滋賀県・石積みの門前町 坂本 ウォーキングストーリー

 こんばんは。

 12月10日から12月11日まで、一泊二日で滋賀県に行ってきましたぁぁぁぁぁ~!!!

 ブログをはじめて4年半になりますが、これまでお散歩ネタといえば、東京周辺ばかりでした。

 行ってもせいぜい、伊豆半島や群馬、栃木県くらいまでだったような。

 それがいきなり、中部地方を飛び越えて近畿までジャンプできたのは、ネットの懸賞企画に当選したからなのですね~。

 それは、「滋賀の旅をモニターしよう!旅行ブロガー大募集」というキャンペーン。

 キャッチフレーズは、「元気やで!おいで~な滋賀」おもてなしキャンペーン・みんなで作る新しい滋賀の旅」です。

 1泊2日、旅行ライターになりきって旅をし、自分のブログに旅行記を書くというもの。宿泊施設を紹介してくれるということと、何より自分で自由に旅行ブランを立てていいという条件に惹かれて応募したのでした。

 …ということで、これから3回にわたって、「ビジベン滋賀へゆく」と銘打って滋賀県のお散歩シリーズをお送りしようか、と…。

 さて、滋賀県といえば何といっても最初に思い浮かぶのが琵琶湖の存在。

 ご存知、日本最大の湖で、淡路島より大きいのだとか。

 淡路島といえば、かつて淡路国と言ったように、日本の地方行政区分だった国の一つ。琵琶湖は、昔の国より大きい湖なのですな。

 ちなみに、滋賀県はかつて近江の国と言われていましたが、近江は「都に近い湖」が語源だそうですね。

 京都の隣の県としても有名ですが、実は滋賀県にも都があったのですよ。それは、白村江の戦いの後、のちに天智天皇になる中大兄皇子が、667年3月に都を飛鳥から近江の大津京へと遷都した時期です。

 都があったのは5年間くらいだったそうですが、その間は今の京都が「都の隣の県」だったのですな。

 それはともかく、12月10日の朝、東京・品川駅から新幹線に乗ったオイラは、昼前に比叡山坂本駅に降り立ちました。

 のぞみで京都まで行き、JRの湖西線に乗り換えれば東京から3時間足らずで着いてしまうのですね。

 十何年ぶりに訪れた関西は、生憎の曇り空でした。駅で街歩きのマップをゲッツし、期待に胸を膨らませながら坂本の町へと繰り出します。

 マップを見ながら、駅から比叡山の方向へ続く道をひたすら登ると石造りの鳥居が…。

 町の中心を貫くこの道は、比叡山の麓に広大な境内を持つ日吉大社の参道でもあるみたい。

 やがて左手に、京阪電車の京阪坂本駅のモダンな駅舎が見え、そのはす向かいに立派な山門が目に入ります。

 ガイドマップを見ると、このお寺は生源寺といって、伝教大師最澄の生誕地と言われているらしい。境内に入ると、右手に最澄の産湯に使った井戸の石碑が立っていました。

Ca3a1908

 最澄といえば、今回の旅のハイライト、比叡山延暦寺を開祖した偉いお坊様です。

 司馬遼太郎の「空海の風景」という本を読んだことがありますが、最澄は、官費留学生として唐に渡るすごいエリートだったそうですね。またとても真面目な性格のお坊様として描かれていた記憶があります。

 歴史の授業で勉強するのは、最澄、天台宗、比叡山延暦寺のキーワード解説くらいですが、やはり現地へ赴くと1200年もの年月を経て、町の中に彼の足跡が残っているのですな。

 余談ですが、坂本竜馬の苗字も、ここ坂本の地名に由来していると司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に書かれていた記憶があります。

 来年の大河ドラマ「竜馬伝」の主役は、女性に人気の福山雅治。もしかしたら、この土地も、坂本竜馬のルーツとして注目を集めるかもしれませぬ。

 福山のルーツではありませんので、念のため。

 オイラも、こんなに立派じゃなくてもいいから、何か生きた証を残したい物じゃと考えつつ、再び坂道を登ります。

 するとまた日吉大社の大きな鳥居が見えてきました。ここから先は日吉馬場という参道になり、車道の横の紅葉が美しいっす。道の両側は石垣が続いていて、まさに石積みの町・坂本が実感できる景色ですね。

Ca3a1910

 ここが城下町なら、重臣たちのお屋敷が並ぶ大手門の前の道という風情ですが、石垣に囲まれたお屋敷は、この土地では里坊と呼ばれているそうな。

 この町でいう里坊とは、比叡山延暦寺の僧侶の隠居所。延暦寺は山の上にありますから、そこで生活するのはかなり大変なことだったらしい。年をとって現役を退いた老僧が里に降りてきて、余生をおくった宿坊なのですね。

 石垣というと、城のようなアクティブな施設をイメージしてしまいますが、こちらの石垣は老僧が静かに暮らしているような静謐さを感じました。

Ca3a1912

 さらに坂を上ったところにある旧竹林院も、そうした里坊のひとつ。見学できるそうなので、入ってみることにします。

 まず庭へまわると、八王子山を借景にして、滝や築山の配置が見事。ここでも石垣が景観のアクセントになっておりまする。手入れされた苔と茶室のコラボもなかなかでした。

Ca3a1915

 長い間山上で辛い修行をされてきたお坊様にとって、老後の生活がこの美しい景観とともにイメージできていたのかも。

 癒しの庭園に囲まれたお屋敷は、究極の老後の生活だと感じます。この安らぎの空間を手に入れるには、やはり、若い頃は苦労しないといけないのでしょうか。

Ca3a1919

 旧竹林院を出て、20分ほど歩いて向かったのは西教寺。

 このお寺は、安土桃山時代の遺構や美術作品が残っているということで旅行前からチェックしていたのです。

 途中に眺望が開けている場所があり、眼下に琵琶湖をのぞむことができます。東京に住んでいる人間にとって海は珍しくありませんが、これだけの広さがあって、なおかつおだやかな水面というのは驚きというより不思議な感じがしますね。

Ca3a1922

 しかも、湖がぐるっと山に囲まれている。これは、ここでしか味わえない景観かもしれませぬ。

 …と考えつつ、西教寺に到着。この総門はお寺としてはそれほど珍しくない形をしていますが、解説板を読むと、なんと明智光秀の坂本城から移築したそうなのですよ。

Ca3a1923

 そういえば明智光秀は、近江国坂本城主でした。残念ながら、坂本城の痕跡はほとんど残っていないそうですが、安土城の次に立派な天守閣があったのだと聞きます。

 聖徳太子が創建したと伝えられるほど歴史のある寺ですが、1571年に織田信長が比叡山を焼き討ちにしたとき、このお寺も災禍を被ったらしい。

 神仏に信仰心の篤かったといわれる光秀は、焼き討ちに加担せざるをえなかったときは辛かったでしょうね。

 戦が終わったあとに、西教寺の復興に尽し、さまざまな寄進を行ったものが現在も残っているのですな。

 本堂は重要文化財ですが、江戸時代の建築。安土桃山時代の客殿が境内に残っているのは興味をそそられます。

Ca3a1930

 しかも、それはもともと豊臣秀吉の伏見城にあった旧殿なのだとか。行った日は工事中で薄暗かったのですが、当時の雰囲気は伝わってきました。

 派手好みだった秀吉の御殿としては質素でしたが、狩野永徳筆と伝えられる襖絵もあり、秀吉から家康時代にかけて活躍した大名のスーパースターがここで話をしたかと想像するとゾクゾクしますね。

 小堀遠州の庭園や明智光秀の墓なども見学し、山の辺の道といわれる変化に富んだ道を通って日吉大社へ向かいます。

 途中に、日吉古墳群といわれる横穴式石室を持つ多数の古墳がありましたけど、これらは渡来系の特徴があるらしい。これから行く日吉大社もこれらの古墳と関係があるのではないかと妄想が広がりました。

Ca3a1943

 さきほども書きましたが、JRの駅から町の中心を貫く大通りは、この神社の参道とコラボになっておりまする。それだけ歴史は古く、創祀はなんと崇神天皇7年というからおよそ2100年前なのですか。

 ご由緒によれば、地主神である大山咋神(おおやまくいのかみ)とその妻、鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)を祀ったのが始まりで、古事記に記されるほどだそうな。

 邪馬台国はおろか、神話の世界から続いているのですね。

 全国に約3800ほどある、日吉、日枝、山王神社と言われる神社の総本宮なのですか。

 それを知り、若干緊張しつつ、東本宮の入り口から参拝することにしました。ちなみに、こちらの神社は、東本宮と西本宮に分かれていて、どちらの本殿も国宝に指定されているとのこと。

 国宝とはすごいですが、こちらの神社も織田信長の比叡山焼き討ちによって、それ以前の建物がすべて燃えてしまったのですな。

 二つの国宝が建てられた時期が、1586年と1595年。新たに作られた本殿でも国宝なのだから、それ以前の本殿が現在も残っていたら世界遺産クラスだったのではないか、と…。

 現在の本殿は、豊臣秀吉が復興に尽力したときのものでしょうか。秀吉は、幼名を日吉丸といいましたから、こちらの神社を特別な存在と考えていたのかもしれませぬ。

 そんな歴史絵巻を考えながら、二つの国宝の本殿にお参りしました。

Ca3a1945

 神社の本殿としては少し変わった建築様式だと思いましたが、これは日吉造といわれ、こちらの神社だけに見られる形式だそうですね。

 屋根の庇が前面と両側面の三面にだけで、背面の屋根は切れたような形になっているのが特徴らしいですが、素人にはよくわかりませんでした。

 ほかにも、境内を流れる川にかかる石橋や神仏習合の信仰を表す独特の形をした山王鳥居など、神社仏閣ファンにはたまらないアイテムが満載。

Ca3a1957

 ところで時刻は午後3時を過ぎるあたり。日が落ちるのが早い時期なので、昼食をとらずに歩きまわっていたのです。

 そろそろ空腹で限界っす。このままでは行き倒れる。でも、あまりガツガツ食べるとホテルの夕食に悪影響を及ぼしそうですし…。

 日吉大社を出て、ガイドブックで確認すると近くにおいしいお蕎麦屋さんがあるというではないですか。

 早速、向かうことにしたのですが、それはまた次回。

Banner2_8 ← ブログ存続にご協力をお願いします。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

