一億円の札束と市谷 ウォーキングストーリー
こんにちは。
またまた口内炎ができて痛いっす。
以前は、口の中を全力で噛んで血が出て、そこから口内炎に移行するタイプが多かったのですよ。
口の中をよく噛むのは、太ったときにそうなると聞きました。口の中に脂肪がついて狭くなるからだそうな。
そこでダイエットして、標準体重を下回るようになったら、口の中を噛むという悲劇は確かになくなりました。
でも相変わらず、数ヶ月に一度は口内炎になる。
よくストレスがたまると口内炎になると言われますが、ホントですかね。
確かに、ウォーキングへ行くと良くなるのですが…。
…ということで、口内炎の改善のため、前回のお散歩ネタの続きから。
神楽坂の代名詞ともなっている石畳の狭い路地を抜け、大久保通りに出ると巨大なビルが…。
おお、ここは大手ゼネコンの熊谷組の本社ビルっすか。
熊谷組とは個人的にも会社的にも関係はないのですが、なぜか子供の頃に見たインパクトのある映像が今でも記憶に残っています。
それは熊谷組が都市対抗野球に出たときの応援風景。
その後、かなり長く生きていて、プロ野球や大学野球をはじめいろいろな球場へ足を運んでことがありますけど、あんなすごい応援を見たことがない。
当時は、東京ドームができる前で、屋外の後楽園球場でした。
親戚の知り合いが熊谷組に勤めていて、入場券をもらって友人と見に行ったのだと思います。
都市対抗野球の決勝で、応援席がすごい盛り上がり。
野球の応援といえば、チアガールと応援団が定番ですよね。
熊谷組のチアガールは普通の衣装だったのですが、男の応援団はヘルメットをかぶり、土木作業員のコスチーム。足はもちろん地下足袋。
そして、つるはしやスコップを持って、チアガールと踊りまくる。
中には、日に焼けて、つるはしを振り下ろす腰がすわっていて、とても素人には見えない人たちも何人かおりました。
真夏の試合だったので、筋肉質のおっさんから飛び散る汗が球場のライトに照らされてキラキラ光ります。
そのまま後楽園球場の改修工事に取り組めそう。
試合よりも、おっさんたちの勇姿に目が釘付けっす。
でも、最終回に逆転されて負けてしまったのでした。
相手チームの優勝決定の瞬間、グラウンドに投げるために渡された紙テープを握り締め、悔し涙にくれたのでした。
その後、野球部が解散したと聞いたのですが、今はどうなのでしょうね。
せめて、あの応援風景をもう一度見たいものじゃと思いつつ、熊谷組の本社ビルの前にある小高い丘の階段を上りました。
丘の頂上にあるのが、筑土八幡神社。
土で築くという名前から、土塁をイメージしてしまいます。
ここも城跡の名残かも、と思いましたが、筑紫宇佐の八幡宮の土を取りよせて基礎を作ったことに由来するという説があるそうですね。
神社の境内には、「田村虎蔵先生をたたえる碑」がありました。
いかめしい名前の雰囲気から一瞬引いてしまいましたが、
まさかりかついで きんたろう くまにまたがり おうまのけいこ ハイシイドウドウ ハイドウドウ ハイシイドウドウ
という「金太郎」の歌を作曲した人だと知って、急に親近感がわいてきました。
参拝したあと、境内の裏手から出て、御殿坂を下る角を右折し、道なりに進みます。
けやきの大木のある白銀公園で一休みしたあと、近くの赤城神社へ向かいました。
牛込城主であった牛込氏は、元は群馬県赤城山麓の豪族大胡氏だったそうですから、この地にも赤城の関連のある神社があるのでしょうか。
赤城というだけあって、参道には赤い燈籠が並び、社殿も鮮やかな朱色が目にまぶしい。
本家の赤城山も、やはり赤のイメージがする山なのだろうかとまだ行ったことのない山に思いをはせます。
赤城神社から早稲田通りを経て、朝日坂を上りました。この辺りは、横寺町というだけあってお寺が多い。
江戸の香り漂うと言いたいところですが、一見なんの変哲もない住宅街を歩いてゆくと、民家の細い路地に解説板があるのを見つけました。
見ると、尾崎紅葉旧宅跡ですと。
尾崎紅葉といえば、寛一お宮の「金色夜叉」で一世を風靡した作家ですが、気をつけていないと通り過ぎてしまうような場所に住んでいたのですね。
でも、紅葉は30歳代の若さで亡くなり、この地に住んだのは25歳のときだったとか。
20歳代で多くの弟子を抱えていたのに驚きましたが、この小さな家で玄関番をしていたのが、若き日の泉鏡花だったというのにはさらにびっくり。
泉鏡花賞など権威のある賞もあるくらいの文豪ですから、若い頃から注目されてちやほやされているような印象でした。
