極地に暮らす人々から直に学んだそうな。

 冒険館には、そのときの冒険の様子を写したパネルが展示されておりました。

 それほど大きな博物館ではありませんけど、一階には冒険や登山関係の書籍、ビデオが無料で利用できますから、そういう趣味を持っている人にはたまらないかも。

 冒険館を出て、住宅街をテクテク歩き、環八通りを横断して坂道を上ります。

 関東平野といっても、このあたりは起伏がかなりあって、とても23区内とは思えない。

 この辺りは、つい最近までのどかな農村風景が広がっていたのかも。

 そんな風景に溶け込んでいたのが、円福寺。

 本堂の前にそびえるコウヤマキの2本の大木が印象的でした。

 この辺りを歩いていると、ところどころ緑豊かな公園にぶつかります。都会の中にある人工的な児童遊園と違って、起伏があって自然な森のようになっている公園は癒されますな。


 前谷津川緑道を通って、昆虫公園へ。

 ここも前に来たことがあります。雑木林の斜面に、昆虫のいる3つの温室と小さな標本室があるのでした。

 施設はかなり古くなっていて、虫さんはホントにいるの?という感じでしたが、標本室ではお母さんと子供が熱心に蝶の標本を眺めておりました。

 昆虫公園から前谷津川緑道に戻り、今度は反対側の坂道を上ります。

 前谷津川は現在暗渠になっていて、その上が緑道として整備されていますが、昔は川の両側は崖になっていたのでしょうね。

 相当な急坂ですが、マンションが建ち並んでいます。

 その坂道を、ベビーカーを押した若いお母さんが息を切らしながら押しているのが印象的でした。

 長崎など坂道の多い町に住む人たちは、足腰が丈夫で心肺機能も高いそうですが、日々の買い物などで毎日この坂道を登ったらメタボとは無縁かも。

 便利で楽なだけが、幸せではないと思いましたね。

 そんなことを考えつつ坂道を登りきると、由緒ありそうな神社がありました。

 こちらは北野神社。なんと、995年創建の板橋区でもっとも古い神社なのだとか。

 境内には、菊の花がたくさん置かれていました。

 この神社には、毎年2月11日に行われる「田あそび」という神事があるそうですね。

 「田あそび」というから、田んぼに村の人たちみんな集まってお花見やカラオケみたいなことをするのかなと思ってしまいました。

 実は、水田耕作に関わる行事で、年の始めに、その年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し、稲作の作業内容を唱え、言葉と所作によって表現するのだとか。

 神社の隣にある郷土芸能伝承館には、そのときに使用する衣装や道具が展示されておりました。

 神社にお参りしてから、前の通りを右折します。

 ここから次の目的地、水車公園までの道の街路樹は、ちょっと変わっているような気が…。

 なんか、大きな盆栽が道の両側に並んでいるような感覚。

 この木はマキといって、街路樹として使われることは全国的にも珍しいのだとか。

 確かに、ほかでは見たことありませぬ。

 面白い景観に見とれているうちに『徳水亭』という茶室のある庭園に到着。

 ここも、以前何度か来たことがあってよく覚えています。広くはないけれど、石の配置や池の形、深山幽谷を表した岩の景観などよく考えて作られていますね。

 隣にあるのが、水車公園。

 公園の名前の由来にもなっている通り、ここにはモノホンの水車があるのでした。

 水車小屋では、実際に脱穀や製粉の様子も見ることができます。木製の巨大な歯車がまわってゴトゴト音を立てる様は迫力満点。

 この辺りは、徳丸田んぼと呼ばれ、かつてはのどかな田園風景が見られたそうな。

 現在も、ところどころ畑が残っていて、当時の様子をイメージすることができます。

 水車公園を出て赤塚公園に向かう途中にも、小さいながらも個性豊かな公園が並んでおりました。

 それにしても、この自販機はなぜかよく覚えている。

 真夏の暑い盛りに、この自販機から何本も清涼飲料を買ったのでした。

 当時は、コーラやジュースなどカロリーの高いものをがぶ飲みしていましたね。

 最後に向かった赤塚公園は、高島平団地と首都高速5号線に沿って、東西にのびる公園。自然林が広がる崖の上から、高島平の巨大団地群を臨むことができます。 

 高島平は、江戸時代後期に、この地で砲術家の高島秋帆が日本で初めての洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なったのがネーミングの由来。

 ところが、高島平と呼ばれるようになったのは、意外と新しく昭和44年だそうなんですよ。

 できた当初、高島平団地は高島忠夫にちなんで作られたのではないかと友人と話したのを思い出しました。

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江戸時代の城下町・小田原 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今日は、前回の小田原散歩の続きです。

 北条時代の小田原城を見たあとは、江戸時代の小田原城へGO!

 …ということで居神神社を出て、道路を挟んだ反対側の大久寺へ向かいます。

大久寺


 こちらは、寺の名前から江戸時代の藩主大久保氏の関係があるんだろうなと思ったら、やはり大久保氏の菩提寺なのでした。

 一族の墓が境内にあったのですね~。

大久保一族の墓所


 大久保神社に大久寺ですか。そのものズバリのネーミングですな。

 東海道本線の線路を越え、しばらく行くと北条氏当時の小田原城の遺構である「早川口遺跡」。

早川口遺跡


 ここも豊臣秀吉の小田原征伐に備えて作られた大外郭の一部なのですね。土塁もかなり磨耗して低くなっていましたが、住宅街のど真ん中に北条氏の遺跡が残っているのはすごい。

 現在の小田原城址公園からもかなりの距離があり、当時の城の巨大さが改めて実感できました。

 御幸の浜といわれる海岸を眺めた後に向かったのが、小田原文学館。

小田原文学館


 趣のある古い洋館だったので有名な人の家だったのかなと思ったんですよ。

 やっぱし、佐藩の藩士で明治維新後は宮内大臣などを歴任した田中光顕の別荘として建てられたのだとか。

 司馬遼太郎の幕末ものにもたまに登場する人物ですな。

 昭和12年に建てられたスペイン風建築だそうで、今住んでも違和感のないモダンな建物。

 館内では、小田原出身やゆかりの文学者の作品や手紙、写真などが紹介されていました。

 北村透谷、北原白秋、尾崎一雄、谷崎潤一郎、三好達治、坂口安吾はオイラも知っているっす。

 中には知らない作家も大勢いましたが、当時の肖像写真が飾られているんですよ。

 井上康文という詩人は、今も時代でもジャニーズに入ったら人気が出そう。「嵐」のメンバーに似ているし。

 田原俊彦に似ている作家もいましたよ。

 かつてはジャニーズにあらざるものはアイドルにあらず…なんて言われた時代もありましたが、明治・大正の文壇にもジャニーズブームはあったのでしょうか。

 ちなみに樋口一葉も、そのネーミングや五千円札の雰囲気から、古風でおとなしい女性のイメージです。

 でも樋口一葉記念館に残された写真や手紙を拝見すると、結構キャピキャピギャルの一面もあったみたいなんですよ。

 古いセピア色の写真から、セピア色の性格をイメージしてしまいがちですが…。

 それにしても、オイラはどういう基準で人を見ているんでしょうね。

 庭園を挟んで、尾崎一雄の移築された書斎や田中光顕の別荘の別館として建てられた純和風の建物では、北原白秋の童謡にまつわる展示もありました。

小田原文学館和館


 古い日本家屋とマザーグースのミスマッチがまたグーです。

 文学館を出て、小田原城址公園へ向かうときにはもう午後4時近くに…。

 公園の南側の入り口から城内へ入ります。北条時代の小田原城をゆっくり見たから、天守閣に入る時間がなくなってしまいました。

 ま、以前入ったことあるし、と思いましたが、それはなんと20年くらい前なのでした。

 展示物はそれほど大したものはなかったと記憶していますけど、なんと言っても標高60メートルからの眺望は見事でしょうね。

 かつて小田原第2尋常小学校の講堂だった建物の小田原城歴史見聞館にも入ったことないし、今度またゆっくり小田原城へ来ようと思いました。

 昔から比べれば小田原城の城内も整備され、今でも関東の城の中では横綱クラスの見所が満載です。

 まず、近年復元された銅門を通って二の丸へ。

銅門


 今はだだっ広い広場になっていますが、かつてここには壮麗な二の丸御殿があったのですね~。

 赤い常盤木橋を渡ります。今は田んぼになっていますが、かつてここには幅20メートル近くある堀になっていて、本丸を守っていたらしい。

 橋を渡り、石段を上ると昭和45年に復元された常盤木門。

常盤木門


 さすが江戸幕府の関東前線基地としての威容が感じられました。

 巨大な門をくぐっていよいよ本丸へ。

 本丸に上がると、巨大な天守閣が圧倒的な迫力で目に飛び込んできます。江戸時代もこれと同じ大きさだったのでしょうか。

小田原城天守閣


 当時の人たちは、東京タワーや六本木ヒルズを見上げるような感覚で眺めたのだろうと思いました。

 江戸時代初期には、三大将軍家光がこの天守閣に登り、眺望を楽しんだという記録が残っているらしい。

 いきなり天守閣の内部へ入るのではなく、石垣の急階段を登って入り口に到達するのが特徴的かも。登るとき、視界が広がって、ワクワクするような高揚感を当時の人たちも感じたのでしょうね。

石垣の急階段


 それをオイラも味わいたくて、是非また近いうちに来たいっす。

 天守閣の建っている丘を反対側に下ると小さな遊園地になっていて、そこからまた下って、報徳二宮神社へ向かいます。

 向かう途中のこの池。

北条時代の堀の跡


 神社によくある心字池かと思いきや、北条時代の堀の跡なのだとか。

 石垣を用いない戦国時代の堀の原型をよく留めているらしい。

 堀の幅は、20メートル以上、深さは5メートル以上もあるのですか。

 澱んだ水で、意外と浅いのではないかと思いましたが、底には北条氏の堀特有の障子堀の一部を残していますと解説板には書かれていました。

 報徳二宮神社の境内は、北条氏によって作られた古い曲輪の跡だそうです。雷曲輪を呼ばれる二つの堀に両側から囲まれた細長い平垣地で、江戸時代は、小田原城の火薬庫があったそうな。

 報徳二宮神社は、かつて学校の校庭でよくお目にかかった二宮金次郎を祭った神社。

報徳二宮神社


 そういえば、二宮金次郎は小田原藩領の出身でしたね。小田原藩の家老や小田原藩の分家、その後天領の財政再建に腕を振るったと聞いたことがあります。

 それにしても、こちらも二宮神社というストレートなネーミング。

 隣にある郷土文化館が無料で入れるというので、行ってみることにしました。そういえば、前回来たときも「無料」という言葉に吸い寄せられたような。

 発掘資料や民俗資料など、よくある展示物が所蔵されていましたが、オイラが興味を持ったのはやはり小田原城の資料。

 とくに、北条時代の小田原城の縄張りは興味深かったっす。

 朝からずっとオイラがたどってきた道を見ながら、当時の小田原城をイメージしてしたら、おじいさんに声をかけられました。

 係の人ではないみたいですが、説明してくださるみたい。

 まず、小田原城の総構えの巨大さを指摘されます。

「総構え」ってわかる?

 …と聞かれましたが、ええ、何となく聞いたことがあります、と何気に聞き上手になってしまう自分が哀しい。

 城の説明の中で間違っている箇所に、必死で突っ込みを入れたくなるのを押さえ、しっかりお礼を言って外に出ます。

 再び城内を通って、水堀を渡り、幸田門跡へ。

 戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時に激闘がここで繰り広げられたそうな。

 確かに平地で、居館があったといわれる場所までもうあと少し…。

 謙信も、信玄も、あと一歩まで攻めたものの落とせなかったというのが実感できました。

 幸田門跡から続くスペースに、土塁が残っている。

市内に残る土塁


 ここは、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡だそうですね。

 さきほどの早川口遺構の土塁は、住宅街の中にありましたが、こちらの土塁は完璧に市内中心部。

 土塁の上を歩くと、ビルで働いている人たちを窓ガラス越しに眺めることもできます。

 やはり小田原は城と町とが見事に共存しているのですな。

 そして最後に向かったのは、北条氏政・氏照の墓。

北条氏政・氏照の墓


 北条氏政は、北条氏第4代の当主。氏照は、氏政の弟で八王子をはじめ5つの城主だった存在。

 当然、由緒正しい寺院の墓地の奥にひっそりと、というイメージでしたが、小田原駅から程近い歓楽街の一画にあったのは少々驚きました。

 二人は、小田原落城の後、城主氏直は高野山に追放され、父氏政、その弟氏照の両人は責任を負って自刃したのですね。

 遺骸は北条氏の氏寺であった伝心庵に埋葬されたらしい。

 江戸時代になって伝心庵は移され、その跡に別の寺が建立。この墓所は長く放置されてあったのを、後の小田原城主が北条氏追悼のため作り直したのだとか。

 それも関東大震災のとき埋没し、行方不明になっていたのを地元の有志の人たちが復興したのですね。

 北条氏のとっては悲劇的な結末でしたが、新しい花が供えられ、今でも小田原の人たちから慕われているのがわかりました。

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北条氏の城下町・小田原 ウォーキングストーリー with 筋トレにまつわるエトセトラ

 こんにちは。

 オイラが最近はまっているのが、筋トレ。

 この前、何気にテレビを見ていたら、中高年でも安全に、短時間でも効果のあがる筋トレの仕方をやっていたのですよ。

 その方法は、腹筋、スクワット、腕立て伏せの3種類のみ。

 しかも、やるのはそれぞれ、たったの10回だけ。テレビではそれを一日2セットやるとさらに効果的と言っていました。

 えっ?たったそれだけで効果あるの?