千葉市内 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今回行ったのは、千葉市街。

 千葉は、ほろ苦い青春の思い出の地であるとともに、オイラの関東周辺ぶらり旅の発祥の地でもあるのですね~。

 それは確か、中学校の夏休みの中の一日だったと記憶しています。

 当時、電車に乗って学習塾に通っていたオイラは、代々木の駅でいつも見る黄色い電車にあこがれていました。

 山手線はぐるぐる都心を回っていますが、総武線には終着駅があります。しかも、電車の先頭に書かれているのは「千葉」の文字。

 まだ行ったことのない県庁所在地ですよ。

 中学生のオイラからしたら、とんでもなく遠い町に思えたのです。

 その思いが溢れかえるようになって、とうとう一人で総武線に乗って千葉へ行くことにしたのでした。

 でも、当時はお散歩のガイドブックがあることも知らず、家にあった関東地方の道路マップの中の「千葉市街図」一ページだけが頼り。

 たった1ページの地図のために、重たい本をカバンに入れ、炎天下、とぼとぼと市内を歩き回ったのを覚えています。

 地図の見方もよくわからず、当然のように迷子になって、交番のおまわりさんに道を尋ねたり…。

 でも、その思ったように歩けないもどかしい気持ちのトラウマが、その後のウォーキング発展の原点になったのかもしれませぬ。

 中学生のときは、思ったとおり歩けなかった街ですが、その後二回ほど訪れ、かなり千葉の街には詳しくなりました。

 前回行ったのは、十年ほど前。千葉港のそばのポートパークやポートタワーを時間かけて見たために、行けなかった場所もいくつかあったのです。

 今回こそ、千葉市街の完全制覇を図りたい。

 …ということでリベンジを図るため、ある休日の早朝、京成千葉駅へやってきました。

 都営地下鉄で本八幡を経由し、京成線で千葉へ入ると、千円とちょっとでオイラの家と千葉市内を往復できるのですね~。

 もちろん、一日500円で都営地下鉄乗り降り自由のお得なバスを利用するという裏技が必要ですが…。

 未来都市のようなモノレールが行き交う駅前を抜け、まず向かったのが千葉公園。

 実はこの近くへ来ると、思い出す味があるのですよ。

 それは、にんにくラーメン。

 10年前にここに来たとき、ふらっと入ったラーメン屋さんで、名物だと言うので何気に食べたラーメンの味が今でも忘れられないのです。

 新陳代謝の激しいラーメン業界にあって、まだ店があるのかなと思ったのですが、ちゃんとありましたぁぁぁ~

 それが、これ。

Ca3a1552

 店の雰囲気は前と違っているような感じだし、器も昔と違っていると思ったので、オーナーが代わったのかなと思いました。

 でも、一口食べてみて、10年間も記憶に残った味を思い出すことができました。

 おろしにんにくや細切りにしたにくにくがたっぷり。

 にんにくだから、もっとこってりしていたイメージがあるのですが、醤油味で意外とあっさり味だったのですね。

 麺も細い縮れ麺で、こってりにくにくとあっさりスープによくマッチしていました。

 あっさり系で、後味がさっぱりしていたからいつまでも記憶に残ったのかも。

 今度はいつ行くかわかりませんが、きっと千葉に来たときはまた訪れることになるのだろうと思いました。

 にんにくをたっぷり食べ、オイラが吸血鬼ではないことを証明した後、千葉公園へ足を踏み入れます。

Ca3a1556

 この公園は、戦後、陸軍の鉄道第一連隊跡地を整備して作られたらしい。

 公園の中心にある綿打池とまわりを取り囲む緑、そしてモノレールの白い高架が印象的でした。

 そして千葉公園で忘れてならないのが、大賀ハス。

Ca3a1561

 一見、普通のハスのようですが、なんと2000年の眠りから覚めたハスなのだとか。

 解説板を読むと、昭和26年に、大賀一郎博士が市内の検見川でハスの種を発掘。それを発芽させて育てたものらしい。ちなみに、このハスは昭和28年に分根されたものなのですね。

 2000年ぶりに目覚めたというと、どうしても昔見た「ウルトラQ」のミイラ男をイメージしてしまいますが、植物の生命力はケタ違いなのだと思いました。

 公園を出てモノレールの高架の下をくぐり、国道126号の大通りをひたすら南下します。

 総武線の東千葉駅を超えて、ずんずん進むと、30年前、オイラが中学生の頃に見たのと同じ景色が…。

Ca3a1562

 そういえば、当時はこの辺りで方角がわからなくなって迷ったのでした。

 まわりをキョロキョロ見渡すと、高い建物はないし、なんとなく昭和を感じさせる街並み。

 何だかタイムスリップしたみたい。

 当時、迷って途方に暮れている中学生のオイラを探しましたが、もちろん見当たりませんでしたが…。

 あの頃よりは、体力もついたし、地図の読み方も年季が入っているし、年をとった分だけ成長はしているのかも。

 近くには当時お参りした千葉神社があります。

Ca3a1565

 この神社は、昔この地域を治めていた千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とするお寺として建立されたそうです。

 源頼朝や徳川家からも手厚く保護されたようですが、明治初年の神仏分離によって神社となり、本尊も祭神に改められたらしい。

 もともと仏教の妙見菩薩と神道の天之御中主大神は長年神仏習合によって同一とみなされてきた経緯があったそうですね。

 神社であっても、日本有数の「妙見信仰」の中心となっているとのことでした。

 妙見菩薩は、北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩。

 千葉氏、北斗七星、というキーワードが並ぶと閃くのが、司馬遼太郎の傑作「北斗の人」ですね。

 千葉周作がなぜ北斗七星と関係あるのか、という謎が解明できました。もちろん本には書いてあると思いますが、中学生のときに読んだので…。

 北辰一刀流の北辰も、北極星のことだそうですな。

 中学生のときに読んだ本の謎も、オヤジになってから解明できたと喜びつつ、千葉神社へお参りします。

 お賽銭を10円入れましたが、そういえば中学生のときは50円入れたと思い出しました。

 こちらのほうは、中学生時代より退歩してしまったようで…。

 神社を出て、再び国道を南下すると、右手に千葉市中央区役所が見えてきます。

 その下の部分に、旧川崎銀行千葉支店の建物がビルに包みこまれるように保存されていました。

Ca3a1567

 さや堂ホールというから、どういうネーミングかと思ったのですが、これはまさに平泉中尊寺のさや堂と同じ発想ですか。

 昭和2年に建てられ、8本の円柱が並ぶネオ・ルネサンス様式の空間は、現在、コンサートなども利用されているらしい。

 そして、次に向かったのが千葉城。

 千葉城は、都川という川の近くの丘陵上にありました。

 別名、亥鼻城と呼ばれるのは、下総台地から亥の方角に突き出した舌状の台地にあるからなのだとか。

 丘陵といっても、それほど高いわけではなく、急峻なわけでもないですから、中世の要害堅固な城というイメージよりは、防備の能力を持った館くらいの位置付けだったのかも。

 現在は、城の二の丸だったと言われる場所に、昭和42年に作られたという立派な天守閣が建っておりました。

Ca3a1571

 この天守はもちろん、歴史上何のかかわりもないもので、中は郷土資料館になっています。

 忍城へ行ったときも思ったのですが、こちらの千葉城も小田原城の天守閣によく似ていますな。

 小田原の北条氏が関東を支配していた頃は、千葉も北条氏の領地だったのですが…。

 支店が本店を真似るのは不自然ではないですが、やはり千葉常重の銅像を正面に建てるのなら、千葉ならではのアイデンティティを前面に出してほしかった。

 …と思いつつも、城ヲタクしては立派な天守閣を目の前にして、何かに憑かれたように写真をバシバシ撮ってしまうのは、市の観光担当者たちの作戦に見事に引っ掛かっていたのでした。

 中は、千葉にまつわるさまざまな歴史資料が展示してありました。

 千葉は戦国時代の攻防の舞台になった土地で、歴史年表を見ても、ぐちゃぐちゃしていてよくわかりませぬ。

 天主の最上階は展望台になっていて、千葉の市内を360度見渡すことができました。

Ca3a1575

 千葉城から最後の目的地、青葉の森公園へ向かう道は千葉大の医学部の敷地沿いにあります。

 その道の横にあるのが、「七天王塚」。

Ca3a1582

 これと同じような塚が、千葉大学医学部の構内と近くの住宅街の、直径150mほどの範囲に点在しているらしい。

 七つといえば、千葉神社の妙見信仰にまつわる北斗七星が思い浮かびます。

 ちょうど、北斗七星の形に塚が並んでいるそうで、昔読んだ「アルセーヌ・ルパン全集」の中の「魔女とルパン」を思い出してしまいました。

 当時はすごいトリックだと思いましたけど、今だったら、何でそんな簡単な謎が解けないの?と突っ込みを入れたくなりますが。

 ただ、七天王塚が、いつごろ、何のために作られたのかが、よくわかっていないそうなんですよ。

 平将門の七人の影武者の墓であるという伝説もあるそうで、いろいろ妄想が膨らみそう。

 そして最後の目的地、青葉の森公園に到着。

 ここは、前回来た時見られなかった中央博物館があるのでした。

 でも、閉館時間を聞いたら4時半ですと…。

 あと、一時間弱しかありませぬ。

 広い館内でしたが、かなり端折って見学し、あとは広い公園内を歩くことにしました。

 千葉城を見てきた後だから、この細長い池は城の堀に見えるのですが、もちろん違うでしょうね。

Ca3a1587

Banner2_8 ← ブログ存続にご協力をお願いします。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

千葉県北小金の二大本山・本土寺、東漸寺 ウォーキングストーリー

 こんにちは、ご無沙汰です。

 名優・森繁久弥さんがお亡くなりになりました。96歳の大往生ですね。

 国民栄誉賞を贈られるそうですが、おそらく反対する日本人はいないのではないか、と…。

 日本人に、これほど好かれた俳優は少ないかもしれませぬ。

 とくにイケメンというわけではなかったですが、味のある俳優さんという言葉がぴったりでした。

 オイラが物心のついたときは、すでに大俳優になっていて、重役や社長、駅前シリーズの人気はリアルでは知りません。

 子供の頃知ったのは、確か、向田邦子原作のテレビドラマ「だいこんの花」だったような。

 竹脇無我演じる主人公の父親役で、元海軍大佐。よく覚えていませんが、戦争中は艦長として活躍したものの、今は隠居の身で妻に先立たれて息子と二人で暮らしている設定だったと思います。