でも、金沢から十代で上京し、友人たちと同居しながら六回も下宿を引越したとか。
そのあと、紅葉の家で書生をしながら、文章を磨いていったのですね。
今でこそ、紅葉や鏡花は国語の教科書には欠かせない大人物ですが、この地にいたときは、20歳代の作家と10代の書生。
今のオイラより年下だった二人は、どんな青春を送ったのかいろいろイメージは膨らみました。
あまり長い時間狭い路地に立っていると、不審者と間違われそうなので次の目的地へ向かいます。
そのまま道を直進すると、公園のそばにコンクリートの塀で囲まれた一画がありました。
門が閉まっていて中に入れないのですが、上から覗くと古いお墓が並んでいる。
また解説板を読むと、ここは「林氏墓地」だとか。
林氏といえば、林羅山が徳川家康にお目見えし、その後代々儒学をもって幕府に仕えた家というくらいの認識。
そういえば、江戸幕府の学問所だった昌平坂学問所の前身は林氏の私塾だったそうですね。
東大のルーツをたどると昌平坂学問所に行き着くそうだから、そのまたルーツは林羅山が作った私塾になるのでしょうか。
湯島聖堂に合格祈願へ行く前に、ここへお参りするのもご利益あるかも、と思いました。
誰もお参りしていないから、ご利益の競争率は低そうだし…。
もっとも、扉が閉まっていて中には入れないのでした。
住宅街のラビリンスをくぐり抜け、たどり着いたのは泉鏡花旧宅跡。
紅葉の玄関番から出世して、とうとう一軒家に住むことができたのですね。
でも、一年くらいで引越してしまったそうですが、鏡花の生涯をたどっているような気分になりました。
この辺りは古い町で、江戸、明治の史跡がたくさん残っておりまするな。
坂をくだったところにあるのが、浄輪寺。
ここには、先週、数学の不得意なオイラを落ち込ませた関孝和先生のお墓がありました。
ここへお参りすると、数学の不得意な人は大宰府や湯島天神より専門性があるからご利益があるかも、と思ったりして…。
隣の多聞院には、新劇の大女優、松井須磨子の墓が。
ずっと昔、NHKの朝のドラマで見たことがありますが、文芸評論家であり演出家であった島村抱月のあとを追って自殺したそうですね。
享年34歳。若くして亡くなってしまう俳優さんは、強烈なイメージとともに名前が残るのですな。
そしてオイラが最後にむかったのが、「お札と切手の博物館」。
ソフトな名前がつけられていますが、正式には財務省印刷局記念館というらしい。
子供時代、切手の収集が流行っていましたが、あまり興味はなかったです。
反面、お札には今も昔も大きな興味を寄せていますけど、なかなかうまく収集できないっす。
古いお金じゃなくて、出来立てのお金でもいいんですけどね。
そんな思いが通じたのか、館内にはなんとモノホンの一億円が…。
一億円の札束を持って重さを体験できるコーナーがあるのですね~。
その重さを実感してもらおうという意図なのだと思いますが、思ったより軽いような。
銀行員時代、聖徳太子の札束三億円をタクシーで運んだことがあったのでした。
現金バッグが肩に食い込んで、そのときはお金なんか嫌いじゃ~と叫びたくなりましたね。
今、貧乏なのは、そのときの心の叫びが神様に届いてしまったのではないか、と…。
ほかに興味を覚えたのは、顕微鏡を使ってお札に入っている「マイクロ文字」が見られるコーナー。
ここにはサンプルのお札はなくて、自分の財布から出さねばならない。
財布から大枚一万円札を出して顕微鏡で見てみると、一本の細い線に見えたのが超細かい文字だというのがわかりました。
「NIPPON GINKO」の文字は、どんなに近眼の人でも見ることはできないでしょう。
さすがに印刷技術の粋を集めてお札が作られているだけあって、偽札防止の対策がいろいろ施されているのですね。
オイラの持っているお札はおかげさまで偽札ではないということが証明できました。
ホログラムやすかし、凸版印刷など、お札一枚でも技術の高さが実感できます。
ほかにも、日本のお札や切手の歴史をたどるコーナーや世界各国のお札や切手。
お札や切手を芸術の視点で触れられるコーナーもありました。
それにしても、現在の一万円の肖像が、KO大学の創立者の福沢諭吉なのは異論がありますな。
今日はたまたま一万円札が財布に入っていましたけど、いつもはなるべく福沢諭吉のお札は財布に入れないようにしています。
やっぱし、尊敬する野口英世の千円札がオイラのメイン紙幣なのだと…。 ← たんに貧乏なだけ?
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