 若いころは筋肉ヲタクで、ブルワーカーはもちろん6キロのダンベル、エキスパンダーなどエクササイズ用具は今でも家にあるオイラ。

 それを全部やったら1時間はかかるし、疲れるし、面倒くさいし、でここ何年間かはご無沙汰でした。

 でもテレビで見た、この方法を実践している人たちは、高齢者でも信じられないくらい身体レベルの高い人が多い。

 ホントかどうか疑心暗鬼でしたが、続けてみることにしたのです。

 ただ、やり方にちょっとしたコツがあるみたい。

 それは、腹筋にしても、スクワットにしても、腕立てにしても、通常よりゆっくりやること。

 腹筋や腕立ては、腰に負担がかからない配慮はしてありましたが、基本的にはスローにやるということさえクリアすればいろいろ応用できそうですね。

 オイラはとりあえずその3種類だけやってみました。トータルでも一日10分くらいでできます。

 それを実践して10日くらい経った頃、なんとなく効果が実感できるようになったのですよ。

 ダイエットして体が軽くなったところに筋トレを行ったので、車で言うと車体を軽量化してエンジンのパワーを増した感覚と言いますか。

 街を普通に歩いていても、体に余力があるから、何の脈絡もなく駈けだしたり、階段を3段抜かしで駆けあがりたいという衝動にかられる。

 何をするにしても体を動かすことに関しては、余裕をもってできるというメリットはありますね。

 ダイエットして少々困ったのは、満員電車の中。

 なぜか、気がつくといつもオイラの隣に、身長180センチで体重が120キロは超えていると思われるメタボおやじが立っているんですよ。

 太っていた頃は、電車が揺れてそのおやじが倒れ掛かってきても、怒涛のがぶり寄りで押し返すこともできた。

 ところがダイエットしてからは軽量の哀しさから、一気に土俵際まで持って行かれることが増えましたね。

 ただ、最近はおかげさまで筋トレの成果からスピードとパワーがつきました。

 体勢を低くしてメタボおやじの前みつをとり、一気に寄り切ろうという作戦をたてております。

 今度、ホームで千代の富士みたいな足を高く上げる四股を踏んでから、満員電車に乗りこもうか、と…。

 そのメタボおやじも、曙みたいにのっそり電車に乗り込んできたりして。

 
 それはともかく、今回もお散歩ネタです。

 江戸時代の城の東正横綱といえば、江戸城だと思いますが、戦国時代の城の横綱もまた関東にあるのですね~。

 それは小田原城。

 ご存知、後北条氏の本城として、当時関東の中心であった大城郭です。

 名将武田信玄や上杉謙信も落とすことができず、豊臣秀吉が全国から集めた20万の兵力に包囲されながらも100日間持ちこたえたのですよ。

 子供の頃から城ヲタクだったオイラ。当然、小田原城は何度も行っているのですが、いつも見ていたのは江戸時代の小田原城なのでした。

 新幹線に乗っていて車窓から見える天守閣は、昭和35年に鉄筋コンクリートで外観復元されたもの。宝永3年(1706)に作られた天守閣の設計図や模型を参考に再建されたのですな。

 天守閣は立派ですが、豊臣秀吉の大軍を迎え撃ったにしては、正直言って小さな城だなという印象でした。江戸時代は10万石クラスの譜代大名が城主だったのですね。

 ところがその後、いろいろ本を読んでいて、現在の本丸には北条氏の居館はあったものの、戦国時代の本丸は別な場所にあったことを知りました。

 それは、東海道線と新幹線の線路を越えたもっと標高の高い場所。現在城山公園や県立小田原高校になっている辺りが、北条氏時代の本丸だとか。

 そう聞くと、行かないわけにはまいりませぬ。

 江戸時代の小田原も、東海道の要衝として繁栄していましたが、史上小田原がもっとも脚光を浴びていたのは北条氏の時代だったのではないか。

 小田原征伐の当時、もし新聞があったら全国紙でも連日一面トップで掲載されたでしょうからね。

 北条氏の時代の本丸を知らなくては、城ヲタクのもぐりと言われても仕方ないっす。

 … ということで、名誉挽回のために小田原へやってきました。

 いつもは繁華街の東口へ出て、城址公園へ向かうのですが、今回は西口からスタートです。

 駅前には、北条早雲の銅像が…。

北条早雲の銅像



 望遠で撮ったので不鮮明ですけど、馬に乗った早雲と走る鹿のコラボレーションですか。

 馬と鹿…とだからどうというのではなく、これは早雲が小田原城を攻略した故事によるものでしょうね。

 当時の小田原城主は大森藤頼。

 伊豆にいた早雲は、「伊豆で鹿狩りをしていたら鹿が箱根の山に逃げてしまった。そこで鹿を追い返すために勢子を小田原領内に入れ、伊豆へ鹿を追いやりたい」という手紙を藤頼の元に届ける。

 藤頼はこれを許して、早雲は勢子を入れた。が、しかし、これは勢子に扮した早雲の兵で、裏山から一気に小田原城を攻め落とし、相模の国攻略の第一歩としたのでした。

 現在の小田原城を眺めていると、東海道新幹線などで分断されて単独の丘の上に建っている城のように見える。でも、それより高く、鹿が逃げ込むのには絶好の裏山があるのですね。

 それはともかく、北条早雲の像が小田原駅の西口にあるのが興味深い。

 東口が江戸時代の小田原、西口は北条氏時代の小田原と、棲み分けができているのだろうかと思ったりして。

 北条早雲は司馬遼太郎の「箱根の坂」を読んで共感を覚えた武将です。中年になってから一念発起して京都から駿河の国へ。

 今だったら、東京から地方へIターンして新たな働き口を見つけて働くといった印象でしょうか。

 京都にいた頃は、鞍を作っていた職人のような描かれ方をしていたのが記憶に残っています。

 確か、50代半ばで興国寺城の主となり、60歳過ぎてから伊豆の国を取り、88歳まで長生きしたのでしたね。彼の生涯を眺めると、中高年も夢さえ捨てなければまたまだやれるのではないかと希望がわいてきます。

 そんなことを考えつつ、お寺が左右に並ぶ舗装道路を通って城山公園へ向かいました。

 道路は広くて立派なのですが、さすが城山というだけあって勾配がきつい。

 やがて右手に、陸上競技場のグランドが見えてきました。行った日は、中学生の競技会が開かれていて、場内アナウンスがひっきりなしに聞こえます。

御前曲輪の跡


 このグランドの広大なスペースが御前曲輪の跡なんですと。

 小さな城だったら城全体がすっぽり入るスペースが、数ある曲輪の一部ですから城の規模がわかりますね。

 眺望がよくて土地の起伏はわかるのですが、城の規模が大きすぎて縄張りが推理できませぬ。

 いつもは、ガイドブックのコースを無視して城跡を縦横無尽に歩き回るのですが、迷子になりそうなのでコースに従うことにしました。

 公園の林の中を歩いてゆくと、巨大な空堀が目の前に現れます。

小峰の大堀切


 これが、小峰の大堀切。

 小田原城の西の守りを固めるために、豊臣秀吉の小田原征伐に備えるために作られたらしい。

 堀の幅は、約20から30メートル。深さは土塁の頂上から12メートルあまりもあって、斜面は50度という急勾配なのだとか。

 空堀としては全国的にも最大規模のものですか。

 正直言って、これくらいの大きさの空堀は何度か目にしたことがありますけど、驚くべきはその総延長。なんと9キロメートルにも及ぶそうなんですよ。

 小田原城が戦国時代末期、その威容を天下に響かせたもっとも大きな理由が、総構の巨大さでした。

 城下町を包囲する外郭の周囲は五里と言うから、約二十キロにも及んだらしい。戦国時代のドラマを見ていて、北条氏が登場するシーンには必ずと言っていいほどこのフレーズが飛び出します。

小峰の大堀切、上から


 それにしても、これだけの空堀がよく現代まで残りましたな。

 中途半端な規模ではないから、城跡にそれほど関心がなかった時代の人も手を付けられなかったのかも。

 当時の北条方の人たちは、日本全国を敵にまわして戦うことを想定して巨大な空堀を作ったのですね。死ぬか生きるか、必死の思いだったのでしょう。

 彼らの心中をイメージしていたら、腕にでっかい蚊が数匹も止まっていました。ちなみに行った日は初秋でしたので念のため。

 血を吸われるか、吸われないか、必死の思いで腕をバチバチ叩きながら空堀をあとにします。

 しばらく歩くと、大久保神社。

大久保神社


 ここは江戸時代の小田原藩主大久保氏を祭った神社ですな。城下町より、北条氏の本丸のすぐそばにあるというのは何か意味でもあるだろうかと考えました。

 それにしても、このあたりからの眺望は素晴らしい。小田原の市内はもちろん、伊豆や真鶴半島。そして小田原征伐で、豊臣秀吉が陣を張った石垣山城まで見通すことができまする。

戦国小田原城からの眺望


 このあたりから、一夜にして城ができたと北条方は大騒ぎしたのですな。

 急な坂道をくだり、小田原の市街地へと向かいます。

 その途中にあるのが、伝肇寺(でんじょうじ)。

伝肇寺


 ここは詩人の北原白秋が34歳のとき、小笠原からこちらの境内に居を構えて移り住んだそうななんですよ。

 その家が屋根も壁も茅葺の南方的な庵室だったらしい。

 その姿が木菟(みみずく)に似ていたので、白秋自ら「木菟の家」と呼んだとのこと。

 小田原はともかく、北原白秋が小笠原の父島に一時住んでいたというのは驚きましたね。

 なんでも奥さんが肺結核になったから空気のいいところで静養したそうなのですが。

 境内には、白秋にちなんだみみずく幼稚園がありました。

 国道1号まで降り、次に向かったのは、鎌倉時代末期の石碑のある居神神社。

居神神社


 解説板には、小田原の後北条氏に討たれた三浦荒次郎平義意(よしおき)の霊もお祭りしてあると書かれていました。

 これからいよいよ、江戸時代の小田原の城下町を歩くのですが、それはまた次回。

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土方歳三のふるさと日野・高幡不動 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 新選組・日野シリーズの最終回は、いよいよ真打ち、土方歳三さまの登場っす。

 生家跡への訪問ですね。

 土砂降りの雨から天気が回復して、快適なウォーキングをすることができました。

 右手に見えてきた、こんもりと緑に包まれた丘。あれはどうみても、城跡でしょうとあたりをつけたら、案の定、高幡城址なのでした。

高幡城址


 川と丘がコラボであると、城跡を疑ってみたくなります。

 丘の麓には高幡不動があるので、あとで行ってみようと足を速めました。

 万願寺歩道橋を越え、左手に神社が見えたところを左折、住宅街を道なりに歩いてゆくと、庭に「誠」の旗が立っているお屋敷がありました。

土方歳三資料館


 ここが土方歳三資料館であるとともに、歳さんの生家あと。

土方歳三生家跡


 歳さんが青春時代を過ごした実家だったのですが、オイラが20年以上前に来たときとは、まわりの景色はもちろん家も様変わりしていました。

 20年でこんなに変わるんですね~。

 うろ覚えですが、田んぼや畑があって、当時は近郊の農村といった感じでした。今はお洒落な住宅街。

 すぐそばを多摩モノレールの高架が走っていて、スーパーやファストフードのお店も建ち並ぶ。

 昔のこの辺りを知っているオイラとしては、より歳さんが暮らした石田村に近い景観を見たことがあるぞ~、ひひひ、うらやましいだろ~と自慢したい気分になりました。

 立派ではあったものの、トタン屋根の崩れそうな家屋だった歳さんの実家も、ハイカラなお屋敷に変貌を遂げている。

 もっとも、以前の崩れかけたような家屋よりは今のお屋敷のほうが、あの写真に写っている歳さんのイメージに結びつくというのが変な感じですが…。

 こちらも、子孫の人たちが経営しているようで、月一回、第三日曜日だけの開館なので行った日は休館なのでした。

 歳さんの愛刀、和泉守兼定や書簡、池田屋事件で使用したと伝わる鎖帷子、鉢金、榎本武揚の書、歳さんも行商をした土方家家伝薬である石田散薬にまつわる資料などを保管しているらしい。