 この元海軍大佐が、二言目には戦時中の自慢話をするんですよ。

 近所に、同じ艦に乗っていた元部下が住んでいて、今も「艦長」と呼ばれて悦に行っている。

 今もはっきり覚えているシーンがあります。

 ある女性が家に訪ねてきて、たまたま彼女の父親が戦争中は海軍にいたことを元海軍大佐が知る。

 そのとき、「私は、戦時中は大佐で、艦長をしていたのだが、君の父親は、一兵卒かね、二兵卒かね」なんてことを言ったのですよ。

 女性が、「いえ、確か少将だと…」

 それを聞いたとたん、真っ青になってその場で昏倒してしまうというシーンなのでした。

 本来なら、その元海軍大佐はすごく嫌味のある人物なのですが、森繁さんが演じると実に愛嬌があって魅力的な人物なのですよ。

 話している内容や仕草は、魅力のないオヤジの典型なのに、どうしてあんなにほほえましく見えるのか、と…。

 やはり、森繁久弥氏本人の人間的魅力でしょうか。

 オイラも、あんなオヤジになりたいと感じる今日この頃です。


 さて、今日もお散歩ネタ。 

 前回、千葉県の東金へ行き、今回は同じ千葉県の小金です。

 お金のご利益がありそうな場所ですが、前回書きましたとおり、実はお金とは縁もゆかりもないネーミングなのでした。

 それでは、今回行った小金は? …と調べてみたのですが、地名の由来はわかりませぬ。

 あまり詳しく調べたわけではありませんけど…。

 でも、戦国時代は小金城が築かれ、江戸時代は、小金牧と言って幕府直轄の軍馬を養成する牧となった歴史もあるらしい。

 かなり古い地名なのは間違いなさそうですね。

 さて、ウォーキングのスタートは、JR常磐線の北小金駅。

 駅前のロータリーがある出口と反対側の北口に出て、商店街から住宅街へテクテク歩いて行きます。

 信号のある大通りにぶつかると、いきなり目の前に、道の左右に松並木が続く参道が見えました。

Ca3a1489

 この松並木は、なんと水戸光圀公が寄進されたのだとか。

 行った日は日差しが強くて、暑かったので、黄門様から思わぬ日陰のプレゼントをいただいた気分で、涼しい木陰の参道を歩きます。

 やがて、朱塗りの重厚な山門が見えてきました。

Ca3a1494

 ここは、本土寺(ほんどじ)。

 京都や鎌倉の本山となっている寺院に勝るとも劣らないほど立派だと思ったら、こちらも日蓮宗本山の寺院だそうですね。

 なんと、池上本門寺(長栄山)、鎌倉妙本寺(長興山)とともに「朗門の三長三山」と呼ばれているらしい。

 入り口へ向かうと、「拝観料500円」の文字が目に突き刺さります。

 仕方なく、財布を出して払おうとすると、受付の女性から「今は無料ですから、どうぞご自由にお入りください」と言われました。

 おお~、ラッキーと一瞬思ったのですが、実はこのお寺は「あじさい寺」と言われ、6月には境内や庭園にあじさいの花が咲き乱れるそうな。

 あじさい寺として全国的にも有名な鎌倉の明月院に対し、このお寺は「北の鎌倉」とも呼ばれるのですな。

 また、庭園には菖蒲田があり、ハナショウブとアジサイがコラボで楽しめるとか。

 あじさいの季節ではないから、無料で入れるのですね~。

 現在の本土寺のある場所は、源氏の名門、平賀左近将監忠晴の屋敷だったらしい。

 その後、鎌倉時代の1277年に、当時この地方の領主だった曽谷教信が開基。

 お寺の名前は、日蓮上人より授かったということからもわかる通り、日蓮宗屈指の名刹なのですね。

 境内でまず目が行くのは、やはり五重塔。

Ca3a1501

 最近、作られたみたいですが、やはり五重塔があるとお寺はビジュアル的にも、高ポイントかも。

 塔の横に建つ鐘撞堂には、県下で二番目に古いといわれる国指定重要文化財の梵鐘がありました。


 そして、本堂へ行ってしっかりお参りをします。

Ca3a1504

 お寺は、今までかなり訪れているという自負はありましたけど、本堂正面にこれだけ大量の卒塔婆があるお寺はあまり記憶にありませぬ。
 
 卒塔婆は、故人の供養追善のためにお墓のうしろに立てられますが、これはどういう意味なのでしょうね。

 お墓を拝むということなのかしらんと考えつつ、あじさいは咲いていないけれども、あじさいをイメージしながら境内を歩いてみることにしました。

 本堂から程近い場所に古いお墓があります。

Ca3a1508

 解説板を読んでみると、なんと徳川家康の側室で、武田信吉を産んだ秋山夫人のお墓なのですか。

 秋山夫人とは、甲斐武田氏家臣・秋山虎泰の娘とされる人物。武田信吉は、家康の五男ですが、21歳の若さで早世してしまったそうです。

 でも、すでに水戸25万石の大名だったそうですから、彼が早死にしなければ、徳川光圀も水戸のご老公ではいられなかったかもしれませぬ。

 そのまま境内を歩いてゆくと、菖蒲田の緑が陽光に輝いてとてもきれいでした。

Ca3a1510

 藤棚や日本庭園のコラボもあったりして、やっぱりあじさいの季節に来ればよかったと悔やむことに…。

 本土寺をすっかり堪能したあと、かつて広大な田んぼを切り開いて作られた住宅街を歩き、幸田貝塚へと向かいます。

 貝塚といっても、現在は何の変哲もない児童公園に解説板があるだけでした。

Ca3a1511

 でも、今からおよそ6000年前の縄文時代前期に形成された貝塚で、その分布範囲は南北約250m、東西が約180mにも及ぶ広大なものらしい。

 度重なる発掘調査の結果、縄文時代前期をはじめとする竪穴式住居跡が160軒以上も確認されたとか。

 全国でも指折りの大規模集落の跡なのですな。

 貝塚があるくらいですから、こんな内陸まで海が入り込んでいたのでしょうね。

 地球温暖化で海面が上昇すると騒がれていますが、地球の長い歴史から見れば過去に何度もあったことなのだと実感できました。

 
 小金は歴史のある街だけあって、古刹が多くあります。

 廣徳寺もそのひとつ。

 このお寺は、室町時代、小金城を築いた高城胤吉によって開基されたそうで、その後も高城氏の菩提寺として栄えたらしい。

 広い境内には、江戸時代に建立されたという高城氏の墓碑がありました。

Ca3a1519

 さて、次はいよいよ本日のメインイベント、小金城じゃ~


 東金城を見損なった分を取り戻すぞ~と、勇んで向かう道すがら、松本清記念会館なる古びた建物が…。

Ca3a1520

 そういえば、ここ松戸はマツキヨ発祥の地なのでした。

 マツキヨは商品券が使えるので、ネットアンケートでゲッツしたギフトカードでよく買い物します。

 松本清は、その名の通り、マツモトキヨシ創業者にして、千葉県議会議員や松戸市長などを歴任した人物。

 オイラが子供の頃は、松戸市役所の「すぐやる課」がマスコミで取り上げられていましたが、そのアイデアを出した市長としても知られていますね。

 もしかして、マツキヨ創業の建物?と思ったのですが、ネットで調べてみると直接の関係はないみたいでした。

 でも、建物の裏には、松本清氏が昭和40年代にこの辺りの土地改良に尽力したという巨大な記念碑が。

Ca3a1521

 ちなみに、松本清記念館で検索すると、「松本清張記念館」の検索結果がダダダダ~と出てしまうのですな。

 それはともかく、小金城っす。

 調べてみると、城の大きさは東西800m、南北700mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った平山城だったとか。

 それはすごい、と大谷口歴史公園の小高い丘をのぼると、土塁や畝堀、障子堀などの遺構を見ることができます。

 障子堀はあまり確認できませんでしたが、畝堀は底のほうにしっかりと畝が残っていて、待ってました~後北条氏のお城じゃ~と、なんだかうれしくなって眺めました。

Ca3a1532

 さて、他には何が? …と思ったのですが、これでお仕舞い。

 えっ、こんなに狭くないよね、と当時の縄張り図を確認すると、公園になっている部分は、小金城の末端なのですな。

 入り口部分がかろうじて残っている…みたいな。

 どうして小金城址というネーミングで紹介しないのだろうと思ったのですが、ここは城跡といっても端っこだからでしょうか。

 城の中心部分は市街地の中にすっぽり埋もれているみたい。

 しかし、小金城の遺構はほかにも、近くに達磨口跡として残っていました。

Ca3a1540

 普通の崖のように見えているものが巨大な土塁だったりして。

 当時はかなりの規模の城だったのがわかります。

 その後、小金城は、豊臣秀吉の小田原攻めの際、後北条氏方として戦ったものの、豊臣氏方の浅野長政らに攻められ開城。

 徳川家康の五男、武田信吉が居城としたが、1593年に廃城となったとの由。

 武田信吉の母上のお墓がどうして小金の本土寺にあるのだろうという疑問がこれで解けました。

 今回は時間がなかったので、当時、城の中心部だった「本城」や「中城」などへは行きませんでしたが、きっと地形に何らかの痕跡が残ってはいるのでしょうね。

 またいつか、訪れてみたいと思いました。

 そして、最後に向かったのが、JR常磐線の線路を越えたところにある東漸寺。

Ca3a1544

 このお寺は、今から約500有余年前の1481年に創建。江戸時代には徳川幕府の手厚い保護を受け、関東十八檀林の一つとされた名刹だそうです。

 至るところに、徳川家の紋所である三つ葉葵があしらわれていて、水戸黄門好きのオイラとしては、思わず、ははぁ~とひれ伏したくなるお寺でした。

Banner2_8 ← ブログ存続にご協力をお願いします。
 

| | コメント (0) | トラックバック (3)

池と湖と心霊スポットと…千葉県東金 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今回行ったのは、千葉県の東金市。

 実は夏休みに行った場所なのですが。

 以前、成東もとい山武市や茂原市へ行ったとき、いつか訪れてみたいとチェックしておいた場所です。

 オイラが行ってみたい場所といえば、当然、城跡があるのですね~。

 しかも、「金」がつく地名なんて、行けばなんか、おカネのご利益がありそうで…。

 埋蔵金の伝説なぞ、あったりして。

 …が、しかし。

 東金の地名は、「金」には関係ないみたいです。

 この場所は昔、鴇(とき)が舞い飛ぶ丘陵地だったそうな。

 街の西方に「鴇ヶ峰」と呼ばれる丘があり、そこに「鴇嶺城(ときがねじょう)」という城が築かれたとか。

 この「ときがね」が、後に「東金」になったと言われているのですな。

 うぬぬ、「ときがね」から「とうがね」は文字にしてしまうとかけ離れていますが、話し言葉では「とー」と伸ばしたほうが言いやすいのかも。

 文字の意味よりも、話しやすさを優先させる昔の人の思考方法が興味深いっす。

 当時は、文字による伝達より、伝言ゲームみたいな形で知識が広がって行ったのかニャーと思いました。

 伝言ゲームで村人の誰かが言い間違えた言葉を、現代の人たちは何の疑問もなく使っているのかもしれませんね。

 どこにも、東の金なんて、意味はないですし…。

 …ということで、ウォーキングのスタートは、JR東金線の東金駅。

Ca3a1422

 昭和を感じさせる駅前商店街をゆっくり10分ほど歩くと、まぶしい緑に囲まれた美しい池に着きました。

 ここが最初の目的地、八鶴湖(はっかくこ)。

Ca3a1424

 池と言いましたが、名前的には「みずうみ」なのですな。

 でも、面積は3.4ヘクタールで、周囲は約800メートルほどだと言うから、どうみても「池」としか見えませぬ。

 それにしても、日本の原風景を見るような美しい景色。

 池の三方を取り巻く丘は、東金の地名の由来にもなった「鴇ヶ峰(ときがみね)」ですか。

 確かに、今でも鴇が舞い飛んでいても納得できそう。

 でも、この「池」は元からこの大きさではなかったそうですね。

 池のすぐそばに、千葉県立東金高等学校があるのですが、この場所は江戸時代初期には、東金御殿があったそうな。

 東金御殿は、なんと徳川家康が鷹狩りの際宿泊した御殿とのこと。

 御殿建設の際、もとは小さな池だったものを多く広げられ、現在の「湖」の姿になったとか。

 確かに、背景の丘を借景にした美しい佇まいは、かなり吟味して作られた日本庭園の趣がありますな。

 その八鶴湖の東岸にあるのが最福寺。

Ca3a1426

 これは一見して由緒ある寺院だと思ったら、なんと807年に伝教大師最澄によって創設されたらしい。

 「湖」に面する高台に位置するローケーションは最高です。

 しかも、この元禄時代に建立されたという本堂は、一部、江戸浅草、浅草寺の古材を譲りうけて作られたそうなんですよ。

Ca3a1427

 ほかにも、広い境内には興味深いアイテムがたくさんありました。

 たとえば、このお墓。

Ca3a1431

  歌舞伎「お富・与三郎」の切られ与三郎のモデルになったという4代目、芳村伊三郎のお墓なのだそうですね。

 この話のあらすじは知りませんでしたが、解説板を読むと、実際にもすごいストーリーだとわかります。

 8代目団十郎が、このフィクションに目をつけ、善玉、悪玉を誇張しておもしろく書きあげたのも頷けました。

 西洋の「モンテクリスト伯」や「オペラ座の怪人」にも匹敵するのではないか、と…。

 江戸の町民たちは、現代人が上記の芝居を見るような感覚で、ワクワクドキドキしながら観劇していたのかもしれないと思いました。

 境内には、鐘撞堂も。

Ca3a1433

 鐘撞堂があるのはお寺として全然珍しくないのですが、「鐘の音の余韻まで心で受け止めてお撞きください」という表示があったのですよ。

 えっ!? 撞いてもいいの?

 実はオイラ、20年以上前に、長崎で平和の鐘なるものを撞かせてもらってから、一度も撞いていないのです。

 鐘を見れば撞きたくなるのだけれど、どこのお寺も、勝手に鐘を撞かないでくださいと張り紙があり…。

 それじゃ、お言葉に甘えて…。

 …と大きく振りかぶり、心をこめて撞き棒を鐘にガツゥゥゥゥゥゥ~ンと。

 ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ~ん。


 おおお~、心に染み入るような美しい鐘の音じゃ~。

 鐘の余韻がいつまでも周囲に響き渡り、煩悩にまみれたオイラの心に涼風が吹き渡るのがわかりました。

 すっきりした気分になり、「湖」のほとりを歩いて今度は西岸にある本漸寺へ向かいます。

 このお寺は、鎌倉時代に禅宗の寺として創建されたものの、戦国時代に、この地を支配していた酒井定隆によって顕本法華宗に改宗したそうですね。

 その酒井氏の菩提寺で、裏山には鬱蒼とした杉林。

Ca3a1438

 とても、花粉症の時期には来れないと思いました。

 でも、この険しい崖の上に、目指す東金城があるのですね~。

 いざ、城攻め。

 …と勇み立ち、本漸寺の裏山へ立ち入ろうとすれど、どこにも登り口がな~い。

 本堂の近くにあるお墓では、東金城主だった酒井氏のお墓を見つけることはできたのですが…。

Ca3a1437

 東金城は、立ち入り禁止なのかも。

 城跡に入れないのは残念だけど、遺構を守るためでしたら止むを得ませぬ。

 そう自分を言い聞かせて、無念の撤退を余儀なくされたのです。

 でも、自宅に帰ってネットで検索してみたら、東金城の本丸や土塁、空堀、郭の写真がたくさん載っているじゃあ~りませんか。

 どうやら、入り口は東金高校の隣付近にあったみたい。

 本漸寺の境内からは行けないのでした。

 しかも、東金高校は、小倉優子、別名ゆうこりんの母校でもあるそうですね。

 やっぱり、ウォーキングの前には、ネットでしっかり情報収集をしてから行けばよかった。

 知っていれば、東金高校にも、ゆうこりんのこりん星の痕跡を探したのに、と後悔する今日この頃です。

 高校周辺を不審なオヤジが歩き回っていると通報されていた可能性も皆無ではないので、塞翁が馬なのかもしれませんが…。

 それにしても、東金城、見たかったっす。
 
 下から見上げた感じでは、かなり土塁は急峻ですし、丘の上の縄張りも巧みなのがわかります。

 酒井氏は戦国時代の70年間もこの城を居城としていたそうですから、かなり実戦的な仕掛けがいろいろ凝らされていたの思うのですけどねえ。

 あとで悔やむことになるとは夢にも思わなかったオイラが次に向かったのは日吉神社。

 ここの神社も由緒あるらしいのですが、1615年に徳川家康がここに御成りしたそうな。

 そのとき、神社の復興を命じられ、200メートルにわたる参道に杉並木を植樹されたらしい。

Ca3a1450

 杉並木といえば日光を思い出しますが、ここの杉並木も巨木が建ち並んで壮観でした。

 花粉症の時期に来なくてよかったっす。

 たぶん来ていたら、杉並木の植樹に一役買った徳川家康に文句を言っていたかも。

 神社の近くにある丸山公園は芝生の緑が最高に綺麗でした。

Ca3a1455

 青い空と緑の木々、花粉の飛ばない爽やかな空気。

 暑くなければ、夏は最高なのだけれど…。

 そこから、炎天下、汗をドバドバかいて、舗装道路をトボトボ歩きながら考えました。

 ああ、水をガバガバ飲みたいっす。

 …と思う頃、最後の目的地、雄蛇ヶ池(おじゃがいけ)に到着。

Ca3a1474

 池というより、こっちのほうが「湖」ではないですかねぇ。「池」と「湖」の定義にこれだけ頭をひねる場所も少ないかも。

 しかも、こちらは人口池なのだとか。元々は江戸時代の干害対策として周辺の村を救う為に作られたものだそうな。

 この広大さは、こちらのほうが、モノホンの湖に見えるのだけれど。

 ウォーキングガイドブックでは、この池を見るだけで終わっていたのですが、せっかくだから一周してみることにしました。

 池のまわりは約4キロもあるらしい。

 さきほどの八鶴湖は、確か800メートルでしたけどね。

 池のまわりは遊歩道になっていて、アップダウンもそこそこあって、池の景観の変化が楽しめました。

 この池は、近年はバスフィッシングの名所としても有名だそうで、ボートを浮かべて釣りを楽しむ人たちを大勢見かけました。

Ca3a1476

 ネットで調べてみると、雄蛇ヶ池は心霊スポットとしても有名だそうですね。

 女性のすすり泣く声がどこからともなく聞こえてきたり、笑い声が聞こえてきたり…。


 ワハハハハハハハハハハハハ~!!!

 ブロロロロロロロロロロ~ ドォ~ルゲェェェェ~!!!


 オイラが、一人で遊歩道を歩きながら、誰もいないとよくやる癖は、黄金バットの真似とか、超人バロムワンの悪役ドルゲの真似。

 実は、ここでもやってしまいました。

 心霊スポットだと知っていれば、こんな恐れ多いことはやらなかったのですが。

 知らない人がたまたま聴いて、都市伝説のひとつに組み込まれてしまったかも。

 ちなみに、あの押尾学氏もここを肝試しで訪れ、女性の霊を見たと告白しているそうです。

Banner2_8 ← ブログ存続にご協力をお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

三浦半島・金沢文庫、称名寺、野島 ウォーキングストーリー

   こんばんは。

 最近は三浦半島を中心に歩いていますが、今回行ったのは金沢文庫。

 確か、日本史の教科書にも登場する有名な場所で、当然、オイラも若い頃から何度も行ったことがあります。

 でも、よく考えてみれば、「文庫」ですよ。

 広辞苑で調べてみると、一般に、図書館が公衆の閲読を目的とするのに対し、文庫は書籍の蒐集を目的とするもの…なのだとか。

 なんか、オイラ的には「学級文庫」をイメージしてしまいます。

 口の両端に指を突っ込み、横に口を開いた状態で、「がっきゅうぶんこ」って言ってごらん。…というフレーズを、小学校時代何度口にしたことか。

 当然、「がっきゅうぷんこ」とは言えず、「がっきゅううん○」になってしまうのでした。

 それはともかく、個人的な蔵書、コレクション、手文庫など、わりとプライベートな意味の言葉が、街の名前や駅名になってしまうなんてすごいですよね。

 今回はそのあたりの謎の解明も含め、久しぶりに訪れてみることにしたのです。

 ウォーキングのスタートは、京急線の「金沢文庫」駅から。

 個人的な蔵書が、特急停車駅の駅名になってしまうなんて、何度考えてもすごいっす。

 オイラは、貧乏なわりに本は多少持っていると思いますが、間違ってもブックオフや図書カードを使って買った本からなる蔵書によって、「ビジベン文庫」という駅はできないでしょうね。

 行った日は真夏の猛暑でしたが、汗を拭きつつ、駅前から長く続く坂道を登っていきます。

 やがて左手に赤い門が見えてきました。これが称名寺の惣門なのですね。

Ca3a1307

 称名寺は、鎌倉幕府の執権として有名な北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時が開基した寺院。

 解説板によると、1258年に、実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂がその起源とされているそうですね。

 金沢北条氏の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備されたとのこと。

 しかし、鎌倉幕府の滅亡とともに金沢の北条氏も滅んで、その後衰退してしまったのですか。

 解説板を読みつつ、3代金沢貞顕という名前を目にして、なぜか児玉清の顔がフラッシュバックしたのですよ。

 そういえば、いつかドラマで見たような。

 …と考え、それはNHKの大河ドラマの「太平記」だったことを思い出しました。

 確か、真田広之が足利尊氏、武田鉄矢が楠木正成、片岡鶴太郎が北条高時という配役だった記憶があります。

 オイラの好きな楠木正成が武田鉄矢というのは若干異論があったのですが、主役が足利尊氏ですからね。

 金沢貞顕の児玉清がなぜ、これほど覚えているかというと、北条高時役の片岡鶴太郎の怪演との対比といいますか。

 北条高時があまりの変人として描かれているため、そのあとを継いで執権になった金沢貞顕がすごく良識のある素晴らしい人物に見えてくるのです。

 金沢貞顕は、金沢文庫の蔵書の充実に力を尽くしたらしい。読書家として有名な児玉清が演じたのはまさにぴったりの配役なのだと思いました。

 それにしても、昔の大河ドラマは、日本史の勉強にもなりましたけど、最近の大河は突っ込みを入れたくなるシーンが多すぎて…。

 「天地人」をまともに見て、歴史のテストを受けたらかなりやばいことになりそう。

 真田幸村を「幸村!」なんて言ってるし…。

 当時は、真田幸村という名前では呼ばれなかったはず。

 同じNHKのドラマ「真田太平記」で、丹波哲郎演じる父の真田昌幸が息子の幸村を「左衛門佐(さえもんのすけ)」と読んでいました。

 上杉120万石の御殿のセットは、どうみても、2~3万石の小大名クラスの御殿にしか見えないのですが…。

 もっとも、昔とは予算のかけ方も違うのでしょうけど。


 それはともかく、金沢文庫の話。

 称名寺の仁王門は、さすがに鎌倉時代のものではなく、江戸時代後期に再建されたものだとか。でも、金剛力士像はかなり古いものだぞ、と思ったら1323年に製作されたらしい。

Ca3a1311

 鎌倉幕府の滅亡が1333年ですから、その10年前に作られたのですね。

 この金剛力士は、鎌倉幕府の滅亡を見ていたのか~と感慨深く見上げました。

 仁王門の横を通ると、見事な庭園が…。

Ca3a1318

 この庭園の形は、どこかで見たことがあると思ったら、浄土式庭園なのですね。

 まだ行ったことはないけれど、金沢貞顕が平泉の毛越寺をモデルに作ったらしい。

 毛越寺の庭園は、何度もテレビで紹介されましたからね。

 特徴は、境内の真ん中に橋が架かる大きな池がある点でしょうか。

 浄土式庭園というだけあって、荒々しい部分がなく、いたって穏やかな眺め。いつまでもベンチに腰掛け、浄土の世界をゆっくり堪能しました。

 でも、蚊に刺されてすぐ現世に戻されてしまったのですが。

 でも、昭和の中ごろまではこんな美しい庭園ではなかったそうです。昭和47年からの大がかりな調査を経て、昭和56年に整備されたそうな。

 鎌倉時代末期に描かれた「称名寺絵図並結界記」など、当時の景観を伝える文書があったから再現できたのですね。

 鮮やかな赤の太鼓橋を渡り、金堂と釈迦堂にお参りします。

Ca3a1319

  金堂は江戸時代はじめ頃、釈迦堂は江戸時代後期に建立されたらしい。

 広々とした池に赤い太鼓橋、古色蒼然とした建築物も素晴らしいですが、称名寺の景観を卓抜したものにしているのは、背景に広がる緑豊かな山々でしょうね。

 実はこの山は、ハイキングコースになっていて登れるのですね~。

 今から10年以上前に来たときも登ったことがあり、今回もチャレンジすることにしました。

 仁王門を出て、民家の近くの小道へ入り、称名寺市民の森の看板を見ながら山道を登っていきます。

 称名寺の裏手にまわると、北条実時の墓がありました。実時は、金沢北条氏の祖といわれる人物。

Ca3a1327

 そのわりに素朴なのは、質素倹約を旨とする鎌倉武士の深い精神性によるものでしょうか。

 尾根道を歩き、一番高所にあるという八角堂広場へやってきました。

 ここからは、緑豊かな称名寺の境内や八景島、これから向かう海の公園や野島などがよく見えました。

Ca3a1329

 急な階段を下り、再び称名寺の境内にもどっていよいよ金沢文庫を目指します。

 金沢文庫は、ひと言で言えば北条実時が自分の邸宅内に造った武家の文庫。政治や文学、歴史など多岐に渡り、実時の後も顕時・貞顕・貞将の三代にわたって収集は受け継がれて蔵書の充実がはかられたらしい。