 それにしても、歳さんの肖像写真を見ると、江戸時代を生きた人とは思えないくらい現代的な顔立ちの美男子と思えます。

 当時の人たちも、「眉目清秀ニシテ頗ル美男子タリ」と言われていたそうな。

 五尺五寸で、身長は当時としては長身の168センチ。すらりとして、色も白く、一見商人風で鬼の副長と恐れられていたとは思えない。

 そのギャップが人気の一つなのでしょうね。

 うぬぬ、写真をよく見ると、ウッチャンナンチャンのウッチャンにも似ているぞ、とかいや、狩人の弟のほうにクリソツじゃとか、嫉妬心が湧き上がる今日この頃。

 個人的には、栗塚旭の土方歳三の、口下手で無骨だけど、ちょっとやさしくてかっこいいイメージが好きなのです。

 司馬遼太郎の「燃えよ剣」のイメージにぴったりで…。

 ただ、歳さんは昔、薬の行商をやったりして一見商人風の愛想のよさもあったのではないか。営業をやると、人格に劇的な変化が現れますからね。

 オイラも営業をやっていたから経験があるのですが、栗塚旭版土方歳三のキャラクター設定では行商はできなかったかも。ノルマ達成できなかっただろうといいますか。

 その点では、山本耕史版土方歳三のほうが、より実際の土方歳三に近かったのかな、という気はしています。

 それはともかく、この辺りの家は土方さんと書かれた表札が目につきますね。

 歳さんの実家あとの隣にある立派な長屋門のお宅も、土方さんという表札が掛かっていました。

隣にある立派な長屋門

 
 土方家は、この土地の大百姓だったというのも頷けますね。

 そんなことを考えつつ、資料館から道なりに歩いてゆくと、住宅街の中に小さな社を取り囲むように大木が数本ある場所に出ました。

とうかんの森


 ここは、「とうかんの森」と言って、土方家の氏神として祀られた稲荷神社の跡なのだとか。この近くにはかつて歳さんの生家、土方家があったのですね。

 浅川と多摩川の合流地点に近く、この場所はたびたび大雨の被害に見舞われ、天保十一年の洪水で歳さんの生家は流されてしまったらしい。

 それで、先ほどの場所に引っ越したのですな。

 大雨に悩まされたという点だけはオイラと共通点があったと喜びながら歩き、石田寺に到着。

石田寺


 ここは古くからこの土地に暮らしていた土方家の墓所であり、土方歳三顕彰碑がありました。

 確かに墓地に並んでいるお墓は、「土方家」のものばかり。

 境内にそびえる樹齢400年と言われるカヤの大木は高さ20メートルもあるらしい。当然、歳さんもこの木を眺めて少年時代を過ごしたのでしょうね。

カヤの大木


 石田寺から高幡不動へは浅川のほとりを歩きました。この河原に生えていた「牛革草」という野草を、土用の丑の日に石田村の村民が総出で採り、散薬にしたものが歳さんの生家に伝わる打ち身薬「石田散薬」なのですね。

浅川


 この河原で、若い日の歳さんが村人たちをまとめて、草を総出で刈っている姿が目に見えるようでした。

 そして最後に向かったのが高幡不動。

高幡不動


 土方歳三の菩提寺で、関東三不動の一つにも挙げられる古刹ですね。

 不動堂や仁王門は重要文化財にも指定され、新しく作られた五重塔とともに、とても美しい境内だと思いました。

 そして境内には、土方歳三の銅像。

土方歳三の銅像


 こちらはまたすこぶるイケメンですな。若い頃の栗塚旭と山本耕史を足して2で割ったような。
 佐藤彦五郎たちが建てた殉節両雄の碑もありましたよ。

 夕方でしたが、丘の急斜面を登って高幡城跡にも行ってみました。

高幡城本丸跡


 城の縄張りの地図もなく、本丸跡の標識があるだけでしたね。

 なんでも、城についての記録は少なく、金剛寺の裏山に城址があったという伝承があるだけなのだとか。

 土塁や空堀のあとも推定するしかなかったですが、新選組とお城がコラボで見られたのは一粒で二度おいしいウォーキングコースでした。

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新選組のふるさと、日野 ウォーキングストーリー2

 こんにちは。

 今日は前回の続きです。

 日野宿本陣を出ると、なんと土砂降りの雨。

 曇っていて、今にも雨が降り出しそうでしたが、やっぱり降りましたか。ネットで調べてから出かけたのですが、降水確率は40パーセントでした。

 前のブログでも書きましたが、豪雨でかなりヤバイ状況に陥ったことがありますから備えは万全。

 あの事件以来、どんなに晴れた日でも折りたたみ傘はカバンの中に入れて出かけます。そして今日のように雨が降りそうな日にウォーキングに行くときは防水仕様のシューズ。

 5センチ防水とか書いてあるスニーカーを買ったのですね~。

 雨の中でも長靴で遊んだ子供時代を思い出して、次の目的地井上源三郎資料館へと向かいます。

井上源三郎資料館


 ただ、この資料館は個人経営で、第一・第三日曜日だけが開館日だそうですので念のため。

 行った日は休館日だとわかっていたのですが、外から眺めさせてもらおうと思ったのです。

 それにしてもすごい雨。風も強くて歩きづらい。

 でも完全防水の買ったばかりのスニーカーは万全…。

 …と思ったら、ジワジワと靴下に水が染み込む嫌な感じ。その2分後には完璧に靴の中に水が入って、歩くたびに靴の中でビチョ、ビチョと気持ち悪い音を立てるのでした。

 何が完全防水じゃ~とメーカーに腹を立てても後の祭り。

 こんなことなら、普通のウォーキングシューズのほうが楽なのでした。

 でも、5年前の相模川の悪夢と比べたら天国といってもいい状況だと思い直し、目指す目的地に到着。

 ここに資料館があるということは、当時井上源三郎はここに住んでいたのでしょうかね。

 家に帰ってネットで調べてみると、やはり実家のあった場所だとわかりました。

 大河ドラマでは、兄弟子なのに後輩たちの細々とした世話をしてあげたり、庭を率先して掃除したり、とてもきさくでやさしい人柄に描かれていましたね。

 リアルでも「源さん」と呼ばれていたように、無口で人の良い人だったようです。真面目で誠実な人柄で、若い隊士から慕われていたらしい。

 一方で頑固なところもあって、一度言い出したらきかない面もあったそうな。

 ドラマの最後のシーンも、まわりが止めるのも聞かないで官軍の鉄砲隊の前に仁王立ちになって戦死しましたね。

 享年40歳というから、近藤勇や土方歳三よりも年長なのですか。決して長いとは言えない人生でしたが、こうして資料館までできるとは本人も思っていなかったのではないかと思いました。

 新選組の名前がある限り、永遠に語りつくされていくのでしょう。

 びしょ濡れになりながら、そんなことを考えつつ歩き、八坂神社に着く頃にはシューズから水があふれ出るような状態に。

 気持ち悪いっす。

 雨がすごかったし、八坂神社の本殿は最近できたみたいだと思ってよく見なかったのですが、あとでこれは覆屋だとわかりました。

八坂神社


 この中に、1800年に建造された本殿があったのですね。精巧な彫刻が施された江戸後期を代表する神社建築で、日野市の指定重要文化財だそうな。

 ほかにも、後に新選組に参加することになる近藤勇や井上源三郎らが奉納した天然理心流の剣術額もあったそうですね。

 見学しないで、もったいないことをしたと後悔しました。

 だから雨は嫌いなのじゃ

 そこから3分ほど歩くと、宝泉寺があります。

宝泉寺


 ここは井上源三郎の菩提寺だそうで、彼の顕彰碑がありました。

井上源三郎顕彰碑


 次に向かったのは、大昌寺。

大昌寺


 少し雨が小降りになってきて、青々と濡れた芝生がとても鮮やかでした。

 ここには、前回の記事でご紹介した日野宿の名主で本陣も経営し、さらに新選組の育ての親でもあった佐藤彦五郎のお墓と彼の妻で歳さんのお姉さんのお墓があるのですね。

佐藤彦五郎のお墓


 由緒あるお寺らしく、ほかにも日野の町ゆかりの人たちが大勢眠っておりました。

 ここから住宅街をテクテク歩き、中央ハイウェイの下をくぐりぬけて向かったのは、その名もズバリ「新選組のふるさと歴史館」。

新選組のふるさと歴史館


 ここは新選組の調査・研究・展示活動を行うために日野市が設けたのですか。

 昔はなかったと思ったら、平成17年開館というからつい最近できたのですね。
 
 新選組は、隊士の写真が残っているくらい古い組織ではないですからね。どんなものが残っているのだろうと興味津々で行ったら、休館でしたぁぁぁぁぁぁ~

 休館日といっても、その日だけ休みだったわけではなく現在展示替えが行われているらしい。

 次回展示は、9月27日(土)~12月14日(日)までの予定で、日野市郷土資料館特別展『ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語』を開催するのだとか。

 しかも、新選組とは関係ありませんので念のため、という注釈までついているのでした。

 せっかく新選組で町おこしをしようと頑張っているのに、日野宿の本陣は最近観光客が減っているみたいだし、こちらも新選組から別の展示ですか。

 本当に好きなファンは当然すでに来られているでしょうし、リピーターになるのはよほど知恵を絞らないと難しいのかもしれませんね。

 せっかく楽しみにしていたのに残念と、すぐそばの日野市役所で休憩。

日野市役所


 レンガ色の立派な建物ですな。

 すぐ横には、日野中央公園の緑が目にまぶしいっす。どうやら雨も止んだようで、太陽が顔を覗かせました。

 ここから土方歳三資料館までは約3キロの道のり。

 日野バイパスを越え、浅川の河原沿いの遊歩道を下流に向けひたすら歩きます。

浅川の河原沿いの遊歩道


 ここから歳さんの実家あとへ向かうのですが、それはまた次回。

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新選組の故郷、日野 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今回行ったのは、新選組の故郷といわれる日野です。

 新選組といえば、最近、NHKの大河ドラマでも話題になりましたね。

 オイラ的には、子供の頃見たテレビドラマ「燃えよ剣」のイメージのほうが強烈。

 栗塚旭の演じた鬼の副長土方歳三の鬼気迫る生き方に、すっかりファンになってしまいました。函館五稜郭の最後のシーンは、今でもくっきり脳裏に焼きついておりまする。

 テーマミュージックも、勇ましく一途に生きた歳さんのイメージそのままでかっこいい。

 それはこちら

 司馬遼太郎の原作を読んだのは確か高校生のときだったと思います。もしかしたら、司馬作品の中で初めて読んだのがこの本だったかも。

 司馬作品の面白さを、オイラのDNAの中に組み込んでくれたという点では記念碑的な作品ですね。

 土方歳三の生家が日野に残っていると知ったのは、社会人になってからです。今から20年以上も前だったと思いますが、ガイドブック片手に訪ねたのですね~。

 田のあぜ道や畑が広がるのどかな田園風景の中に、黒塗りのトタン屋根の生家がありました。土方家は、多摩地方に広がる豪農の家系で「お大尽」とよばれる大百姓だったらしい。