 ところが、その場所が詳しく特定できないみたいなのです。

 さきほど述べた称名寺の絵図に、「當寺檀那」と記された金沢顕時と、その子貞顕の墓所左手にトンネルの入り口らしき絵が描かれているとか。

 そのトンネルとは、これではないかと…。

Ca3a1334

 トンネルは崩落の危険があるとかで封鎖されていました。

 金沢北条家の侍がこのトンネルを通って、文庫へ通っていたかと思うとロマンが膨らみますね。

 トンネルの向こう側には、文庫があったことを思わせる地名も残っていたそうです。

 現在、その左に作られた新しいトンネルを抜けると、「神奈川県立金沢文庫」の近代的なビルが建っていました。


Ca3a1339

 オイラはこのビルよりも昭和初期に作られた重厚な建築物が印象に残っているのです。現在のビルは平成2年に作られたそうなので、そんなに新しいものではないのですが。

 中に入ると、称名寺の創建当時の仏像や建物内部の絵を再現した展示がありました。

 仏像というと、黒っぽかったり、金箔がまだらに残っていたりと歴史を感じさせる色合いがイメージされますが、作られた当時はピカピカ光輝いていたのですものね。

 もちろん、文庫というくらいですから古文書もたくさん展示してありました。

 歴史は好きだけど、古文書の文字はまったくわかりませぬ。

 大学の歴史学科にでも入学していたら絶対挫折したでしょうね。

 ところで、金沢文庫の古文書はかなり持ち出されたのだとか。

 足利学校へ寄贈されたのはいいとして、武田、上杉、徳川家まで貴重な文書を外へ運び出したと解説文にありました。

 とくに、家康は江戸城の富士見文庫に多くの資料を移したらしい。運び出された古文書で散逸してしまったのはかなりあるのでしょうね。

 当時、ブックオフはなかったでしょうから、重要な書籍を多く持つことは文化人としてのステイタスでもあったのではないか、と。

 金沢文庫からテクテク歩き、次に向かったのは「海の公園」。

 ここは横浜市内で唯一、海水浴場のある公園だそうですね。

 行った日は、1キロにも及ぶ白い浜辺でビーチバレーをしたり、日向ぼっこをしたりしている人を多く見かけました。

Ca3a1342

 ちなみに、この砂浜は人工のもので、砂は千葉から運んだそうですね。 

 そして最後に向かったのは、野島。

 Ca3a1345

 野島はかつて独立した孤島であったらしい。海抜57メートルの頂上には立派な展望台が。

 そこからは八景島シーパラダイスが手に取るように眺めることができました。

Ca3a1353

Banner2_8 ← ブログ存続にご協力をお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

古都鎌倉・長谷寺 ウォーキングストーリー

 こんにちは、ご無沙汰です。

 かなり間があいてしまいましたが、今日は前回の鎌倉お散歩ネタの続きです。

 インターナショナルな観光地、高徳院を出て、ふたたび喧騒の街へ。

 大仏様へ通じる大仏通りは観光客でごった返していたのですが、そこから一本通りを入ると、閑静な鎌倉の雰囲気が味わえました。

 混沌と静寂のコントラストが鎌倉の魅力かもしれませぬ。

 住宅街をテクテク歩き、次に向かったのはそこからほど近い場所にある光則寺。

 このお寺は、緑あふれる丘に囲まれたような場所にあるのですな。

 入り口には誰もいなかったのですが、拝観料100円という札があったので料金箱に入れて門をくぐります。

 実はこの土地。もともとは鎌倉幕府5代執権であり、元寇で名高い北条時宗の父として名高い時頼の家臣だった人の屋敷だったらしい。

 その人物とは、宿谷光則。

 だから光則寺なのですか。

 と言っても、オイラははじめて聞いた名前なのですが、彼は日蓮上人が書いた『立正安国論』を北条時頼に渡した人物だったそうなんですよ。

 これが原因で日蓮は流罪になったとか。

 彼は、日朗を屋敷の裏山の土牢に幽閉したそうな。

 今でもその土牢が残っているというので、行ってみることにしました。

 寺の本堂から少し登り、裏山へ続く石畳の小道を歩きます。ひっそりとしてなかなか風情のある道ですが、向かっているは土牢ですからね。

 土牢といえば、有岡城に長く幽閉され、足が不自由になってしまった黒田如水。そして日朗と同じく鎌倉に幽閉され殺されてしまった南北朝時代の護良親王が思い浮かびます。

 鎌倉には、ほかでも土牢を見たような。

 山に囲まれているので、崖を掘ればすぐ牢が作れるからでしょうか。

 土牢なんかに幽閉されたら、夏は暑いし、冬は寒いし、閉所恐怖症になりそうだし、たまりませんね。

 …と考えつつ、土牢の前に到着しました。

Ca3a1263

 でも、ここの土牢は思ったより天井が高くて、都心のワンルームマンションより広そう。他の土牢に比べたらグレードが高いような感じがしました。

 といっても、もちろん、ここに住む気にはなりませんが…。

 薄暗くて、ジメジメしていますし。

 この中に、お坊様が幽閉されていたのだと思うと、感慨がこみあげてきます。

 でも、ここに日朗を幽閉した宿谷光則は、やがて彼に感化され、自らの不運を嘆くことなく、弟子の日朗を案ずる日蓮に心打たれたそうです。

 そして後に、日蓮が赦免されたあと、彼自身が日蓮宗に帰依し、自宅を寺にしたのですね。

 境内は、カイドウの銘木や四季の花々で埋め尽くされ、当時の人たちの真摯な心を称えるように光り輝いておりました。


 そしていよいよウォーキング後半戦のハイライト、長谷寺へと向かいます。

 お寺なのですが、迫力ある仏像、絶景ポイント、洞窟探検、グルメスポット、しっとりした日本庭園、そしてかわいらしい石像と見所満載なのですね~。

 楽しむのはいいけれど、お参りは忘れないようにしようと肝に銘じつつ、拝観料300円を支払い、境内に入ります。

 石段を上り、まず観音堂へと向かいました。やはりこちらのお寺も外人さんが多いですね~。

Ca3a1272

 こちらのご本尊は、十一面観世音菩薩像でございまする。

 もちろん前にもお参りに来たことがあるのですが、20年前と比べてさらに崇高な雰囲気が増しているように感じました。

 薄暗い中、ライトに照らされて浮かび上がっているかのよう。

 しかも、9.18メートルの巨像で、木造の仏像としては日本有数のものらしい。

 思わず、引き込まれてしまうのか、いつも陽気な外人さんたちも厳粛な顔で手を合わせておりました。

 いつ頃作られたか定かではないそうですが、室町時代頃の作と推定されているそうですな。

 お参りして心が洗われたオイラが次に向かったのは、境内の端にある見晴台。

 ここにはたくさんベンチが並べられていて、鎌倉の市街地や由比ガ浜を見下ろすことができます。

 起伏のある境内なのは、もともと観音山の裾野に広がる土地に作られたからなのですね。

 さらに高いところから由比ガ浜を見渡すことができる「眺望散策路」があるということで、足に自信のあるオイラは行ってみることにしました。

 整備された石段を上ると、山に囲まれ、一方だけ海に面している鎌倉の地形がよくわかります。城塞都市としての機能も頷けますな。

Ca3a1270

 遠くに見える海水浴場から、若者たちの嬌声が風に乗って聞こえてくるのがわかりました。

 オイラの耳には、稲村ガ崎から鎌倉を攻める新田義貞の軍勢の馬の嘶きの声に聞こえるのですが…。

 再び境内へ降りて、経堂、大黒堂、阿弥陀堂などの建物を見学します。

 長谷寺の境内は、今眺めてきた観音山の中腹に切り開かれた上境内と裾野に広がる下境内の二つに分かれているそうですね。

 石段を降り、下境内の日本庭園を見学します。妙智池と放生池の2つの池が配され、その周囲を散策できるのですな。

Ca3a1276

 四季折々の花木に彩られた庭園は、「鎌倉の極楽西方浄土」とも呼ばれているそうな。

 の片隅に、なんともかわいらしいお地蔵様が立っておりました。

Ca3a1284

 
 若い女性に人気があるのか、皆集まってケータイのカメラでさかんに写真を撮っています。

 女性に人気があってうらやましいとジェラシーにかられながら、オイラも写真を撮らせてもらいました。

 そしてオイラが注目したスポットは、弁天窟。

Ca3a1278

 崖を掘って洞窟みたいにし、中の壁面に、弁財天や十六童子が刻出されているのですね。

 中は思ったより広いけれど、薄暗い。お化け屋敷みたいと入り口で尻込みする子供たちも見かけました。

 わりと真っ暗な洞窟は好きなので、わくわくしながら入ります。

 ろうそくの光にぽうっと仏像が浮き出る光景は神秘的で、テレビで見た中国の寺院をイメージしてしまいました。

 天井が低い場所も何箇所かあり、頭をぶつけてしまいましたが…。

 長谷寺を堪能したあと、向かったのは御霊神社。

Ca3a1293

 ネーミングからも、雰囲気からも由緒ありそうな神社ですね。

 それもそのはずで、この社は、鎌倉始祖の鎌倉権五郎景政を祀った神社だそうな。

 解説板によると、鎌倉権五郎景政公は、剛勇で知られた武将で、後三年の役には16歳で出陣し、源義家に従って活躍したらしい。

 なんか、霊気を感じる佇まいで、この場所にいたら、タイムスリップしても不思議ではなさそう。

 御霊神社の境内のすぐ近くに、江ノ電の踏切がありましたが、平安時代と昭和を思わせる江ノ電がなんの違和感もなく溶け込んでいるのが印象的でした。

 踏み切りを越え、突き当りの通りを右折して成就院へと歩きます。

 小高い丘の上にある成就院は、弘法大師修行の地に執権北条泰時が開基したお寺。

Ca3a1296

 この下を通る道は、極楽寺坂切通しと言い、1333年、鎌倉攻めの新田義貞の侵入をふせぐため、幕府方の軍勢が集結して激しい戦いが行われたらしい。

 そのとき、このお寺も焼失し、江戸時代になってから再建されたのだそうな。

 お寺の前からは、由比ガ浜を一望することができました。

Ca3a1298

 

 両側が山に囲まれた切り通しの道に、かつて数万の軍勢が満ち、激しい戦闘が行われたなんて信じられませぬ。

 そんなことを考えながら歩きつつ、最後の目的地・極楽寺へ。

 かつてここでも合戦が行われ、多くの伽藍が失われたそうですね。境内は入場無料なのですが、写真撮影は駄目だとかで残念。

 その代わり、極楽寺駅のそばに鎌倉時代の武将の墓があるというので行ってみることにしました。

 アパートに入っていくような感じのわかりにくい場所にありましたが…。

 苔むして、いかにも歴史を感じさせるこの墓の主は、関東管領で、山内上杉氏の始祖である上杉憲方と伝承されているそうな。

Ca3a1301

 関東管領は、上杉謙信で有名ですが、上杉憲方という武将は知りませんでした。

 質実で無骨さを感じさせる墓石は、やはり鎌倉武士を連想しますね。

 帰りは、江ノ電を使って再び鎌倉に戻ります。

 ホームでは何人も江ノ電の車両を写真におさめている人を見かけました。

Ca3a1303

 やはり江ノ電は鉄道ファンにとって格別の魅力があるのでしょうね。

Banner2_8 ← ブログ存続にご協力をお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

古都鎌倉、鎌倉文学館、長谷大仏 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 東京のオリンピック招致は残念でしたね。

 人生で二回も自分の住む町でオリンピックが開かれたら、すごく幸せだと思っていたのだけれど…。

 …といっても、前回、東京で開催されたとき、オイラは幼稚園児だったのでほとんど記憶にありませぬ。

 東洋の魔女も、円谷の銅メダルも、オランダの赤鬼と呼ばれたヘーシンクも、リアルでの記憶にないのでした。

 覚えていることといったら、幼稚園で先生から白い紙を渡され、真ん中にクレヨンで赤い丸を描くように言われたことくらい。

 その紙を棒につけて、みんなで向かったのが原宿です。

 駅前に出ると、すごい人ごみで全然前が見えませんでした。先生が、日の丸を振って、という掛け声にあわせて、自分が何をしているのかよくわからないまま手を動かしていると、大人の肩越しにスーッと煙が右から左へ流れました。

 そのとき、どっと歓声があがったのはよく覚えています。

 大人の背中と煙を見ただけで帰ったのですが、当時は、一体何しに来たのじゃ~と…。

 大人になってから考えると、あれは聖火リレーの応援に行ったのだとわかりました。

 あれからおそらく百回以上は原宿へ行ったと思いますが、あんなに盛り上がった原宿は見たことがありませぬ。

 やっぱり、オリンピックだけは別物ですよ。

 今度こそ、聖火リレーをこの目で見たかったのに。

 オイラの目が黒いうちには、東京でオリンピックが開かれれば最高っす。

 是非またチャレンジして欲しいですね~。


 さて、お散歩ネタ。 

 今回行ったのは、古都・鎌倉です。

 鎌倉といえば、日本史の聖地のひとつですね。

 しかし、歴史好きのくせに、鎌倉へはそれほど行ったことがないのです。

 関東屈指の観光地ということで、いつ行っても結構混んでいるし、小町通りの原宿とみまがうようなお洒落なショップは、オヤジの琴線をあまり刺激しなかったりで…。

 でも、鎌倉は文士の街でもあるのだとか。オイラの好きな作家の川端康成も住んでいたらしい。

 加賀百万石の旧前田侯爵の別邸を利用した鎌倉文学館へはまだ行ったことがなかったので、久しぶりに訪れてみようと思ったのです。

 およそ20年ぶりに、鎌倉の大仏や長谷寺の十一面観世音菩薩にもお会いしてみたくなりましたし…。

 おそらく、大仏様と長谷寺以外は、休日でも比較的すいているのではないか。

 …ということで、ある土曜日の早朝、鎌倉駅におりたちました。

 オイラの家から横浜まで、東急を使えば260円。横浜から鎌倉まで横須賀線で330円とリーズナブル。

 時間も1時間たらずで行けるのですね~。

 今回は、鎌倉のメインストリート若宮大路方面ではないので、いつもと反対側の西口の改札から外へ出ます。

Ca3a1216

 こちらは江ノ電のターミナルでもあるのですね。

 江ノ電の線路を左手に見ながら、商店街をテクテク歩きます。

 大通りに出て、しばらく歩くと車が行き交う交差点にお地蔵様が並んで立っておりました。

Ca3a1222

 六体のお地蔵様は六地蔵と呼ばれ、今でも地元の人たちから敬われているらしい。

 なんでも、鎌倉時代、この近くに刑場があったそうな。その後刑場が竜口に移されたあとも、このあたりは荒地だったとか。やがて六地蔵を立てて使者の霊を弔ったのですね。

 そういえば、東京にも六地蔵があった記憶がありますが、人間の持つ六つの苦しみから救ってくれるそうなのです。

 今は当時の寂しい面影はまったくありませんが、近所の人たちのお参りする心は今も引き継がれているのだと感じました。

 大通りから入ったところに、吉屋信子記念館があります。

Ca3a1225

 吉屋信子は、大正・昭和の時代に活躍した作家。この人の作品はひとつも読んでいないのですが、名前はいろいろなところで見て知っていました。復刻版も出版されているそうなので、根強いファンは多いのでしょう。

 この立派な塀の中にある家に当時住み、その後、土地・建物などが鎌倉市に寄贈されたそうな。

 記念館というからいつでも入れるかと思ったのですが、常設展示はしていないみたい。

 古い日本家屋が好きなので、入ってみたかったっす。

 そこから程近い場所にあるのが鎌倉文学館。

Ca3a1235

 鎌倉文学館というくらいだから、鎌倉ゆかりの文学、特に鎌倉文士をテーマにした資料館なのですな。

 たんなる資料館というだけでなく、ここの魅力はなんと言ってもその建物。

 もともとは、1890年頃に侯爵 前田利嗣の鎌倉別邸として作られたとのこと。ところが、明治の終わりに火事により失われ、現在の建物は昭和11年に洋風に全面改築されたのですね。

 3階建てですが、3階は木造で非公開なのだそうな。

 ゆるい坂道を登ると、やがて石組みの立派なトンネルが。

Ca3a1232

 三島由紀夫の作品にも登場する有名なトンネルだそうですね。

 トンネルをくぐると左手にモダンなたたずまいの洋館が現れます。この洋館は、戦後の一時期、デンマーク公使や内閣総理大臣 佐藤栄作の別荘として使用されたのだとか。

Ca3a1241

 このゴージャスな佇まいは、政界の団十郎と呼ばれた佐藤栄作のイメージにぴったりかも。

 その後、前田家から鎌倉市に寄贈され、外観をそのままに内部の補修・収蔵庫の新築を行い、鎌倉文学館として蘇ったのですね~。

 中に入り、夏目漱石や川端康成の自筆原稿の展示などを眺めていると、作家の息遣いが感じられそう。

 洋館の豪華な内装と窓からの広々とした芝生も眺められて得した気分になりました。

 行った日は、木村裕一著作の人気絵本シリーズ『あらしのよるに』の特別展が開かれておりました。

 絵本のタイトルは知っていましたが、子供たちの情操教育にもなる内容なのですな。

 文学館の前の芝生広場からは、由比ガ浜とその先に広がる相模湾を見下ろすことができました。

Ca3a1239

 次に向かったのは、甘縄神明神社。

Ca3a1245

 この神社が創建されたのは、710年というから、なんと奈良の平城京が作られたのと同じ年なのですか。

 鎌倉最古の神社といわれ、鬱蒼とした森に抱かれた境内はさすがに歴史を感じさせます。

 この神社は代表作のひとつ、「山の音」のなかで主人公・信吾の家の裏山の神社として描かれているそうですね。

 ウィキペディアには、鎌倉の長谷に住む、62歳になり老いを自覚するようになった尾形信吾が息子・修一の嫁・菊子に対して抱く情愛を、鎌倉の美しい風物とともに描いた作品だとありました。

 確か、主人公が夏の寝苦しい夜に、山のほうから、恐ろしい音を耳にするシーンからはじまったような。この地の底から響いてくるような音に、主人公は死の予告を受けたように感じた…?

Ca3a1248

 もう随分前に読んだので、詳しい内容は忘れてしまいましたけど。神社の参道の近くには、川端康成が暮らしていた邸宅があるらしい。

 すると、主人公・尾形信吾は川端康成の分身なのかも。

 オイラも、「山の音」を聴こうと耳をそばだてましたが、聴こえるのは蝉の鳴き声ばかり。

 ノーベル賞作家とは感性が違うのだから、これは仕方ないっす。


 そして、いよいよ鎌倉の大仏さまへ。

 大仏さまのおわす高徳院へ向かう道は、まさに観光ストリート。

 さまざまな土産物店やお洒落な飲食店が建ち並んでおります。

 拝観料の200円を支払い、高徳院の境内に入って、20年以上ぶりに大仏さまに再会しましたぁぁぁぁぁ~!!

Ca3a1250

 オイラは結構年をとっちゃったけれど、大仏さまは昔と全然変わりませんな。

 むしろ若返ったみたいで…。

 それもそのはず、完成してから750年以上もこの地に座り続けておられるのだから、20年という月日はないも同じなのでしょうね。

 土曜日だったので、境内はすごい人ごみでした。

 でもよく見ると、日本人より外人さんのほうが多いみたい。

 人口比率からすると、6;4で外人観光客のほうが多いのではないか。いろんなところで外国語が飛び交い、一瞬、日本にいることを忘れるような雰囲気でした。

 そういえば、奈良の東大寺の開眼のときも、世界の国々から大勢の人たちが集まったそうですな。大仏さまは、外国人をも魅了するのでしょうね。

 ところで、奈良の大仏さまとの大きな違いは、建物の中にいらっしゃるのではなく、露座の大仏となっている点。

 もともとは、東大寺の大仏と同じように、立派な大仏殿があったそうなんですよ。

 しかし、何度か建て直されたものの、台風で倒壊したり、津波で押し流されたりして、結局、露座という現在形になってしまったのですね。

 建物の中もいいけれど、緑の木々をバックにした大仏さまも、最初から計画して作られたようにピッタリ景観にはまっています。

 よく見ると、結構イケメンだったりして。

Ca3a1255

 ちなみに、この大仏は阿弥陀如来で、高さは12.38m、総重量は121トンもあるとのこと。

 20円支払えば、大仏の体内も見学できるのですが、外国人が長蛇の列を作っていたのでまたの機会にしました。

 今度訪れるのはいつになるかわからないですが…。

 後ろにまわると、背中には窓があります。

Ca3a1257

 なんか、天使の羽みたいでかわいく感じるのはオイラだけでしょうか。

 それにしても、外国の人たちからカメラを渡され、シャッターを押してくれとさかんに頼まれます。

 お安い御用じゃと、何度も応じたのですが、当然の顔をして英語で話しかけられるのにはさすがに閉口しました。

 まさか、オイラは、外人には見えないと思うのですけどね。

 一見すると、外国語を話しそうに見えるけれど、オイラはまったくしゃべれないのじゃ~。

 昔は、英単語も多少は知っていたし、翻訳のバイトもしたことがあったのです。

 読めるけれど、書けない、話せない、という戦後の英語教育の問題点を実証している自分に改めて気づくのでした。

 このままここにいると、また英語教育の失敗例として落ち込みそうになったので、逃げるように大仏さまをあとにしました。

 ここから長谷寺や極楽寺へ向かうのですが、それはまた次回。

Banner2_8 ← ブログ存続にご協力をお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

こち亀の亀有と葛西城址 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 今日は前回の続きの上千葉砂原公園からでしたね。

 この公園は住宅街の中にあって、それほど広くはありませんが、子供が喜びそうなアイテムがてんこ盛りの公園でした。

 まず、オイラが目についたのは交通公園。

 実際のハイウェイみたいなガードレールや高低差もあるから、この道を自転車で駆け抜けたら気持ち良さそう。

 浅いプールもあって、親子連れの歓声が公園の中を満たしておりました。

 小高い展望広場や芝生広場もありましたが、なんと言っても、うさぎやモルモット、ワラビー、ヤギなどと子供たちが自由にふれあえるスペースがあるのはうれしい。

 しかも、ポニーも飼われていて、無料で乗馬体験もできるのですね~。

Ca3a1170

 大人は乗れませんので念のため。

 それから実物のSLが展示されていて、こちらも自由にふれあえるのを忘れてはなりませぬ。

Ca3a1176

 子供の頃、うちの近所にもこんな公園があったら楽しかったでしょうね。

 オイラの子供の頃は、ホントに遊び場がなかったんですよ。

 現在は、近くに日比谷公園クラスの広さを持つ都立公園ができましたけど、当時は狭い道路が子供たちの遊び場でした。

 それも、騒がしいと近所のおっさんによく怒鳴られ…。

 仕方なく、空き地みたいになっていた近所の大学のグランドに友達と忍び込んでは、野球をしていたのです。

 そこの警備員のおっさんがまた怖くて、子供たちが遊んでいると大きな犬を放つのです。

 犬に追いかけられて、金網に引っかかり、体中血だらけになったこともありました。

 今だったら、子供に怪我を負わせたということで新聞に載っていたかも。

 もっとも、当時は子供の数が多かったですからね。

 こんなところにも、経済の需要と供給の関係が作用しているのだろうかと考えつつ、ふたたび曳舟川親水公園へと戻ります。

 そこには、当時の船着場を再現した小屋があり、地元のお年寄りが集まって茶飲み話に花が咲いておりました。

Ca3a1178

  江戸時代の駅やバス停みたいなものですな。

 親水公園をさかのぼって歩きます。

 暑い日は、水辺を歩くのが最高の贅沢。ここでも、子供たちが水と戯れている光景を目にしました。

 信号のところで親水公園を後にし、よく手入れされた庭が美しい蓮光寺にお参りしたあと、亀有さくら通りに出ました。

 読んで字のごとく、風情のある道沿いには桜並木が続き、春には素晴らしい桜のトンネルが堪能できそうだと感じます。

 地図を眺めながら住宅街をテクテク歩き、環七通りの近くにある宝待院に到着しました。

Ca3a1185

 ここには、この近くの領主であった松浦河内守信正の墓碑がありました。江戸時代の旗本だと思うのですが、長崎奉行を務めたそうなので、おそらく仕事のできる人だったのでしょうね。

 ということで、いよいよ環状七号線に出て、葛西城址へと向かいます。

 本丸が、環七によって真っ二つに分断されたのですが、どちらも現在は小さな公園になっているそうな。

 写真の手前が御殿山公園で、道路の向こう側の木がたくさんある場所が葛西城址公園っす。

Ca3a1187

 まずは近くの御殿山公園へと向かいます。

 御殿山というくらいだから、葛西城の本丸御殿のあったところですか。しかし、後北条氏が滅びたあと、ここは徳川氏の「青戸御殿」として修理再興されたそうですな。そして、将軍の鷹狩りの折などに休憩所として使用されたらしい。