 子孫の人たちが暮らしているようで中には入れませんでしたが、今にも崩れそうな外観に歴史を感じました。

 当時から歳さんの例の軍服を着たお洒落で、さっそうとした写真は知っていましたから、何の変哲もないまわりの景色は少し意外だったのを覚えています。

 でもよく考えてみると、すぐそばには甲州街道の日野宿がある。歳さんの姉のご主人は、日野本郷の名主兼日野宿問屋をつとめ、脇本陣も経営していたとか。

 歳さんはそこへよく出入りしていたそうですし、実家も秘伝の石田散薬を作り、行商の経験もあったらしい。

 司馬遼太郎の本を読むと、石田散薬を作るとき、子供の頃から村の人たちを動員してシステマチックに動かした経験が新選組の組織作りに役立ったという記述があります。

 現在の上野松坂屋で奉公したという伝説もあるそうですが、武士の魂を持ちつつも、商売人としての合理的な思考方法があれだけの活躍を生んだのだろうと思いました。

 …ということで、新選組の故郷を20年ぶりに訪れようと、9月のどんより曇ったある日、オイラは日野にやってきました。

 日野駅を出ると目の前の通りは、旧甲州街道。

 まず目についたのはこの建物なのですが、これがなんと日野駅の駅舎なのですか。

日野駅の駅舎


 れっきとした東京近郊のJRの駅なのに、峠の茶屋のような面影が…。今はトタン屋根ですが、昔はわら葺だったのでしょうかね。

 駅の構内にいると気づかないのですが、外へ出て後ろを振り返るとおお~と思いました。

 さすが元宿場町。

 甲州街道を府中方面にテクテク歩くと、右手に旧日野宿の本陣があります。

旧日野宿の本陣


 ここは都内に現存する唯一の本陣だとか。

 江戸時代の本陣とは、街道の宿駅で、大名・公家・幕府役人などが宿泊した公的な宿。

 今はひとつだけですが、当時は大きな本陣と脇本陣が長屋門を構えて並び立っていたそうな。ちなみに今残っている建物は脇本陣だったらしい。

 そして幕末、この脇本陣を経営していたのが、土方歳三の姉が嫁いだ佐藤彦五郎なのですね。

 さすがに高貴な人たちを迎えるために作られた建物だけあって、玄関の立派さに圧倒されました。

旧佐藤彦五郎邸玄関


 でも昔来たときは、ゆっくり見た記憶がないのです。

 どうしてかな、と思いつつ、建物の横へまわりました。入り口があって、入場料200円で中が見学できるらしい。

 入るとボランティアで解説をしてくれるおじさんから声をかけられました。

 オイラが今日はじめてのお客さんなのですか。

 どんより曇った日でしたけど、午前11時をまわった頃。この建物は、新選組のファンにとってはかけがえのないものですからね。

 平日でしたが、新選組の土方・沖田ファンの女性が訪れているのではないか、と…。

 大河ドラマが放映していたときは、平日でも大賑わいだったそうですが。

 でも、見学者にとっては、すいているほうがゆっくり思う存分、スペースを独占できるのがうれしい。

 ボランティアのおじさんとマンツーマンで本陣の中を見学することにしました。

 まず、古い民家にはつきものの土間。そして現在残っている主だった部屋は9部屋。それも今のマンションのような狭い部屋ではなく、一番広い部屋は18畳もあるのですか。それに4畳の間や広い廊下がプラスされる。

 もちろん全部プライベートな空間ではなく、庄屋さんと本陣の公的なスペースとしてこれだけの広さが必要だったのですね。

 この建物が面白いと思ったのは、庄屋さんと本陣の機能がコラボで一つの建物の中に存在すること。

 土間からあがる18畳の広いスペースが庄屋さんとしてのオフィスや会議室として利用されたのですね。

18畳の広いスペース


 昭和になってからですが、このスペースで日野館というお蕎麦屋さんを営業していたらしい。

 前回来たとき、お蕎麦屋さんだったので、中に入れなかったことを思い出しました。

 昼ご飯を駅の近くでたらふく食べてから来たので、スルーしてしまったのですね。 

 18畳の部屋と格式のある玄関から続く10畳間との間を大きな板戸で締め切って、庄屋と本陣の機能を分離しているということでした。

 使われ方がまったく違うから、本来は壁にして完全に分離したほうがいいのでしょうけど、家の中が迷路みたいになって使い勝手が悪くなりますからね。

 そして玄関から続く10畳間で、土方歳三が昼寝をしていたと言われているそうなんですよ。

 その部屋に入ってみると、昼間なのに薄暗い。当時の行灯を模した照明が、足元をぽんやり照らし出すだけ。

 彦五郎さん一家のプライベートスペースは4畳間を隔てた奥のほうにあり、格式の高い本陣のスペースは当時、普段は使われていなかったのでしょう。

 広々として薄暗くて静かで、昼寝をするにはもってこいの部屋だと、歳さんの心境がわかるような気がしました。

 その隣は、6畳間が二部屋続く。

 奥の6畳間は、新選組の少年隊士で土方歳三の小姓をしていた市村鉄之助が匿われていた部屋なのだとか。

 そういえば、大河ドラマの「新選組!」の続編のドラマで、それにまつわるシーンがありましたね。

 市村鉄之助はほかの隊士と一緒に戦死する覚悟だったが、歳さんは彼の若さと将来を思いやって箱館からの脱出を命じる。

 歳さんの遺品を託されて函館を脱出した市村は、官軍の包囲を掻い潜って土方の故郷日野の佐藤彦五郎家にやってくる。なんと3ヶ月もかかったとか。

 あの有名な歳さんの肖像写真も、市村鉄之助の難行苦行の旅がなかったら、今日の我々は拝めなかったのでしょうね。

 鉄之助はそのあと2年ほど、佐藤彦五郎家に匿われていたらしい。

 NHKのドラマが放映されたあと、市村鉄之助役のイケメン俳優の人気で、随分若い女性がこの部屋を訪れて写真を撮ったとか。

 中廊下をはさんだ座敷は、本陣をしていたときは中の間、下の間として利用されたらしい。

 当時は、そこから上段の間と御前の間が続いていたそうですが、明治になってから彦五郎の息子が養子に行った家が火事で焼けてしまったとき、移築されたそうです。

 今でもその移築された座敷はこの近くに残っているそうで、その内部の写真が展示してありました。

 ボランティアのおじさんによると、この家は材木を吟味して、10年という準備期間を費やして作られたとのこと。

 重厚な大黒柱や太い梁など強固な造りが実感できました。関東大震災でもびくともしなかったそうですね。

佐藤彦五郎家居住スペース


 確かに、いろんな古民家を見慣れているオイラとしても、城郭なみの大黒柱だと思いました。

 この館の主、佐藤彦五郎氏の肖像写真も展示してあります。

 あれ~? どことなく「新選組!」で佐藤彦五郎を演じた小日向文世に似ている。

 スリムな体型。額が広いこと。面差し。全体の雰囲気が。

 ドラマのようなひょうきんな性格だったかどうかはわかりませんけど、新選組の誕生からその後にいたるまで大きな影響を及ぼした人だったみたいですね。

 近藤勇の養父であった近藤周助に入門し、天然理心流の免許の奥義を許されたのだとか。

 武芸を習った動機は、当時の治安の悪化によるもので、この屋敷の中に道場を開いて、近藤勇たちを応援したらしい。

 そういえばドラマでもそんなシーンがありましたね。

 佐藤彦五郎は日記も残していて、近藤勇や土方歳三、沖田総司の当時の活動の様子を伺うことができるとか。

 もらったパンフレットを眺めると、近藤勇がこの地方へ出稽古に来て、この地区の人たちと交流を持った様子がわかりました。

 それしても、土方歳三の記載の仕方が、安政の頃、俊蔵だったり、歳蔵だったり一定しないのはなぜ?と思ったりしました。

 義理の弟だし、名前を間違えるはずはないのだけれど…。

 戊辰戦争の頃は、日野の人たちも、新選組とともに甲陽鎮撫隊に加わって激動の中に飲み込まれてゆく。

 鉄砲など武器を集めて、官軍と戦うことになるのですな。

 佐藤彦五郎氏も官軍から追われる身となって、お寺へ隠れていたとボランティアのおじさんが話してくれました。

 明治維新ののちも生き長らえのことができ、明治35年76歳でこの世を去る。

 明治になってから、当然、新選組は「悪の巣窟」と言われた時代が長く続いたと思いますが、一貫して新選組隊士の復権と顕彰に尽力した生き方は立派だと思いました。

 最後に、新選組にまつわるビデオを見たんですよ。

 新選組6番隊長井上源三郎の子孫の人がテレビに出たのですが、大河ドラマで井上源三郎を演じた小林隆によく似ている。

 ドラマの中でも源さんと言われて、温厚な人柄が画面からにじみでていましたね。

 子孫の人と目のあたりが似ていて、朴訥とした感じが小林隆演じる源さんそっくり。

 子孫の人たちからキャスティングを考えることはないと思いますから、やはり当時の写真や証言から、似ている俳優さんを選んだのでしょうか。

 そういえば、土方歳三役の山本耕史も写真によく似ているし…。

 栗塚旭より、本物に似ているかも。

 でも、近藤勇は似てないっすね~。

 やっぱり、ジャニーズ事務所の実力がキャスティングに影響を与えたのかも。

 日野宿本陣を出ると、なんと土砂降りの雨。

日野宿本陣と土砂降りの雨。


 大雨の中、土方歳三の実家を目指すのですが…。

 日野のネタは次回も続きます。

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湘南・江の島 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 ここに来て、かなり涼しくなってきましたね。

 夏に行った場所のお散歩ネタでは、季節感がおかしくなりそうだと感じる今日この頃。

 日々の活動にブログの更新頻度が追いつきませぬ。

 でも、ノスタルジックな気分で、過ぎ去った夏を思い出すのもいいかも。

 サザンの桑田さんの映画「稲村ジェーン」の中で、清水美砂が「暑かったけど、短かったね・・・夏」と言った台詞が似合う季節になりましたし…。


 …ということで、秋真っ盛りに、真夏の記事を書く場所は、湘南江の島です。

 行った日は、8月の中頃。

 海水浴で行く人は多いけれど、江の島だけを見に行く人は少ないだろうなと思ったら、すごい人でびっくり。

 やっぱり夏の湘南は、古くは石原慎太郎の「太陽の季節」、加山雄三、ワイルドワンズの湘南サウンド、最近ではサザンと、いつの時代も魅力があるのですな。

 が、しかし…。江の島はなんと鎌倉時代から参詣者を集めていたそうなんですよ。

 しかも、江戸時代は三泊四日の江の島弁才天ツアーが大人気だったとか。

 当時は、今みたいに江の島弁天橋もなく、渡し舟で島へ渡ったそうですね。

 そこでオイラも、当時の旅人になった気分で東海道藤沢宿から、彼らが往来した古道江の島道を歩いてみることにしました。

 藤沢駅までは小田急で。オイラの家からだと、交通費が節約できるのですね~。

南口から国道467号線に沿って歩きます。

 お洒落な店が左右に建ち並び、そぞろにウインドウショッピング。

 おお、ユニクロもあるっす。ユニクロを見ると、条件反射で中へ入って新商品が出ていないか、それとともにバーゲンの値札を確認してしまう自分が哀しい。

 市民会館の先に、モダンな建物がありました。

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 これは旧近藤邸。

 大正14年に、別荘として辻堂東海岸の松林の中に建てられたのだとか。老朽化のため取り壊されそうになったところ、市民運動によって移築保存されたのですね。

 この建物はどこかで見たようなイメージでしたが、帝国ホテルの設計で知られたアメリカ人の建築家ライトの弟子であった遠藤新の設計なのだとか。

 遠藤新といえば、去年行った池袋の自由学園の講堂や校舎で有名な建築家。

 いろいろほっつき歩いていると、どこかで点がつながって、知識が広がってゆくのが楽しいっす。

 上山本橋で境川を渡り、川沿いをテクテク歩きました。

Ca3a0094

 また例によって日陰はなく、ギンギンギラギラと太陽が容赦なくオイラを直撃します。

 でも、海が近いのか、さわやかな川風が吹いていて、意外と楽。

 しばらく行くと、何の変哲もない道路上に解説板がありました。

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 ここは、馬喰橋(うまくらばし)というのですか。道路かと思ったら、下に細い川が流れています。

 解説板には、「源頼朝が片瀬川に馬の鞍を架けて橋の替りにしたことから馬鞍橋、また昔馬がこの橋にさしかかるといななき突然死んでしまうことから馬殺橋と呼ばれたが、あるときに行者聖が橋の石を取り替えてから災難はなくなった」と書かれていました。

 当時はもっと野趣あふれる景観だったのでしょうけど、今はイメージするのが難しいかも。

 新屋敷橋のところで住宅街に入り、しばらく歩くと片瀬小学校の脇に、江の島弁財天の道標がありました。

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 これは江戸時代のトップ鍼灸師、杉山検校が江の島神社に参拝する人たちの道標に寄進したものの一つだとか。

 参詣の道を歩いていて、いくつか同じ道標を目にしました。現在でも10余基ほども残っているらしい。

 そこには「ゑのしま道」と刻まれておりました。

 緑あふれる住宅街の細い道をどんどん歩いてゆくと、左手あるのが諏訪神社上社。

 急な石段を上ればきっといい景色が見られるはず、と汗をふきながら本殿に向かいます。

 なぜか境内は扉が閉まっていて入れなかったのですが、丘の上からは相模湾と江の島がちょこっと見ることができました。
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 それにしても、雲ひとつない快晴。

 再び元の道に戻り、密蔵寺、本蓮寺、常立寺という古いお寺を巡って歩きます。

 湘南モノレールの湘南江の島駅を左手に見つつ、国道467号線をゆくと龍口寺がありました。

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 ここは鎌倉時代、龍の口刑場があったそうですね。

 この地に送られた者はすべて斬首になったのですか。日蓮宗の開祖、日蓮上人も鎌倉幕府の反感を買って捕えられ、この地に連行されたそうなんですよ。

 そして斬首されそうになったとき、江の島から満月のような光が飛んできて斬首役人の目をくらませられたり、処刑に使われた刀に光がかかり三つに折れたり、とかという伝説があるそうな。

 それで処刑は中止になったとか。

 何でも、龍の口刑場で処刑を免れた者は歴史上、日蓮聖人だけだそうですね。

 境内には、刑場へ向かう前の日に日蓮聖人が一晩を過ごした土牢が今も残ってしました。

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 奥行きがなくて、じめじめしていて、一晩でもここで過ごすのは苦しかったと思います。

 江戸時代に建てられたという本堂は立派で、豪壮な彫刻が見事。木造の五重塔は神奈川では最古と言われているそうですが、境内でオイラがビビビときたのは、この大書院。

大書院

 なぜか、この建物が気に入って、時間を忘れてずっと見入っていました。

 家に帰ってネットで検索したら、それもそのはず、昭和初年に信濃国松代藩の藩邸を移築したものだとわかりました。

 松代藩といえば、真田10万石。城の遺構だったのですね。

 オイラが魅せられて当然なのでした。

 龍口寺門前は、江ノ電の撮影スポットなのだとか。オイラも写真を撮ろうと粘ったのですが、いつまでたっても電車が来ない。

 直射日光を避け、街路樹にもたれて待つこと10分近く。

 昔東京の中心部を走っていた都電とも違う存在感のある電車がいきなり一般道を
走ってくるのはインパクトがありました。

江ノ電


 一応注意を促す信号が点滅しますが、踏み切りがない歩道をいきなり横切ってくるのは迫力満点。

 江ノ電は鎌倉辺りではかわいい印象ですが、江の島辺りに来ると、道路交通の王様のような威厳が感じられました。

 江ノ電江の島駅の踏切を渡ります。

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 商店の建ち並ぶ洲鼻通りを歩いていよいよ江の島へ向かいました。

 江の島弁天橋から江の島を望む。

江の島弁天橋から江の島を望む


 ところで、ケータイのカメラの設定がおかしくなって、画像が小さくなってしまいました。

 どうやら、ケータイの壁紙の設定になってしまったみたい。

 買ったぱかりで元に戻し方がわからず、これからはこの写真で失礼します。

 家に戻って説明書を読んで、直し方がわかりましたけど…。

 せっかく来たのだからと、片瀬東浜海水浴場に寄ってみました。

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 うう、砂浜は特に暑いっす。

 家に戻ったら、顔や手が日に焼けて真っ赤でした。別に砂浜で甲羅干ししたわけではないのですが、夏の海の紫外線のすごさを感じましたね。

 弁天橋を渡り、いよいよ江の島に上陸。

 江の島に来たのは何年ぶりでしょうか。子供時代以来思い出せませぬ。

 NHKのニュースでは毎日のように、夏の江の島の映像が出るので、久しぶりという気はしないのですが…。

 江の島の入り口に立つ、青銅製の鳥居をくぐるとみやげ物店や飲食店がにぎやかに並ぶ江の島神社の参道が続いていました。

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 江の島の名物、しらす丼をメニューに掲げる店がたくさん。お昼はかなり過ぎていたのですが、どこの店もお客さんで一杯です。

 エスカーというエスカレーターで江の島の頂上まで昇れるそうなのですが、有料ということで当然足に頼ることにしました。

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 江の島神社のご祭神は、三人姉妹で、奥津宮、中津宮、辺津宮それぞれの社殿にお祭りされているのだとか。

 階段を上り、最初にお参りした辺津宮の境内の奉安殿には、八臂(はっぴ)弁財天と、 日本三大弁財天のひとつとして有名な裸弁財天・妙音(みょうおん)弁財天が安置されておりました。

江の島神社


 中津宮へ行く途中の階段からは、江の島のヨットハーバーが見渡せます。

江の島のヨットハーバー


 中津宮から奥津宮へ行くとき、右手に見えたタワー。前から気になっていたのですが、これは江の島展望塔と言って、江ノ島電鉄(株)の開業100周年記念事業として建て替えられたものらしい。

右手に見えたタワー


 これは灯台としての機能もあるわけですか。

 時間も遅かったし、サムエル・コッキング苑という庭園に入場料を払って入らないと昇れないので今回はパス。

 食堂やみやげ物店が並ぶ起伏のある細い道を歩き、奥津宮に到着。

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 門の天井には、酒井抱一の「八方睨みの亀」がありました。この写真はレプリカですが、どこから見ても、亀さんと目が合うのだとか。

八方睨みの亀


 面白い構図の絵ですな。

 そして急な崖の階段を降り、江の島の岩戸へ。

江の島の岩戸


 それは一言でいえば、長い歳月をかけ、波が岩を削り取ってできた洞窟。

 第一岩屋と第二岩屋に分かれていて、それぞれ152mと112mもあるらしい。

 何とここは、江ノ島信仰発祥の地といわれていて、弘法大師や日蓮上人などがここで修行を積んだそうな。

 入り口で500円を払い、中で蝋燭をもらって入ります。

 所々明かりがあって、ろうそくがなくても大丈夫そう。古い石造物があり、龍神のオブジェなども展示されていました。

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 今は明るいけれど、昔の人は、真っ暗闇の中をろうそくの火だけを頼りにお参りしたのでしょうね。

 涼しくて、ところどころ水がヒタヒタと落ちていて、快適な地底探検でした。

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結城ウォーキングストーリー 見世蔵の町編

  こんにちは。

 今日は先日の結城ウォッチングの続きです。
 
 さて、前回から変わった点。

 それは、写真なのですね~。

 ケータイ電話を機種変更したとき、よりカメラ機能の充実したケータイに買い換えたのです。

 少しは違いがわかりますでしょうか。

 前回の機種は、324万画素で、今回は515万画素。

 パッと見はあまり変わらないかもしれませんが、撮影はこちらのほうが断然楽。

 前はズームにするとぼやけるからかなり前進したり、大きすぎてカメラの枠に収まらないときは思いっきり後退したり、写真一枚撮影するのにも体力勝負でした。

 今度の機種は、ズーム機能が充実しているからその場で、画像を大きくしたり小さくしたりできるのですね~。

 より本式のデジカメに近づいたといいますか。

 それから前のケータイのカメラは、暗い場所だったらまったく写らなかったけれど、今度のは、ナイトモードにすればそこそこ暗くても大丈夫。

 もしかしたら、一日で五千歩くらいは減らすことができるかも。

 カメラで太ったということにならないようにと願う今日この頃です。

 それはともかく、お散歩ネタ。

 前回は、親鸞聖人の奥様の墓をお参りしたところまででしたね。

 玉日姫の墓から市内中心部に向かって歩き、結城小学校の手前を右折して細い道に入ってしばらく行くと、再び古いお墓がありました。

 こちらは、源翁和尚の墓。

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 源翁和尚と聞いてもすぐにはピンと来ないかもしれませんが、大工さんが使う鉄製の大きな槌を俗に「ゲンノウ」と呼びますよね。

 その呼び名は、源翁和尚の名に由来しているらしい。

 それは殺生石の伝説によるのだそうですね。

 何でも平安時代、鳥羽法皇の寵姫「玉藻の前」は、陰陽師の安部泰成によって白面金毛九尾の狐だと正体を見破られる。

 この狐は、中国と日本の名だたる人物のもとにだけ出没する妖狐だったとか。

 妖狐は、那須野に逃れてゆくが、そこで射殺されてしまう。しかし、その霊が石と化して大勢の人や動物を殺してしまい、死骸が山のようにできてしまったとのこと。

 そこで朝廷では源翁和尚をつかわし、祈祷を行う。そのあと源翁和尚は手にした金槌で殺生石を砕き、九尾の狐もその妖力を失ったそうな。

 そういえば、殺生石や九尾の狐を退治したお坊様のお話はどこかで聞いたことがありましたね。

 アニメの「日本昔ばなし」だったかどうか忘れましたけど。

 ゲンノウは、九尾の狐を退治した強力アイテムだったのですか。

 そう言われてみると、このお墓もパワーというか、どこか力強さを感じます。

 ところで、そんな偉いお坊様のお墓がどうして那須ではなく結城に?と思いました。

 史実としての源翁和尚は、室町幕府が成立する直前に越後の国で生まれたらしい。

 ネットで調べてみたら、生年月日がみんな違っているんですよ。

 出家して北関東を中心に行脚。1371年、結城家8代城主直光が和尚を招いて、結城の安穏寺を禅宗(曹洞宗)の寺に改宗して、中興開山の人となったそうな。

 九尾の狐の化身であった殺生石を退治したのが、1385年の8月で、翌年に後小松天皇より能昭禅師の号と結城山の勅額を賜ったのですね。

 時期が特定できるということと、天皇から号もいただいているわけですから、殺生石にまつわる何らかのイベントはあったのだろうと思いました。

 そのイベントの中身を考えるといろいろイメージが膨らみます。

 その源翁和尚が中興開山したという安穏寺はお墓から歩いてすぐの場所にありました。

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 結城駅前通りを南下すると、結城の町の魅力のひとつである見世蔵が随所に見受けられます。

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 見世蔵は、江戸時代からの商店建築様式のひとつ。読んで字のごとく蔵であっても、倉庫ではなく店として利用されたとのこと。

 観光案内所にもらったマップには、30軒くらいの見世蔵が紹介されていました。明治初期から大正期にかけて、結城ではこれらの蔵造りの建物が数多く建築されたらしい。

 これらのほとんどは、今も店舗や住宅として利用されているのですか。

 関東で蔵の町というと、まず川越、栃木、佐原などが浮かびます。関東ではないですが、喜多方も有名ですね。

 それらの町の蔵は、観光資源として、別の用途に使われているケースが多いのですが、結城の蔵はほとんどが現役選手。

 内部の見学ができない蔵がほとんどですが、今でも使われている蔵は、しっかり街並みの中に溶け込んでいました。

 与謝蕪村の詩碑がある妙国寺、戊辰戦争の兵士が眠る光福寺などをめぐり、弘経寺へと向かいます。

 さすがに歴史のある城下町だけあって、由緒ある寺院が多数並んでおりますな。

 弘経寺は、1595年、結城秀康の長女松姫の菩提を弔うために創建された寺院だそうです。

 当時は関が原の戦いの前で、徳川家康は256万石の関東の覇者の時代。次男の秀康は、結城10万石の城主だったのですね。

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 創建当時から一度も焼失していないということから、この本堂は当時のものでしょうか。

 安土桃山時代の豪壮な建築様式は感じられるのですが。

 このお寺には、当地に滞在した与謝蕪村の襖絵も残っているそうですね。

 さすがに炎天下歩き回ったので疲れました。趣のあるしっとりとした境内で一休み。歴史のある寺院は、心にも涼風を送ってくれます。

 弘経寺の境内から、レンガ造りの古い煙突が見えたので、疲れも忘れて正面にまわってみたのです。

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 おお、造り酒屋ですか。しかも安政蔵といって、江戸時代に造られた蔵が今も現役で活躍しているのがすごいっす。

 観光施設ではないから中には入れないのですが、逆に蔵としてのリアリティを感じましたね。

 蔵の中からちょんまげ姿の職人さんが現れても、全然違和感がない。

 しばらく歩くと、また別の造り酒屋の建物が…。

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 こちらも江戸時代に建てられた蔵を店舗や醸造蔵として利用しているのですね。

 お酒はあまり飲めないのですが、好きな人にはたまらないかも。

 酒蔵から歩いてすぐのところにあるのが、考顕寺。

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 このお寺は、結城家15代政朝が開基し、結城秀康が再建。江戸時代末期の結城水野家の菩提所でもあったそうな。

 結城秀康は、江戸幕府が成立後、越前に移り、越前松平家の祖となる人ですが、結城の町にこれだけ大きな足跡を残しているとは知りませんでした。

 二代将軍秀忠のアニキですが、豊臣秀吉の養子になったりして、家康からは粗略に扱われたイメージなのですが。

 考顕寺から道路を挟んだところにあるのが、称名寺。

 このお寺は、結城家初代の朝光が親鸞の教えに帰依して、彼の高弟を招いて開基したそうですね。

 境内には、結城朝光の墓がありました。

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 横にある解説板を読むと、この人はなんと、87歳まで生きたのですね。

 鎌倉幕府の草創期から北条氏の台頭の時期、幕府の中枢にありながら天寿を全うできたのはすごいかも。

 木曽義仲の追討から、平家とのファイナルマッチであった壇ノ浦の戦いにも参加。
その後、戦勝報告のため東下した源義経を頼朝の使者として、「鎌倉入り不可」の口上を伝える。