 そちらの御殿が由来なのかと思いました。

 その青砥御殿も、江戸時代のわりと早い時期に取り壊されたのですね。

 幕府としても、一国一城令など、謀反の拠点となるような城が各地にあったのでは不安だったのでしょうし、なんといっても、ここは将軍のお膝元。

 青砥御殿の存在していた頃は、おそらく土塁や堀も多少残っていたのでしょうけど、御殿の取り壊しにあわせて、徹底的に痕跡すらなくされてしまったのではないか。

 城があったことを思わせる地名は最近まで残っていたそうですが、土地を見る限り、城跡とおぼしき痕跡は見つけられませんでした。

 もっとも、「青砥藤綱城跡」と書かれた石碑や最近できた石碑はありました。

Ca3a1189

 でも、城好きとしては後世の石碑が大量にあるより、土塁を思わせる土の盛り上がりや堀を思わせる窪みがあったほうが何百倍もうれしい。

 狭い公園なので、ものの3~4分で一周できてしまいます。近くの住宅街を歩き回ったのですが、城跡を思わせる何の痕跡も見つけられませんでした。

Ca3a1192

 もともと葛西城は、室町時代の初期に関東管領上杉氏がこの地に築いたのがはじまりだそうな。

 当初は、大石石見守という武将が城を守っていたらしい。

 その後、戦国時代に小田原の後北条氏が攻め落とし、家臣の遠山氏が城主として在城。秀吉の小田原征伐まで、この地域の拠点として栄えたのですな。

 この城が重視されたのは、武蔵と下総との国境に近い場所にあり、今の千葉県北部に当たる下総国に対する重要拠点でもあったから。

 北条方の前線基地として、国府大合戦では安房の里見軍からさかんに攻撃をうけたのだそうな。

 当時はかなり防御能力が高い城だったのでしょうね。

 さきほど見学した郷土と天文の博物館では、近くにある中川を天然の要害として外堀に見立て、反対側は湿地帯となっていたと解説がありました。

Ca3a1191

 水量の豊富な中川から水を引いて内堀を作り、その幅は20メートルほどもあったとか。

 うぬぬ、イメージできませぬ。

 標高1メートルほどの低地にあって地下水位が高いので、埋もれた木製品などがいい状態で保存されるというメリットもあるそうなのですよ。

 そういえば博物館では、ほかの城跡ではあまりお目にかかれない木製のお椀の出土品が目につきました。

 環七を渡り、葛西城址公園へと向かいます。ここは、本丸の端っこの部分ですな。

Ca3a1196

 城址公園とは言うけれど、こちらは児童公園といったいどこが違うのじゃ~という感じでした。

 でも、さきほど博物館で眺めた縄張り図と公園の外側の輪郭線のカーブが微妙にマッチングするような。

Ca3a1198

 公園の外側を低い石垣で囲むのも何となく意味深だったりして。

 土地の区画は、もしかして、現在までその影響が残っているのかもしれない。

 と思って、公園のまわりの道路を、バシバシ写真に撮りました。

 家に帰り、ネットで葛西城の縄張りと現在の道路の位置を重ね合わせると、かなり一致しているような。

 埋めた堀を道路として利用していたのかも。

 しかし、それにしては現在の道路の幅が狭い感じもするのですが…。

 公園のそばにある青砥神社にお参りし、中川の土手に出てみました。今もゆったり流れる中川は、当時の葛西城の難攻不落を証明するかのようでした。

Ca3a1203

 水戸街道をわたり延命寺、川をわたった中川大橋のたもとにある日枝神社と、次々とお参りしてまわります。

 このあたりは古い神社仏閣が多いと思ったら、江戸時代、このあたりは宿場町として大いに栄えたそうですね。

 再び中川を渡ると、そこは亀有駅のすぐそば。

 駅のすぐそばのスーパーで、88円の生茶と「がりがりくん」をゲッツし、駅へ入ろうとすると、面白い形をした像がありました。

Ca3a1214

 おお、両さんじゃないっすか。

 そういえば、亀有は、「こち亀」の舞台なのでした。

 オイラより横幅はかなりあるものの、意外と背が低いのは原作を忠実に再現したためでしょうか。

 あとで、ネットで調べてみると、両津勘吉巡査長の身長は、161センチ、体重71キロだそうな。頭が大きいから、90キロくらいありそうに見えるのですが…。

 それはともかく、「こち亀」はすごいですね。

 今年、連載1600回を突破したのはすごいですが、30年以上にわたる連載で一度も休載したことがないのだそうな。

 少年誌の最長連載記録として、ギネスブックに載り、コミックスは累計1億5000万部以上の売り上げなのですか。

 最初にジャンプに登場したのは、確か、オイラが高校生だったと記憶しています。その頃から、一度も休まず、今まで続いているのですね。

 よくネタが尽きないな、と思いますが、これだけ長く連載していて、作者があきないで書き続けられるという点がもっとすごいと思いました。

 そういえば、初めの頃は、「秋本治」という名前ではなく、「山止たつひこ」というペンネームで連載していましたね。

 当時は、山上たつひこの「がきデカ」が一世を風靡していた時期。

 がきデカファンとしては、また二番煎じの作品が登場したな、というくらいのイメージしかなかったのですけど、まさか、こんなに長く日本人から支持される作品になろうとは思いませんでした。

 その後、本家の山上たつひこからクレームがついて、秋本治に変更したと聞きました。

 がきデカがオイラのアイデンティティ、あるいは人格形成に与えた影響ははかりしれない。

 成人後のこまわり君の大ブレイクで、捲土重来を期してほしい山上たつひこですが、ここはひとつ、「夏本治」とかのペンネームに変更して、昔の敵をとるのも一興かと…。

Banner2_8 ← ブログ存続にご協力をお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

葛飾、お花茶屋、曳舟川親水公園、葛飾区郷土と天文の博物館 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 「火天の城」が全国ロードショーっすか。

 オイラは、あまりロードショーへは行かない人なのですが、なんと言っても城が主役の映画。

 しかも、安土城築城にまつわる話ですからね。原作も、もちろん読んで面白かったし…。

 城好きとしては、スルーできないなと感じる今日この頃です。
 
 福田沙紀ちゃんも出ているらしいし…。

 実はオイラの高校時代の日本史の研究テーマは「安土城」なのでした。

 発表の30分間、黒板にチョークで安土城の外観と内部の図面を描きながら解説したのです。

 外観と内部構造は頭に入っていたので、何も見ずに、黒板一杯のワイド画面に「安土城」を描いたのですよ。

 日本史の教師やクラスメートは驚きましたけど、城ヲタクですからね~。別に驚くほどのこともないのではないか、と…。

 でも、当時は安土城の内部は「吹き抜け構造説」が主流でした。「火天の城」では、吹き抜け構造説には否定的な見解なのですか。

 確かに、当時の人たちが吹き抜け構造を明言している文献がないのはおかしいですよね。

 吹き抜け構造のメリットも、それほどないような気もしました。何しろ、その前後の城を見ても、同じ構造を持っている城が皆無なのはおかしい。

 …が、しかし。そうは思っても、安土城へ実際行ってみると、他の城とは一目で違いがわかります。

 「日本初の本格的天守閣を持った城」という点を除いても。

 現地を見ると、織田信長という人物の独創性にはホント、驚かされます。

 城には、築城主の個性が完璧に表れますな。

 その話を書くと長くなりそうなので、それはまた次回に書くことに致しまする。

 
 さて、お散歩ネタ。

 今回行ったのは、かつて武蔵国で葛西と呼ばれた地域の中心地。現在の葛飾区青戸周辺。

 なんでも、戦国時代に、葛西にかなり立派な城があったそうなんですよ。

 安土城ほどではありませんが…。

 もちろん城好きとして年季が入っているオイラですから、当然訪れたことはあります。

 でも、そのときは、城跡とおぼしき痕跡はまったく発見できなかった記憶があります。

 あれから十年近く経っているし、その後、ブログの記事とともに、かなりの城跡を見てきたオイラ。

 もしかして、当時より城を見る目が進化しているのではないか。

 新たな城跡の痕跡を発見できるのではないか、という自らの成長を確かめるためにも、再度訪れることにしました。

 成長度をテストするためにも、ウォーキングコースは前回と同じでなければなりませぬ。

 …ということで、ある土曜日の朝、京成線のお花茶屋駅へやってきました。

 お花茶屋とは、なんとも、心浮き立つネーミングですな。

 思わず、御茶屋が一軒、季節の花々に囲まれているのどかな風景をイメージしてしまいます。

 ところが、駅前は、商店が建ち並ぶ何の変哲もない景色。

 清潔感はあるけれど、あまり花に囲まれた御茶屋という雰囲気ではないような。
 
 …と思って、ガイドブックを読んでみると、お花茶屋のお花は、植物ではなく、「お花さん」という茶屋の娘の名前が由来らしい。

 駅名になるくらいだから、よっぽど美人で、日本全国からファンがサインをもらうために集まったのかと思いますよね。

 実は、八大将軍吉宗が、この近くで鷹狩りを行った際、急に腹痛を起こしたそうなんですよ。

 そのとき、御茶屋の娘、お花の献身的な看病で治ったため、吉宗は、茶屋の名前に「お花茶屋」を与えたのだとか。

 最近、歳のせいか疑り深くなっているオイラは、天下の将軍様が、いくら急に腹痛を起こしたからといって、茶屋の娘に看病させるかニャーと思ってしまいます。

 江戸城からそう遠くないし、平地だし、お供の人たちは大勢いたのではないか。

 しかも、もともと茶屋の娘だから、お花茶屋なんてネーミングは、自然発生的に生まれたような気もするのですが…。

 自分の名前の一字をとって、「お宗茶屋」とか「よっし~茶屋」とか、名づけたら多少信用しますけど。

 それはともかく、いつ「お花茶屋」のネーミングが生まれたかわかりませんが、吉宗の「暴れん坊将軍」的なエピソードが当時からあったとしたら興味深いですね。

 松平健を介抱するお花さん役は、どんな女優さんがいいかなと考えながら、最初の目的地、お花茶屋公園に着きました。

Ca3a1146

 この公園は、お花さんとは直接関係ないのでしょうけど、どうしても御茶屋をイメージしてしまう。

 茶屋はありませんでしたが、地元のおじさんたちが缶ビールを飲みながら談笑していたので、「やるき茶屋」のイメージはしましたが…。

 お花茶屋商店街をテクテク歩き、私立高校の掲示板にあった大学進学実績などを眺めながら、次の目的地、普賢寺を目指します。

 住宅街の中にある普賢寺は、鎌倉幕府設立に貢献した葛西清重が創建したお寺。

 境内に宝篋印塔は、葛西氏の墓と推定され、鎌倉後期の様式のものだそうですね。

Ca3a1150

 なんと、都内最古のものだそうで、都の文化財なのだとか。

 もと来た道を戻り、上千葉公園の中を通り、左手に都営アパートを見ながら進むと、親水公園に出ました。

 ここが曳舟川親水公園なのですな。

Ca3a1156

 行った日は暑かったので、子供たちが涼しそうに水遊びをしています。オイラも、飛び込みたかったけれど、ここは理性を働かせて、親水公園のそばにある博物館へと向かいました。

 暑いときは水遊びもいいけれど、やっぱしクーラーの効いた屋内が最高~。

 この博物館は、葛飾区郷土と天文の博物館。

Ca3a1158

 ちなみに入館料は大人100円で、プラネタリウムをトッピングすると、プラス350円なのですな。

 2階の『郷土史のフロア』をたっぷり見学したかったので、100円だけ支払い、中に入ります。

 展示物を眺めると、船や洪水のときの映像など、葛飾区がいい意味でも悪い意味でも、水とのかかわりが深かったのだなと実感できました。

 江戸時代は、糞尿が肥料として貴重だったそうですが、それを運ぶ船の模型もありました。

 昭和の水洗トイレのない頃にも、バキュームカーという車が都内を走っていて、すごい臭いだったのを覚えています。

 船の模型を見ながら、視覚と嗅覚でイメージできる人は、これから少なくなっていくのだろうなと考えたり…。

 古墳時代から、室町、戦国、江戸時代の葛飾の歴史に興味津々で展示物を眺めました。

 しかし、なんと言っても、その展示物から一歩も動けなくなったのが、葛西城にまつわる出土品でした。

 前回来たときは、こんなに充実してなかった記憶があるので、最近の戦国ブームの中でパワーアップしたのでしょうか。

 葛西城の本丸のあった場所は、昭和40年代に環状七号線が開通したとき、分断されてしまったらしい。

 そのとき、発掘調査が行われ、そのあとも引き続き調査が続けられたのですね。

 発掘や紹介ビデオを全部見ましたが、思っていたよりずっと大規模な城郭だと感じました。

 もしかして、当時は館程度と言われた江戸城より大きかったのではないか。

 古河公方も、一時期、在城していたらしいですし…。

 当時は、戦国時代の真っ只中。後北条氏や上杉氏、千葉氏、里見氏など関東の看板役者たちが大活劇を演じていたのです。

 ビデオを見ていたら、葛西城の堀の跡から発見された、若い女性の頭蓋骨の映像に目が留まりました。

 頭蓋骨には、刀で斬られた傷があります。

 打ち首のあと、堀へ投げ落とされたのでしょうか。

 歴史小説では、首をいくつ取ったとか、取られたとかいう表現をあまり意識しないで読み飛ばしてしまいますが、やはりホントにスパッと切られた頭蓋骨を見ると鳥肌が立ちます。