 奥州藤原氏との戦いにも参加し、その功により奥州白河三郡を与えられ、頼朝が死んだあとは、畠山重忠や梶原景時など多くの御家人が失脚したのですが、そのときも家を守りぬいたのはさすがです。

 梶原景時は、以前大河ドラマで中尾彬が演じたように、濃いキャラクターというイメージ。

 結城家初代の朝光は鎌倉幕府の御家人の中でも礼節を守る紳士として、人望を集めたそうですね。

 親鸞に帰依したことからも解るとおり、信仰心も厚かったのでしょう。

 北条政子に代表されるような北条氏の「出る釘は必ず打つ」鎌倉幕府の内紛の時代でも、引き続き厚遇されていたのは、その清廉な性格によるところも多かったのでしょうか。

 気骨のあふれるエピソードも残っているそうですね。

 パッと花火が咲くように一瞬輝いて、そのあとすぐ消えていく会社や経営者は少なくないですが、400年もこの地方に家を繁栄させ、今なお語り継がれる人物はあらためてすごいと思いました。

 結城駅へと向かう大通り沿いに、市民から「金仏さん」と呼ばれる常光寺の阿弥陀如来像がありました。

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 確かに親近感のあふれるやさしい顔をした仏像ですね。

 ここまで来れば、結城駅はすぐそこ。

 再び、結城攻略の作戦本部である駅前の図書館に行き、疲れた体を休めるのでした。

 暑い中、ほとんど休まず歩いたので、時刻はまだ午後3時。

 立ち止まると汗が噴き出すので、海を回遊するマグロのごとくずっと歩き詰めだったのです。

 「古寺めぐりコース」が終わったので、今度は「見世蔵めぐりコース」にチャレンジしようか、と…。

 再び、炎天下図書館から出たオイラは、市内中心部を目指すのでした。

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 蔵造りの美しい街並みは、無理してでも行ってよかったと思います。

 行った日は休みでしたが、つむぎの館は着物の好きな人にはたまらない魅力でしょうね。

 また、結城の小学校は、堀や石垣に囲まれてお城のよう。

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 これなら不審者も、侵入が難しいかもしれませぬ。

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城下町・結城 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 飛び石連休はいかがお過ごしでしたか?

 ここのところ、平日より休日が忙しい状況が続いているような。座談会やモニター、病気の講演会、いろいろな大学での有償ボランティア、治験などに参加したり…。

 いろんな経験ができるから面白いし、副業で収入があるのもうれしい。

 銀行で融資担当者だったとき痛感したのですが、収入は分散しているほうがリスクは低減できる。取引先がどんなに大きくて信用があっても、数社ではこのご時勢、何が起こるかわからないですからね。

 できれば、収入が多業界にわたって分散していればベストかも。

 いくら不況といっても、全業種、低空飛行を続けることはあまりないですから。

 …と、さまざまな会社からアンケートのお礼に送られてくる500円の図書カードや1000円の商品券の枚数を、毎晩数えて喜んでおりまする。

 銀行員当時習った扇のようにひらく数え方で…。

 ただ、リスク分散を追及するあまり、時給いくらという発想がなおざりになっているのでした。空いた時間にやっているといっても、時給に換算すると500円をはるかに下回っているのではないか、と。

 安定は維持しながら、もう少し効率よく稼いで、関東地方の名所旧跡だけじゃなく世界遺産を歩きたい。 

 ネット事業は確かに経費面などリスクが少ないので、何か自分ではじめたいなと考えている今日この頃です。
 

 さて今回も、マンネリな近場のお散歩ネタ。
 
 昔から歴史のある城下町をほっつき歩くのが好きなのですが、不幸なことに関東地方は行ったことのない場所がだんだん少なくなってきました。

 ガイドブックを眺めても、比較的東京からの交通が便利なところはほとんど出かけたことがある。

 しかし、歴史好き、城好きには、見逃してはならない町が抜け落ちていたのですね~。

 それは、茨城県の結城市。

 結城は立派な城下町なのですが、紬の生産地というイメージが強すぎて、オイラの中ではあまり目立たない存在だったのです。

 でも結城といえば、戦国時代初頭?の結城合戦や豊臣秀吉の養子になっていた徳川家康の二男、秀康が跡を継いだ結城家で脚光を浴びた土地。

 もちろん城跡もあるというし…。

 …ということで、8月半ばの猛烈に暑い日、オイラはJR結城駅にやってきました。

 駅はモダンな近代建築で、これまた駅前に東京ミッドタウンのファサードみたいなお洒落な建物がありました。

Ca3a0027

 よく見ると、ガラス張りの図書館みたい。

 図書館を見ると入りたくなるので、結城攻めの作戦会議にと一休み。広々としたロビーのテーブルでは、中学生や高校生が熱心に勉強しておりました。

 こんな涼しい、広々として眺めのいい場所で勉強したら能率上がるかも。

 彼らにエールを贈りつつ、熱風吹きすさぶ外へと再び突撃。

 モワァァァァ~

 うう、あ、暑い。死にそう。



 あまりの暑さに、立ちくらみを起こしそうになり、近くの観光案内所へ緊急避難。

 そこには、無料の市内観光マップがたくさん取り揃えてありました。これはラッキーと、何種類かもらい、再び図書館へと退却します。

 こんなくそ暑い日に何時間も歩き回ったら、脱水症状を起してしまうっす。

 市内の地図を見ながら、再度作戦を立て直しました。

 冷房のある施設を拠点にして、面ではなく線で移動したらどうか。

 まず目指すは、北東のショッピングセンターじゃ~!

 突撃~!!!!

 進軍ラッパとともに、203高地を目指す兵士のごとく目的地に向かって駆け出します。

 駅前の大通りを走り交差点を渡り、右手に信用金庫の本店を見ながら走って、ショッピングセンターへ。

 着くころには、体中の毛穴から汗が噴き出し、見るも無残な姿に。

 気温36度、湿度80パーセントの中を5分以上全力で走ったのだから当然ですよね。

 何で歩かず、走ったんだろうと考えても後の祭り。別に急ぐ旅ではないのでした。

 頭がフリーズしていたとしか思えないっす。

 ショッピングセンターでは、ペットボトル飲料をしこたま買い込んだのは言うまでもありませぬ。

 ここまでは何とか来たけれど、ここから先は冷房が効いている施設はなさそう。

 走って汗をかいたら体が軽くなったので、ここから先は水分補給しながらゆっくり歩いてゆくことにしました。

 昔懐かしい麦わら帽子と、100円ショップで買った扇子がオイラの生命線です。

 マップを見つつ住宅街を歩いてゆくと、最初の目的地、大輪寺がありました。

Ca3a0032

 ここは、結城家代々の祈願所だったお寺だそうな。

 結城家は、今の栃木県にあたる下野国南部の豪族小山政光の三男、結城朝光に始まるそうな。朝光の母は源頼朝の乳母だったため、鎌倉幕府との絆も強かったらしい。

 それ以降、結城氏は約400年に渡ってこの地方を治めるのですね。

 一口に400年と言っても、徳川家康が江戸幕府を開いて、平成の現代に至るまでの年数。

 それだけ長い時代、この地方に君臨した家だけに、今なお市内に結城氏のいろんな遺跡やアイテムが残っていてもおかしくないわけですな。

 結城家8代の直光が創建したという華蔵寺にお参りし、そのまま道なりに進むと、武家屋敷のような外観の中学校が…。

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 いいな~、歴史好きとしては、こんな素敵な中学校で学びたかったっす。どうせなら、水戸の弘道館や萩の明倫館みたいな藩校をイメージできるようにすればいいのに。

 松下村塾だと個人経営の塾みたいになってしまいますが…。

 直射日光をまともに受け、青々とどこまでも続く田んぼを見ながら歩きます。

 日陰が恋しくなった頃、ようやく次の目的地、結城家御廟に到着。

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 ここは、結城家初代朝光から十六代政勝までの16基と、名前がわからない4基を合わせて、合計20基の五輪塔が並んでおりました。

 解説板を読むと、この御廟が作られた経緯は、いくつかの説があるそうですね。

 当然、十六代以降に作られたものでしょうけど、徳川家康の次男であった結城秀康とも関係があるみたい。

 これを作った人は、どういう気持ちで作ったのだろうといろいろ想像すると、ロマンが膨らみます。

 解説板によると、御廟の周囲は堀を構え、塚上に土を盛り、土塁をめぐらしてあるのですか。そして床面には大谷石を敷き詰め、塚全体に玉石を並べるなど、排水に細心の注意が払われているとのこと。

 確かに、今でもその痕跡が随所に残っていましたね。当時、この御廟を作った人たちの息遣いが感じられるようでした。

 そんなことを考えているうちにも、ギンギンギラギラの太陽は容赦なくオイラの体力を侵攻してゆきます。

 汗をふきつつ、蝉しぐれの中、歩きだしました。

 次はいよいよ、結城城址。

 あまり大した城跡は残ってないとのことですが、隠された痕跡を探り出すのも城ウォッチングの醍醐味のひとつですからね。

 …と、どこまでも広がる田んぼの遥か先、あれは土塁でしょうか。

Ca3a0041

 広大な田んぼが当時、堀だとしたら、なかなかの要塞だったかも、と思いました。

 城跡へ行く途中のこの起伏。

Ca3a0042

 どう見ても、土塁のように見えるのですが、あとで調べてみると城内ではないとある…。

 出城かな、それとも現代の宅地造成によるものかな、と暑さを忘れて考えながら歩きました。

 最近、造成されたものだとしたら、よっぽど城好きな土木技術者ではないかな、と…。

 結城城は城跡公園として、完璧に整備されすぎていました。

Ca3a0046

 公園へ来るまで、明らかに空堀や土塁とわかる部分はありましたけど、ここまで整備しちゃうと当時の面影をイメージすることはできませぬ。

 どこの城でも見かける当時の縄張り図も、結城城の場合、かなりアバウトですね。

 実際は、南西面660メートル、北西面が300メートル。巨大な4つの曲輪は空堀で仕切られ、背後は高い崖に守られていたらしい。そして、城の周囲を川が巡る。

 うぬぬ、イメージできませぬ。

 戦国時代の山城ならともかく、1700年に水野勝長が、一万八千石で入部して再建され、明治に至るまで水野家の居城だった城なんですけどね。

 実はこの城、1440年に足利幕府の大軍に囲まれながら、1年余りも篭城し続けた難攻不落の城でもあるらしい。

 世に言う結城合戦で、関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城家11代氏朝は持氏の遺児春王丸と案王丸を奉じて兵を挙げ、落城まで一年余りの歳月を費やしたそうな。

 幕府の大軍を囲まれつつも、少ない兵力で篭城するあたり、楠木正成の千早城、赤坂城をイメージしてしまいました。

 その辺りの面影が若干残っているのは、城跡公園近くの広い空堀ですかね。

Ca3a0051

 篭城当時の空堀かどうかわかりませんけど…。

 今回は行きませんでしたが、城跡公園の近くには、「紬の里」という藍染や機織りを短時間で体験できるスポットがあるそうですよ。

 そこから5分ほど歩くと、玉日姫の墓がありました。

Ca3a0052

 玉日姫は、関白・九條兼実の七女として誕生し、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の妻だった人物。

 親鸞聖人が流罪となったあと、結城で暮らし、聖人が京都へ戻った後も、この地で草庵を結び布教をして生涯を送られたそうな。

 うちは一応浄土真宗ですし、祖父が子供の頃、お寺で修行したと聞いたことがあります。

 先祖も浄土真宗のお寺の住職らしいのですけど、親鸞聖人の伝記については一度も読んだことがありませんでした。

 その経緯はわかりませんが、流罪になったり、奥さんと別居されたり、波乱万丈の生涯を送られたのですね。

 一度、伝記や弟子の唯円が書いたという有名な「歎異抄」についても読んでみたいと思いました。

 詳しく勉強したことはないですけど、「悪人正機説」は、今の時代にあっても古くはないのではないか、と…。

 ここから結城市街へ向かい、引き続き古寺や「見世蔵」と言われる蔵造りの街並みに出会うのですが、長くなりそうなのでそれはまた次回。

 ところで、今日の記事から前回までとは変わった点があるのですが、それは気がつきましたか?

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川崎の城跡と稲城の洞窟 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 書店でウォーキングガイドブックを物色していて、優れものの本を見つけました。

 それは、「東京の1万年を歩く」(東京古里会編著・学習研究社)という本。

 東京が舞台になった事件や遺跡に焦点を絞った歴史探訪書というコンセプトなのだとか。

 名所旧跡のコースマップや解説で埋められた本は数多ありますけど、当時の城の再現イラストや航空写真まであるのは珍しいっす。

 表紙のイラストが、戦国時代に赤羽にあった稲付城の鳥瞰図ですからね。

 稲付城ばかりではなく、戦国期の江戸城や八王子城の再現イラストもありました。

 これは、もしかしてオイラのために書かれた本なのではないか、と…。

 さっそく購入して、この本に載っているルートを歩いてみることにしたのです。

 熟読してみて、切り口は斬新だと思いましたが、如何せん何十年も関東周辺を歩き回っているオイラ。

 ほとんど行ったことがある場所ばかり。

 それでも、点ではなく面で歩けばまだまだ面白そうな地域がありそう。

 …ということで、今回は多摩川周辺にあるという城跡をめぐってみることにしました。

 ガイドブックには小田急の向ヶ丘遊園駅スタートとなっていましたが、交通費をケチるため南武線の登戸から歩きます。

 オイラが健脚になったのは、昔から交通費を浮かせようと思って歩いていたからかも。

 行った日は、35度を超える猛暑日。

 余計に歩いて汗が出た分、自販機でお茶のペットボトルや缶コーヒーを買ってしまったから、かえって損しているのでした。

 コンビニやスーパーで涼んだり、買い物をしたり寄り道して、ようやく最初の目的地・長者穴古墓群に到着。

 ここは、飯室山という小高い丘の麓に築かれた横穴墓群なのですな。7世紀中頃から後半にかけて築造されたらしい。

Ts363600

 崖に横穴を掘っただけのシンプルな墓ですが、当時は奥行が5メートル、幅3メートルほどの規模があったのだとか。

 そういえば以前ブログにも書きましたが、田園調布周辺には全長100メートルを超える前方後円墳もあるのでした。

 このシンプルな墓のほうが、時代が新しいのですね。当時からエコの考え方があったのだろうかと考えたりして。

 両側にポコポコ空いた小さな穴を見ながら、飯室山の頂上へ向かう階段を上ります。

 標高はさほどないのですが、湿度がすごい。汗で前が見えないっす。

 頂上に上り、尾根伝いに歩いてゆくと、冠木門が見えました。

 ようやく枡形城の本丸ですか。

 枡形山の山頂部は、東西130メートル、南北80メートルの平坦地となっているのでした。

 一応、山城なのでしょうけど、戦国時代の城跡の本丸がこれだけの広さを持った平坦地というのは珍しいかも。

 しかも、まわりは断崖絶壁。

 当時は木が切り払われていたでしょうから、下から見上げると巨大な枡が屹立しているように見えたのでしょう。

 戦国時代の枡形城を是非この目で見たかったっす。

 山頂には立派な展望台が…。

Ts363610

 この和風とも洋風ともつかぬ、微妙な外観が戸惑いを覚えます。

 ちょっと寝殿造りっぽい部分もありますね。

 ここまで立派な展望台を作るのだったら、いっそのこと天守閣に似せた外観にしたほうがインパクトあるのに…。

 小田原城や江戸城の櫓形式に似せた外観に抵抗があるのなら、戦国時代の物見櫓風でもよかったですね。

 以前もここに来たことがあるのですが、いつも誰も登っていないのが寂しい。 

それはともかく、上るのはいいけど、せっかく収まったのにまた汗が噴き出しそう。

 と思ったら、エレベーター完備なのでした。しかも、冷房つき。

 極楽気分で展望台にあがると、多摩川方面の絶景を拝むことができました。

Ts363614

 この枡形城は、鎌倉時代、源頼朝の妻北条政子の妹を妻に迎えた稲毛三郎重成によって築かれたらしい。

 戦国時代の1504年には、北条早雲がここを本陣として今川氏親と共に上杉顕定と戦った記録が残っているそうですね。

 北条早雲といえば、40歳過ぎてから一念発起し、関東の覇者となった後北条氏の創業者。

 中高年の期待の星とも言える存在です。

 北条早雲もこの景色を眺めたのでしょうかね。

 枡形城の本丸から降りる急な階段に、「枡形」の名残を感じることができました。

Ts363621

 しばらく行くと、広福寺の山門が現れます。

 ここは、枡形城を築いた稲毛三郎重成の館跡とも言われているそうな。

 行った日は、ちょうどお葬式の後片付けをしているところでした。

 ここから子之神社までの約3.3キロは、さすがに堪えました。

 炎天下、ほとんど日陰がない。二ヶ領用水の新川のほとりをトボトボ歩き、次に山下川の近くの住宅街では太陽が真上からオイラを直撃します。

 地球温暖化によって、人類はホントに絶滅するのではないか、と心底思いましたね。

 仕方なく、伝家の宝刀、雨用の折りたたみ傘をメリーポピンズのようにかざして歩き続けます。

 ようやく、子之神社にたどり着くと、近くのお寺ではまたお葬式が行われているのでした。

 参列する人たちは、黒い服を着て汗まみれで苦しそう。

 こう暑いと、体力が弱っている人はつらいかも。亡くなられた方は、この猛暑が影響されたのでしょうか。

 真夏の炎天下にウォーキングをするのは控えようかと思いました。

 急な石段を上り、子之神社にお参りをします。

Ts363626

 本殿は幕末に作られたそうですが、立派な装飾にしばし暑さを忘れて見とれました。

 そこから境内に相撲の土俵がある薬師堂まで歩き、いよいよ後半の注目スポットである小沢城へと向かいます。

 小沢城は、川崎市と東京稲城市との境にある丘陵上にあるのですね。

 新旧三沢川の合流地点のそばにある登り口から城攻めを開始します。

 炎天下、山道を登るのは辛いけれど、10年ほど前に行った八王子城に比べればさほどでもない。

 八王子城へ行った日は、確か38度を超えていたような。あまりの難攻不落ぶりに死にそうになりましたっけ。

 前回の豪雨と同じくらい辛かったことを思い出しつつ、小沢城の曲輪と思われる場所に到達。

 物見台や空堀、古井戸の跡なども残っていて、なかなか見所多い城でした。

Ts363638

 この城も、枡形城を築いたと言われる稲毛三郎重成と関係があるらしい。

 そして戦国時代には、北条早雲の孫、北条氏康がこの城に入って戦った記録があるのだとか。

 武田信玄や上杉謙信は戦国のスーパースターとして有名ですが、戦闘力だけではなく治世など総合力ではむしろ北条氏康のほうが上だという意見があるほどの名将。

 当時はどんな城だったのかなと縄張りを考えていると、城跡に野球のアナウンスが響き渡りました。

 すぐ隣は、よみうりランド、ジャイアンツ球場なのですね。どうやら、巨人の2軍の試合が行われているみたい。

 次に向かったのは小沢城主が毎日お参りに通ったといわれる穴澤天神社。

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 穴というくらいですから、やっぱり穴が神社名の由来になっているらしい。

 神社の北側の丘陵斜面に横穴があって、内部に石仏が安置されていたとのこと。

 家に帰って調べてみたら、この穴の中に入れるみたい。

 洞窟の長さは10メートルほどらしいのですが、この穴も横穴墓と関係あるのでしょうか。

 入ればよかった~と悔やんだのですが、実はオイラはこのあと、もっとすごい穴に入ったのでした。

 それは、ここから1.2キロほど歩いたところにある弁天洞窟。威光寺というお寺の境内の奥にある崖にあけられた穴なのですね。

Ts363644

 ここには全長65メートル、広さにして200坪もある大洞窟があるのでした。

Ts363645

 中は、電気がなくて、まさに暗黒の世界。

 入るときは蝋燭を持って、そろりそろりと足元に気をつけながら進まねばなりませぬ。

Ts363646

 もとは横穴式の古墳だったそうですが、明治時代に現在の形に掘り広げられたそうですね。

 新東京百景に選ばれるくらい有名な場所らしいのですが、いつ来ても誰もいないような。

 実は、ここへはもう4~5回も来ているのでした。

 最初に行ったのは15年ほど前だったのですが、真っ暗だし、迷路みたいだし、中にヘビはいるし、で相当ビビッたのを覚えています。

 これだけ怖い思いをしたのだから、もしかしてご利益があるかも、と洞窟の中にいる白い大蛇に願い事をしたのです。

 もちろんモノホンの大蛇ではなく、石に彫られ着色されたものですが…。

 明るいところで見たら、普通のオブジェでしょうけど、真っ暗闇の中で蝋燭の光にボォ~と照らし出されたヘビと目が合うとさすがに怖い。

 神秘さも感じました。

 そしたら、その後願いが叶ったのですね~。

 それに味をしめて、何度か願い事があるときは訪れて一人で洞窟に入って願い事をするのでした。

 願い事といっても、プロレスの世界チャンピオンになりたいとか、森高のサインが欲しいとかいう実現不可能な願いではなく、努力すればできるレベルですが…。

 5年ぶりに洞窟に入ったのですが、慣れててもやっぱし怖いっす。

 白い大蛇が動いたらどうしよう、とか。

 蝋燭の光だけで、一人でこの中に10分間以上入っていたらどんな気分になるか。

 どなたか、この暗黒の空間を体験された方がいらっしゃれば、是非感想を聞きたいと思いました。

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豪雨とビジベン with 赤坂サカス、六本木ヒルズをゆく

 こんにちは。

 平成15年8月のある日、神奈川県の相模川の河原にいたとき、集中豪雨の増水で危機的状況に陥ったオイラ。

 前回はそこまで書いたのでしたね。

 あのあと、もう少し記憶を呼び覚まそうと、当時持ち歩いていた手帳を出してみたんですよ。

 ページを開くまでもなく、当時の惨状が手帳本体に現れていたのでした。

 集中豪雨の水をたっぷり含んで、ゴワゴワになっている。今でもページを一枚ずつめくるのに苦労する状態。

 水性インクで書かれた箇所はロールシャッハテストみたいな模様に。

 革の財布も使い物にならなくなったし、ケータイも故障。カバンの中に入れてあった本も水を吸いまくって、見るも無残な姿になったのでした。

 それ以後、ユニクロのバーゲンで買った100円のジップパースを、いまだに使わざるを得ない状況に追い込まれたのです。

 ファストフードの割引券やポイントカードがたっぶり入るから気に入ってはいるのですが…。

 手帳には、『神奈川相模川サンポ。超豪雨、全身ずぶ濡れ。一時間以上も木の下で酷い目にあった』というフレーズが書いてありました。

 結局、一時間以上も、暴風雨の中にいたのですね~。

 オイラがいた場所が中州みたいになって、川の水がどんどん増水してくる。

 雨が防げる場所へ行くには、広い河原を延々と歩き、堤防を越えて、そこからまた住宅地まで土手の上を歩かないといけないのです。

 来たときは、20分くらいかかったような。

 豪雨の中を行こうかどうか迷っていると、上流からドドドドトドッと水が押し寄せてくる音が聞こえました。

 ヤバ!!!

 そのときはさすがにあせって、土砂降りの中を強行突破することにしたのです。

 しかし、川が増水して流れている箇所を通らねばなりませぬ。

 深さがわからないから、杖になる太い枝を拾い、水深を測りながら前進しました。

 これが正解だったみたい。

 膝ぐらいの深さの濁流でしたが、急に深くなっている箇所が何箇所かあったのです。

 そこで転倒していたら、最悪、流されていたかも。

 転ばずに、何とか対岸まで到達。あとは泥田のようになった河原をひたすら堤防に向かって歩きました

 川の中では一度も転ばなかったのに、そこでは足をとられ、ヘッドスライディングみたいな豪快さで何度も転倒。

 「七人の侍」の野武士との戦闘シーンみたいじゃ~と思いましたね。

 派手な水しぶきをあげて転倒する迫力は、七人の侍のエキストラが務まるのではないか、と…。

 泥まみれになりながらも何とか相模川の堤防をこえると、遊歩道沿いに大きな東屋を発見しました。

 一時間以上も土砂降りの雨の中にいたから、屋根のある場所というだけで天国のように感じたのです。

 うう、助かった~。

 捕虜になって拷問をうけたあとのランボーみたいな姿で東屋に入ると、先客が7~8人もいる。

 オイラと同じく、雨宿りっすか。

 暗いし、雨が目に入って霞がかかったように見えるのですが、色の黒い屈強な若者たちの姿が…。

 そこへ、ドッカァァァァァァァァァ~ンと稲光。

 怖そうなお兄さんたちが眉をひそめて、オイラを見つめているのがわかりました。

 横目で見ながら、囁きあっている。その言葉は、日本語じゃないし、どうやら英語でもなさそう。イランとか、中近東の人たちみたい。

 外が土砂降りの東屋の狭い空間。何やら不穏な雰囲気。

 逃げ場はどこにもない。

 一難去ってまた一難か?

 そのとき、一人の若者が立ち上がってオイラに近づいてきました。手には傘がしっかりと握られている。

 臨戦態勢で、身構えるオイラ。

 すると彼は、傘を差し出しながら、「これ、あげる」と言ったのです。

 え~? 傘をくれるの?