 しかも若い女性の惨殺死体の衝撃映像。

 大学時代は、法医学の授業を選択し、一年間みっちり変死体のスライドを見続けましたから、普通の人よりは大丈夫なのですが…。

 どんな女性が、どんなシチュエーションで首をはねられたのか、いろいろ考えてしまいました。

 博物館には、そのほかにも、昭和30年代の民家の暮らしが再現されていました。

Ca3a1161

 ちゃぶ台に白黒テレビ、どれもよく覚えているなと思ったら、オイラの暮らしは多少の電化製品が新しいほかは、当時とあまり変わっていないのでした。

 いや、むしろ、昭和30年代の暮らしのほうが裕福だったりして…。
 
 それにしても、ミゼットが懐かしい。

Ca3a1159

 30歳代の人たちは、サザンの桑田さんの映画「稲村ジェーン」でご存知かもしれませんね。

 ただ、オイラの子供の頃、家にこのミゼットがあったんですよ。

 家の人に乗せてもらったのをおぼろげに覚えています。

 2階の『郷土史のフロア』から3階の『天文展示室』も覗いてみました。

 歴史には多少詳しいくせに、天文学など理科系の部屋に一歩足を踏み入れただけで、急にそわそわ落ち着かなくなります。

 うぬぬ、わかりませぬ。

 月の満ち欠けのしくみくらいはわかるけれど、少し数式が出てきただけで鳥肌がぞわ~と立つオイラ。

 熱心に展示を眺める小学生を尊敬の目で眺めつつ、早めに退散することにしました。

 博物館を出ると、紫外線満載の直射日光の攻撃を受け、目の前がくらくらするのがわかります。

 なるべく日陰を探して歩こうと思ったのですが、曳舟川親水公園はほとんど日陰がないっす。

Ca3a1167

 
 それでも子供たちが元気に水と遊ぶ姿に元気をもらいつつ、前に進みます。

 ちなみに、この川はもともと飲料水用の水路として作られたらしい。江戸時代後期になると縄をかけた小舟を曳いたことで「曳舟川」と呼ばれるようになったのだとか。

 思ったより、子供と一緒になって水遊びをしたり、ザリガニを釣ったりしている大人が多いのですね。

 まさに、都会の中を流れるオアシスですな。

 うちの近所にも川はありますが、ほとんど暗渠になっているし、親水公園にしてもらうとありがたいのですが…。

 毎日、海パンはいて水と戯れていたりして。

 そんなシーンを想像して、笑いながら到着したのが、上千葉砂原公園。

Ca3a1169

 ここは小さいながら、見所のいろいろある公園でした。

 これから、当日のメインデッィシュ、葛西城址へ行くのですが、果たしてビジベンは、葛西城の痕跡を発見できるのか。

 それは次回。

Banner2_8 ← ブログ存続にご協力をお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

絶景!三浦半島・鷹取山 ウォーキングストーリー

 こんにちは。

 三浦半島・追浜シリーズ、第二回目の今日は、鷹取山ハイキング。

 垂直に切り立った断崖絶壁の岩肌で、「湘南妙義」とも言われておるそうな。

 何十年も、東京周辺をほっつき歩き続けているのに、なぜ今まで行ったことがなかったのだろうと不思議になるくらい面白い場所でした。

 …ということで、追浜駅から京急線の線路をわたり、今度は半島の内陸部を目指して歩きます。

 まず向かったのは、首斬観音。

Ca3a1087

 なんとも、恐ろしげなネーミングの観音様ですなと思ったのですが、お地蔵様も観音様もなく、ただ石碑があるだけでした。

 解説板には、江戸時代、追浜を領地とした各大名家の陣屋があり、このあたりはその処刑場であったと書かれています。

 昭和初期、近くを走る国道建設の際、骨が出てきてここに祭られたとか。

 いわくありげな場所ですので、しっかりお参りしてウォーキングの安全を祈願します。

 そこから住宅街の中をひたすら歩くのですが、この辺りの道は、ホントに山に向かっているの? というくらい普通の住宅地。

 それでも、少しずつ上り坂になっているので、迷っているという気はしないのですが。

 突然、きつい上り坂になり、そこを越えると、緑豊かな公園が広がっていました。

Ca3a1090

 ここが、「湘南鷹取2丁目第3公園」っすか。

 それにしても、長いネーミング。

 この辺りに住んでいる子供たちは遊びに行くとき、絶対、「湘南鷹取2丁目第3公園へ遊びに行こう~♪」とは言わないでしょうね。

 さあ、いよいよ山か、と思ったら、また住宅街。かなり大きな豪邸が並んでいます。

 あれっ、ホントに鷹取山はここでよかったのかしらん。マップの写真を見ると、断崖絶壁の岩山があるはずなのに。

 それでも、急坂が続いているので、とりあえず上ってみようと尾根まで行き着くと、なんと広いバス通りが…。

Ca3a1091

 しかも、小学校やショッピングセンターまであり、さっきより都会に来てしまった感じがしました。

 迷ったのかニャー、と犬のおまわりさんと迷子の子猫ちゃんのメロディーが頭をかけめぐります。

 すると、鷹取山への表示板を発見。

 近くに、コンクリートでできた細い階段、上には水道局の貯水池が見え隠れしています。

 階段を上りながら後ろを振り返ると、瀟洒な住宅の屋根がどこまでも続いている。

Ca3a1094

 見晴らしはいいけれど、岩山はいったいどこなのじゃ~と叫びながら、丘の頂上を歩いていくと、おおお~、突然巨大な岩が視界をさえぎりました。

 その場面転換の鮮やかなこと。

 まるで「オペラ座の怪人」で、ファントムに連れられたクリスティーヌが地下の大迷宮に迷い込んだみたい。

 さっきまで、頭の中で鳴り響いていた「犬のおまわりさん」の旋律が「オペラ座の怪人」のテーマ音楽に切り替わるのがわかりました。

 あの衝撃的なパイプオルガンの音色が大脳を駆け巡ります。

 つい5分前には、都会にいたのに。

 周囲360度岩の回廊の中に紛れ込むと、昼尚暗い別世界。

 上を見ると、夏の日差しが緑一杯の樹木を包んでいる。その数メートル下の岩の迷宮に佇むオイラは、仮面で顔をかくしたファントムなのじゃ~。

Ca3a1101

 ワハハハハハハ~

 …と笑いながら、岩に反響する自分の声を楽しんでいたら、恐怖の顔をうかべながら、オイラを見ているおばさんグループと目が合ってしまいました。


 また、やってしまった…。


 そそくさと逃げるように立ち去るオイラ。

 おばさんたちが、今日の晩、悪夢にうなされないように祈りつつ、尾根道を走って逃げました。

 もう大丈夫かも、とまわりを見渡すと、ここも巨大な岩壁がそびえている。

Ca3a1108

 岩肌にポツポツ開いたこの穴は何なのでしょうね。

 マップを取り出して調べてみると、この無数の穴は、人間が開けたみたい。

 ロッククライミングをするとき、打ち込まれるハーケンの跡なのですか。

 それにしてもすごい高さ、と上を見上げたら、一人の老人が10メートルはあろうかという崖の上に腰をおろして居眠りをしているのが目に入りました。

 あんなやばいとこに腰掛けたら落ちるじゃん!!

 声をかけて脅かしたら落ちそうだし、とりあえずオイラも上に上って助けねば。

 あわてて、巨大な岩の周りを歩き回ったのですが、どこにも登る場所がない。

 いったいどこからあんなところに上ったのだろう。

 もう一度さっきの場所に戻ったら、老人の姿は消えていたのです。

 何分かそこにいたのですが、人の気配がないので、先に進むことにしました。

 あの老人は、いったい誰なのだろうと思うのですが、いまだに謎が解明できません。

 さらに歩くと、岩山に巨大な弥勒菩薩像が彫られている場所がありました。

Ca3a1110

 岩に彫られた仏像はいくつか見ましたが、こちらはそれほど古くはなく昭和35年から約1年かけて製作されたらしい。

 仏像の高さは8メートル、幅4メートルもあるのだとか。

 自然と仏像が見事にマッチして、思わず手を合わせてしまいました。

 そこから岩に囲まれたハイキングコースを歩きます。

 どこの岩も例外なく穴が開いている。こんな垂直の壁を登ったのですね。

 登るところを見てみたいと思ったら、その先の岩山にチャレンジしている人たちが大勢いました。

Ca3a1116

 みなさん、命綱はつけていますが、手と足だけでこの垂直の壁を上まで登るのですね。

 下から眺めているだけでも、スリル満点。

 ロッククライミングは、体のバランスが大事なのだとわかります。

 こちらのグループは若い人たちばかりでしたが、50~60歳くらいと思える中高年のグループも同じように岩山にチャレンジしていました。

 中高年ばかりではなく、なんと、わんこも。
Ca3a1118

 わんこは、途中でグロッキーみたいでしたが…。

 近くに360度、見渡せる絶景ポイントがあるというので行ってみることにしました。

 再び岩山の階段をのぼると展望台が。

 そこからの眺めは最高でした。

Ca3a1122

 東京湾が見渡せ、内陸部は横浜横須賀道路がミニチュア模型のように見渡せます。

 ここが、鷹取山の頂上で、標高139メートルなのですか。

 もっと高いと思ったのですが、東京タワーよりかなり低いのですね。

 高さ600メートルの東京スカイツリーができたら、その高さは別次元かも。今から、完成が楽しみです。

 鷹取山公園を後にし、最後の目的地、神武寺へ向かって歩きます。

 途中、鎖場など、わりと難所っぽいところもありました。

Ca3a1130

 しかも、反対側からくるのが外国人。

 オイラが鎖を伝って歩きながら、「こんにちは」と言うと、いきなり、「ちかれたびー」と返され、思わず鎖から手を離して転落しそうになりました。


 「ちかれたびー」なんて、いつ流行った言葉じゃ。

 きっと、彼に日本語を教えたのは、オイラの世代の人間でしょうね。


 死亡事故が発生したら、どう責任を追及したらいいのか、と…。

 それでも、どうにか生きて神武寺へたどりつくことができました。

 神武寺は、聖武天皇の夢のお告げから、724年に行基によって創建されたお寺らしい。

 聖武天皇といえば、奈良東大寺や全国に国分寺を建立したことで知られる有名な天皇。奈良時代から続いている古刹なのですか。

 鎌倉時代にも、源氏から信仰され、「吾妻鏡」にも記されているそうな。

 この本堂である薬師堂は、江戸時代の初め頃の再建らしい。ちょっと室町時代っぽい雰囲気も醸し出していると感じました。

Ca3a1134

 古いお寺だけあって、境内には由緒がありそうなアイテムが満載です。

 たとえば、これは樹齢400年といわれる「なんじゃもんじゃの木」。

Ca3a1136

  そして、神武寺の晩鐘として名高い鐘楼。

Ca3a1139

 ちょっと屋根が不釣合いなほど大きくて、思わず目を見張ってしまいました。

 神武寺の境内から京急線の神武寺駅へと続く道も、古道の雰囲気が十二分に味わえます。

 ぬかるんだ道に何度も足をとられて転びましたが…。

Banner2_8 ← ブログ存続にご協力をお願いします。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

より以前の記事一覧