 悪いからいいっすよ、と固辞するオイラに、「友達がたくさんいるから大丈夫」と傘を握らせてくれたのです。

 他の若者たちも、笑顔で「どうぞ使ってください」と言っている。

 わぉ、いい人たちじゃん!!!

 どこから見ても、それほどお金を持っていそうもない彼らだし、もらうのは申し訳ない。

 それじゃ買いますよ、と言って千円札を取り出し、手渡そうとするオイラ。

 びしょ濡れの千円札でしたが、いくら渡そうとしても、「いいですから」と受け取ってくれないのでした。

 もしかして、日本人より親切なのではないか、と思いましたね。

 困っている人、悲惨な人、ドツボにはまっている人を見て、手を差し伸べるのはできそうでなかなかできないこと。

 子供時代からプロレスを見て、外人というと悪役レスラーの印象しかなかった自分が恥ずかしかったです。

 それだけオイラの姿が哀れな状態だったのでしょう。

 30分ほどして雨が上がり、今までの雷雨が信じられないほどの晴天に。泥まみれになったのですが、暴風雨の中を歩いて、洗濯機の中で攪拌されたような状態だったのか、思ったよりきれいになっていたのは驚きました。
 
 今でも、その傘はうちの傘立てにあって、それを見るたびにやさしかった彼らのことを思い出します。

 さて、ここからはお散歩ネタ。

 こちらも、前回の続きなのでした。

 法務省の法務史料展示室を見たあと、国会議事堂方面に向かいます。

 福田首相は電撃退陣してしまいましたね。

 安倍さんのときもそうでしたが、今回もあまりに唐突。

 行った日は夏真っ盛りの頃でしたけど、こんなことになるとは思ってもみませんでした。

 国民はもう慣れっこになったのか、安倍さんのときほど非難の声が聴かれないのも哀しい。

 裁判所合同庁舎を左手に見ながら歩き、外務省と財務省を隔てる潮見坂を上ると国会前庭の和式庭園。

 ここまで来ると、国会議事堂が正面に見えます。

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  現在の建物は、昭和11年に帝国議会議事堂として建設されたらしい。正面に向かって左側が衆議院、右側が参議院なのですか。

 中央塔の高さは、65.45mで、昔はかなり高いというイメージでしたけど、東京にビルがどんどん建つご時勢ではその高さに触れる人はいなくなってしまったような。

 国会議員の後援会の人たちを乗せたバスが何台も道に止まっていました。

 国会の前を過ぎ、洋式庭園の先にあるのが、憲政記念館。

Ts363557

 ここは、昭和45年に、我が国の議会開設80周年を記念して建てられたらしい。

 江戸時代、この場所は彦根藩井伊家の上屋敷があったそうで、大老・井伊直弼もここに住んでいたそうですね。

 中には、国会の組織や運営などの資料が多数展示してありました。

 固いイメージですが、映像資料やシアター、立体ビジョンコーナーもあって、飽きずに眺めることができました。

 オイラが興味深かったのが、議場体験コーナー。

 テレビの国会中継でよく見る議員の机と椅子が並んでいて、プチ議員体験が味わえるのですね~。

 ここにある議員の椅子は、原寸大ですかね。

 だとしたら、あまりにも狭いっす。リクライニングじゃないし、結構硬い。

 長時間座ったら、腰が痛くなりそう。

 ちょっとした映画館の椅子のほうが遥かに快適ですな。

 こんな椅子に座りたくて、皆必死に選挙を戦うのだろうかと思いました。

 憲政記念館を出て、国会図書館の前を通り、赤坂へと向かいます。

 赤坂見附の近くにあるのが弁慶堀。

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 桜の時期にはよくテレビで紹介されていますが、都心のボート乗り場としても有名ですね。

 行った日は、さすがに暑くてボートに乗っているのはおっさんが一人だけ。

 ここは釣堀でもあるらしくて、上から見ていたら大きな魚を釣り上げていました。

 上を見ると、赤坂プリンスホテルとホテルニューオータニ。

 日本一贅沢な釣堀かも。

 外堀通りを少し行くと、左手の丘は日枝神社。

 赤い鳥居のトンネルを歩いて本殿に参拝します。

Ts363567

 ここは江戸城の鎮守として歴代の将軍から崇拝されていたらしい。

 宝物殿には、将軍から奉納された国宝、重要文化財の太刀が展示されていました。ちなみにここも無料ですよ。

 赤坂通りを歩き、今注目のスポット「赤坂サカス」へ。

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 それにしても、「赤坂サカス」なんて珍しいネーミング。

 ここに来るまで少し迷ったので、「赤坂探す」がその由来かと思いましたが、やっぱし違ったのでした。

 調べてみると、赤坂サカスの『サカス』は、桜を咲かすという意味であると同時に、赤坂にたくさんある坂=坂s=『サカス』の意味もあるのだとか。

 ふーん、なるへそ、セレブの人たちの考えることは違うニャ。

 TBSテレビの本社ビルとリニューアルオープンした赤坂BLITZタワーと赤坂ACTシアターで作った「街」なのですな。

Ts363576

 高層ビルとお洒落なテナントのコラボは、六本木ヒルズや東京ミッドタウンで免疫ができていたので、度肝を抜かれるという事態は避けることができました。

 テレビやマスコミの加熱ぶりが先行しているという感じはありましたね。

 …と、そこにあるコンビニしか利用しなかったオイラが向かったのは、乃木神社。

Ts363581

 ここはかつて、乃木大将の屋敷があった場所てすな。

 今も残っている建物はログハウス風で、乃木大将がドイツ留学中見たフランスの連帯本部兵舎を自ら模して設計したらしい。

 地下、地上2階建てで、それほど大きくなく、質素といっていいかも。

 ここは、大正元年、明治天皇に殉じて乃木将軍夫妻が自刃した場所でもあるのですね。

 窓越しに自刃した部屋が見えるのですが、夕方になってしまったので乃木邸の敷地に入ることはできませんでした。
 
 何度も訪れたことがあるので、乃木神社に参拝してから、青山墓地へ向かいます。

 久しぶりにオイラの家の墓にお参りしたあと、六本木ヒルズへ行ってみることにしました。

Ts363585

 一流IT企業の代名詞ともなっていた六本木ヒルズですが、江戸時代は長府毛利家の上屋敷だったらしい。

 赤穂浪士の武林唯七ら7人が切腹した場所でもあったのですね。

 なんと、先ほど旧宅へ行った乃木希典もここで生まれているのだとか。

 六本木ヒルズの庭はかつて大名庭園だったのですね。

Ts363590

 六本木ヒルズの森タワーも、威厳を持ってオイラを見下ろすのでした。

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日比谷公園と霞ヶ関 ウォーキングストーリー with 豪雨とビジベン

 こんにちは。

 先日の豪雨はすごかったですね。

 テレビでは凍りつくような映像をいくつも目にしました。

 被害に遭われた方には、心よりお見舞い申し上げます。

 豪雨というと、忘れられない思い出があるんですよ。

 忘れもしない平成15年8月のある日、オイラは例によってウォーキングをしていたのです。

 歩いたのは神奈川県の相模川の河原。日差しの強い、蒸し蒸しする日でしたね。

 あまりの暑さに、休もうと腰をおろしたとき、俄かに空が暗くなってきました。

 ?? と、上を見上げたとたん、突然、ザーッとものすごい量の雨が…。

 ぎゃぁぁぁぁぁ~と、近くの木陰に逃げ込みます。

 通り雨かニャー。

 ま、こんなことはよくあることだし、朝の天気予報では一日中晴れだと言っていました。少し雨宿りすれば、すぐ止むだろうと思ったのですね~。

 でも、10分たっても、20分たっても、全然止まない。

 ますます空が暗くなってきて、止む気配すらない。

 木陰といっても、河原にあるひょろりとした木で、葉っぱもあまりない。

 一日晴れだと聞いていたので、雨傘を持ってない。

 当然の結果として、ずぶ濡れになってしまいました。

 ちょっと雨に濡れたというレベルではなく、服を着たまま泳いだあと、プールサイドに上がったというレベルまで…。

 そこにヘッドライトをつけた大型の四駆車が通りかかります。

 ひぃぃぃぃぃ~助けちくりぃぃぃぃぃ~

 木陰から飛び出そうとするオイラが見えたのか、見えなかったのか、急にスピードをあげて走り去ってしまいました。

 それだけならまだしも、派手に跳ね上げた泥のシャワーがまともにオイラの頭上から降り注ぎます。

 泥だらけとなって、二目とは見られぬ姿に。

 車の中にいたのは若いカップルでしたが、濡れネズミの哀れな中年を見捨てるなんて、ひどい…。

 もっとも、逆の立場で、オイラが濡れネズミのこ汚い中年男を乗せたかといえば、首を縦に振る自信はありませんが…。

 それより、あの二人の恐怖の表情は、オイラが豪雨の中からさまよい現れたゾンビに見えたのかもしれないと思いました。

 その後も引き続き、木陰で豪雨の中、ガタガタ震えながら立ちすくむ現状に変化はなし。

 びしょ濡れの状態から、泥まみれのびしょ濡れの状態に悪化しただけ。

 豪雨は、30分たっても、40分たっても、全然止まない。

 暗いし、豪雨で周囲にかすみがかかって、視野がきかない。

 雨が目に入ってよく見えないのですが、目を凝らすと周囲の景色が一変しているのです。

 水溜りではなく、周りが沼地と化しているといいますか。

 いや、沼地ではなく、泥水が流れている。

 …ということは、川が広がっている?

 川からかなり離れていると思っていたのですが、集中豪雨で急に水かさが増えたのでしょうね。

 川の中州に取り残された人がヘリコプターで救助されるシーンをよく見ますが、まさか自分がニュース映像に登場するのだろうかと嫌な予感。

 ホントに川の増水は怖いですね。

 常識でははかれない部分があって、慎重に早めの対応をすべきだと見に染みてわかった次第です。

 オイラは迫りくる危機からどう脱出したのか、感動のラストは次回に。


 ということで、ここからはいつものお散歩ネタ。 

 今回行ったのは、東京のド真ん中、霞ヶ関の官庁街から赤坂、六本木へと巡るコースです。

 もちろん、東京に長く暮らしているオイラですから何度も来たことがありますが、個人的には抵抗感のある場所。

 財務省や外務省の厳しい建物が、一般庶民を見下ろしている。

 道でお役人様と目が合うと、ひぃぃぃぃぃぃ~、今年は不作で年貢の取立ては勘弁してくだせぇ~と涙目で訴えたくなる。

 別に刑法に触れることはやっていませんけど、法務省や警視庁の近くへ行くと血圧が20くらい上がりそう。

 でも、TBSテレビではさかんに赤坂サカスを宣伝しているし、青山墓地へお墓参りもしておきたいし、せっかく行くのなら…ということで、食わず嫌いの場所、霞ヶ関へ足を踏み入れることにしました。

 行ってみてわかったのですが、優れものの無料スポットも結構ありましたよ。

 …ということで、新橋駅で降りて、まず霞ヶ関への玄関口、日比谷公園へ向かいます。

 日比谷公園は、日本初の「洋風近代式公園」と言われる場所。

 元は松平肥前守などの武家屋敷地で、明治時代に陸軍練兵場となり、そのあと都市公園になったのですね。

 新橋方面から行くと、まず見えるのが古い煉瓦の建物。

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 これは、日比谷公会堂。

 1929年に市政会館およびそれに併設する公会堂として建てられたらしい。

 歴史の教科書にも登場する旧社会党の浅沼稲次郎暗殺事件は、ここで1960年に起こったのですか。

 そんな大事件があったとは思えないほど、緑に囲まれてゆったりと佇んでいるのでした。

 日比谷公園のもう一つの有名な建築物は、俗に「野音」と呼ばれる野外音楽堂。

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 客席数は椅子席2,664で、立見席も450あるのだとか。

 そういえば昔、デビューしたばかりの荻○目洋子ちゃんのコンサートに行ったのでした。

 当時、仕事の関係で、彼女のご家族と知り合ってコンサートのチケットをもらったのです。

 当日は、生憎の雨でしたが、多くのファンが集まって、ずぶ濡れで熱唱する洋子ちゃんの姿が印象的でした。

 絶対有名になるなと思ったら、やっぱりそのあと大ブレイクしましたね。

 お姉さんの慶○さんは今でも実力派俳優で、頑張っているし…。

 それにしても、当時実家へお伺いすると、必ず頭に猫を載せてお母様が出てこられたのが今でも不思議な光景として記憶に残っています。

 でも、庶民的なやさしい人でしたよ。

 そんな懐かしい思い出にひたって園内を歩きます。

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 都会の中心の公園なのに、トトロの森みたいな巨木が至るところにある。

 日比谷公園といえば、やはりこの噴水は見逃すわけにはまいりませぬ。